現代ギリシャ文学ノート(1) ――セフェリスから「七十年代世代」へ(ギリシャ軍政下の詩人たち)――

茂木政敏

 
 
 第二次世界大戦と内戦という暗黒の1940年代が終わり、(一応の)安定を取り戻した50年代ギリシャ外交にとって、重要な懸案にキプロス問題があった。ギリシャ系住民とトルコ系住民が混在するこの島を、宗主国イギリスからいかに解放するか。それは、キプロスのみならず、ギリシャ、トルコ、イギリスの利害と主張が絡み、複雑な様相を呈していた。ゆえに、主要な討議の場となった国連代表部、さらに駐英大使のポストはギリシャ外務省にとっていつになく重要な意味をもっていた。ところが、この重要ポストをこの時期歴任したやり手のギリシャ外交官がいた。誰あろう、のちにノーベル賞を受ける詩人のヨルゴス・セフェリスΓιώργος Σεφέρης (1900~1971)その人である。
 「私に定められた場所、キプロス」にかける彼の情熱は並々ならぬもので、それは彼の後期詩編にも反映されている。彼の努力もあり、キプロスはギリシャ系・トルコ系住民双方に配慮した議会を有する共和国として、1960年に独立した。当時駐英大使の要職にあったセフェリスは、これを最後に退官。以後は詩作のうえでも『三つの神秘的な詩』を発表するだけで、政治的発言など一切おこなわず、アテネで静かな隠退生活を送っていた。
 
 1967年4月21日のこと。左翼封じ込めを口実に軍部がクーデターを決行し、ギリシャに軍政を敷いた。反共を標榜しながら、当の国王さえ亡命、追放に追い込むこの強権的な政府は、とりわけ文化面での抑圧が激しかった。
 この頃日本ではミニスカートが流行ったり、新宿の駅前あたりに「フーテン族」という奇態な若者たちがたむろしていたと仄聞するが、ギリシャでそういう習俗が見られなかったのは、ミニスカート、長髪に政府が禁止令を出していたことによる。漫画、新聞のコラムも政府の統制下におかれ、一部の歌謡曲は唄うことも禁じられた。
 もちろん、文学関係への抑圧はすさまじいものだった。(コスタス・ヴァルナリスを別にすれば)左翼詩人最大のスターであるヤニス・リッツォスは、クーデターその日の夜に拘束され、離島の矯正収容所へと送られていった。
 間もなく、出版については厳重な事前検閲が敷かれ、逮捕、密告、監禁、拷問が社会に横行する。いつしか、いかなる傑作を草しようとも軍事政権下では発表しないことが文学者の暗黙の了解となり、ギリシャ文学は休眠に等しい状態に立ち至った。
 
 この事態にセフェリスがどれほど悲嘆したか、想像にあまりある。ギリシャ文化の途切れることなき流れを強調し、ギリシャがギリシャたる所以=ギリシャ性を文学的命題として探求しつづけた彼が、その最晩年に目にするのは逮捕、監禁、拷問、抑圧が横行する故国の姿とは思ってもいなかっただろう。そもそも、文壇の最高位に位置する彼自身が政府の厳重な監視下にあった。それまで饒舌だった彼の書簡がこの頃から激減、事務的な口調に変わってしまう。
 それでも、何かしらの行動の必要性を感じていた彼は熟慮に熟慮を重ねた。そして、68年夏に、ある行動に踏み切ることを決意する。ただし、累が及ぶことを恐れ、家族以外誰にもそれを告げていなかった。前の週に一緒に旅行したヨルゴス・サヴィディスすら、何も知らなかったらしい。
 
 1969年3月28日、BBC国際放送で突如ヨルゴス・セフェリスは声明文を読み上げた。
 彼はまず、一種の決まり事として政治的発言を控えてきたが、それはけっして自分の政治的無関心を示すものではない、と前置きをしたうえで、こうつづける。
 

 だが、ここ数ヶ月、私や周囲で、現下の状況について語る必要を日増しに強く感じてきました。できるだけ手短にお話しますと、私が言いたいのは次のことです。
 今日まで約二年つづく政治体制は、先の大戦を戦った我が国および輝かしき我が国民が抱いた理想に反することを人々に強いている。
 私たちが延々と生気を保ちつづけてきた精神的価値全てが、苦痛と労苦を伴いつつ澱んだ泥水に没しようとしている、そういう強制的な休眠状態にあるのです。この痛手に利するところないことは、容易にわかるでしょう。しかし不幸なことに、この危機だけが問題ではありません。
 独裁政権当初は易々と事が進んでいるように見えるかもしれませんが、その結末には悲劇が避け難く待ちかまえています。このことはもう皆さん思い知らされ、よくわかっているでしょう。この結末のドラマが私たちを意識的あるいは無意識的に苦悩させるのです――アイスキュロスの古〈いにしえ〉のコロスにもあるように。異常が長く続けば続くほど、悪は肥え太ります。

 
 「今や私は再び沈黙に戻ります。こんな必要からまたも声を上げることがないように私は願っています」と声明は結ばれたが、このインパクトは大きかった。文化人最高位に君臨する巨匠が、軍事政権をギリシャの理想に反するものと公然と弾劾したのだ。同時にその声明は、休眠状態がけっして評価されるものではないと鋭い反省も促すものだった。ただちに作家18名による軍事政権反対声明が起草され、5月8日付け『ル・モンド』紙に発表されることになるだろう。
 やがて出版物も刊行される。翌70年7月、あいもかわらず厳重な事前検閲がつづくなか、『文書18篇』という題名の冊子が刊行された。冒頭にセフェリスの詩「聖ニコラオスの猫」を配し、以下シノプーロスやアナゴノスタキス夫妻ら17人の作品がつづく。
 検閲を掻い潜るため「文書」などという恐ろしく淡泊な題をつけたこの冊子を、筆者は長いこと薄っぺらなパンフレットと想像していた。だが、実際手に取ってみるとなかなかどうして、二百頁もある立派な書物だった。これが飛ぶように売れ、増刷を重ねた。それはそうだろう。久方ぶりに出たギリシャ人のまともな声だったのだから。
 
 この本は翌71年に『新・文書』と題した続巻を出す。こんど冒頭を飾ったのは、リッツォスの新作「メロス島の災禍」だった。矯正収容所に連行された彼は、国際的な助命運動から70年にやっとアテネの自宅に戻ることができたのだ。
 「文書」シリーズの成功に刺激され、若者たちも自分たちの合同作品集を出すようになる。その代表的なものが71年に出た『六人の詩人』である。6人のうち5人が軍政以後に詩集を出した二十代後半の若者だった。ささやかながら40頁ほどの冊子だが、ギリシャ文学の新たな認識と感性を示すに十分だった。
 
 沈黙から声へ、休眠から再出発へと向かうこれら一連の動きを見届けたかのように、ヨルゴス・セフェリスは1971年9月20日に亡くなった。ギリシャ初のノーベル賞受賞者が亡くなったというのに、政府は教育省が簡単な声明を出しただけで、誰一人この葬儀に出向こうとはしなかった。
 だが、ギリシャの人々は彼を忘れようとはしなかった。彼の棺を乗せた霊柩車が教会から墓所までのろのろ走り出したとき、その後ろを道を埋めつくさんばかりの大群衆がつき従った。ギリシャを誰よりも思索しつづけたこの偉大な詩人の亡骸に目を見やりながら、彼らが思いめぐらしていたのは一文化人の死といったものではなく、この国が背負う運命と未来だったに違いない。現に彼らは、本来恋愛詩にもかかわらず、文中の「彼女の名」が女性名詞「自由」、「平和」を含意しているからと、軍事政権から唄うことを禁じられていたセフェリスの詩「否定」を誰とはなしに口ずさみ、やがて声を合わせ、大合唱を陰鬱なアテネの空に響かせた。
 

金色の砂のうえ
ぼくらは彼女の名を書いた。
けれども、海の潮風に吹かれ
その名はかき消されてしまった。
 
どんな考え、どんな想い、
どんな憧れ、どんな情熱に、
ぼくらはこの人生を選んだことか?  間違いだ!
だから、ぼくらは人生を変えた。

(セフェリス「否定」)

 
 
 
 「文書」シリーズはこの翌年に『新・文書』第二巻を出す。セフェリス追悼の意味もあり、BBCでの声明なども所収されているが、「文書」シリーズはこの巻で役割を終えることとなる。行き詰まりを見せる軍事政権が懐柔策として、この1971年に事前検閲を事後検閲に緩和したのだ。翌年は現代ギリシャ女流詩人の代表格キキ・ディムラΚική Δημουλά(1931~)の傑作『世界の小片<かけら>』が出たが、リッツォスも十七篇の長詩(のちに1篇増補)から成る『第四次元』を刊行した。この大作により彼は、自らの逮捕、収容所、軟禁生活がたんなる無為と鬱屈の日々ではなかったことを証立てた。
 エリティスも1971年だけで五冊の詩集を出す。だが、楽天的な彼すら、軍事政権を許す気にはならない。五冊のうちの一冊『光る樹と十四番目の美』に、軍事政権は国家文学賞と賞金百万ドラクマを贈ることを申し出る。軍事政権から文学賞をもらうという目も眩むようなこの屈辱にエリティスは耐えられず、穏当に、しかし決然とこの賞を拒否する。
 
 1973年11月、軍事政権に反対する学生、市民がアテネ工科大学でバリケードを作り、占拠した。政府は17日夜に鎮圧を計ったが、差し向けたのは機動隊ではなく、陸軍の戦車部隊だった。市内での軍の無差別発砲で流血の惨事となったが、死体は秘密裡に埋められたため、正確な死者数はいまだにわかっていない(一説には60名以上)。
 この惨劇で完全に世論の支持を失い、いよいよ立ち行かなくなった軍事政権は一世一代の大博打に打って出る。セフェリスがあれほど解決に努力したキプロス問題を蒸し返し、キプロス共和国を一気にギリシャ領にしようと74年夏に侵攻した。これがトルコ軍の介入を招き、多数の死者を出す紛争に発展、キプロスは分断国家となってしまう。この失敗から、74年7月24日、あしかけ七年におよんだギリシャ軍事政権は自壊した。
 
 分断国家キプロスの現況について、私ごとき者がしゃしゃり出る必要はないだろう。キプロスにおける近現代ギリシャ語文化については、日本初の概論が準備されていると聞くので大いに期待したい。今ここでは敢えてギリシャ語ではなく、北キプロスのトルコ語詩人メフメト・ヤシンMahmet Yashin(1958~)について語りたい。
 1958年にニコシアのネアポリスに生まれた彼はアンカラ大学を卒業した後、84年に「キプロス紛争全ての犠牲者に捧げる」と前書きされた反戦的な詩集『死せる兵士 我が愛』を刊行した。大事なことなので筆者が二重括弧をつけてもう一度繰り返すが、「キプロス紛争『全ての』犠牲者に捧げる」詩集である。
 この態度がトルコ政府の怒りを買い、詩集は1986年に発禁、彼自身も以後七年間国外生活を余儀なくされた。それでも彼は詩作をつづけ、トルコ語の可能性を深める一方、カヴァフィス、セフェリスといったギリシャ詩人の評論やトルコ語訳に取り組んだ。Mothertongue「母の言葉=母国語」ではなくStep-mothertongue「継母の言葉」の可能性を主張する彼は、ニコシア、ロンドンなどを往復しつつ、地中海文学の新たな展開を示す詩人として現在活躍している。
 彼のことを称揚するのは、こちらがギリシャ贔屓だからではない。そうではなくて、敵対する国の文化を頭ごなしに否定するのではなく、謙虚に耳を傾け、聞き取るべき呟きは咀嚼、嚥下、場合によっては吸収するという地中海文学の良き姿勢は、我々にとっても大いに考えさせられるのではあるまいか。
 
 七年の歳月をかけて軍政を抜け出したギリシャは共和国として再出発する。同時に、堰を切ったように様々な作品が発表された。老境に達したリッツォスやエリティスの脂の乗りきった作品が発表される一方、抑圧を解かれた新たな世代がギリシャ詩壇をリードする。のちに「七十年代世代〈タ・エブドミンダ〉」と呼ばれる詩人たちだが、その主要人物がかつて『六人の詩人』に参加したメンバーだった。参加したタソス・デネグリス、ナナ・イサイア、ディミトリス・ポタミティスも活躍するが、とりあえずここでは三人について触れておく。

● ヴァシリス・ステリアディスΒασίλης Στεριάδης (1947~2003) 新聞『カシメリニ』の文芸欄を担当する一方、韜晦と諧謔に満ちた詩を作った。関係性のない文を並べる、その手法を「超シュルレアリスム言語遊戯」と評されたこともある。

● レフテリス・プーリオスΛευτέρης Πούλιος (1944~) ギリシャで初めて「ビート世代」に影響された詩人。『六人の詩人』に投稿した一遍は、バーでパラマスと談義するという奇抜なものだった。大量消費時代の悲哀といったものも滲ませている。

● カテリナ・アンゲリキ=ルークΚατερίνα Αγγελική-Ρούκ(1939~) カザンザキスの親友を父にもつ女流詩人。6人のうち最年長で、唯一人、軍政以前に詩集を刊行している。のちにアメリカで研究生活を送り、翻訳家としても活躍する。流行・世情とは一線画して自分の哲学を展開する作風が、かえって「七十年代世代」でも突出した才能と強靭さを感じさせる。夫の没後、一時詩作から遠ざかっていたが、最近執筆を再開している。

 
 
(本稿は『日本ギリシャ協会会報』第134号(2014年5月)に「アイスキュロスのコロスにもあるように」と題して掲載されたものを若干の加筆のうえ転載したものである。この度の「公共空間X」への転載にあたっては、日本ギリシャ協会のご了解を頂いた。)
 
 
(もぎまさとし)
(pubspace-x2655,2015.10.24)