老いの解釈学 第3回 マラブーの破壊的可塑性について 

高橋一行

 
   老いと病は異なるカテゴリーのものとして分けて考えたいと前回書いた。しかしC. マラブーは、基本的に両者は同じものではないかと言う。老いはゆっくりと来るもので、病は急激に来るものだと思われるかもしれないが、老いも時に急激に来る場合がある。両者に違いがないと言うのである。ここは私の考えと異なるところなので、以下詳述する。つまり私が老いと病を異なるカテゴリーだとしたのは、ゆっくり来るか、急激に来るかという点においてではない。私は、病は治療し得るが、老いは不可逆だとしたのである。マラブーと私と、どうして異なる結論になるのか。ここでマラブーは、病ということで脳の損傷を考えている。アルツハイマー病などが彼女の念頭にあるものだ。それらの病は治癒し得ないものである。脳が一旦損傷を蒙れば、もう回復することはない。彼女がそういう病を考えて、それは老いと変わらないということになる。しかし私は病ということで、例えば風邪をその例に挙げ、それは完全に回復し得るだけでなく、かえって元の身体よりも元気になる場合さえあり得るとした。治癒可能な病を考察すべきであるという点で、私の考えはマラブーのそれと決定的に異なるのである。
   マラブーの議論の根本は、治癒できる病について考えていないということにある。つまり以下に説明する破壊的可塑性という概念が彼女のテーマであって、今までは脳の損傷について議論し、次いで老いについて書くという順で本を出してきたのである。だから私はマラブーをここでは批判するのではなく、主張したいテーマが異なるということが言いたいのである。
   病の捉え方が私とは異なるということを確認した上で、ここでマラブーの老いについての考え方を追っていく。取り挙げるのは、マラブーの『偶発時の存在論』という2009年に出た本である(注1)。その第3章を見ていく。するとまず老いとは、成長のあとに来る必然的な衰えであり、ゆっくりと降下していくものだという考え方が紹介される。しかしこれはマラブーの考えではない。彼女が考える老いとは、ひとつの出来事、突然の切断である。予測の付かなかった出来事が一挙にすべてを動揺させる。そういう性質のものなのである。
   ここでマラブーは破壊的可塑性という言葉を、老いを表現するものとして使う。老いとは、個人の爆発的変形、紛れもない断絶を意味する。
   この言葉はマラブーの著作において、それ以前から使われている。マラブーは2000年以降、脳神経システムに関心を持ち、2007年の『新たなる傷つきし者』で脳疾患を論じる(注2)。そこでこの破壊的可塑性という言葉が出てくる。そして本書で、老いについて、この同じ言葉を使うのである。老いもまた、脳の損傷と同じく、ひとつの損傷なのである。
   この破壊的可塑性が結論である。それは偶発的なものであり、再生せず、本質を変形させる。
   マラブーの病が、脳の損傷のような不可逆なものを念頭に置いているということを先に書いた。その前提を理解できれば、ここからマラブーの発想が分かる。つまり老いは脳の損傷と同じで、それは破壊的可塑性と呼ぶべきものなのである。
   この言葉についてもう少し論じておく。まずは可塑性の定義を与えておくことが必要だろう。この可塑性という概念をマラブーはヘーゲルから得ている。可塑性の概念はすでに1994年のヘーゲル論にある(注3)。これについては以前、私は論じたことがある(注4)。それは主体が、外部からもたらされた変化の影響を受けつつ、それを主体の内部において自らの生成に活かしていくということを意味している。外部の作用を受け止めつつ、自らを主体的に形作るのである。
   しかしヘーゲルは、その膨大な論考と講義録の中で、可塑性という言葉はほんの数か所でしか使っていない。そういう概念をマラブーは、ヘーゲル哲学の根本的なものだと言い張るのだが、それは如何なものか。そうマラブーに対して私は思っていたのである。
   さらに脳神経システムにマラブーは関心を移す。今度はこの可塑性という概念に破壊的という形容詞を付けて、議論がなされる。脳の損傷は、破壊的可塑性だと言う。脳神経に打撃があると、それは神経回路を切断し、その結合の様式をまったく変えてしまう。それ以前の主体と完全に異なった、新たな主体が出現する。それは回復することなく、喪失をきっかけに、かつての面影を完全に失った新たな主体が生成する。
   しかし実は私は今まで、この議論がどうにも良く分からなかったのである。こういう議論が何を意味しているのか。そもそも私は自らの脳に損傷を受けるという事態を想像できない。ただ単に、もし私の脳に損傷が起きたら嫌だなと思う。そこで生じている事態が、私には望ましいことに思えないのである。なぜそんなことをマラブーは論じるのか。
   しかし私自身が老いを感じて、そしてこの『偶発事の存在論』を読むと、老いもまた破壊的可塑性であって、要するに壊れてしまったものは決して回復しないということは良く分かる。周りを見て、確かに老いたために、かつての面影を完全に失ってしまった人がいるのは確かである。そこに老いの不始末や惨めさを感じざるを得ない。そして自分もまた確実にそういう事態に向かっていると思う。
   するとこのように言うことができるのではないか。マラブーがかねてから主張している、この破壊的可塑性は、脳の損傷に対してではなく、同じく治療し得ない老いについてこそ、良く当てはまるものなのではないか。
   そう考えると、マラブーの言いたいことが良く分かるような気がする。私もいずれ、もっと老いが深刻化して、こういう状況に陥るのだろうが、しかしそれはそれで良いのではないか。老いてまた楽しいと言って良いのではないか。そう思うようになる。私自身、ある日いきなりこう言った老いが来て、私が私でなくなるような変容を蒙るということはあり得ると思う。そしてそれはそれで肯定していくしかない。
   ただこの老いは認知症のことではないか。老いの末期の問題と言う言い方をしておく。本シリーズで私が議論してきた老いは、もっとその前の段階を念頭に置いていた。今回議論しているのは、少しずつ自らの老いを感じるということではなく、ある日いきなり認知症が悪化し、老いの末期に突入するという話である。
   そう考えていくと、繰り返すが、マラブーの言うことは分かる気がする。一旦壊れてしまったものは、もうどうにもならない。しかしそれはそれで良いのではないかと考えるしかない。壊れてしまったものも、それなりの秩序があり、存在感があり、自己主張をする。それはまた、その壊れたままの状態で存在することが可能なのである。
   これが今回得られた重要な結論になる。認知症の世界もまたひとつの秩序であり、それはそれで尊重されねばならない。また医学が発達して、人々が長生きするようになると、確実に認知症は増える。つまり今後多くの人がそういう新たな世界で過ごすことになるということもまた確実な話である。
   それは認識能力が壊れた状態で、回復することはなく、あとは死に向かって進むのみだという見方をするのではなく、それはそれで、多くの人が迎える老いの最後に現れる、ひとつの生き方なのだと思うことが重要なのではないか。
   その意味で、この『偶発事の存在論』は刺激的な本である。この本は、私の老いについての理解に、それまで思いも寄らなかった視点を与えてくれる。さらにまた、今回私はこの本を読んで、マラブーの発想が分かったと思う。だから今回ここで展開しているのは、老い論であるとともに、マラブー論でもある。
   先に書いたように、脳の損傷については、今まで私は自分の問題として考えることができなかった。しかし老いはまさに今、私を襲いつつある問題である。
   本書の最後の章の、そのまた最後のあたりの文を引用する。「破壊的可塑性は、すべての可能態が尽きてしまったところから、作動を開始する。・・・全体のまとまりが破壊され、家族の精神が消え去り、友情が失われ、絆が消失してしまった時、砂漠のような生はその冷淡さを強めていき、その中で破壊的可塑性が作動する」。偶発時は本質を脅かす。それは回帰の希望もなく、本質の意味を危険なまでに変形させるとマラブーはこの本の最後に書く。秩序が崩壊したあとにできる新たな秩序が彼女の論じるものである。
   さて、支配された者が、逆転して支配するという発想はマラブーが最も嫌うものであろう。認知症老人は、人を支配しないし、支配されもしない。マラブーは、この破壊的可塑性の議論から、最近はアナーキーの議論へと進んでいる。そこにおいては、支配―被支配の関係がなく、それでいて最高度に秩序が保たれている。そういう社会がアナーキーである。その具体的な考察は次回に回したい。そういう社会があるとして、そこで認知症老人は生き生きと暮らしていけるのではないか。
   今回、補足として最後に論じたいのは、この破壊的可塑性とアナーキーの中間にある、2020年の、『抹消された快楽』という本の議論である(注5)。ここでも、人を支配することも人から支配されることもない世界が展開される。この本は、「クリトリスと思考」という副題が付いていて、まさにそれが議論のテーマになる。
   まずS. フロイト、J. ラカン、S. ジジェクと、精神分析において、どうしても男根を持った男性を中心に議論をしているという感は否めない。そして男性器に対して、膣を女性器として対峙させても、それはどうしても男性器を受け入れる存在になってしまう。そういう議論の中で、男性器に対抗するのでもなく、男性器を受け入れる訳でもないクリトリスを、マラブーは戦略的に提示する。
   私はここでJ. バトラーとジジェクの議論を思い起こすことになる。ラカンの象徴界、想像界、現実界という用語を用いながら、両者が論戦を張っていた時に、バトラーが戦略的に用いたのは、レズビアンのイメージである(注6)。それはかなり有効なものであったと思うのだが、今回のマラブーの議論はそれを上回る戦略である。私はジジェクの最も手強い論敵はマラブーだと思う。本シリーズは、私のジジェク研究の副産物として展開されるので、ここでもそういうことを書いておく。
   そしてこの本の最後は、「クリトリスはアナーキーである」という言葉で結ばれている。実は私は、これが良く理解できなかった。そこに「アナキズムと哲学」という副題を持つ『泥棒!』という本が2022年に出て、私の疑問はきれいに解ける(注7)。支配し、支配されるということを超えた世界を論じているという点で、2020年の本の議論と、それまでの脳の損傷や老いを対象に論じてきた破壊的可塑性という概念と、この新しい本で論じられるアナーキーは繋がっている。
   すると次の課題は、アナーキーをどう理解するかということになる。これはそもそも可能なものなのか。それはユートピアに過ぎないのか。それともこういう概念を、カントの言う統制的理念として設定すべきなのだろうか。マラブーはアナーキーを、否定的な言い方でしか語り得ないものとする。それは破壊的可塑性が成り立つ社会なのかと思う。つまり認知症の老人と脳に損傷を負ったものが生きていかれる社会のことなのだろう。この辺りが次の課題である。
 
注 
1 C. マラブー『偶発事の存在論: 破壊的可塑性についての試論』鈴木智之訳、法政大学出版局、2020
2 C. マラブー『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』平野徹訳、河出書房新社、2016
3 C. マラブー『ヘーゲルの未来: 可塑性・時間性・弁証法』西山雄二訳、未来社、2005
4 高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
5 C. マラブー『抹消された快楽: クリトリスと思考』西山雄二、横田祐美子訳、法政大学出版局、2021
6 J. バトラー、E. ラクラウ、S. ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性 新装版 -新しい対抗政治への対話-』竹村和子、村山敏勝訳、青土社、2019
7 C. マラブー『泥棒!: アナキズムと哲学』伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子訳、青土社、
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x12389,2024.12.18)