微罪か重罪か――『ドロボービルのものがたり』

森忠明

 
   この三年間に三回財布を拾って交番に届けたら妻に軽蔑された。「物欲しげに下ばかり見て歩いてるんでしょ」というのである。
   私はミッドナイト・ハイキングと称する夜歩きの習慣があり、三回ともその途中で拾った。現金だけを引きぬいて捨ててしまおうかと思った。しかし、運転免許証の顔写真が我が子みたいに幼かったり、給与明細書が入っていたりすると、いじらしくなって、つい届けてしまう。ネコババしたほうが楽なのだ。なぜって、交番では住所氏名年齢と、拾った時間と場所をきかれるほかに、持ち主が現れない場合のこととかを教示されるし、ほめてもくれないからだ。
   二回目の夜、若い巡査に「職業は」と問われたので「文筆業」と答えたら「鉛筆業?」と彼は聞き違えた。まあ鉛筆を握ってする仕事でもあり、訂正しなかった。
   善行なのに、なんだか泥棒でもしたような自己嫌悪が残るのは、私が善人にも悪人にもなりきれないせいだろう。うしろめたさなどとは関係なくネコババできる者がいたら会ってみたい。

   子どもの頃の私は堂々と盗みをはたらいていたのだった。地主さんちの庭園に行き、無断でそこのこけをひっぺがし、自分ちに持ってきて箱庭作りの材料とした。日本国憲法第二九条財産権の不可侵および第三五条住居の不可侵を破ったわけである。
   登校拒否(小五—小六)の私は、苔のビロード以上のなめらかさや深い緑のうるおいの、えも言われぬ快美に、最大のなぐさめを感じていた。思えばあれは箱庭療法のハシリだったのではなかろうか。坊っちゃん刈りに半ズボンの私が、苔をいじっている写真が一枚ある。一人息子の挫折を案じつつ母はシヤッターを押したのだ。
   「広辞苑」は当然載ってなくてはならない語が載っていない不思議な辞典だけれど、箱庭についての説明は他の字引の説明より風情があって良い。二行半のうちの最後の部分はこうだ。―〈おもに夏季の慰み。石台〉。
   今流行のいやしということばには、自愛過多のような病院臭いような響きがある。心の悩みは生ある限り完全に癒されることがないと知っている人は、慰み(気散じ)程度で手を打ち、なにがなんでも癒しきろうとは思わないはずだ。
   ともかく、苔いじりの慰みはデスペレートな森少年を救ってくれた。苔のほかには諏訪神社の玉砂利を十個ほど拝借して箱庭の一景に使用したが、それは石泥棒になるのだろうか。
   鳥栖市出身の作家園田英樹氏は、ベルギーへ旅した折、画家ルーベンス邸の庭石(といっても豆粒大の)一個を、靴のひもを結ぶふりをして失敬し、私への土産とした。これは微罪であろうか。重罪だとしたら、いつか私がベルギーへ行き、そっと返してこよう。

   『ドロボービルのものがたり』(ジャネット&アラン・アルバーグ・作、佐野洋子・訳、文化出版局、本体一一〇〇円、九七年二月刊)の主人公ビルは、一晩に十六軒もの家に推参してパクられたりしないのだから、本邦の有名な白波たちも脱帽するだろう。でも、このイギリスの中年怪盗はルパンみたいに垢抜けてはいない。トランクに赤ん坊が入っていると気づかずに盗みだし、面倒をみる破目になる。ある夜、その赤ん坊の母ベティが、ビルの家だと知らずに忍び込む。ビルはこわごわ誰何すいか。「わたし、ドロボーのべティ」。噂にきいて尊敬しあっていた二人は意気投合。「あのな、ベティ。ドロボーに入られるって、すごくこわいもんだな」「あかちゃんがいなくなるのも、とてもおそろしかったわ」なんて言って足を洗い、結婚してしまう。盗品を元あったところに返すという結末はつまらないが、幼年版ピカレスクのとぼけた世界と俳味ある洒脱な絵が、読者の心を軽快にするだろう。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(編集のミスにより「本体一一◦◦円」となっていたものを「本体一一〇〇円」に訂正させていただきました。——公共空間編集部、2024.07.30)
 
(pubspace-x11565,2024.06.30)