森忠明
前回に続いて父親というものを考えたい。三月二十二日、娘の卒園式に列席すると、修了証書は母子がペアで園長から受け取る仕儀になっていた。川の字が立った形で受け取るのが最善なのに、パパたちは皆ビデオカメラ係だった。
よく考えれば、父と母と子の安定しすぎたトライアングル構図よりも、母子だけのほうが絵になりそうだし、父とか神は本来〈欠如的に昭示される〉ものかもしれない。
父子像が絵になる場合というのは、悲劇性を帯びた時のような気がする。古くは葛西善蔵の私小説「子をつれて」やアントニオーニの映画「さすらい」などが思い浮かぶ。
私もコンパクトカメラで妻子の晴れ姿? をパチパチ撮ったけれど、どうも自分があの女の夫で、あの娘の生物学的ならびに精神的父親だ、との確信を持てない。持てないからパチパチやるのだろう。
私の父も私にとってはなんだか怪しげな存在だ、と前回書いた。四十八年間もつきあいながら、実父らしい実感が薄いのである。
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小学四年生の秋だったと思う。学校をサボった私は三越寄席に行った。手品のアダチ竜光氏のあと、ややシケた感じの猫背のおじさんが、つまらなそうに登場した。漫談家の牧野周一氏だった。芸の内容は全く覚えていない。しかし、その人の姿と声に接した時の、ひじょうに懐かしいような、肉親以上の肉親と出会ったような喜悦と興奮は、今でも容易にリコールできる。あれは私の “理想の父” との出会いだった、と言い切りたい。
それから十四年後の一九七三年。二十四歳の私は〈牧野周一漫談教室〉の生徒になった。若い生徒は二人だけで他の五、六人はセミプロの老人たちだった。大学を中退して新日本文学学校へ通い、黒井千次氏らの講義を受ける一方、 “生きた文学としての漫談” から人生を学ぼうと考えたのである。
牧野氏は想像通りの素敵な人だった。私の即興小話をほめちぎり、月謝(月二回授業で一万円)を半額にしてくれた。
「昔あなたみたいな東京ふうの話をする○○という男がいまして、とてもいい味でしたけど、早死にしちゃってね。あなたは今の線で行きなさい。そういうの大変けっこう」
セミプロの方々の嫉視もなんのその、私は有頂天。本気で漫談家になろうとした。が、二年後、師は七十歳で死去。私はまた中退した。
昨日、この原稿を書くために図書館へ行き、「日本芸能人名事典」(三省堂)をみていささかびっくり。師は私が大好きだった父方の祖母と同じ町の出身だったのである。
“理想の父” に甘えることはできなかったが、牧野周一最後の弟子(自称)たる私には “指パッチン” ポール牧氏と “やんなっちゃった節” 牧伸二氏という、二大兄弟子がいる。そう思うと楽しいではありませんか。
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『とうちゃん』(たかはしけいこ・詩、織茂恭子・絵、教育出版センタ、一二〇〇円、九七年三月刊)は、親子関係なるものの光と闇、天国性と地獄性を〈醒めていて熱い〉言葉で見事に定着。凄玉の詩人の仕事である。少年詩とよばれるジャンルは文学の最高形態だ、というのが私の思い込みだ。技巧はもちろん、人格と芸格の高さが必須。巨匠まど・みちお氏でさえ〈まだ未知男〉と署名せざるをえない難しい世界なので、あだやおろそかに手はだせない。たかはしけいこ氏は久しぶりに現れた大物だろう。
詩集の前半、夢のように幸せな父と娘の情好を描いた詩は、一見凡庸な早期回想作品だが、ホームレス老人に自分の老父を重ねた作品「父」まで読み進むと、その凡庸と思われた明るい詩群との落差によって、戦慄に似た感動におそわれる。親子の「絆は決して切れる事はないけれども、それはゆるむ」(D・H・ロレンス)のである。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x10654,2023.11.30)