ゾルゲ事件の端緒をめぐる諸問題

渡部富哉

 
満州日日新聞(昭和十二年一月二十一日号)
この資料の発掘によって、川合貞吉の著述した「満州国際諜報団事件」が、全くの虚構であることが分かった。(「翻訳集」第40号論文参照)
図1
 
「事件発覚の端緒」を追及して20年
 ゾルゲ・尾崎処刑70周年の本年は、また伊藤律の生誕100年でもあり、伊藤律が「ゾルゲ事件端緒説」を唯一の理由として共産党にスパイの烙印を押され、除名されてから60年目に当たる。
 そんな節目が重なる本年3月に、公開されたGHQ・G-2資料から、本日も講演される加藤哲郎(一橋大学名誉教授)によって、川合貞吉、尾崎秀樹、松本清張が流布してきた「伊藤律スパイ説」は特高捜査官によるデッチアゲであることを示す資料が発掘され、「伊藤律スパイ説を主張してきた川合貞吉こそG-2のスパイだったことが明らかにされた。(加藤哲郎著『ゾルゲ事件』平凡社新書)
 筆者は昨年、上海で行なわれた「上海国際赤色情報戦史国際フォーラム」(第7回ゾルゲ事件国際シンポジウム)で、当時の新聞記事を精査・検討して、当局に検挙された川合貞吉の自供によって、当局は上海時代の尾崎秀実と中共諜報団事件に関連する同志たちの活動の全貌を掴んでいたことを明らかにした。
 川合貞吉に関しては、これまで自著の『回想』(川合貞吉著『ある革命家の回想』431ページの「満州国際諜報団事件」の記述など)や、ゴードン・プランゲ(『ゾルゲ・東京を狙え』)による著作で、ゾルゲ事件関係者として「ただ一人黙秘を貫いた」英雄のごとき人物として世界に喧伝されてきた。
 川合貞吉は、尾崎の指令で「支那浪人」として右翼組織に潜り込み諜報活動をつづけてきたと自称し、「ゾルゲ諜報団の1員」としてまかり通ってきた。しかし、実際は北支の日本軍謀略機関にも居すわることが出来ずに、日本に帰国。その後、完全に特高警察の尾行と張り込みに囲い込まれて、生活の道を失い、生活費を尾崎秀実にたかり、ゆする日々を送ることとなったのが、実態だったのだ。
 戦中の川合貞吉については、「彼の死後7日目に語った妻からの聞き書」が遺されている。そこには、伝説と全くちがう川合貞吉の姿が語られている。
 冒頭に掲げた満州日日新聞(昭和12年1月21日付)の切り抜き資料は、昨年の上海シンポジウームで発表したものである。
 拙著『偽りの烙印』五月書房(1993年)は、「伊藤律のスパイ端緒説」を葬った最初の著作となったが、その後、20年を経過するなかで、とくに「日露歴史研究センター」の努力によって、次々にゾルゲ事件の端緒に絡んだ貴重な資料が発掘され、機関誌(「ゾルゲ事件外国語文献翻訳集」)に掲載されてきた。しかし、まだ紹介されていないゾルゲ事件の端緒に関連する貴重な資料のいくつかを以下に紹介したい。

山村八郎著『ソ連はすべてを知っていた』
伊藤律端緒説を否定する捜査の功労者の記述
 現代史資料 3『ゾルゲ事件(三)』の巻末付録「文献一覧」(尾崎秀樹)には、山村八郎著『ソ連はすべてを知っていた―ゾルゲ・尾崎事件赤裸の全貌』(紅林社、1949年6月)について、次のような解説が付けられている。

 「山村とはゾルゲ事件の捜査指揮にあたった中村絹次郎課長の筆名らしい。彼は戦後亡くなった警部高橋与助の遺族援助の意味もあって執筆出版したが、あまり話題にならなかった。しかし、当時出版されたもののなかでは一番正確である」(『ゾルゲ事件(三)』、714ページ)

図2 中村絹次郎は特高一課長に就任直後、「国際諜報団特別捜査班」の報告を聞いて小躍りした。特高一課長の中村は第一係長を自分が兼任し、第二係長に宮下弘を右翼担当から引き抜いて据えた。エリートの中村自身は捜査現場の直接指揮は出来ないから、捜査二課第一係にいた警部高橋与助を引き抜いて、第一係の筆頭警部として係長を代行させ、事実上のゾルゲ事件捜査の指揮を彼にゆだねた。
 一般には宮下弘が『特高の回想』を書いたことで、あたかも宮下の指揮によるものと思われがちだが、それはちがう。『偽りの烙印』(265ページ)に「ゾルゲ事件関係検挙者一覧表」を掲載している。その検挙者と担当の一覧をみると、殆どが中村絹次郎の第一係員であり、川合貞吉を調べた小俣健も伊藤律を担当した伊藤猛虎も第一係である。宮下弘の第二係は捜査協力は当然あったにしても、捜査の功績、表彰の対象にはなっていない。(「警視庁職員録」の項参照)
 高橋与助こそ事実上のゾルゲ事件捜査の功労者の一人だったのである。その高橋は敗戦後、間もなく死去してしまった。遺族の育英資金の一助に、上司の中村はこの著作を出版して高橋の功労にむくいたいと思った。「あまり話題にならなかった」のではなく、出版と同時に出版社が戦後の混乱のなかで倒産してしまい、市場には出ず、幻の名著となってしまった。同書には伊藤律端緒説を覆す重要な記述がある。

 「アメリカ共産党日本人部に所属していたある日本婦人が日本に帰国しているというとの事実が俊敏なる某警部の手に握られた。(中略)直ちにその女の居所であった渋谷区隠田2の74番地『LA洋裁学院』の周囲に鋭い監視の網が投げられ、警視庁特高課の腕利き刑事が受け持ち交番の巡査に化け、制服のまま戸口調査簿を抱えて、何食わぬ顔でその女と対面した。そしてアメリカから最近帰って来たこと、名前は北林トモということ、このLA洋裁学院で付近の女の子に洋裁を教えていること、夫芳三郎も近く米国から帰国の予定であること、夫の本籍地が和歌山県であること等々すっかり本人自身の口から調べ上げてしまった。
 獲物は確実に穫れた。獲物に感づかれてはならない。(中略)警視庁はこの獲物を利用することによってもっと大きな他の獲物を得ようと考えた。例によってこの獲物は捕らえられているということを全く知らされないままに警視庁の『囮』となった。この『囮』に近づいてくる他の獲物を発見し、何らかのまとまった組織を見いだすためにこの『囮』はどこえ行っても不断の監視の網で包んでおかなければならない。
図3
 まずLA洋裁学院の前にある一軒の家の二階が借りられ、ここに数人の刑事が身分を秘して間借人となり、交代で、夜となく、昼となく監視し、彼女の外出を尾行した。そのうち夫芳三郎が妻のあとを追ってアメリカから帰国し、間もなく夫婦は和歌山県粉河町の芳三郎の実家に引き揚げることになった。数人の間借り人もこの厄介な「囮」のあとを追い、粉河町で引き続き同じ方法で監視をつづけた」(『ソ連はすべてを知っていた』10ページ)

 拙著『偽りの烙印』の「粉河で監視をしていた特高小林義夫の証言は、この『囮』の監視についての貴重な証言である。尾崎秀樹は文献の注記に「当時出版されたもののなかでは一番正確である」と書きながら、この「囮」が監視された時期の確認を怠った。北林トモが帰国した時期から監視がはじまっていたとするならば、39年11月に検挙された伊藤律の供述が、ゾルゲ事件発覚の端緒になったとははいえないのではないか。(この問題点と検証の過程については拙著『偽りの烙印』をご覧ねがいたい)

「特高捜査員に対する褒賞上申書」
北林トモの監視を裏付ける画期的資料
図4 1998年、第1回ゾルゲ事件国際シンポジウムが東京で開催された。2年ごとにシンポジウムの開催が決められた。 2000年9月、第2回シンポジウムがモスクワで開かれ、KGB社会宗教局長、ウラジミール・イワノビチ・トマロフスキー氏が「ゾルゲ博士の現象 真実と虚構」と題する報告を行なった。
 トマロフスキー氏が報告の際依拠した資料は、旧満州関東憲兵司令部から何らかの経路で入手したもので、ゾルゲ事件摘発の功績に対する特高一課の関係者10人と外事課関係者41人に対する褒賞上申書であった。
図5 (経緯と詳細は、渡部富哉「伊藤律端緒説を覆す新しい資料がロシアで発掘される」『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、2003年、所収を参照のこと)
 外事課関係者の褒賞上申書対象者、当間素一(外事課欧米係)の「功績の記述」欄には、「北林トモの監視を行なった」ことが挙げられている。
 北林トモが和歌山県粉河に移住したのちの監視は、粉河署特高視察係の小林義夫が担当しているから、当間の北林トモに対する監視とは、すなわち渋谷区隠田のことであり、前掲書の記述を裏書きしている。「伊藤律から北林トモの名が漏れた」と特高宮下は言うが、事実経過は異なっている。北林トモの捜査は、その後外事課に移管され、和歌山県粉河署の小林義夫特高視察係が1年間も尾行、張り込みの監視体制を取った。しかし、特別な動きが見られず、宮下らが北林トモを検挙したのは、「遠くのほうから手をつける」という捜査の手法で、北林トモの検挙に踏み切ったというものだ。褒賞上申書の発見と「北林トモの監視を行なった」という小林義夫証言は、いずれも伊藤律端緒説を完全に否定する証拠となるものだ。

図aゾルゲ諜報団員、日本からの脱出を図る

 ポール・ヴケリッチは、ブランコ・ヴケリッチ(アバス通信社記者、ゾルゲ事件で無期懲役となり、1945年1月 13日、日本帝国主義の敗戦を待たずに、網走刑務所で死去)とエディット(ブランコとは後に離婚)の息子である。
 1996年、共同通信社は布施辰治が所蔵していた「国際共産党諜報団事件」についての記事を配信、相次いで全国的に報道された。(写真上、1996年3月31日付「福井新聞」、写真下、1996年4月 7日付「河北新報」記事)
 青森県八戸市に高校留学生としてホームスティしてしていた、ポール・ヴケリッチの娘ダイアンさんがその記事を偶然見つけた。彼女は祖父(ブランコ)のことについて関心を持っており、日本に滞在中もゾルゲ事件に関する資料を集めていた。その彼女から、筆者に電話があり、「オーストラリアに帰国するために、いま東京にきている」という。そのときは筆者の日程がつかず、ロバート・ワイマント氏(『引き裂かれたスパイゾルゲ』の著者)に連絡して、二人を引き合わせることができた。それから一年後、彼女からの聞き取りの記録が、ワイマント氏から送られてきた。
図b 東京でポールが住んでいた家はゾルゲ機関の無電基地となり、また母のエディットがゾルゲ・グループの活動に協力して、上海に伝書使として派遣された記録がある。彼ら母子も、当然、特高警察の厳重監視の対象になっていたはずだ。そのエディットが、息子のポールを連れて日本を脱出し、オーストラリアに移住したのは、ゾルゲ事件で最初に北林トモが検挙された3日前の、9月25日であった。当時、ゾルゲ機関員は全員、特高の監視下にあったはずである。ゾルゲには上海ルートで、緊急避難のルートが確保されていた(モスクワ資料による)。
 なぜ、エディットと息子だけが日本脱出に成功できたのか、それはどんなルートで可能になったのか。もし、彼らにその途があったのなら、ゾルゲ機関の他の者にもそれは可能だったはずではないか、という素朴な疑問が生じる。筆者は生き証人のポールから、どうしても当時の記憶の証言を得たいと思った。
まずポール・ヴケリッチの証言を聞こう。

■ブランコ(父)記憶は定かではない。エディス(エディット=母)と私は、戦争の脅威にさらされている日本を去ってエディスの妹ガドレン・オルソンのいるオーストラリアのフリマントルに移住したのは、私たちの故郷デンマークがドイツに占領されていたからだ。
図c ブランコ(父)とは、ほんの2~3年一緒に暮らしただけだった。時折、電車で私を学校に送ってくれた。母と私は、1941年9月25日、横浜を発った。本来は12~16人乗りのところに、英国人を主とした約400人の乗客を搭乗させたアンフェイ号という旧中国沿岸船に乗り、香港経由で西オーストラリアのフリマントルに向かった。出航前に、ブランコは私たちに別れを告げた。母と私は船内で唯一、英国人でも、米国人でもない乗客だった。母とティリスト・デンマーク大使の親交は、私たちがこの避難船にいる重要な要因であった。
 修理のために停泊していた香港で、乗船していた他のジャーナリストに紛れていたアグネス・スメドレーに会った。ゾルゲスパイ組織のメンバーであるアグネス・スメドレーは、そこで母を見たときに、幾分狼狽した。
 目黒の家に人が来たときには、私の列車セットがしまってあった最上階の部屋に通した。来客時には私は絶対にその部屋に入ることは許されなかった。かなり後になって無線メッセージが送信されていたのだということを知った。数匹のアフガン犬を飼っていた私たちの友人の一人である英国人は、憲兵隊に逮捕され、その結果自殺した。これは母にとって大きな衝撃であった。

■諜報団に関する母エディットからの伝聞
 私達が日本を去るにあたり、ゾルゲの組織と関係のある多くの写真が、母によって処分された。日本で、父が撮った数多くの私の写真からみてわかるように、父は熱心で、かつ優秀な写真家だった。
 1936年、母は私を引き取るために、私が3年間をともに過ごした叔母のインガと祖母のアナ・オルソンのいるデンマークのキューゲに戻ったが、クーリエ(伝書使)が日本に戻るための旅費と切符を持って現れた。私たちはシャルンホルスト号で海を渡った。この船は、後にドイツ海軍の小型戦艦になった。
■エディットのブランコへの評価
 エディットが妊娠したので、ブランコとエディットは結婚したが、恐らくこの結婚は決して幸せとなる運命ではなかった。二人はブランコが法律と建築を学んでいたパリのソルボンヌ大学で知り合った。エディットはオペアガールをしていた。この頃、ブランコはパリでプロボクシングの資格をとった。
■オーストラリア公安警察の訪問
 数回にわたってが訊問に訪れたが、母は日本におけるいかなるスパイ活動に関する情報もすべて否定した。私は日本での生活や、自分の日本人の友人のことについて、好意的に述べないように注意された。そして、さらに口数が少ないほうがいいとも言われた。へールスクールの学長もまた、当局の訪問を受けた。12歳の私にはこれは理解しがたかった。
■何時、何処で、父の死を知ったか。
 1945年、国際赤十字がブランコの死を電報で知らせてくれた。エディットは、一流の弁護士デビッド・アンダーソン(現在は判事)から、アメリカ人ライター、コールドン・ストラングが彼女に代わってゾルゲについての彼女なりの説明や思い出を書くという提案をもちかけられた。母は、自分はこの件については全く知らない、と主張した。

 この証言で判明したことは、尾崎秀樹が書いた以上に、ゾルゲ事件の端緒に絡む重要な事項が秘められている。ポールはエディットとデンマーク大使との親交に触れているが、ここに日本を脱出できた謎を解く鍵があるのではなかろうか。
 特高は、25日にエディット親子が横浜から乗船したことをすぐに掴んた。「エディット日本脱出」の情報は、明らかにゾルゲ・グループの日本脱出がはじまったと、当局側は危機を募らせたに違いない。ゾルゲ・グループの逮捕状の請求が、近衛内閣の倒壊と東条内閣の組閣のあわただしい深夜に行なわれた事情も、27日に北林トモが和歌山県粉河で逮捕された(28日に東京警視庁に留置された)事情も、「偶然が重なれば」などという不確実な要因ではなく、諜報機関員の国外脱出の緊急事態だと当局が判断したからに他ならない。
 ジャニス・マッキンノン&スティーブン・マッキンノン著『スメドレー・炎の生涯』(筑摩書房刊、1993年)によると、41年5月初めまで、スメドレーは香港にいたが、この年の5月下旬にロサンゼルスに帰っている。
 このポールの証言が間違いでなければ、スメドレーは再び香港に舞い戻って来たことになる。だとすれば東京のゾルゲ組織からスメドレーに何らかの連絡があってのことではないだろうか。
 戦時下、ブランコが獄死した事実が敵国オーストラアにいる親族に知らされた経緯も興味深い。
 クラウゼンの供述によると、エディット親子の旅費は、ゾルゲがモスクワ本部に請求して、駐日ソ連大使館のセルゲイ経由で、10月10日に500米ドルを受け取ったことになっている。エディットたちの日本脱出が9月25日であるから、誰かが立替えなければならなかった。
 モスクワ側資料には、エディットの手切れ金(ブランコとの離婚の対価)として、400ドル支払うようにモスクワに要求するゾルゲの電文を受け取ったクラウゼンが、安すぎるとして、これを500ドルに書き替えてモスクワに送信したという記録がある。この送信の4日後に、尾崎秀実は検挙されている。エディットの日本脱出は奇跡の一語につきるだろう。

ジョゼフ・ニューマン著『グッパイ・ジャパン』
衝撃を与えたジェームス・コックスの逮捕と死
 母エディットに大きな衝撃を与えた「私たちの友人の英国人が憲兵隊に逮捕され、自殺した」という事件とは、1940年7月29日、ロイター通信社東京支局長、ジェームス・コックスが、スパイの容疑で逮捕され、訊問されていた憲兵隊のビルの4階から飛び下り自殺した事件である。(自殺は31日)
図6
 この事件の記録は『昭和憲兵史』(みすず書房)、『憲兵秘録』(原書房)にも書かれているが、両者とも大谷敬二郎著であるから、記載内容はほとんど同じである。
図7 ポール・ヴケリッチの母に衝撃を与えたこの事件とゾルゲ機関はいかなる関係があったかは、明らかではない。ゾルゲ事件が摘発される1年前のことだ。
 『昭和憲兵史』によると、「コックスは英国大使クレーギーの手先、ドイツのゾルゲ記者(ゾルゲ事件の首謀者)とも親交があり」と記されているから、憲兵隊の捜査はこのころからゾルゲに対して疑惑の目を向けていたと思われる。
 新聞記事によると、コックスは神奈川県茅ヶ崎菱沼新井の別荘に住んでいた、という。ゾルゲ・グループの通信士マクス・クラウゼンが戦後、モスクワで応じた証言には、茅ヶ崎海岸近くに無線機を隠して海上から漁船に乗って通信したという記述がある。
 筆者はコックスとクラウゼンの関係を調べるために茅ヶ崎海岸を実地調査したことがある。戦前、この周辺には、別荘として多くの外国人が居住していた地区があったという。新聞記事(左)には、コックスの妻は、アニー・ゴリスというベルギー人で、数年前に交通事故で死んだ前妻は、ロシア人であったと書かれている。

図8伊藤三郎著『開戦前夜のグッパイ・ジャパン』
独ソ戦開始をスクープしたジョセフ・ニューマン
 さらに見逃せないのは、伊藤三郎著『開戦前夜の「グッパイ・ジャパン」あなたはスパイだったのですか?』(現代企画室、2010年)である。著者の伊藤はニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の東京支局長だったジョセフ・ニューマンと懇意になり、彼がゾルゲ機関のブランコ・ド・ヴケッリチ(アバス通信社記者)からの情報を得て、ヒトラー、ソ連侵攻へ東京は観測」という、独ソ開戦の3週間前に日本から発信した世紀の大スクープ記事の由来を取材した。著者は、ニューマン本人からの聞き書きと、彼が語ろうとはしなかった沈黙を、時代背景や交友関係に光を当てながら、外堀を埋めるように推理を重ね、ニューマンはスパイだったのか、ゾルゲ機関員ではなかったのか、という問題に迫っている。
 日米開戦の50日前の1941年10月15日に、日本政府が用意した(日米交換船)「龍田丸」に乗って「ハワイに旅行に出た」とニューマンは言っている。横浜港から出帆した当日、ニューマンに逮捕状がでたという。この前日、尾崎秀実が逮捕されている。
 これはポールたち母子の場合とどうちがうのか。山崎淑子(ヴケリッチ夫人)によると、ニューマンは「もう帰って来ない」「部屋の家具もどうぞご自由に」と言ったと夫(ブランコ)から聞いたことを証言している。
 筆者が注目したもう一つは「ニューマンはロシア系ユダヤ人だった」と書かれていることだ。この著作で伊藤三郎は、真珠湾攻撃のはじまる直前のニューマンの行動は「敵前逃亡」だったのか、と問いを立てているが、筆者はポール親子の事例から「国外退避命令」に従ったのだと思われる。360ページを越えるこの著書を一読の上、みなさんに判断していただきたい。
 
知られざる秘話・鈴木邦子のこと
―宮城与徳に仕掛けられた罠─
 
 ゾルゲを取り調べた大橋秀雄が1977年11月7日に発行した『真相ゾルゲ事件』(私家版)には、次のような記述が見られる。
 
図9 「特高一課で宮城与徳の取り調べ中に宮城与徳の関係者の中に警視庁外事課通訳鈴木邦子が登場してきたので、警視庁ではがく然として、同人の出勤を停止して極秘に取り調べた結果、宮城与徳と交際していたが、情報を提供した事実はないと認められて、事件記録から同人のことは抹消して、事件を検事局に送致後出勤を許された。この事は少数の者しか知らず、内密に伏せてあるが割り切れない疑問が多分にあった。
 鈴木通訳のことは宮城与徳の訊問調書にも、報告書や記録からも抹消されているが、唯一つスパイ団検挙直後に外事課で作成された報告書に記載されている。(中略)鈴木通訳はかって学内運動で検挙されたが、起訴保留となり、某氏(筆者注、特高・山県為三警部)の紹介で外事課嘱託通訳に採用されたが転向者であることは一般には隠されていた。私が外事課に転勤したのちに、鈴木通訳はかって私が検挙したことのある日本共産党員らと交際していることを知り更に課内で秘密文書を取扱うタイピストに接近しているのを見てその行動に疑問を持っていた。
 鈴木通訳は終戦後 GHQの通訳となり、更に防衛庁に転職したとのことである」(同書20~21ページ)

 宮下弘は、「…外事課の欧米班で、鈴木という英語がよくできた女性を嘱託として使っていた。これを紹介したのが元特高の山県警部で、鈴木はもと反帝同盟の一員だったのが、逮捕されて転向した。山県警部は大丈夫とみて、紹介したのですね。ところが、これが宮城与徳と接触があった。宮城のほうから危険とみて、連絡を切ったようなのですが。やはり宮城与徳と交渉があって情報をはこんでいたと疑える内閣情報局のタイピストの明峰美恵子は取り調べましたが、鈴木の場合は事実もはっきりせず、山県警部や外事課の顔をたてて、不問に付した」(『特高の回想』204~205ページ)と証言している。

「国際共産党諜報機関検挙報告」
 現代史資料24『ゾルゲ事件(四)』に収められている「国際共産党諜報機関検挙報告」(同書1~5ページ)に鈴木邦子についての記載がある。

 「此に於いて宮城与徳は同県人にして共産主義的傾向を有する八幡一郎及曾て共産主義運動を為したる事ありとて同人より紹介されたる鈴木邦子等に対し「非合法活動に入る意なきや」と打診したるに何れも情熱を失ひたる為、之に応ぜず、(以下略)」(『ゾルゲ事件(四)』3ページ)

 鈴木邦子は、情報を提供したことはないが、非合法活動を勧誘されたのちも引き続き宮城与徳と交際していたと記述されている。
 筆者はこれがゾルゲ事件の端緒の解明につながるのではと考えて、鈴木邦子に対する調査を始めた。
 その結果次のことが判明した。
図10
 上図の中央、書記局の宣伝部の3人の1人として鈴木邦子の名前が図示されると共に、次のコメントが記載されている。

 「鈴木初子(ママ)(津田英学塾卒業生)らを取り押さえ、これが取り調べをなしたるにいずれも学生にして未だ治安維持法により起訴する程度に達せざるを以て厳重戒諭の上釈放した」

 「支部準備の創立より反帝同盟日本支部創立にいたる経過」によると、反帝同盟日本支部準備会創立の頃よりそのメンバーであること、その組織図のなかに鈴木邦子の名が書記局、宣伝部に掲載されている。秋笹政之輔の下に戦争反対同盟委員会の幹部に鈴木小兵衛の名があり、宣伝部、堀内淳太郎、千秋広子と並んで鈴木邦子の名がある。(『社会運動の状況』昭和4年版、8ページ)

ゴードン・プランゲ著『ゾルゲ・東京を狙え!』
宮城与徳を取り調べた酒井刑事の証言
 ゴードン・ W・プランゲ著『ゾルゲ東京を狙え(下)』原書房、1985年、には、宮城与徳を監視して、逮捕・訊問に当たった特高、酒井刑事のインタビュー記事に、鈴木邦子と同じ人物とみられる鈴木きみ子の名が出てくる。

 「二人(特高の酒井保と高橋与助)はまた宮城の部屋で見付けた宮城に宛てた鈴木きみ子という女性からのラブレターのことを話し合った。その女性は特高の欧亜部の通訳であった。彼女は30歳で子供が1人いる離婚者であった。(中略)彼女は英語に通じタイプに堪能であったばかりでなく、共産党員のかつての仲間をよく知っていたので、特高はあえて彼女を雇っていたのであった。(中略)彼女が造反者だったとしたら、誰を信用したらよいのか?宮城は特高の内部まで手を延ばしていたのだろうか?
だが、その後の調査によると、鈴木きみ子と宮城のスパイ活動を結びつける何の証拠も発見できなかった。逮捕される前に宮城与徳は彼女が警察に勤めていることを知り、関係を絶っていた。彼女はとんでもない男と恋をした以上には、何の罪もないことが分かった」(上掲書、164ページ)

 ゴードン・プランゲがインタビューした酒井刑事とは、宮城与徳が訊問の際に死のダイビングを行なった直後に、そのあとを追って飛び下りた刑事である。酒井も宮下も「事実がはっきりしない」ので不問にしたと口裏をあわせているが、宮城与徳の逮捕のときの家宅捜査で鈴木きみ子(邦子)のの宮城宛ラブレターが発見されたことには、触れていない。

加藤哲郎著『ゾルゲ事件─覆された神話』
 『ゾルゲ事件─覆された神話』(平凡社新書、2014年)にも、鈴木邦子に関して次の様な記述がある。

 「米国陸軍情報部『秋山幸治ファイル』には、ゾルゲ事件で懲役7年の判決を受け45年に釈放された『アメリカ帰り』の秋山の戦後における米軍CISへの供述中に、宮城与徳の指揮下で和文資料の英訳に関わった秋山以外の『もう一人の女性』が出てくる。
 これは、現代史資料・ゾルゲ事件(四)』冒頭にでてくる『国際共産党諜報機関検挙報告』中で『鈴木邦子』と名前のみいったん出て、以後裁判記録から抹消される女性のことである。(中略)鈴木邦子が宮城与徳との『交際』を通じて、宮城や北林トモの情報を収集していた可能性も排除できない。なお、山本武利早稲田大学名誉教授が発見した国立国会図書館憲政資料室所蔵『戦後CCD(GHQ民間検閲局)に勤務した日本人リスト』約4千人中に、48年6月、同9月、49年3月の名簿に「Suzuki Kuniko」の名前が出てくるが、あまりにありふれた名前で、同一人物とは確認できない。(山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(岩波現代全書、2013年、参照)」

「警視庁職員録」の調査から浮上するもの

 昭和10年5月の警視庁職員録には、鈴木邦子の名前はない。昭和11年5月の警視庁職員録の外事課欧米係に、初めて鈴木邦子(愛媛)の名前が出てくる。そのときの外事係長は、庵谷治家(ゾルゲ事件当時、ゾルゲが居住する鳥井坂警察署長)、特高課長は毛利基。(「警視庁職員録」参照)以後敗戦まで、鈴木邦子は特高外事課に在籍している。以上の資料から言えることを、①~⑨項目にまとめてみた。

① 鈴木邦子の警視庁外事課への紹介は、山県為三警部である。山県も庵谷も毛利基の直弟子という関係である。のちに毛利基特高課長は、外事課を監督する上部の外事課理事官に就任している。
② 「宮城与徳のところから鈴木のラブレターが出てきた」ということは、宮城与徳は彼女との連絡を断ち切ったどころか、交際が続いていたことを示す。
③ 「かつての仲間をよく知っていたということで、鈴木邦子を雇った」ということは、鈴木邦子は警視庁の職業的スパイだったことを示している。戦後、インタビューに応じた特高酒井の証言も、これを裏書きしている。
④ 鈴木邦子は起訴されなかったと言う。『特高月報』の検挙者記録にも記載はない。
⑤ 宮下弘の著作(聞き手伊藤隆・中村智子『特高の回想宮下弘ある時代の証言』田端書店、1978年6月)で、「内閣情報局の嘱託タイピスト明峰美枝子も、たしか久津見(房子)の紹介で、宮城のために情報を運んでい
た」(『特高の回想』208ページ)と言及したのは、大橋秀雄が『真相ゾルゲ事件』(私家版、77年11月)の「事件発覚の端緒」の項で「警視庁外事課員の登場」として、鈴木邦子の名前を発表したためだと思われる。
⑥ ゾルゲ事件を経て、敗戦まで鈴木邦子が警視庁に勤められたということは、宮城与徳との関係が多少なりとも疑われるなら、ありえないことである。裏返して言うならば、そのことは彼女の功績が認められた結果である。
⑦ 「国際共産党諜報機関検挙報告」で、鈴木邦子を宮城与徳に紹介したのは八幡一郎(旧名、仲井間一郎。東京帝国大学文学部社会学科卒。東京市主事)だと記述されている。八幡は鈴木邦子が警視庁に勤務していたことを知らなかったのだろうか。恐らくそんなことはないだろうと思われる。この「検挙報告」に「共産主義的傾向を有する」と書かれた八幡(当時、東京市役所福利係長)は、勤務先の飯田橋職業紹介所の応接室で、ゾルゲと宮城与徳が連絡を取った、との回想がある。彼は、「事件後発表されたゾルゲの写真を見て、ゾルゲだと確認した」というのだが、それは嘘だ。警保局は、ゾルゲ事件の新聞発表にゾルゲの写真を一切掲載しないことを、決めている。恐らく事件摘発前に、特高は八幡に面会を求め、写真でゾルゲの確認をしたと思われる。そのことから判断すると、八幡は鈴木邦子の身元(警視庁外事課勤務)を承知の上で宮城与徳に紹介したのではないか。宮城と鈴木は二人とも独身者だった。ハニートラップ説の所以である。
⑧ 沖縄民権の会会報「沖縄民権」第10号には、次の様な記載がある。
「その頃八幡一郎は、飯田橋職業紹介所の所長だった。宮城与徳は沖縄師範の同窓ということで面識があった。ある日、宮城が外人と会うから所長室を借りたいと訪ねてきた。八幡一郎は気軽に承諾した。後日、ゾルゲ事件の詳細が新聞に発表された。記事を読んでいた八幡一郎の顔色が変って行った。スパイ事件の首謀者として(宮城の名が)新聞に出ている」
⑨ 鈴木邦子の名が「警視庁職員録」に登場するのは昭和10年以後(昭和10年5月には名前はない)昭和11年5月に初めて名前が登載される。この間それに見合う功績があった。特高1課で利用価値があると認められた可能性がある。昭和11年はゾルゲ事件でいうと、同年12月に北林トモが米国より帰国した年である。北林からの線とすると青柳喜久代―新井静子(東京女子大)の線か、青柳の姉(池袋で喫茶店を経営)は、江東区方面で活動していたから、その関係の可能性はある。宮城与徳の線からとすると八幡一郎の可能性があるが、八幡がどうして鈴木邦子を知ったのかは、謎だ。
⑩ 小林五郎著『特高警察秘録』(生活新社)にも鈴木邦子に関する記録があるが、見るべきものはない。

「端緒をめぐる謎」の追及は続く

 以上はゾルゲ事件の端緒をめぐる問題として非常に重要な関連情報の一部であるが、筆者は、さらに、ゾルゲ事件の端緒をめぐって、未解明のまま今日に至っている問題について報告するつもりである。
 それは安田徳太郎と松本三益の間で裁判問題にまで展開しながら、弁護士守屋典郎が『文化評論』(1976年6月号)誌上で「聞き書きと戦前史の真実」を発表することでうやむやになってしまった問題である。この謎を解く鍵は、松本三益が「満州共産党事件」で権力側と取引したとする点にある。その「満州共産党事件」とは何であったのか?松本三益が当局と取引したという事実は、ゾルゲ事件とどう関わってくるのか?筆者が石堂清倫(故人)の激励と依託をうけて調査を進めた成果を報告する。
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図11
 
わたべとみや社会運動資料センター代表
(pubspace-x1173,2014.11.12)