ヘーゲルを読む 補遺-2 「否定の否定」について(2)

高橋一行

補遺-1より続く

「論理学」を読む。『大論理学』初版も使う。
「存在論」では、定在から、あるものと否定性、他在、対他存在までを追い、さらにその後の、悪無限と無限のところが読解のポイントとなる。
また、本質論や概念論でも、「否定の否定」は使われる。さらにその論理が、『精神現象学』の無限判断論と、どう、その展開が異なるのか、こういったことが、問題意識としてある。
 
あらすじを頭に入れるために、先に、『小論理学』を読む。
すでに、最初の存在のところで、存在は否定的なもので、すなわちそれは無であると言われる。そして、この存在と無の最初の統一が成であり、しかし成は、自己内の存在と無とを抱えて、自己矛盾をしており、その存在と無とが、止揚されると、そこに成立するのが、定存在である。
定存在は、あるものとして、質という規定性を持つ。この規定は、同時に否定である。この否定性が他在である。この規定性は、また、限界とか、制限と呼ばれ、他在は、定在そのもののモメントであるとされる。つまり、定在はあるもので、このあるものは、他のものになり得る。そしてまた、他のものは、またその他のものになる。かくして変化は、無限に続く。この無限は、悪無限、または否定的な無限と呼ばれる。しかしこの悪無限の中で、つまり、あるものが他のものになり、他のものがさらに他のものになるという変化の中で、あるものは、実は自己自身に関係しており、他のものという否定的なものが、さらに否定されて、つまり「否定の否定」があって、存在が復活し、この存在が対他存在と呼ばれる。
 
 さて、これを、『大論理学』(初版)と、比較する。すでに、補遺-1でも書いたが、このあたりは、初版の方が、論理展開が優れているからである。
 
 『小論理学』では、「否定の否定」は一回限りでなされるが、『大論理学』は、さすがにもっと精密で、「否定の否定」は何度も繰り返される。補遺-1で少しだけ触れたが、まず、定在は、規定された存在であり、この「規定された」ということが、否定の契機になる。つまり、定在は、存在の契機と否定の契機とを、併せ持っている。この否定の契機は、非存在と呼ばれる。定在がそもそも、存在と無との統一として現れるのだが、その定在もまた、定在と非定在と、二種類の定在を併せ持っているのである。そしてこの非定在もまた定在であって、それは他在と呼ばれる。他在は、否定的関係を自己の内に持つ定在である。
この他在は、他者であるとみなして良い。そして定在は、他者を自己の内に含んでいて、その他者へと移行するのである。他在は、定在の中にあり、かつ、定在とは別の存在である。
ここから、他在は、対他存在であると、言われることになる。他在は、自己の内に含む否定的関係によって、自分がそこに由来する定在と関係する定在であり、ゆえに、対他存在と呼ばれるのである。
この、非在、他在、対他存在が、定在にとって、否定的なものであり、さらに定在は、これらの否定的なものをもう一度、否定することで、定在するものとなる。まず、ここで一度、「否定の否定」がなされている。定在は、これら否定的なものを、止揚して、否定的な統一を獲得する。
 
 さらに、『小論理学』では、限界と制限は同じものとして扱われているが、そこも、『大論理学』では、区別され、そこにもやはり「否定の否定」があり、結論を先走りすると、そこに当為が成立する。具体的には、定在は、あるものとして、規定されていて、それは限界の内にのみ、自己のもとにあるのだが、その限界は、その非定在として規定されている限界であって、それは制限と呼ばれる。「制限とは、反省された限界である」とヘーゲルは言う。そして限界が制限であるためには、定在は、限界を超えて行かねばならない。定在が自らの規定を超えて行く、その運動が、「・・・すべし」という当為である。当為は反省された規定であり、当為という否定は、制限として規定されている「否定の否定」である。
 
 ここから無限が導出される。定在は、当為として有限である。そしてこの、有限なものが、有限なものを克服しようとする運動が記述される。有限なものは、自己を克服し、つまり、有限ではなくなり、つまり、無限に至るのだが、しかしかくして得られた無限は、まだ有限なものと並ぶものでしかなく、これをヘーゲルは、悪無限と呼ぶ。問題は、この悪無限からどのようにして、真無限に至るのかということである。
ここでも、「否定の否定」の論理が使われる。まず、有限なものは、定在であるが、非在、他在、対他存在を経て、再び、有限なものは、他在の他在として、否定的自己関係が成り立ち、そのことで、有限性が克服されるという展開になっている。自己を止揚する運動の中に、否定的自己関係が成り立つことで、無限が成立する。有限なものは、当為としてあり、すなわち自己を止揚する運動そのものであり、従って、有限なものは、まさに無限である。
 
 『小論理学』の説明では、あるものが他のものになり、さらに他のものが別の他のものになり、そこに悪無限の変転があり、しかし、その変転の中で、あるものは、他のものに自己を見出し、そのために、その悪無限の運動は真無限になるという説明がなされていて、それはアウトラインとしては、その通りである。
 しかし『大論理学』では、その運動は、三回繰り返される。実は、その三回の運動は、同じもので、それが、別の観点から繰り返されるだけなのだが、しかしそのことはていねいに見なければならない。まず、定在が他在になり、再び、定在になるという運動があり、それが第一回目である。続いて、それは、定在の中にある規定が否定され、さらに当為となって、限界を超えて行く運動であり、これが第二回目のもので、最後に、その運動が、今度は、有限な運動の止揚としての無限の運動であるという説明が行われる。
 
 次のことを確認する。定在が他在になる、つまり、自己が他者になるのが、第一段階であり、これは、「存在論」の領域における過程であり、次に、自己と他者への反証が論じられ、これは、「本質論」の過程をすでに、先取りしている。そして最後に、「否定の否定」を通じて、無限に至るのだが、これは、「概念論」の領域の過程を示している。つまり、この定在のところで、すでに、「論理学」の全体が凝縮されている。
 このことは次のことを意味する。『小論理学』161節で明言されているように、「存在論」、「本質論」、「概念論」の過程は、他者への移行、他者への反照、そして発展である。「否定の否定」は、発展の論理である。そしてこれによって、無限が成立する。すると、補遺-1のエンゲルスの説明が、歯切れが悪いように思われるのだが、しかし、実は、相当に正しくて、本来、「否定の否定」、すなわち無限を導出する原理は、概念論の論理なのである。しかし「存在論」の定在の箇所で、すでに説明がされて、それが、「本質論」と「概念論」で繰り返される。そう考えるべきである。
 さらに、次のことが言える。無限は、ヘーゲルにとって、中心的な議論で、これが、なぜ、「存在論」で扱われるのか、つまり、ヘーゲルの叙述は、後になって出来るものほど、真理性の基準において、高いものとされるのだが、無限がなぜ、「論理学」の第一部で扱われるのかという問題にも答えることができる。
 
 さて以上、ヘーゲルに即して、論じた上で、ここで、拙論に近付けて、以上のことを振り返ってみる。
 まず、自己が他者になるのだが、そのことは、他者性が自己の中にあるということを示している。そのことが明らかになって、他者が他者として出現する。しかし、他者は他者であって、自己ではなく、それは自己を否定するものであり、自己と対立するものである。しかしそういう他者がなくしては、自己は成立しない。この他者こそが、自己を成立させるものであることが分かる。そういう論理がここにはある。
次に、自己と他者の関係が、すでに無限の概念を胚胎しているということも分かる。ヘーゲルの持って行き方としては、最初の否定は、必ずや「否定の否定」に至るのであり、最初の否定たる他者と自己との関係は、すでに、「否定の否定」の後の、無限概念を潜在的には持っていることが分かる。つまり、自他の関係性は、無限を内在している。
第三に、有限の運動は悪無限を生み、しかしその運動が、否定的自己関係であることが分かると、真無限になるのだが、しかし、悪無限と真無限とどこが異なるのか。実は何も異ならない。悪無限は、すでに真無限である。その間に、何の進展もないからである。単に、実は、そこに、すでに、自己関係があったということが、後になってみて分かるということだけの話である。だから悪無限が出て来た段階で、すでに、真無限は成立しているのである。
 
 もうひとつ、言葉として無限が出て来るのは、「概念論」の無限判断の説明においてである。しかし、「論理学」の説明では、無限判断から無限概念が出て来るのではない。『精神現象学』では、中心的な役割を担っていた無限判断が、ここでは、位置付けが低くなっている。このことは、無限の位置付けが、「論理学」では、低くなっているとされていることと関わる。つまり、無限判断では限界があって、無限に至らないという説明が、『精神現象学』では、繰り返され、そのために、かえって、無限に至る直前には、無限判断が必ず現れるということに気付かされ、そしてさらに、実はもうすでに、無限判断で無限に至っているのではないかということにまで、思いが至る。そういう説明なのに、その役割は、「論理学」では、悪無限が担っている。つまり、先に書いたように、無限が「存在論」で扱われており、そこでは、直前に悪無限の概念が出て来て、しかし、悪無限ではだめだから、真無限に至るのだという説明があり、しかし却って、その悪無限の強調から、すでに、もう悪無限で、真無限に至っているのではないかということが、そこに読み取れるのである。
 そして、無限判断の説明は、「概念論」の判断論でなされる。それは、元来結び付かないものを強引に結び付けるという、『精神現象学』の無限判断と違って、しかし、「論理学」では、カントの超越論的論理学に従って説明がなされていて、つまり、無限判断は、肯定判断、否定判断の次に出て来ており、大分、分かりやすくなっている。
 しかし繰り返すが、無限概念の直前に出て来る訳ではないので、その比重は軽くなっていると言うべきである。つまり、カントの判断表に倣って、判断の形式がたくさん並べられており、その中のひとつに過ぎないという印象はある。
また、私自身も、「論理学」の分析から、無限判断論の重要性に気付いたのではない。『法哲学』の所有論から、所有の概念が、それぞれ肯定判断、否定判断、無限判断に対応し、かつ、最後の無限判断から来る所有の定義が、最も所有の概念を適切に表すものだから、そこから、無限判断の重要性に気付く。そういう順である。
 しかも、「論理学」では、判断、つまり、「個別は普遍である」という言明では、不十分であり、「個別は特殊を通じて、普遍と、推理的に連結される」とならなければならないと持って行くのに対し、『法哲学』は、無限判断的な所有の定義から、あとは、社会的諸関係が導き出されるという仕組みで、無限判断の重要性は決定的である。『法哲学』で所有概念の分析をして初めて、無限判断論の重要性に気付く所以である。
 具体的に言えば、次のようになる。前二著で説明したことを、以上の分析の上で、さらに、敷衍して見る。
 「私は、この物件の所有者である」というのが、最初の肯定判断である。「私は(この物件を使用し、消尽したので、もはや)、この物件の所有者ではない」というのが、次の否定判断である。しかし同時に、そこには、「私は(この物件を使用し得たということは、実は)、この物件の所有者であった」からだ、ということが含意されている。そしてさらに、無限判断においては、「私は(この物件を交換・売買・贈与したので、もはや)、この物件の所有者ではない」が、しかし同時に、ここでも、「私は(この物件を交換・売買・贈与し得たということは、実は)、この物件の所有者であった」となる。
 物件を使用したので、なくなってしまったが、しかし使用できたのは、所有していたからだというのは、否定判断が、実は、肯定判断を表している、つまり否定が肯定を含み持つということに他ならない。ヘーゲルは、すでに、否定判断において、肯定判断が否定されているだけでなく、すでに、「否定の否定」がなされていると言う。つまり、「私は、この物件の所有者である」という判断が否定されて、「私は、この物件の所有者でない」という判断になり、しかしそれは、「私は、この物件の所有者であった」と、再び肯定を意味するからで、ヘーゲルは、「無限な自分自身への復帰」と表現している。
 さて、そこからさらに、無限判断に進む。ここで否定は徹底しており、また、その肯定性も強められている。物件の使用において、そこでは、使用価値がなくなるのだが、物件の交換・譲渡・売買においては、社会的な諸関係の中で、価値が現れ、所有者は、完全に、その物件の所有者ではなくなる。しかし、そのことで、社会が成立し、その中で、私は、その物件の所有者であったという承認が得られ、そのことで、私の主体性が確立する。同時に、無限判断は、放棄することで、所有するという、所有の持つパラドックスを表している。そのパラドックスこそが、着目されるべきである。
 しかし、この判断表は、「論理学」に忠実なものではない。『大論理学』では、無限判断は、ふたつ挙げられており、否定的無限判断は、例えば、泥棒のように、「悪い行為」であり、民事訴訟のおいては、単にその所有が否定され、法が破られているだけだが、そこにおいては、法が法として否定されている。そういう例を出している。しかし、私が、上の例で考えるべきは、ヘーゲルが、もうひとつの無限判断として挙げている、肯定的無限判断であり、その具体例を、ヘーゲルは挙げていない。これは後に、ヘーゲルが『法哲学』を講じるようになって、始めて、明確になったことなのだと思う。
 
 以上の分析の後では、先の補遺-1の、マルクス主義の言説は、ずいぶんと大雑把に見える。
 
 次のようにまとめることができるか。イェーナ期には、無限判断論と「否定の否定」の発想と両方ある。しかし、形式的には、後者に比重がある。そして、1812年以降、完全に、後者の方に比重がある。以上の説は、一応、認めてみる。
 そうすると、しかし、1807年の『精神現象学』では、前者の方にも、結構比重があるということになる。と言うのも、この作品は、『エンチュクロペディー』の体系の体裁をとっていないからだ。しかし、後者の発想も、当然のことながら、十分にある。マルクスとエンゲルスなど、後世には、後者のみが重視される。と言うのも、体系期のヘーゲルがそうだとされて来て、そこから、『精神現象学』が読まれるからだ。
 しかし、本当は、次のように言うべきではないのか。つまり、「否定の否定」は肯定であるが、同時に、否定の徹底でもあると、私は今まで書いてきた。だから、無限判断論的発想と「否定の否定」の発想があるのではなく、否定の徹底と、肯定のどちらに力点があるのかということが問題になるべきだと思う。
 その上で、さらに踏み込んで、否定の徹底こそを肯定と呼ぶ、ないしは、そもそも否定が肯定を支えているというところまで、言及すべきだ。
 
 形式的に言えば、『大論理学』(概念論は1816)で、大幅に、無限判断の機能が縮小し、「小論理学」(ベルリン版)では、さらに、その役割が減っている。 
 しかし、無限判断は、『法哲学』などに、頻出する。拙論で取り上げた所有論は、その典型である。ここで、所有の放棄が、所有であるという考え方は、「論理学」の無限判断論から来ているから、肯定判断、否定判断と続く、「否定の否定」であり、それは否定の徹底である。しかし同時に、所有主体と所有物の強引な結び付きでもある。そうすると、ここで、逆に、『精神現象学』の無限判断論、つまり、二者の強引な結び付きも、実は「否定の否定」であることが分かる。つまり、他者は最初の否定であり、それとの結び付きは、「否定の否定」に他ならない。事実、『精神現象学』での記述を追えば、そのことは容易に確認できる。
 結論として、無限判断は、「否定の否定」であり、それはしかし、ヘーゲルの記述に従えば、推理的連結ではないので、真の結び付きではなく、つまり、強引な、媒介のない結び付きであり、従って、単に、否定を徹底したに過ぎず、肯定に至らないが、しかし、私は、その否定の徹底こそが、肯定なのだと解釈する。また、同じことなのだが、悪無限は、自己と他者との結び付きが、真になされていない、有限な関係なのだが、しかし、その中にすでに、真無限が宿されていると考えるべきで、悪無限はすでに真無限である。このことと、無限判断がすでに推理的連結を宿しているということは、単なるアナロジーでなく、本質的に、このふたつの関係は同じものと見て良く、それはヘーゲル論理学において、根本的なものである。
 すると、「論理学」で、無限判断の位置付けは大きく減じていると書いたが、このことは、無限の役割が、「論理学」で減じていると言われることと関係していることが分かる。そしてすでに、私は、無限は、確かに、「存在論」で扱われるが、その後の、「本質論」や「概念論」でも、重要な役割を担い、「論理学」全体のキーワードであると指摘したが、このことと同じである。すでに、悪無限が無限判断である。つまり、無限が現れる際には、常に無限判断が現れていて、それは、『精神現象学』と同じである。同書では、明示的に、無限判断という言葉が使われているから、分かりやすいが、その他の著作でも、同じことが言える。
もうひとつ考えるべきことがある。「存在は無である」という、「論理学」の最初の判断は、無限判断か。金子武蔵のように、無限判断の定義を広げなくても(換位できるもの)、この判断では、結び付かないものが強引に結び付けられており、さらに、その真理が定在になるのだから、これは、もう無限判断である。とすれば、「論理学」は無限判断から出来上がっているのである。
 しかしこれは、「論理学」の最も重要なキーワードが否定であり、その否定は必ずや、「否定の否定」に至るということを考えれば、当然ともいうべきである。
 
参考文献
すべて、すでに、補遺-1で出て来ている。新しいものはない。
(たかはしかずゆき 哲学者)
補遺-3へ続く