高橋一行
本稿は、本サイト「続 身体の変容3 脳に電極を埋め込む、または脳とAI」(2026.6.2) (以下、「電極」)の続きである。また、S. ジジェクの論文 “IN THE COURT OF THE AI KING – AI: NO DESIRE, JUST DRIVE”,(2026.7.9) (以下、AI King)を読解する。その際に補足的に、国際ヘーゲル学会でのジジェクの講演 ”EVERYTHING YOU WANTED TO KNOW ABOUT HEGEL BUT WERE AFRAID TO ASK HEGEL” (2026.9.5) (以下、Hegel Congress)も参照する(注1)。
ジジェクは、『接続された脳とヘーゲル』(以下、『接続』)で、繋がれた脳の議論をする。それは私の脳と相手の脳が繋がれた場合にどうなるかという話である。ジジェク自身は、それは脳と脳を直接繋ぐ話であって、AIの議論ではないと言ったのだが、しかし脳を繋ぐためにはAIが必要である。つまりまず私の脳をAIが読み取り、それを保存して、同時に他者の脳からも同じく情報を入手して、それを繋ぐのである。するとこれは事実上AIの議論であると、先の論稿(「電極」)で私は書いたのである。
さてその場合、私の考えていることはすべて相手に、また相手の思考はすべて私にばれてしまうということになる。しかしそういう事態はあり得ないとジジェクは批判する。なぜなら私たちは無意識によって思考と行動が制約されているが、繋がれた脳は、人間の中にあるこの無意識を把握することはできないからである。この無意識こそが私を私として成り立たせているもので、それを繋がれた脳が把握できないのなら、それは私を総体として再現する訳ではないということになる。
また一般に、私は相手のことを完全に理解する訳には行かず、相手は常に私にとって不可解だからこそ、私は人と付き合うのである。その不可解な相手こそが、他者と呼ばれるもので、繋がれた脳では、相手の考えはすべて私に分かってしまうので、それは他者ではないということになる。逆に言えば、相手が他者であり続けるのであれば、それは私と相手は総体として繋がった訳ではないということになる。相手の中には、私にとって不可解な部分が残るからである。つまり他者の他者性を考慮すれば、私と他者は完全に繋がることはできないのである。
つまりそこでの結論は、繋がれた脳には、無意識がないし、また他者を他者として成り立たせる他者性がないということである。
さてジジェクの論文AI Kingでは、その『接続』での議論が、実はAIの議論であったということをまず認めて、AI一般に話を持っていく。つまりAI Kingは、『接続』の議論をさらに先に進めるものである。先に結論を述べておけば、そこでは、AIは他者でないということが明確に示される。
このことを順に見ていきたい。まず、私とAIが対話をする場面を考える。その際に、AIはひとつの客体であって、主体ではない。私たちはChat GPTと話すとき、単なる機械と話しているに過ぎない。しかし私たちには、AIが自己意識を備えた別の存在であるように思え、私はそういう存在と話をしている、つまり私とAIと、ふたつの主体の間で対話が行われているという幻想を私たちは持つかもしれないとジジェクは言う。
しかしAIの方はどうか。AIは自分自身を、自己意識を持った存在だと見做しているのか。AIは私と対話することで、私の中に、自分と同じ自己意識を持った存在を見出すのか。私たちは一般に、他者の中に自己と同じ、自己意識を持った存在の在り方を見出し、それによって、自らも自己意識を持った存在であることを認識する。私たちはもしかしたら、AIという他者の中にも、そういう自己と同じ存在を見出すのかもしれない。つまり私はAIと対話をし、相互承認をしているという幻想を持つかもしれない。しかしAIの方はどう考えているのか。そういうことをAIは私たち人間相手にしていると考えているのか。
もちろんAIはそんなことはしない。つまり私たちはAIに幻想を持つかもしれないが、AIの方で、私と相互承認をしていると思うことはない。つまりAIは私を他者だとは思わず、そうすると自らを自己意識を持った主体だと思うこともない。
一般に私と他者の関係は非対称である。つまり私は、他者もまた私と同じような主体であると考える。とすれば、他者もまた様々な要求や欲望を持っているだろうと思う。しかしそれが何であるかは具体的に分からない。そこで私は、他者の行動や発言から、その要求や欲望が何であるかを問う。つまり私は他者の欲望を問う。ジジェクがしばしば挙げる具体例で言えば、ケーキをうれしそうに食べている少女は、そうすることで両親が満足するということを知っていて、自分を両親の欲望の対象にすることで、自らのアイデンティティを形成する。ケーキを食べるのは自らの欲望のためではなく、親の欲望を少女が読み取っているからである。欲望は常に他者の欲望である(注2)。
さて人間関係から言えば、この非対称的な関係は相手の側にも成り立っていて、つまり互いに非対照的であるということが対称的である。先の例で言えば、親は親で、何が少女の欲望であるかを推測する。
しかしAIにおいて、そういうことが成り立つか。つまり私たち人間は、周囲の人間に対して、常に相手がどういう動きをするのかということを考えて、そのことで社会生活を営むのだが、AIはそうではない。AIは今や、総合的かつ自律的な判断ができるようになり、人間の要求に対して、臨機応変な対応をするのだが、それは人間関係における様々なやり取りのパターンを教え込まれ、状況に応じて、そのどれかを選択するだけである。但し今の生成AIは、パターンを無数に蓄積しているし、かつ学習をして、さらにそのパターンを増やしていくことが可能である。それは人間の判断をはるかに上回って、適切な回答を用意する このことについて、ジジェクは次の様に言う。「AIを動かし続けるのは、「他者」の謎ではなく、一種の主体なき欲動である。それは欲望ではなく、ただの欲動であり、しかも死の欲動ではなく、自己を再生産し、拡大しようとする無条件の生の欲動である」とジジェクは言う。「そこには超自我はあるが、無意識はない」ということになる。
これがこの論文の結論となる。そしてこれは正しい認識である。この意味で、AIは如何に正しい判断をしようとも、私たち人間にとっての他者になれないし、従ってまた人間と同じ意味での主体にもなれない。
さて、かねてから私は、ジジェクの考えるAIは、人間の脳に相当する機能だけを持つ存在か、または誰かの脳の機能を読み取ったものに過ぎないと思っていた。問題は、そこに身体がないということである。あるいはジジェクの議論には、身体論が欠けている。
ジジェクは1990年代の電脳論の議論を引きずっていて、つまりそのときは完全に身体から切り離された脳だけを論じていたのである。当時流行った議論においては、脳は脳だけで存在し、バーチャルな世界を創り出していく。そこではバーチャルな世界と現実との反転が議論されたのである(ジジェク1993=2006、高橋2026c)。
そののちにE. マスクに触発されて繋がれた脳の話を展開したときも、ジジェクは、ある人の脳の機能が別の人に読み取られるということを考え、そこでも脳だけが身体と切り離されて議論されていたのである。今ここで、それがAIの議論だということになっても、相変わらず、それは身体から切り離された脳だけの話である。
そ れはフィジカルAIではない。実は、2026年はフィジカルAI元年と言われている。今や、私たちが目にするAIは身体を持つ。それは感覚器官を持って、音楽に合わせてダンスをする。接客をしながら寿司を握る。そういうAIが出現している。私たちは従って、身体を持ったAIの議論をしなければならない。
しかしジジェクは、身体のないAIの議論しているのだが、実は本質的な議論をしていると私は思う。AIは主体になれない。なぜならAIは他者になれないし、無意識の領域も持たないからである。それは当然、脳だけの存在ならば、その通りなのだが、身体を持ったフィジカルAIでも同じなのではないか。両者は本質的に変わりがないのではないか。つまり、AIは身体を持とうが、その身体は人間の身体とは根本的に異なるから、結局、人間にはなり得ないのである。
なぜそういうことが言えるかということについて、私は以下のように考えてきた。つまり人間の精神は、身体性を帯びているために、病になったり、無意識の領域を持ったりするのである。また人間は身体を持つことで他者と付き合うことができる。人間が無意識と他者性を持つというのは、人間の身体がそうさせているからである。
とすれば、私たちは次の様に問うべきだろう。一体、AIの身体は、人間の身体とどこが違うのか。またその違いは、今後AIが発達することで、埋められるのか、と。
言い換えると、次の様になる。まず人間の精神は身体から発達してきた。そしてその身体的な面が精神において、無意識として残っている。また私たちは、身体を通じて他者を他者として認識し、他者と身体を通じて相互承認をする。だからジジェクが、AIに無意識がなく、かつ他者になり得ないと言ったとき、それはジジェクの考えるAIには身体がないからであるということになる。しかしでは逆に、AIが身体を持つようになれば、無意識を持ち、かつ他者になり得るのかということが次の問題として生じる。そしてもしそうならば、フィジカルAIは、今後その能力を発達させて、このような人間特有の特徴を持つようになるのかということなのである。
それは可能かもしれないと私は思う(注3)。つまり私が考えているのは、AIの身体に無意識と他者性を植え込むことが可能かということである。
私はここで、ヘーゲルの主体概念を整理すべきだろう。私は以前書いた論文と、ローマで行った口頭発表において、ヘーゲルの主体概念を説明し、それに照らすと、AIは主体ではないということ示した(高橋2026a、Takahashi)。これを要約して、ここに再録する。
まず『小論理学』と『大論理学』は、宇宙の誕生から始まり、人間の認識と存在がどうのように進展するかということを論理的に説明したものである。また『自然哲学』と『精神哲学』は、物質、生物、精神がどのように発達するかということを記述する。また『精神現象学』と『法哲学』は、『精神哲学』の一部として位置付けられ、とりわけ『法哲学』では、人間が身体を通じて他者と交流し、そこから社会を創り上げていく様子が詳述される。
つまりヘーゲル哲学の根本に、自然が発達して、精神を生んだということがある。
人間は自然から生まれる。身体は自然の一部であり、そこから精神が出てくる。人間は身体を持ち、そのことで精神に繋がる。まず乳幼児期には大人の力を借りなければ何もできない無力な身体を持つ。そしてその時期に言語を習得して、言語と密接な関係を保つ身体を持つようになる。またその身体は性的な性格を帯びる。さらに身体は有限で、いずれは死ぬ。そして重要なのは、人間はその死を意識しているのである。こういったことが人間の特徴である。
無意識とは、このような、乳幼児期からの身体的な感覚に基づく経験の蓄積に由来する。
さらに、ヘーゲルの身体観によれば、私たちは身体を通じて他者と交流し、他者を認識し、他者から承認をしてもらう。
さて、ジジェクの考えるAIは身体がなく、そのために、無意識を持たず、他者になり得ない。しかしフィジカルAIは身体を持つ。とすれば、現在進展が著しいフィジカルAIなら、つまりAIが身体を持ち、それが高度なレベルのものになったら、将来的にAIは無意識を持ち、他者になり得るのか。それが私の問いであるのだが、その答えは簡単には出てこない。話はそれほど単純ではない。
さらに次のことも考えねばならない。
まずAIの能力が近年著しく発展しているということがある。チェス、将棋、囲碁において、人間の能力を上回ったときに、私たちは驚いたのだが、今やAIは、多くの物事に関して、人間以上に、総合的で自律した判断ができる。また、人とのコミュニケーションにおいて、適切な間合いを取ることなども、AIは可能にしてきたのである。
すると、すでに身体を持ち、人間を上回る知能を持つAIに、人間と同じように、無意識や他者性をも植え付け、そのことによって、人間と同じように、AIを主体にすることが可能なのではないか。私はここで、幼児の記憶、無意識、病理、死の意識をAIに教え込むことが可能なのかと問いている。
もう少し考えねばならないことがある。まず人間は上述のようにして、身体を持ち、そこから精神を発達させてきた。それに対して、AIの方は、当初は人間に似せて造られていたのだが、生成AIについて言えば、それは大規模言語モデルという、人間の能力とは全く異なる原理を採用して、そのために急速に進展したのである。そしてあとからそのAIに身体を接続させたのである。だから人間の身体とAIの身体は、原理的にまったく異なるということになる。
しかし人間ならば、様々な状況の中で、どのように発言したり、行動したりするのかということを、AIに教え込むことは可能である。するとあたかもAIは人間と同じように思考し、行動していると思わせることができるのである。
ここで私が言っているのは、AIは人間と同じような仕方で、その能力を発展させてきたのではないが、生成の原理は異なっても、人間と同じ能力を現在持っているということである。そして一部の領域では、人間以上の能力を持っているということなのである。
するとここで私は、AIに他者性を与えたり、無意識の領域を与えたりすることも、可能かもしれないと言いたいのである。
しかしそのためには、AIに、人間と同じく、死の意識を与え、病気の経験を与え、性の感覚を教え、つまり人間の有限性を教え込まねばならない。それは私は可能かもしれないと思うのだが、しかしそれは必要なのかと思う。つまり繰り返すが、それは可能だが、必要ないのではないか。そもそも物凄い労力を掛けて、そういうことをする必要があるのか。
再度、ヘーゲルの論じる主体についてまとめておく。
まず主体は一般的には認識主観を指す。そこからさらに人間は自己意識を持つとされる。
それとともに、もうひとつ重要なのは、主体は行為主体であるということである。そしてこの行為主体である私は、身体を持つ。さらにその身体を通じて、他者と交流をする。私は他者の身体を見て、そこに他者を見出し、他者は私の身体を私そのものだと思う。
その際に、私は他者もまた自己意識を持つ存在であるということに気付き、その他者から見れば、私もまた他者である、つまり私は他者の他者であるということに気付く。このことによって、私と他者は相互承認をし、このことで自己意識が確立する。
だから認識主観が直ちに自己意識となるのではなく、そこには自らと他者の身体を通じての他者との相互承認が必要である。
さてヘーゲルの主体概念は、実はそれ以上の意味を持つ。
精神は自然から生まれてくる。これは進化論的な意味合いにおいて理解してもらえれば良いと思う。ヘーゲルはそのことを『自然哲学』と『精神哲学』で論じている。動物は病気になり、やがて死んでいくが、その際に死を自覚すると、精神が発生する。ここはトートロジーで、精神が発生するから、死を自覚するのだとも言える。つまりここには論理の飛躍がある。しかし飛躍はあるが、自然から精神が出てくるということは確実に言うことができる。
こうして出現した精神は、次第に発展するのだが、その際にしばしば病に陥り、また精神の闇と言うべき狂気に陥る。さらには無意識の領域をも持つ。しかし多くはそれを克服しつつ、社会的生活を営む。ヘーゲルの身体は、そういう機能を持っている。
また精神は身体に縛られている。身体こそが精神と自然を結び付ける。身体は自然の一部であり、また私たちの精神活動は言語を使うが、これは身体と密接な関わりを持つ。例えば私たちは五感を通じて、「りんご」そのものと「接地」しており、つまり感覚的に繋がっている。それは触れば丸い形をしており、赤く、香りが良く、食べれば、サクサクと音がして、美味しいものである。そのことによって、「りんご」という言葉は意味を持つ。
このように、身体が発達して精神となり、精神は身体を通じてさらに発展するという、このダイナミズムを、ヘーゲルは主体的と呼ぶ。するとこの主体と言うときに意味されていることには、主体は身体に基づいているということと、主体には無意識や狂気や他者性が絡んでいることが含まれているはずだ (注4)。
ここでずっと議論しているのは、さてフィジカルAIは身体を持つAIだが、その身体は、このような主体的なものであるのか。つまりAIは、身体を通じて接地しているのか、AIは無意識や狂気や他者性を持つのかということである。
そしてそれを教え込むことは可能だと、ここで私は言いたいのである。接地という問題も、AIは可能だと思う。私はAIはワインを味わうこともできると考えている(高橋2026d)。
そしてまた私たちは、ジジェクが言うように、無意識に突き動かされ、つまり偶然性に曝され、また他者、すなわちこちらが予期せぬ反応をする者と交流をしなければならない、そういう存在である。そういうことをAIにもさせることが可能なのか。それに対して私は、それは可能だと何度も言っている。偶然性、予測不可能性が人間には必然的に付いて回るのだとすれば、AIの行動にも、ランダム表を使って、偶然を取り入れれば良いだけのことだ。
しかしそんなことをする必要があるのかということなのである。ここで結論を出しておく。それは原理的に可能かもしれないが、途方もない労力を要し、そういうことをするメリットがまったく見当たらない。人間の特権をAIに付与する必要はまったくないのである。これが本稿の結論である。
最後にふたつの補足をする。
ひとつは記憶の問題である。私たち人間は、乳幼児の時代から、言語を学び、様々な経験を積んで、精神を発達させる。その発達の過程で無意識が生じてくる。
これは「電極」で、AIに無意識を植え付けることは可能かという議論をした際に、記憶の問題がそこに絡んでいるという議論をしたのである。
その際に私は次の様に言った。まず日本の脳研究者は、人間の脳は、過去の記憶もAIの中に再現できると思っている。しかし私は、幼少期のことまで記憶を再現するのは、絶望的に困難だと思う。
また今回新たに付け加えたいのは、ジジェクが以前から主張し、またローマ国際学会の発表(Congress)であらためて言っているのは、過去は遡及的に再構成されるものだということで、過去はその都度その都度、現在から新たに創られるのである。そういう個人の頭の中をAIが読み込み、再現するのは不可能だろう。
するとそこで、あらためて「電極」の議論を検討すべきである。つまり記憶を復元することは可能なのか。また仮に可能だとして、それは必要なのか。つまり個人の脳にある記憶をAIに再現して、永久に保存することは必要なのかと問いたい。個人の身体的な死とともに、この個人の持つ記憶は失われる。私はそれで良いのではないかと思う。共同的な記憶だけが残る。但し、ジジェクが言うように、それは現在から遡及的に再構成することによってである。個人の記憶は、もしそれを共同体のものにしたければ、言語化し、他者と語らい、または文字にして残せば良い。美術や音楽など、言語に拠らないものを通じて、他者に伝えるというのでも良い。
もうひとつの補足として、Congress論文を参照する。これはAIを主題としたものではない。それは『接続』とほぼ同じ主張で、基本的にヘーゲルの読み方について、またヘーゲルの意義について書いている。AIについての議論は後半に少し出てくる程度なのだが、その短い記述に、ジジェクらしさが見て取れる。それは次のようなものである。
ここでAIと感情について、ジジェクは語る。まず私たちはAIには感情がないと思っている。それがAIの欠点と言うか、人間よりも劣る、物足りないところだということになる。私たちはそう考えることで多少の優越感を覚えて、安心する。
もちろん私はAIに感情を教えることはできると思う。少々時間が掛かるが、感情というのはこういうことだと教え込むことはできる。このことは先程書いた、様々な人間だけの特質をAIに教えることと同じ話である。しかしそれは多大な労力を要し、そこまでして、AIに感情を持たせるメリットは私たち人間にはないという、これも同じ結論になる。
しかしジジェクにとって、AIが感情を持つかどうかなど、実はどうでも良い話である。ジジェクは、「まさに私たちの感情こそ、AIによって容易に操作されるし、すでに操作されている」と言う。問題はここにある。AIは感情を持つのか、持たないのか、もしかしたら持つことはできないのかもしれないが、問題はそんなところにはなく、すでにAIは、人間が感情に左右される存在であることを正しく認識し、その人間の感情を操作できるようになっているのである。
しばしばSFに見られるように、AIそのものが、人間を支配することが恐ろしいのではない。私たちはAIの出現とともに、すでに資本主義社会の最終的な段階に入っていて、とりわけ最も自由で寛容だと思われている西洋社会で、人びとは体制によってどのように統制されているか、気付いていない。自由とは自由として経験される不自由なことであるとジジェクは言う。自分が自由であると信じている者ほど、救いがたく奴隷化されている。問題はAIに感情があるかないかということではない。すでに私たちは、体制側からAIを使って感情が操作されているのである。その自覚が重要だ。
AIを過大評価し、その能力に期待し、しかしその挙句にAIに恐怖を抱くか。または、人間には特別な高度な能力があって、それについては、AIは絶対にそこまで達し得ないのだと、これはこれでAIを過小評価するか。そのどちらでもない、AIとの付き合い方が必要なのである。
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注
1 この講演は、9月1日に行われ、9月5日に、ネットに公開された。
2 例えば、『ラカンはこう読め ! 』第3章。
3 以前私は、メタバースについて議論した(高橋2024)。メタバースは身体を持ち、またそこには他者性がある。このメタバースとフィジカルAIの違いについては、あらためて議論したい。
4 ヘーゲルの精神が病に付き纏われているということについては、私は繰り返し論じている(高橋2021、2026e)。
参考文献
ヘーゲルについて、参考文献は割愛する。本文で、書名はいくつか挙げたが、どれも引用はしていないからである。
その他
高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
—- 『身体の変容 メタバース、ロボット、ヒトの身体』社会評論社、2024
—- 「人工知能(AI)は主体たり得るか S. ジジェクの議論を参照して」『社会理論研究』No.26, 2026a
—- 「続 身体の変容3 脳に電極を埋め込む、または脳とAI」(2026.6.2)本サイト2026b
—- 「訳者あとがき」『接続された脳とヘーゲル』池松辰男、高橋一行他訳、誠信書房、2026c
—- 「続 身体の変容9 ワインについて」(2026.10.6)本サイト2026d
—- 「精神の病を巡るカントとヘーゲル ジュパンチッチ、コプチェク、ジジェク」『社会理論研究』No.27, 2026e(予定)
K.I.Takahashi, 口頭発表 “Does Artificial Intelligence align with Hegel’s Notion of the Subject ?” 国際ヘーゲル学会(ローマ)、2026
ジジェク, S., 『否定的なもののもとへの滞留 カント、ヘーゲル、イデオロギー批判』酒井隆史他訳、筑摩書房、1993=2006。
—- 『ラカンはこう読め ! 』鈴木昌訳、紀伊国屋書房、2006=2008
—- 『接続された脳とヘーゲル』池松辰男、高橋一行他訳、誠信書房、2020=2026
Žižek, S., “IN THE COURT OF THE AI KING – AI: NO DESIRE, JUST DRIVE” (2026.7.9)
https://slavoj.substack.com/p/in-the-court-of-the-ai-king-4b2
—- 国際ヘーゲル学会(ローマ)講演(2026.9.1)” EVERYTHING YOU WANTED TO KNOW ABOUT HEGEL BUT WERE AFRAID TO ASK HEGEL”(2026.9.5)
https://slavoj.substack.com/p/everything-you-wanted-to-know-about-f9f
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x16442,2026.10.14)
