「議論の難しさ」を肝に銘じて、出発しよう

平成26年11月12日

西兼司

 
一、我々は発足した
 10月5日、我々は文芸結社「公共空間X」を設立する総会を開催した。その日から「公共空間X」は発足したのである。例会も実施され、議論も活発楽しく行われている。ただ、まだ原稿の数が少なく、原稿分類で考えると幅が狭い印象は拭えない。これは、結社同人の絶対数が少ないということが一番大きな要因で、この原稿を書いている私自身の責任も痛感している。結社同人の原稿が少ないと謂うことで、せっかく結社外からも「応援するよ」、と言って下さっている方の原稿も体裁を考えて抑え気味にして掲出を抑制するという勿体ない事態になっている。
 だから出さなければならないと謂うことだが、出しにくい事情として、「インフォ」にある我々の掲げている考え方がやはり難しいと謂うことがあるのだと思う。そこで、自分が用意している原稿を提出しないまま、急ぎ、「インフォ」の考えていることを補足しておきたいと思う。
 「インフォ」は4文からなっている。第一文は「Xとは…」と謂う象徴詩的な7行の隠喩的自己規定部分である。第二文は<呼び掛け文>としてあって、議論の必要をアカデミズム、ジャーナリズム、文学、芸術の現在的弊害と絡めて、5項目の課題として新たな「公共空間」を作ると決意を披歴している。第三文は「「公共空間X」とは・・・」と言って、自分たちの遣りたいこととその際のモラルについて6項目で語っている。第四文は「あなたにとってXとは・・・」と言い始め、詩的に思想が述べられていて、主体、思想、結社、組織運営、理論形成、言語の豊かさ、の必要を簡潔に語った後、「言説と非言語的媒体を含み持つもの」、「自らを語るもののほか、他者の声を聞き、その叫びをも汲み上げる」、「同人による表現と、同人外の投稿の共存」、「情報化社会の裏を承知で、開かれた窓、多様性を確保する道具の側面を活用したい」、「世界を共に読み解き、少数者、非正規の若者、福島で生きる人々、と悩みを共有し、貧困と環境破壊を直視し、そこから未来への展望を見出す」という願望的決意が記されている。
 全体として詩的に過ぎて、持ち味だとしても難しいのは事実であろう。私はこれを承認した側であるから、難しくても持ち味については過剰な説明をしようとは思わない。ただ、一つの言葉については補足しておきたいと思う。「インフォ」第二文<呼び掛け文>で使われている「議論」と、第三文「「公共空間X」とは・・・」、第四文「あなたにとってXとは…」で使われている「相互討論」、「討論」の関係についてである。
 世の中には「討論」、「議論」、「対話」を区別している人がいるので、そうした若い人向けの補足である。我々はそうした言葉について、まったく区別していない。ネットで見たところ、その三者の違いが麗々しく説明されていて驚いたのだが、基本的に同じ意味で使っている。
 「討論」は敵味方に分かれて勝ち負けを競う争論であって、ディベートであり、勝敗は第三者が判定する等ということは一切考えていない。「議論」は多数の人が意見を出し合って、結論を出すことを一義的な課題とした会議的話し合いだなどとは思ってもいない。だから、結論を出さなくてもよいのが「対話」であるなどとは理解していない。
 敢えて言えば、討論を「討伐論議」と看做し、議論を「議題論議」と看做すことが出来ない訳ではないこと位は理解可能だが、世代的には(私は団塊の世代だ)そんな使い方はしたことがない。むしろ、討論にしろ、議論にしろ、また対話であっても、論点をいかに噛み合わせるのかが難しい課題だということに違いはない。そして、対話であれば論点を噛み合わせるのに、やや神経を使わなくても済む軽い会話形式だと謂うこと位が差であるに過ぎないであろう。
 多数の参加者による話し合いか、結論を出さなければならない話し合いか、と謂うことで「討論」と「議論」を我々は区別しているのではない。
 
二、構えは大きいのだ
 ぜひ、「インフォ」を読んで「公共空間X」に参加して欲しいが、もう一つ難しさを実感させるのが、準備段階において四回連載で提起されている文章、「なぜ「新しい公共空間」か」で相馬千春氏が述べられている近代日本精神批判の難しさと、結論として述べられている「<「思想信仰道徳の問題」を「主観的内面性」においてもつ>為に、私たち自身を根拠として確立する「場」ではないか」と謂う、近代日本精神批判の「場」をここに作ると言う不敵さであろう。「こりゃ、難しい」という感覚は理解できる。
 私はこの文章で指摘されている丸山真男、前田勉、小倉紀蔵の著作は読んでいないが、論旨は理解出来るし、基本的に賛成である。ただ、論の出発点(「最近は「日本文化」の優秀性を謳う論調――これはむしろ不安の裏返しなのでしょう――が氾濫しているようですが、自分たちの「弱点」には眼をつぶり、美点にのみ眼を凝らすというのは、「滅びゆく」者の典型的なパターンではないか。滅びたくなければ、自分たちの「弱点」に眼を凝らすしかありません」というような日本への同調を無前提に前提とした書き方)に違和感があって、それについては別の機会で論じてみたい。
 ここではこの問題意識を承認した上で、別の角度から「議論は難しい」ことを具体的に確認していきたい。もちろん議論を掌中にするためである。
 「インフォ」第三文を参照して欲しい。我々はここに自分たちのしたいことを6項目に分けて書いてある。第1項は、「主にネットで活動します」であり、第5項は、「以上の原則を承認・尊重する人は・・・同人となることができます」であり、第6項は、「多様な発信、討論の場として構築します」であって、何も難しいことはない。「以上の原則」とは、第2項、第3項、第4項のことであろう。
 そして、第2項は「目的」、第3項は「心構え」、第4項は「手段」と読める。第3項の心構えに該当する「柔弱を尊重し、虚心な相互討論」については、既に解説済みなので繰り返さない。ここでは目的に当たる第2項の「公共空間Xは混沌を見つめ、世界を読み解き、未来を展望する場です」について解説しておきたい。「混沌を見つめ」ることと、「世界を読み解」くことと、「未来を展望する」ことについてである。
 「混沌を見つめ」と言っているのは、我々自身が世界を、様々な問題を抱え、生み出しつつ有って、解決できないまま累積させて行って、そうした諸問題が累積されることに因って、問題の問題性も、諸問題間の関係も変化し、そのことに拠って方向も不明のまま世界自身が変質、変形して行っているという認識でいるからである。世界は整理されていないという我々自身の認識の表出である。
 「世界を読み解」くとは、世界を整理して認識し直す、活動をすると謂うことである。そのために第3項の「柔弱を尊重し、虚心な相互討論」をして行く心算だ、と謂うことである。三人寄れば文殊の智慧、と謂うのだから真面目な議論をしていく集合智に期待をしているのである。
 その上で、「未来を展望する」こと迄を願望しているのである。
 もちろん、我々は「混沌」と言っているのであって、「混乱」と言っているのではない。「混乱以上」の未整理状態だと考えている。「混沌」という言葉自体は、道家の『荘子』第七編 応帝王 第七章「渾沌に七つの竅(あな)を鑿(ほ)ってやったところが」(講談社学術文庫 池田知久全訳注)に出てくる中央の帝「渾沌」のこと(514ページ)である。注釈に「人間のことさらな知恵や欲望の対極で、それらの根源のある無秩序・未分化の状態、を擬人化したもの」とある。「混沌」とは、「渾沌」を引用する過程(王叔岷)で出来たものとあり、別に、「渾敦」、「倱伅」などと書かれた場合もあるようである。人間の知恵や欲の対極で、しかも、それらの根源の存在する無秩序・未分化の状態、と謂うのであるから未来を展望したい我々の対象化対象としては相応しいであろう。
 
三、「議論は難しい」
 それにしても、実際の議論の難しさは、また別である。「柔弱」だ、「混沌」だと道家のイデオロギーを持って来たからと行って、それは「やさしさを持って」と「根本的な現実の混乱を直視しなければいけない」と言っただけのことである。議論はそれを前提にしなければ為らないが、それで成立する訳ではない。
 話す中身が無ければならない。まず、「事実」が、その発見においても、確定においても難しい。立場が違えば、見えているものが違う。見えているものの重みが違う。見ている人にとっての意味が違う。当事者であってもそれは、そうで、しかもそれは対峙者だけのことではなく、付き添い者、同調者にとってもそうである。しかも、当事者にとっても事実の積み重なりと共にそれは変化していく。だから、事実に対しては「不完全な事実」を、それと承知で受け入れて、あとで修正したり、別人から修正されることを覚悟しなければ、「公」にすることは出来ない。そして、そうした覚悟で事実を取り上げることは、対象が混沌である以上、避けられないことである。
 次に、話す中身の「意味」が違う。人間が違えば、それぞれに違う思いを持っている。だから、事実に対しての意味付けが違う。事実はあらかじめ、「真実」という形をとってしか、一人一人に主体化されていない。意味ある事実としてしか事実は明らかにならないから、事実が未確定のまま、真実を吟味するという形で「議論」は始まるより他はない。この議論が極めて不安定な基盤の上での議論になることは避けられない。しかし、これは「議論」そのものの持つ構造であって、対象たる混沌のためではない。他者と「公共空間」を作るという作業自身が持つ辛さである。
 三番目に、一人ひとりの人間の持つ「思い」、「意味」、「真実」の違いは、決して主観的な、個人的な、自覚的な独り合点の違いによるものではない。背景に、大げさに言えば人類史を背負った文化的な価値観、判断センスの違いが潜んでいる。この違いは、必ず克服できるものだなどと思い上がってはいけないが、背景を理解しなければ本当は「対立」しているのかどうかも判らない。そして、「対立」が明確に判らないまま、「敵対」して行くことこそ、怠惰の結果として勝っても負けても「より普遍的な意味」を残せない。人類史などと大きく構えなくても、親子関係、家族、一族、会社、利益集団、宗派、など帰属集団の感覚、利害、思想が反映していることを直視しなければならない。それゆえの「思い」を想像しなくて、「議論」は成立しない。
 四番目に、だから「議論」は話の中身だけを直視する場合、自ずから思想闘争に入って行くと謂うことを本当は避けられない。小さな話も大きくなって行かざるを得ない性質を持っているのだ。しかし、それで勝つということは、論敵の背負ってきた人類史を否定して自分の背負っている人類史から出てくる思いを持って、人類の未来を塗り替えて行くという作業をすることである。全世界を敵に回しても自分自身一人で勝つということを意味する。論理的には必要なことかもしれないが、同時に全世界を語り切れないうちにそれを肯定することは、独り善がりである。「議論に勝って他人(の思い)を殺した」場合、「世界を手にして、共に歩むべき人類がいない」歴史に帰結するであろう。むしろ、「議論」の主体たるおのれ自身を大きく豊かにすることである。全世界を相手にできる主体を形成することが、「公共空間」を育てることとほぼ一体の課題であろう。小さな話で勝ち切ってはいけないという制約も付くのである。
 こうした「話には中身が必要だ」、ということに続いて議論の難しさはなお存在する。
 五番目に、そうした発想そのものが既に、主体形成主義として批判されてきた歴史がある。一つのイデオロギーであること、考え方のパターンであることは承知しておかなければならない。勝ち負けに拘って、議論の融通無碍さからくる視界不明の可能性を捨ててはならないのだ。しかし、批判自身もパターンであるとは言っているが、全世界を相手とする思想を自分で育て得た訳ではない。「弁証法」と言って、思想を成り行きに丸投げする発想で何かが生まれる訳でもない。世界を読み解き、未来を展望するためには、混沌から出発して恐らくは「混沌たる秩序」を構想するより他は無いのであって、全世界を紡ぎだす「思想」は追求するより他は無い。「抑制された論理主義」が必要なのである。
 六番目、こうした単線的課題だけでは当然ない。人格系(神経症的・アマテラス型)人間と発達系(直情径行的・スサノオ型)人間の対立など(「人格系と発達系」老松克博著。講談社選書メチェ)、どうも深層心理学的な相互理解の困難な発想の違いもありそうだ。「議論」は喧嘩に転化せざるを得ない対立である。これは「対話」によって克服可能だ、と説かれているが、感受性、体質の違いに対する想像力が極めて難しいことに変わりはない。
 七番目、イスラームとの対話に代表される宗教の違いをどう乗り越えるのか、乗り越えられないのか、と謂うことである。イスラームは思想を背景とした「生活スタイル」であり、「社会規範(法)」であり、「国際関係システム」である。一人ひとりには棄教の自由はなく、生活スタイルそのものとして人間を支配している。これの背景の思想の独自性を読み解き、克服することは、おそらくは必要なことであろうが、同時に、スタイルであり、規範であり、システムであることによって、それ自身は中立の装いを持っている。資本主義=「全面的な商品経済(宇野経済学派の見方)」が人間関係を「商品・貨幣に媒介された人間関係」に一面化してしまって「生身の・直対応の人間関係」を観えなくしてしまうのと似た、「信仰告白と礼拝に媒介された信頼関係」の外に存在する「自然と直対応する人間の想像力」を直視できない弱さを持っている。「ゴッド神の下にある」擬制と「スピリッツ神と共にある」擬制を乗り越えることを外せないのだ。これを受け入れることの出来ない「真面目な信仰者」という人間はイスラームに限らず、あらゆる空間に居る筈であって、これを超えた議論が難しいことははっきりしている。
 八番目、本当に「言」=話し言葉、「文」=書き言葉という言語(身振り言語も含む)の違いを克服しないで、「議論」など出来るのかという疑問がある。出来るというのは簡単だが、本当に出来るのか、という反問にどれだけ答えられるのかである。まして、「日本語」は書き言葉(中心的には漢字)に特別に大きく依拠している言語だ。同音異義語は文脈で「漢語」を思い出して了解する話し言葉だ。話す際の訛りよりも、頭の中に漢字を思い浮かべられるかどうかが勝負の話し言葉だ。これが、訛り=発音を大事にする言葉系と、ニュアンスの差を含めて「議論」出来るのか。言語が、信仰と同じく文明の核となる文化装置として人間を緊縛していることは明白であるが、「宗教間対話」という欺瞞ほどにも問題とされていない。標準語ができた過程や、英語が世界を席巻している状況は、軍事を核とした政治、経済力による覇権によって齎されているが、これが「議論」を制限する言語の壁とならざるを得ないのは想像に難くない。宗教の世界統一以上に難しい「言語の世界統一」以前の「言語を超えた議論」は、その方法を模索しなければならない課題である。
 九番目、広い意味での「知的障碍者」、「精神障碍者」、「精神病者」、「認知症病者」など、普通に我々の周りにいる、話が不得手の人間との話は時間がかかり、かつ、理解するのが難しい。焦っては何も話は出来ないが、しかし、テンポが違うことについての困難は、それが一見議論以前の問題に見える位だが、現実に遣っている医者は遣っている。医者から方法を学ぶ処から始めなければ為らないだろうが、おそらく事実として「議論」は難しいだろう。だが、古代から人間集団が必要としてきて、近世、近代が抑圧した知的感応集団群を形成する人々だ。近代を超克する知的可能性を持った人々との、難しいに決まっている議論は避けて通れない課題である。
 
四、難しいに決まっているのだからノンビリ始めよう
「議論は難しい」理由を列記してきた。難しいのだ。それは肝に銘じるより外はない。それを始めようというのだから構えるのも緊張するのも当然だ。だから、応援しようと言って下さっている方々には、お許しをお願いするとともに、緊張している同人諸氏にはのんびり遣って行こうと伝えたい。
私はやる気があるし、原稿の準備もしている。しかし、忙しく仕事が出来る玉でもないし、大きな仕事は焦らないのが心構えだ。儒家の真面目さを否定はしないが、理想は道家の桃源郷に遊ぶことだと謂う位の教養はある。あくせくしようとは思わない。仏家の諸行無常を噛み締めて解脱し、涅槃の境地に至るのが理想だとは当然思っていない。仏家の理路の厳しさと大きさには感心するが、なぜ、理路の出発が簡単なまま理説に溺れることが出来るのか解らない。難しいことを苦しい修行にしてはならない。
難しい話は鷹揚にしなければ為らないだろう。まして、難しい話をしようというのではなく、「議論」という「話の仕方」が難しいと言っているのだ。人との対峙する姿勢が難しい、と言っているのだ。緊張するのは当然だ。
だから、ノンビリ始めよう。少しずつ形を作って行こう。
始まったばかりだ。
以上
 
(にしけんじ)
(pubspace-x1236,2014.11.14)