二つの最高裁判決を読んで、家族を考える(上)

西兼司

 
 たまたま、12月16日午後2時前後テレビを見ていたら、5分間程度の「ニュース」では収まらず「最高裁での2つの訴えについての判決」に関する予告、速報的事実、判決理由、解説が暫くの時間続けられた。翌日の「朝日新聞」はほとんど全ページにわたって様々な角度からその問題が伝えられた。「日経」は比較的あっさりしていたが、「琉球新報」はやはり大きく丁寧に伝えていた。
 
 「女性の再婚禁止期間」訴訟と「夫婦別姓制度」訴訟問題である。ネットではかなり反応があるのだろうが、忙しくて全く見ていない。しかし、私も感想があるので簡単に述べておきたい。
 
(一)、「訴訟」とされることへの違和
 
 今回テレビ、新聞で大きな注目の的になったのは、この問題が最高裁で「違憲訴訟」として取り上げられたからである。そしてその違憲対象が、「女性差別」問題であるからである。しかし、最高裁にも同じ考えであった諸君がいたようだが、二つともこれは「立法不作為」の問題である。昭和22年に施行された日本国憲法下で、明治憲法下の「民法」が部分的にはたくさん手直しされてはいるものの基本的には延命させられてきていることから生じている問題である。
 
 「民法」にせよ、「刑法」にせよ、各種「訴訟法」にせよ、その体系を根本的に変更せざるを得ない改正がなされたのが、明治憲法改正としての「日本国憲法」の公布・施行であった。「戦後民法」、「戦後刑法」、「戦後民事訴訟法」、「戦後刑事訴訟法」と呼ばれざるを得ないものが成立していなければ日本社会は回らないはずなのである。しかし、民法、刑法は憲法改正と連動しては小さくしか動かなかった。訴訟法関係は、戦後司法制度の設計と連動して新しくされたが、実は、憲法理念の柱「国民主権」が全く配慮されていない。主権者が公務員に逮捕、取り調べ、判決、受刑されることについての考察は全くない。「権力者=国民」と「権力=公務員組織」の関係の調整が、根本的には極めて困難であることは考えてみれば明らかなことであるが、困難であるだけに「国民主権国家」である以上避けて通ることはできない課題である。戦後法治体制下の現在、せいぜいあるのは、「基本的人権」への配慮がほんのわずか見て取れるだけである。
 
 国政選挙だけでも戦後すでに参議院が23回、衆議院が25回行われているが、そして戦後憲法体制下でもすでに68年経っているが、民法の中の家族法といわれる部分が憲法との関係で体系的・根本的に検討されたことはなかったのだ。これを問題にせずに、「司法府」に問題を丸投げして、「裁いてくれ」というのは強い違和感がある。改正された「戦後憲法」に対応する「憲法的法体系」は、それ自身としては整備されていないのである。
 
 それだけではない。「違憲訴訟」の根拠は、憲法の【第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。】という規定によっているが、この条文は、素直に読む限り「不作為に対する憲法判断」をすることが出来るようには書かれていない。憲法体制下68年間の「立法府による立憲法制の整備」の不作為を裁くことが出来るとは思えないのだ。
 
 バカバカしいことに国会議員も、内閣も、国民ですら「閣法」が主流で、「議員立法」が例外だという事実の不自然さに違和感を持っておらず、国会議員の仕事は、「立法」(法案作り、法案審議、法律の成立)と(国政調査権の発動による)「国政調査」であることについて自覚があるようには見えない。「国権の最高機関」の機能を円滑に動かす法律の整備も、その人的組織的保障の大切さにも無関心でいて、「議員定数の削減」という「国民主権機能機関の弱体化」を進めているほどであるから、本当は「立憲法制の整備の不作為」を裁かれても、ただ茫然とするだけだろう。
 
 戦後憲法に適合した「家族法立法の不作為」は裁けないから、明治以来の家族法(やや正確には「身分法」)が「合憲か、否か」という問題が成立するのである。こうした状況下での「違憲判断」だということについて、主権者諸君はどれほど承知しているのであろうか。
 
(二)、「6か月間再婚禁止違憲判決」への懸念
 
 二つの判決の背景になった事件は、一つは、「離婚した女性は、6か月間再婚できない」という民法733条1項の規定を最高裁判事全員(大法廷)が「違憲」と判断した「女性再婚禁止100日超『違憲』判決」事件(国家賠償請求法第1条第1項損害賠償事件)である。内容は主張の一部が認められたものの上告は棄却され、賠償請求部分は却下された。実質的に判断されたのは憲法第14条の第1項であり、第24条の第2項である。もう一つは、「夫婦同姓」を定めた民法750条の規定は憲法に違反し、法律改正が放置されてきたことに対する「精神的苦痛への損害賠償請求訴訟」事件(国家賠償請求法第1条第1項損害賠償事件)である。後者は、「夫婦同姓は合憲」であることを理由に却下されたわけである。
 
 前者の「再婚禁止6ヶ月」は、同日中に法務省が、「再婚禁止期間を100日に短縮して取り扱う」ように、全国の自治体に通知をだし、来年の通常国会で、民法の当該部分を改正する法案を提出するということである。この流れには特段違和感もないが、違憲とした判決の判断部分は算数の数合わせのような計算を展開しており、格別な憲法思想が語られているわけでもなく、つまり、訴訟提起者が主張する「家族法立法の不作為」の代替物足りうるものではない。
 
 判決を読む限り、判断されている憲法条文は【第14条  すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。】という第14条第1項と、【第24条  2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。】だけであるが、殆ど深くは読み込まれたものではない。
 
 判決理由の論旨は、(1)、「女性についてのみ前婚の解消又は取消しの日から6箇月の再婚禁止期間を定めており,これによって,再婚をする際の要件に関し男性と女性とを区別しているから,このような区別をすることが事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくものと認められない場合には,本件規定は憲法14条1項に違反することになると解するのが相当である」。(2)、「憲法24条2項は,このような観点(婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものである)から,婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,その立法に当たっては,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請,指針を示すことによって,その裁量の限界を画したものといえる」。(3)、「その中(昭和22年の民法改正)で,女性についてのみ再婚禁止期間を定めた旧民法767条1項の「女ハ前婚ノ解消又ハ取消ノ日ヨリ六个月ヲ経過シタル後ニ非サレハ再婚ヲ為スコトヲ得ス」との規定及び同条2項の「女カ前婚ノ解消又ハ取消ノ前ヨリ懐胎シタル場合ニ於テハ其分娩ノ日ヨリ前項ノ規定ヲ適用セス」との規定は,父性の推定に関する旧民法820条1項の「妻カ婚姻中ニ懐胎シタル子ハ夫ノ子ト推定ス」との規定及び同条2項の「婚姻成立ノ日ヨリ二百日後又ハ婚姻ノ解消若クハ取消ノ日ヨリ三百日内ニ生レタル子ハ婚姻中ニ懐胎シタルモノト推定ス」との規定と共に,現行の民法にそのまま引き継がれた」。(4)、「本件規定の立法目的は,女性の再婚後に生まれた子につき父性の推定の重複を回避し,もって父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐことにあると解するのが相当であり父子関係が早期に明確となることの重要性に鑑みると,このような立法目的には合理性を認めることができる」。(5)、近年、DNA検査技術が進歩し、安価安全に親子関係の判定をすることが出来るようになったのは公知の事実であるが、「そのように父子関係の確定を科学的な判定に委ねることとする場合には,父性の推定が重複する期間内に生まれた子は,一定の裁判手続等を経るまで法律上の父が未定の子として取り扱わざるを得ず,その手続を経なければ法律上の父を確定できない状態に置かれることになる。生まれてくる子にとって,法律上の父を確定できない状態が一定期間継続することにより種々の影響が生じ得ることを考慮すれば,子の利益の観点から,上記のような法律上の父を確定するための裁判手続等を経るまでもなく,そもそも父性の推定が重複することを回避するための制度を維持することに合理性が認められるというべきである」。(6)、「そうすると,次に,女性についてのみ6箇月の再婚禁止期間を設けている本件規定が立法目的との関連において上記の趣旨にかなう合理性を有すると評価できるものであるか否かが問題となる」。(7)、「出産の時期から逆算して懐胎の時期を推定し,その結果婚姻中に懐胎したものと推定される子について,同条(民法772条)1項が「妻が婚姻中に懐胎した子は,夫の子と推定する。」と規定している。そうすると,女性の再婚後に生まれる子については,計算上100日の再婚禁止期間を設けることによって,父性の推定の重複が回避されることになる」。(8)、「夫婦間の子が嫡出子となることは婚姻による重要な効果であるところ,嫡出子について出産の時期を起点とする明確で画一的な基準から父性を推定し,父子関係を早期に定めて子の身分関係の法的安定を図る仕組みが設けられた趣旨に鑑みれば,父性の推定の重複を避けるため上記の100日について一律に女性の再婚を制約することは,婚姻及び家族に関する事項について国会に認められる合理的な立法裁量の範囲を超えるものではなく,上記立法目的との関連において合理性を有するものということができる」。(9)、「よって,本件規定のうち100日の再婚禁止期間を設ける部分は,憲法14条1項にも,憲法24条2項にも違反するものではない」。この部分は、判決文ではアンダーラインが引かれ、結論であることが明示されている。
 
 続いて、100日を超える再婚禁止期間が検討され、第2の結論として、(10)、「本件規定のうち100日超過部分が憲法24条2項にいう両性の本質的平等に立脚したものでなくなっていたことも明らかであり,上記当時(平成20年、離婚、出産時)において,同部分は,憲法14条1項に違反するとともに,憲法24条2項にも違反するに至っていたというべきである。」とされ、さらに、国家賠償請求が検討され、却下されるという論旨が展開されているのである。ただし、却下論の過程でわざわざアンダーラインを引いて強調されている部分として(11)、「もっとも,法律の規定が憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などにおいては,国会議員の立法過程における行動が上記職務上の法的義務に違反したものとして,例外的に,その立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受けることがあるというべきである」というのはご愛嬌であろうか。
 
 判決理由そのものの結論は、「以上のとおりであるから,上告人の請求を棄却すべきものとした原審の判断は,結論において是認することができる」という素っ気ないものである。以下、補足意見、意見が付け加えられているのであるが、この場では省略する。
 この判決は、形式上は「国家」=「公務員集団」を訴えた「国民」=「主権者」の完敗なのである。訴えは却下され、賠償請求は退けられた。そして、もちろん、「国家」に軍配を挙げた「最高裁」も「公務員集団」である。ただし、当たり前の論点も積み重ねられている。その最たるものが、(2)で展開された「婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねる」という話である。(11)でも「国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などにおいては,国会議員の立法過程における行動が上記職務上の法的義務に違反したものとして,例外的に,その立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受けることがあるというべきである」という指摘がなされている。完敗ではあっても、国会の奮起を促しているのは理解できるところである。
 
 憲法解釈権を持っているにしても立法権は縛れる筈はないのであるから、「立法機関」が正常に機能していれば本格的に民法改正案の検討に入り、速やかに改正を図ればよいのである。しかし、「閣法」を通すだけの機関に堕している状況では法務省が「民法改正案」を「国会」に提出するであろう。事実、同日中に法務省はそのような見解を出している。そして最高裁と法務省は「人事交流」をする仲でもある以上、この判決文は法務省「閣法」案を憲法第14条第1項と第24条第2項を検討したものとして、直接拘束することになるであろう。更に言えば、憲法上は「議院内閣制」であるはずが、事実は「政党内閣制」が採用されていて、内閣が提出した法案は固定した「与党多数派」が「国会運営上」支障のない限り可決成立させることになっている。法務省案はおそらく「法律」になるのである。しかし、「憲法的家族法」はこの二つの条文を参照して弥縫的に修正すれば済むものなのだろうか。
 
 つまり、内容的には憲法第13条の規定を基礎におかないで、家族法改正を進めて良いのかである。第14条第1項と第24条の考察だけで民法改正を考えることは許されるのかという懸念である。【第13条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。】、「個人として尊重される」ことと離れて家族を考えることが許されるのか、「生命、自由及び幸福追求」の基盤的場が家族ではないのか。人間が関係論的存在であれば、その「存在の原基が家族」ではないのか。親がいて、子供が生まれ、育ち、「個人性を確立」していく以上、最も尊重されなければならない「法的個人」は子供であると私は確信するが、さしあたりこの判決からはそうした匂いを感じることができぬまま「6か月」か、「100日」かが検討されたわけである。
 
 こんな判決を基礎に民法改正を考えられても、それでは昭和22年の戦後民法改正と同じだ。第13条を基盤にして「国民は個人として尊重される」観点から、子供を尊重し、個体的単位で尊重されるということを欠落させて、少なくとも尊重されて利益を受けるものは個人単位だということを踏まえての改正でなかったことを、視点として完全に欠落させているのである。ここは、「主権者は個人単位」だということを直接述べているわけではないが、「利益は個人に」という思想の窺える部分で、忘れてはならない民法、刑法を考える際の観点である。
 
 本当に「個人主義」が良いのか、だから憲法的イデオロギーが正しいのかは当然考えられるべきことである。しかし、現憲法を前提に考えれば、法律は「立憲主義」を前提にした法律として整えられなければならない。そして、そうした法律は「内閣」の上に立つ「国会」で本格的に、浩瀚に研究されて「立憲法制」の一翼を担うものとして、「議員立法」されなければならない。個人に利益のある形で、家族は整えられなければならないし、追求されなければならない。「国会」議員720名余、職員4000名ほどにその力があるのかどうかは、また、別の問題である。(続く)
 
(にしけんじ)
 
(pubspace-x2844,2015.12.26)