百円ハウス――『木の上のお城』

森忠明

 
   胎内回帰願望か退却神経症か分からないが、八歳前後の頃、私は“かくれが”作りに凝った。場所は国立立川病院と米軍基地にはさまれた原っぱ。深さ一㍍くらいの穴を掘り、その上を古トタンや草でおおった至極簡単なやつである。座位屈葬スタイルでじっとしていると実に幸せなのだった。
   大人たちが定めた規則や浅ましい言動から遠離り、夢野久作(ぼんやり者)をしていた少年。
   聖徳太子は一族郎党から隔たった隠処こもりどで、独りメディテーションしたそうだけれど、ただぼんやりと過ごす時間もあったろうし、少年のような心細さを感じることもあったはずだ。前に私は閉所恐怖症の気があると書いた。正確に言うと、閉所に他者が居なければ狭い空間はかえって望ましい。

   十一歳頃の憧れの住みかは、近所にたっていた百円ハウス(通称)という素泊まり百円の宿。三畳一間。昭和三十年代とはいえ激安である。独身者なのか出稼ぎの父親なのか、ござっぱりした男が一人で暮らしているのは好ましい光景だった。
   滑走路のはずれの広場へ野球に出かける時、百円ハウスの裏を通る。晴天の日には一階の窓のうち三つ四つは開いていて、仕事がないのか怠けていたのか、大の字になって鼾をかいていたり、碁石をならべていたり、金魚にパンくずをやっていたり、耳のあかをとっていたり、みんな寡欲で気楽そう。
   とにかく一泊百円という安さは、ガリガリ勉強してエラクなり、無理して大金をかせぐ必要がないことを示しているようで嬉しかった。
   五年前、その百円ハウスが全焼。二日後の夜、現場へ行ってみると、消防車の水? をかぶったガレキの中に腕時計が捨てられてあった。まだ動いていた。焼死した六十歳の労務者のものかもしれなかった。(ああ、また一つ少年時代の夢が消えた)と思った。
   流行作家でもないのに、出版社が用意した広い部屋で仕事をさせられたのはおととし。前景は太平洋。二百字弱しか書けず、冷蔵庫の食物を全部胃袋に片づけただけだった。相模湖畔の旅館でもだめだった。十畳以上もあったのだ。射的に興じ舟を漕いで帰ってきた。
   書斎の理想は三畳間だな、という考えの甘さを知ったのは、神奈川医療少年院を見学させてもらった日である。そこの独房は二畳。いたって清潔。机もベッドも収納式。(窓に鉄格子さえなければ最高の執筆場所だ!)と唸った。
   最も集中し、かつリラックスできそうな空間としてその独房は第1位。2位は昔掘った穴。3位は自宅のトイレ。小学校の用務員室や踏切警手の小屋なども慕わしかった。一寸法師みたいに小さく生まれて、校庭の隅の白い百葉箱で暮らすのもいいだろう。

   『木の上のお城』(ジリアン・クロス・作、岡本浜江・訳、タカタケンジ・絵、あかね書房、一一〇〇円、九六年十一月刊)は、イギリス現代っ子兄弟の“かくれが物語”。
   樹齢百年の栗の木にパパがこしらえてくれた遊び場は、騎士道ごっこのための城であって、私のような逃避専用の場ではない。兄ウィリアム七歳と弟スプログ四歳は敵陣地に進攻する。
   パパもママも不安をかくしながら息子たちの冒険を見守る、といったふうではなく、大胆に危所で遊ばせている。悪童的要素を充分発散させることが〈善なる大人〉になるための条件だということを、英国の親たちは知っているらしい。
   パパが単身赴任したあと、苺を摘んだり草花の手入れをして過ごす若いママの閑雅さは、上質の水彩画を見るようだ。なのに表紙の絵はドタバタ調で子どもにへつらっているのが惜しい。読後、私の家を囲んでいたケヤキの大樹を懐かしく思い出した。地主が全部切ってしまったのである。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x10467,2023.09.30)