森忠明
十九歳の秋、私は師匠の寺山修司から詩の朗読についての小論を書くように言われた。十枚足らずの中に三箇所も師の本からの引用があった。それが気にくわなかったらしく、「ぼくを番犬みたいに使わないでください」
寺山修司は穏やかな口調だが威圧的に私をにらんだ。一瞬怯んだものの、そこは生意気盛り。
「番犬ほどの効験ありや」
と切り返した。まだ三十一歳なのに重鎮然としている眼前の詩人が面白くなくて、反発してみたかったのだ。ひどい弟子である。師は怒らず、淋しそうな笑みを浮かべ、すっと立ちあがり、アマンドという喫茶店を出た。
生意気はエスカレート、「寺山さんの本には誤植が多くて、ありゃ商品になりませんね」とか「うちの母は寺山さんを怨んでますよ、息子をかどわかした、って」などとほざいた。破門されなかったのが不思議である。
今月四日の命日。八王子市にある師の墓へ行った。粟津潔氏設計のそれは植栽内オブジェ的で、あまり墓らしくない。いつも青銅の二匹の犬が迎えてくれる。入口の門柱上に耳の垂れた雑犬(高さ十五センチ)がオスワリ、墓を守っているのだ。エリートぎらいの師は、ありふれた犬が好きだった。三百八十円の林檎「むつ」を供えてきた。
亡くなる少し前、谷川俊太郎氏とやりとりしたビデオレターの一つに、中型の枯草色の犬を可愛がっている寺山修司が登場する。牛乳を飲む犬を慈しむように見つめている姿には、前衛だの鬼才だのという恐持てふうのものは一切なく、解脱してしまったみたいな風情だった。
一方谷川氏も自宅で飼っている犬(名前はプロフエッサー・ヘイスティングス)を長撮りして、名作「ネロ」の詩人だけのことはあると思わせた。
“孤独な一人息子”という共通点を持つ両詩人にとって、最良の友は、もしかすると愛犬の沈黙だったのかもしれない。
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四歳の時、姉と死別してからは私も一人息子状態で、やはりワン公のお世話になった。チョビ、コロ、ボケ、メリー、ポロ、十勝。森家歴代の犬たちは、よく私を慰め励ましてくれた。今は我が庭の地下で眠る彼らに、我が母は折々の花をたむける。「団子のほうがいいんだけどな」という声が聞こえる。
犬は非常に嫉妬深いので、ポロのことだけとり上げるのは気がひけるけれど、私はこのメス犬の夢をよく見る。無芸大食のウスノロジストだった彼女が、九年の生涯に一度だけヒート(性的興奮)した日の夢だ。夜陰に乗じて忍び込んできた白いハンサムな犬を、私が追い払おうとすると、ポロは初めて私に牙をむきだした。「勝手にしろ!」と吐き捨てて戸をしめたが、あれからどうなったのだろう。恋路の邪魔をしたことを詫びたい。
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『しっぽを ぱたぱた』(ジャネット・マクレーン・文、アンドリュー・マクレーン・絵、いとうひろし・訳、瑞雲舎、一五〇〇円、九六年十一月刊)の主役たち―グローツ、ハミッシュ、ジョシュ、ヘザー、ペグの五匹は、コンテストに出陳されてチャンピオンになるような毛なみではない。しかし、画家の絶妙な技巧と愛情のおかげで、どんな名犬よりも魅力的に描かれている。
色鉛筆とパステルの併用だろうか、ややラフな感じの筆致なのに、全体の印象は肌理こまかくふくよか。
子どもたちと犬たちが戯れあう画面はパラダイスそのもの。私にもかつてそういう至福の時間があった。
最近、「犬の事典」などと称しながら、血統書付きの解説集でしかない本が出版されたが、この『しつぼを ぱたぱた』こそ真の犬の事典だと思う。文を書いたジャネット氏は犬の存在価値を知りぬいた人のようだ。訳もユーモアに富み、節度がある。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x10393,2023.08.31)