高橋一行
本シリーズの前々回で取り挙げた玉村豊男の遺作『ブドウ畑の傍らで暮らす』には、いろいろと示唆に富む指摘がある(注1)。今回はこの本に触発された私のワイン論である。
玉村の著作は、私は前著で取り挙げている(高橋2024 3-3「食の哲学」)(注2) 。『料理の四面体』という本で、それはレヴィ・ストロースの「料理の三角形」という概念に由来し、それをより理論的に彫琢したものだ。
玉村は、信州の千曲川沿いの千曲ワインバレーでワイン造りをしている。その試みを私は前から羨ましく思っていた。
都会の仕事を投げ打って、長野に移住する。またはリモートで仕事をしつつ、時々東京に出掛け、あとは畑仕事に従事する。そういう人が増えていると玉村は言う。IT技術者や金融関係の会社員や医者など、様々な人が集まって、今や千曲川沿いに、ワイナリーは85もあるそうだ(以下、数字は2024年時点のもの)。
土地は借りるか、買うか。地元の農業委員会と粘り強く交渉をし、葡萄の苗木を購入し、設備を整えると、貯めていた資金は底を付く。日々草むしりなどの手入れで忙しく過ごし、しかし収穫は儲けが出るほどのものではない。それでも自分の手でワインを造りたいという思いは強く、田舎暮らしを求めて人が集まってくる。民間の教育機関「千曲川ワインアカデミー」が開校されると、この11年間で、卒業生は300人近くになり、その内の30人がワイナリーを立ち上げている。
個人で起業するのは難しくとも、数人が集まって出資し、共同で利用できるワイナリーを一軒建てる。またひとりがワイナリーを造ると、そこにアカデミーの卒業生が自分の葡萄を持ち込んで委託醸造をする。そういう試みも増えている。
さて私は3年前から、栃木県の那須に武道場を造り、その庭に僅かばかりの葡萄を植えている。手探りでまずは経験を積んでいって、いずれ本格的な葡萄栽培をしたいと思っていた。
しかしそれは失敗に終わる。私が葡萄造りに失敗したことは、これはていねいに反省を書く必要があると思う。
私は基本的に東京にいて、週に一泊二日、那須に出掛けていくという生活スタイルを採っている。しかしそれでは農業はできない。私は退職したあとも、論文を書いたり、翻訳をしているが、こういう仕事は、資料をうず高く積み上げた書斎でないとできない。また東京ならば、コンビニは歩いて3分のところにあり、そこでコピーを取ったり、ネットの論文をプリントアウトしたり、文章をPDF化したりということができる。また時々大学の図書館にも出掛けていく。どうしても東京を離れることができない。
那須では、1年物と3年物の葡萄(メルロー)の苗木を購入して、我が武道場の庭に植えた。3年物は植えた年に少しばかり実を付けたが、すべてコガネムシに食われて、翌年からはどの木も実を付けない。1年物は最初の年は勢いよく葉を茂らせたが、翌年からは新芽も何種類かの虫に食われて、枯れるものが出始める。細々と生き残っていたものは、今年のこの9月の長雨で、すべて根が腐って枯れてしまった。ここは元々雑木林であって、落ち葉が積もって栄養があり過ぎるのと、水はけが悪いのと、葡萄にとっては最悪の土壌だ。土壌改良をしないで、葡萄を育てるのは無理なのである。
さて那須は雨が多いので、葡萄造りには不向きだと思われるが、しかし我が家の近くには立派な葡萄畑とワイナリーがある。そこでは、赤はメルローとマスカット・ベーリーAを、白はソーヴィニヨン・ブランを造っている。9月中旬、その近くの那須ワイナリーに偵察に行く。
まず葡萄畑は、土壌に石を混ぜて水はけを良くしている。また葡萄畑はすべて網を張って虫を防いでいる。まずこのふたつだけでも、相当に手間暇掛けていると思う。
またワイナリーの人と話をすると、今年は一部の葡萄は長雨の前に、つまり8月下旬に収穫していた。年によって、また葡萄の種類によって、収穫の時期を変える。人を集めて、要領良く収穫しないとならない。こういった、かなり計画的に多くの人に手伝ってもらうという努力をしていかないとワインは造れない。週に一回出掛け、その日の夕方と翌朝に居合の稽古をし、夜はひとり酒を飲むのが楽しみだという、そういう利用の仕方で、庭に苗木を植えたら、あとは放っておくというのでは、絶対に葡萄は育たない。
ワイン造りは難しい。しかし面白いのである。そのことを玉村の本で教わる。
同じピノ・ノワールの同じクローンの苗木を植えても、ひとつはテロワール、つまり畑が斜面か平坦かという地形や、粘土質が火山灰かという地質や、雨量や日照が異なれば、まったく異なった味のワインができる。また暑かったり、雨が多かったりという、その年その年のヴィンテージによっても、味は異なるのである。
そういうことは私も知識としては知っているが、友人のソムリエ、正確に言えば、ワインエキスパートの資格を持っている人たちと一緒にワインを飲むと、これはブルゴーニュの何々村の、何年度のワインだというところまで、上級者は当てるのである。もちろん私でも、これはピノ・ノワールで、やや硬さがあるから、南北に長いブルゴーニュの北の方のものだろうということくらいは分かるが、しかしその程度に留まる。それを彼らは、もっと細かく記憶を整理して、その違いを明らかにしていく。そしてそういうことは、千曲川沿いのワインでも言えるらしい。
ただ、専門家がワインに点数を付けていくようなことは、ここでは必要なく、というのも、千曲川周辺のようにブドウ栽培の適地としての条件に恵まれれば、そしてそこで手間暇かけてワインを造れば、誰でもそこそこのレベルのワインを造ることができると著者は言う。レベルに違いはあってもそれは個性の範囲内だと言うのである。素人同然の造ったワインでも、どれも「外していない」と著者は言う。著者は、フランスに留学していた頃から50年以上毎日ワインを飲んできていると言うが、そこには自分の舌と、仲間のワイン造りの技術への自信のほどが伺える。
また私たちは、例えば畑が細分化されたブルゴーニュでは、道路ひとつ離れただけで、価格が10倍以上異なるワインが造られているということを知っている。
商売で大掛かりにワイン造りをするならそうなるが、しかし日本で今後、どうワインを造ろうかというときに、そういう個性の違いで売り出すか、ブランド化するか、私は様々な試みがあって良いと思う。著者は、この点に関して、ワインの価値は優劣ではなく、個性であると断言するのである。
玉村からもう少し引用する。私もずいぶん長い間、ワインを飲んできており、ほぼすべての点で、玉村の言うところに賛同できる。
まずワインは時間とともに変化する。ひと口飲んだときと、少し時間が経ってからでは、味が異なる。
またワインは瓶に詰められてからも熟成する。
ワインを飲むことは時間を考えることであると著者は言う。ワインが大人の飲み物であるというのはそういうことなのである。この本は名言に満ち溢れている。
ワインについて、もう少し話を先に進める。また玉村を使って、ヨーロッパと日本の酒を通じての文化比較もしたい。
ワインは食中酒だという話から始めよう。レストランではまずパンが出てくる。それからワインが出てきて、すぐに前菜やスープが出てくる。私たちはパンや料理を食べながら、ワインを飲む。次は肉料理が出てくるだろうとか、最後にチーズを食べたいとか、そういうことを考えながら、ワインを飲む。料理を食べ終えるのと、ワインを飲み終えるのが、同時であるのが望ましい。
しかし日本では、酒はつまみとともに飲み、つまり料理はあくまでつまんで食べられる肴であり、そして酒を飲み終わると、御飯が出てくる。酒を飲んでいるときに御飯を食べてはいけない。飲み屋でご飯を注文したら、それは酒をもう終わりにするということを意味している。
また今、レストランでの食事や飲み屋での酒について書いたが、基本的にワインは家で飲むものだ。これは本来そうだということである。私たちは旅に出れば、レストランに行かざるを得ないが、歴史的にワインは各家庭で飲まれて来たということである。
農家は家でワインを造り、そして生涯、自分の家で造ったワインを飲む。それも毎晩食事の際に飲む。ワインは酔うためのものではない。食事を楽しむためのものである。
日本では、米の収穫が終わると、その米の一部で酒を造り、酒ができれば、皆で集まって、神に感謝して飲む。このときは皆、酔いつぶれるまで飲む。酒は毎日食事の時に飲むのではなく、ハレの日に皆で徹底的に酔うために飲むのである。
そういう伝統が背景にある。そのために、ワインは酔っ払ってはいけない酒であるのに対し、日本酒は酔うための、または酔っ払わなくてはいけない酒であると著者は言う。
またこれは以前書いたが(注3)、フランスリヨンに滞在しているとき、この街では、仕事が終わったあと、同僚と飲みに行く会社員の姿を見たことはないし、酒に酔って電車に乗ったり、フラフラと路上を歩いている人も見たことがなかった。そもそも日本にあるような飲み屋はない。レストランは夜になると、どこも人で一杯になるが、若い人が数人連れ立って来るか、あとは男女のカップルが多い。若い人だけでなく、結構中年や老年の夫婦だと思われる男女がやって来る。そしてそこでは誰も、酒に飲まれて、酔いつぶれる人はいない。
男ばかりで連れ立って飲み屋に行き、先輩は、俺の酒が飲めないのかと、後輩に自分が注いだ酒を飲み干すよう強要し、相手がつぶれるのを見て楽しむという飲み方を若い時に教わった私としては、フランスにいると心が休まる。
ここに玉村が翻訳した、サヴァランの『美味礼賛』という著書について書きたい。これは面白い本である。話は些か逸れるが、以下のことを書く。
サヴァランはリヨンの東、ベレーの裕福な家に生まれ、ブルゴーニュワイン文化の中心地と言うべきディジョンで法学や医学を学び、司法官として活躍した人である。この本は1825年、著者が70歳の時に出版されている。その本を、200年を経て玉村が訳す。
また本文を数節訳すと、玉村が注釈を加える。この注釈も面白い。
まず、ヒトには視覚、聴覚、臭覚、嗅覚、触覚と五感があるが、著者サヴァランは、そこに性的な感覚を付け加える。これが6番目の、人間の持つ感覚である。そして美食について書かれた著書の第1章は、性の話なのである。訳者玉村はここのところを巧みに解説する。フランスで、男性が女性を夕食に誘い、女性がその誘いを受け入れたら、「場合によっては最後まで行く覚悟がある」という話なのである。「そういう暗黙の了解が、食卓を囲む時間をときめいたものにするのである」と訳者は書く。
著者は、食欲も性欲も全面的に肯定する。このふたつは個体保持と類の保持のために、神から課された使命なのである。
「トンデモ本」と言うべき記述も結構ある。例えば魚は生殖機能に強い影響を与えると著者は信じている。とりわけ牡蠣にはそういう効能があると言うのである。だからパリのレストランで、男女が生牡蠣を食べていたら、このふたりは食事のあと、必ずホテルに行くことになると、これは訳者が書いている。
意図的に私が性に関するところを抜き出したが、本書はもちろん食べることについての話を集めたものである。事例は夥しいものがある。あまり面白いものだから、この本について書き始めると、これだけで数ページを要することになる。ここではこのくらいにして、あとは是非読者自身がこの本を玉村訳で手に取ってほしいと思う。
さて、本サイトの前々回では、ローマからヨーロッパ中にワインが広まったということを書いた。ヨーロッパの歴史とワインは切り離せない。ローマ帝国はワインを普及させることで、経済的な基盤を作り、同時にキリスト教の普及活動もしたのである。
フランスでも最初はキリスト教の司祭たちが葡萄栽培を奨励する。そして品種改良が重ねられて、多くの土地でワインが造られる。
その中でもボルドーとブルゴーニュが、世界のワインの二大産地として、知られるようになる。
ただ注意しなければならないのは、ボルドーやブルゴーニュは葡萄の生育に適していたから、ワインの産地となったのではない。政策的にそうしたのである。
まずボルドーから書く。ここは私は何度か訪ねたことがあるので、その街並みは良く知っている。ガロンヌ川に沿って、大きな建物が並んでいる。ワインの倉庫である。これだけの大きな建物が並んでいるということは、相当にこの街がワイン造りで儲かったということを示している。この川を下ると、すぐに大きな港に出る。海の向こうはイギリスである。この港に向かって、街の山側から海の方まで、一面葡萄畑が広がる。
しかしボルドーがワインの輸出で栄えたのは、ワインが造られて、それで港が造られるという順に発展していったということではない。順番は逆で、まずは港があり、そのためにこの街は貿易に便利だということで、具体的にはワインをロンドンに売るために適しているということで、ここでワインが造られたのである。元々このあたりの土地が葡萄造りに適していたという訳ではない。土地を改良し、醸造法を工夫し、葡萄を植えたのである。為政者も積極的に農業振興に関わる。そうやってワインを造ってきたのである。
ブルゴーニュも、ここでピノ・ノワールが栽培されたのは、14世紀に、ブルゴーニュ候が意図的に、経済振興を目指して、政策を取ったからで、彼はピノ・ノワールに特権的な地位を与え、厳しい基準を設けて、品質管理をしたのである。
またここでは、造られたワインはローヌ川と運河でパリまで運ぶことができる。さらに鉄道が普及すれば、陸運も広範囲な流通を可能にする。
ワインはこんな風に発展してきたのである。このふたつの地域以外では、先にも書いたように、ワインは自家消費のために造られるのだが、このふたつの地域ではワインは輸出のために造られて、そのために高級化していったのである。
さてここまでは玉村の本にある話である。以下、今度は私自身の持ちネタで、ワインの話をする。
まず、ヒュームとカントについて、前著で書いている(注4)。そこではヒュームの「趣味の基準」とカントの「趣味判断」について書いた。彼らにとって、ワインの話は、単に話を分かり易くするためのネタに過ぎないのだが、しかしここから言えることは、ヨーロッパでは、ワインは生活の中に根付いているということである。
さらにふたつの例を挙げる。
マキャヴェリのワインは、実際にマキャヴェッリが所有していたトスカーナの土地で作られる、キアンティ・クラッシコである。そのワイナリーはフィレンツェ近郊のサン・カシャーノにあり、今はそこにミュージアムができている。マキャヴェリに子はなかったが、マキャヴェリの親族の子孫が今でも、そのマキャヴェリの土地で葡萄を栽培し、ワインを造っている。私たちは、マキャヴェリという名を冠し、瓶にマキャヴェリの肖像が描かれたワインを購入することができる。
またモンテスキューのワインは、現在「シャトー・ド・ラ・ブレード」(Château de La Brède)という名前で残っており、それを買い求めることができる。それはモンテスキューの生家である、ボルドーのグラーヴ地区にある城の名で、私はここもかつて訪ねたことがある。美しい中世の城である。モンテスキューはここに生まれ、ここで主たる作品を書いたのである。
また、彼自身が葡萄栽培やワイン造りに情熱を注ぎ、現在もそのテロワールを受け継いだワインが造られている。モンテスキューは、自ら葡萄畑や設備の投資を行い、ボルドーのワインの品質向上に尽力した。彼は、葡萄栽培にも熱心に研究を重ね、ワイナリーの発展に力を注いだのである。その後もその土地と技術は代々受け継がれていった。
私の記憶では、以前、モンテスキューという名のワインがあり、それを私は飲んだことがある。調べると、モンテスキューの子孫がモンテスキューという名のワインを代々造っていたが、その最後の子孫が2004年に亡くなって、会社は譲渡された。その時に、モンテスキューという名はなくなったが、モンテスキューの城の名は残されて、今に至るのである。私たちが飲むことができるのは、ソーヴィニヨン・ブランとセミヨン混合のワインである。
以上、私の専門はヨーロッパ思想で、そこからワインにまつわるエピソードを披瀝した。
さてここで、ひとつ疑問が湧く。それはなぜアジアにワインが広がらなかったのかということである。絹は早い内に東と西を繋いでいる。のちにシルクロードと呼ばれる道ができるのである。しかしワインは中近東では拡がるが、そこまでで、中国には行かない。
古賀守『ワインの世界史』によれば、後漢から唐代に掛けて、ワインが中国に広がった時期があったが、そののちにワイン文化はなくなる。それはイスラム教が勃興し、そして良く知られているように、その宗教は酒を禁じていて、イスラム教の拡がった地域からワインが消える。そしてそれよりも東の地域にもワインは伝わらなくなったのである。
ワインはキリスト教とともにヨーロッパに広がった。アジアには上記の理由で、ワインは伝わらない。あるいはアジアには、すでに仏教があり、キリスト教とワインがともに広がらない要因となっていたのではないかと私は思う。
この古賀の本は1975年に発刊されている。50年前のものである。玉村の著書は今年のもので、この50年で、日本人のワイン観は大分変ってきた。今度はそのことを書く。
日本のワイン造りは明治時代から始まっている。しかし日本では、甘い日本酒がすでに広がっているから、酸味のあるワインは人気がない。それでワインに砂糖や蜂蜜などを混ぜて売り出す。しかしそんなまがい物のワインはそもそもうまくないし、これも結局広がらない。
日本にワインが広がり出したのは、1975年くらいからだと玉村は言う。高度成長がもたらした豊かさが、日本人に本格的なワインへの接触を可能にしたのである。つまり先の古賀の本は、日本でようやくワインが普及し始めたときに書かれたものなのである。
しかしこのときに日本では葡萄を育てるということをせずに、海外から濃縮果汁を買ってくるという手法でワインを造った。これが日本のワイン造りを半世紀遅らせたと玉村は言う。小規模のワイナリーが自ら葡萄を栽培して、それでワインを造り、それが認められるようになったのは、この10年くらいのことに過ぎず、しかし今でも、大手メーカーはワインを農業とは考えずに、外国から果汁を買ってきて、日本で製造するという、工業としてのワイン造りをしている。まだまだワインは発展途上なのである。しかし1975年から50年経って、やっとワインは日本に根付き始めたのだと私は思う。
千曲川沿いのワイナリーでの、また各地の、私の知る限りでは、山梨や栃木や北海道での実践が積み重ねられて、日本のワイン造りは確実に進歩している。
玉村はこの本の最後に、これからの時代は、日本こそピノ・ノワールやシャルドネが造れるようになる筈だと書いている。この自信は評価に値する。もちろん彼の実践してきたことがその背景にあるからだが、もうひとつは温暖化が日本のワイン造りにはプラスになるのではないかと彼は言う。とりわけ長野県の標高の高い地域や北海道を念頭において、こういった寒冷地にとってはチャンスであると玉村は考えている。
このことは説明が要るかもしれない。実は玉村は触れていないが、今、ドイツではピノ・ノワールが急速に美味になっている。ワインエキスパートを持っている友人たちの意見をまとめると、2018年ころから、フランスのワインの味が変わり、ピノ・ノワールについて言えば、ドイツの方がブルゴーニュ地方よりも美味しくなったのである。急激な温暖化のためである。もちろんドイツのワイン造りの技術が向上したということもある。
このことはフランスやイタリアでは、危機感を以って認識されており、一方ドイツは、新たなビジネスチャンスが来たということで、活気付いている。それまでドイツワインと言えば、リースリングだけだったものが、今やオレゴンや南アフリカとともに、新たなピノ・ノワールの生産地として知られるようになったのである。これは、私の舌でも確認できる。つまりピノ・ノワールは今やドイツのワインであると断言できるのである。
温暖化の影響は途方もなく大きい。フランスやイタリアは、今やブドウの栽培方法を改良するといった小手先の技術では対応できなくなり、ブドウの品種そのものを変えることまで検討している。数年内に、伝統的な味とは大きく異なっていくと私は思う。数年内に、伝統的な味は大きく異なっていくと私は思う。
また、この温暖化は寒冷地にはありがたい話だと玉村は言うが、しかし今年の様に雨が多いと、雨を嫌う葡萄には厳しい環境になる。元々雨の多い日本で、さらに雨が降れば、これは大変な話になる。
今、知り合いのワイナリーから話を聞いても、またネットを見ても、今年の長雨に対する怨嗟の声は凄まじいものがある。つまり、今年は8月までは例年以上の収穫が見込まれていたのに、この長雨で多くの葡萄が腐ってしまったのである。来年のことを考えて、病気のものは摘み出さねばならない。こんなに努力してきたのに、心が折れてしまったというような話は、9月になって、いくらでも見出せる。ただ、そういったマイナス面の対策をしつつ、なお、温暖化のプラス面は活用したい。
温暖化と並んで、玉村が言及するのは、少子化社会の問題である。
著者は、人口が急速に減少していく現在、都会から田舎への人口移動が必然的に起きるはずだと書く。それは農業人口がこれ以上減れば、都会の人たちも飯を食って生きていくことができなくなるからだと言うのである。
そしてその際に、日本では、里山で小規模の農家が多品種を生産するという様式で農業を続けている。その形態を保ちつつ、野菜やシイタケや果樹に並んで、葡萄が加わるという感じで、ワイン造りがなされ始めている。都会の人たちが農村に流入して、そんな風に農業ができれば良いと玉村は考えている。
それはその通りなのだと私は思うが、しかし私の見る限り、地方への人口移動はまだ起きていない。残念ながら現在進行しているのは、ますます都会に人が集まり、都会の土地の値段が上がり、地方は急速に過疎化していくということだ。そういう現状で、著者の楽観的な見方はどこから来るのか。
著者はなおも未来を信じる。その自信は実際にワイナリーを続けてきた実践から得られるものなのであろう。
少子化が進み、私たちにはその対策が必要なのだが、ここで考察されているのは、少子化社会で如何に豊かに生きられるかということを模索すべきだということである。玉村は身を以ってそのモデルを示したと言うことができる。
つまり、温暖化も少子化も、どちらもまずその対策として、何をするかということが考えられねばならないが、同時にそれを受け入れて、どうその中で快適に生きていくのかということも工夫されねばならない。
温暖化対策は、石油に依存する私たちの生活を少しずつ改めていくしかない。また戦争という膨大なエネルギーの無駄遣いをどう減らしていくかということを考えねばならない。また少子化対策として、少なくとも子どもを産みたいと思っている人が、経済的理由で断念せざるを得ない状況は変えねばならない。男女ともに、育児と仕事を両立させる仕組みは必要である。
しかし根本は、温暖化も少子高齢化社会も、どちらもそれに私たちが馴染んでいくということが必要ではないか。
フランスやアメリカでは、見渡す限り一面、葡萄畑であるという眺望が拡がっている。日本は、米も麦も野菜も少しずつ育てるというスタイルで、その中に葡萄畑も混じっているといるというのが、日本の普通の農村だと玉村は言う。それがこの本の題名「ブドウ畑の傍らで暮らす」ことなのである。そういう日本的スタイルで、これからはワインが造られるだろう。
本稿のまとめに入ろう。
まず日本のワインは近年急速にその技術が上がって、おいしいものが造られるようになった。しかしだからと言って、日本の若者の間で、ワインが日常的に飲まれるようになることは、残念ながらあり得ないだろう。
かつて日本酒はビールに取って代わられ、そのビールも若者の間では段々と飲まれなくなって、代わりに、各種サワー類が飲み屋で飲まれたが、今やそもそも酒類全体が飲まれなくなっている。日本酒は、日本酒離れが起きてから、業界が努力して、今や結構おいしいものが造られている。またビールも様々な種類のものができ、この10月からの酒税の仕組みが変わり、発泡酒や第三のビールはさらに工夫を余儀なくされ、それは酒好きにはありがたい話である。しかしどの種類の酒もおいしくなっているのにもかかわらず、飲まれる量はどんどん減っている。
しかもこれは私の知る限りでは、日本だけの話ではない。
どの酒も、多様化し、それぞれ技術は上がり、私たちは酒を味わうということに限って言えば、どんどんと豊かになっているのだが、しかしそのことが生活全体に与えるという意味でも、経済を活性化という点でも、インパクトはない。そもそも酒の売れ行き自体は今後ますます減っていくだろうと思う。しかし何も人々がたくさん酒を飲む世界が素晴らしいという訳ではない。
サヴァランの世界はあくまで19世紀のフランスの、しかも裕福な階層の人々の暮らしの話だが、食を大事にして、豊かに生きていくということを私たちに教えてくれる。サヴァランと私たちとは、文化の違いがあり、また200年の時間の隔たりがある。しかし著者の食への拘りは、私たちに示唆するところが大きいと思う。その本を翻訳し、解説を加えた玉村には感謝したい。
一方21[一高1.1]世紀の前半に、玉村は、自らの生活の経験に基づいて、いくつかの著書を残した。少し下の世代に属する私は、そこに書かれたことに関して、それほど楽観的な見方ができないと思う。しかし実践に裏付けられた自信は、尊敬に値する。
私たちは今、次のような世界に生きている。それは、情報化社会の必然的な帰結として雇用が失わるのだが、その現状から来る不満を移民にぶつけることで解消しようとしたり、国力が下がった分を幻想で補って、他国に強硬的な姿勢を取る指導者に拍手喝采をしたりというものである。それが私たちの現実で、そのためにますます地球環境は悪化し、生活水準は下がるのである。
そういう不安の中で生きていると、ワインとともに生き、ワインを日本に根付かせるという、上記の試みは、変わり者の自己満足なのではないかとも思う。しかし小さなところから改革の試みを始めるしかない。この8月上旬に亡くなった玉村の遺志は継いでいきたい。
那須の庭には、野菜も少しばかり植えた。多くは虫に食われ、私は虫のお下がりをもらい受けしているような有様だが、この長雨で、胡瓜だけはたくさん採れた。一週間放っておくと、30cm以上になっているのだが、それでも結構おいしく、東京に持って帰って、毎晩塩もみにして食べていた。自給自足には程遠いが、しかし悪くはない。
注
1 本サイト「続 身体の変容7 ローマにて」
2 本サイト「身体論補遺(2) 食」
3 本サイト「老いの解釈学 第9回 日本ではなぜ老いの本が多いのか」
4 注2と同じ。
参考文献
古賀守『ワインの世界史』中央公論社、1975
サヴァラン、B., 『美味礼賛』、玉村豊男訳・解説、中央公論社、2021
高橋一行『身体の変容 メタバース、ロボット、ヒトの身体』社会評論社、2024
玉村豊男『料理の四面体』中央公論社、2010
—- 『ブドウ畑の傍らで暮らす』晶文社、2026
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x16277,2026.10.06)
