高橋一行
バーチャル空間におけるアバターは身体を持っていて、そのために一個の人格となり、それはまた他者としての要件を備えている。これが本稿のテーマである。
2009年に出版された藤井直敬『つながる脳』を読むと、ここにバーチャル空間の話が出てくる。すでにこの時点で詳細にバーチャル空間を使った実験が説明されている。人格を持った自律的な存在者としてのアバターが、実にリアルに存在しているために、脳研究において、それらを活用することができる。ヒトや猿を使わなくてもコンピューターがあればそれで済むのである。
藤井によれば、この種の研究は2007年くらいから始まったのだそうである。さらに藤井は、将来の可能性について、つまり他者と自分との距離感を図りたいとか、社会的な役割を持つアバターたちが、相互作用をする際に、どのような身体的な反応をするかということなどを研究したいと言っている(藤井2009 第4章)。
実はこの本は出版されてすぐに熟読したはずだが、著者がこういう話に言及していたことについてはまったく記憶がない。つまり私自身が当時バーチャル空間に関心がなかったのである。それは単に実験室を持つ理系研究者の話だと思ったからである。関心がないものは記憶に残らない。ただこういうことから書き始めたのは、メタバースはこの2年くらいで急に話題になり、また私のような素人でも関心を持つようになったのだが、しかし専門家は随分前から着目していたということが言いたかったからである。
もう少し詳細に書いておく。同じ著者によって翌年に出た本『ソーシャルブレインズ』によれば、脳はその進化の中で、様々な機能を持つ様々な構造を併存させていて、時にそれらが矛盾したり、不整合を示すことがあると言う。脳は進化の際に、その時その時の状況に応じて、その機能を最適化してきた。すでに持っている構造を最大限活用して、環境に適応する。長い時間を経て環境が変化すると、新たな機能が要求されるのだが、その際に、それ以前のシステムを捨てきれないで保存している。すると非効率的な遺産を抱えることになる。
具体的には脳には円柱状の機能単位があり、その中に神経細胞が詰まっていて、ネットワーク構造を創っている。その円柱内の神経細胞を増やすか、また円柱の数を増やすかというやり方で、機能を高めていくことになるのだが、脳は特にこの円柱を増やすことによって、環境に適応してきたのである。その結果、現在ではあまり役に立たないものも含めて、様々な機能を持つ構造が残っている。例えば視覚のシステムも新しいものと古いものがあり、それぞれ独立した主体性を持っている。これは脳がひとつのシステムではなく、多様な、つまり社会的と言って良い様々なシステムの集まりだということを意味するのである。またその独立したシステムが、互いに不整合であるということは、それは脳の中に他者性があると言っても良いということになる。脳は脳の中に異物を抱え、それらをうまく調整し、しかし時に制御できずに病的な症状をきたす。脳論は、脳における社会性、他者性を問う。
またこういう話をする際の定番と言って良いミラーニューロンもその際のひとつの論拠になる。これは次のようなものである。猿は目の前にある餌に手を伸ばすときに、脳内の神経細胞がそれに合わせて反応する。しかし猿は自分の手を動かしたときだけでなく、他者、すなわちこの実験の場合は実験者の手が餌を取るのを見たときも、その猿の神経細胞が反応するというのである。つまり他人の動きを見て、それがあたかも鏡に映った自分の動きを見ているかの如く反応するのである。ミラーニューロンと呼ばれる所以である。
このミラーニューロンについては、慎重に扱わねばならないと注意を促しつつ、藤井は、次のような実験をする。例えばバーチャル空間の中でアバターは虫になるとしよう。カフカの『変身』では、主人公はある朝目が覚めたら、「多くの足」を持ったUngeziefer(害虫)になるのだけれど、そういうイメージで良い。バーチャル空間の中の新しい足は、現実の身体に対応して、つまり現実の身体のどこかを動かすと、バーチャルな空間の身体もそれに応じて動くようになるというのである(藤井2010 第2章)。バーチャル空間の虫は現実の私の姿が鏡に映ったものである。この実験は、本シリーズで取り挙げた玉城絵美の、乳牛の体験をするというものと異なるものではない。
繰り返すが、これは2010年の本の中に紹介されている話で、実際には、この10数年でこの種の実験は飛躍的に進歩している。
ヒトや猿の脳は長い進化の過程の中で、このように他者と付き合う術を身に着けている。この脳の他者性、つまりどのように他者の行動に反応するかということを、アバターを用いて実験ができる。それはアバターが、当初は現実の私の分身として創られたのだが、独自の身体を持ち、つまり他者であり、私と相互作用をするからである。
アバターが自律的な人格を持っていること、つまり他者としての資格を持っていること、バーチャル空間内に他者が存在することで、リアルな距離感が生まれることが指摘されている。それらのアバターの特殊性を活用して、脳の研究に役立てることができるのである(藤井2010 p.196)。
ここで嶋田総太郎(2019)も参照しよう。彼も著書の中で、ミラーシステムを取り挙げている(嶋田 4章)。ミラーニューロンについては、先にも書いたように、いささか怪しい概念ではないかという懸念もあるのだが、嶋田の著書には、最近のデータも入っているから、そこは信用しよう。
ここでは私たちがバレエやバスケットや野球をする際の反応の実験が紹介され、さらには乳児や自閉症児の研究もある。
ここで結論として提出されていることは、ミラーシステムは他者の身体を直接自己の身体へと変換するものではなく、他者の身体の視覚的入力は自己に内在する身体の運動プログラムを駆動するものだということである。身体情報には、視覚や聴覚などの外在的身体情報と、体性感覚や運動指令に由来する内在的身体情報の二種があり、ミラーシステムは外在的身体に対して内在的身体が反応するような脳内メカニズムだとしている(同 p.160ff.)。
私が興味深く思ったのは、嶋田はロボットを使った研究の成果も出していて(同 p.143ff.) 、そこではロボットを使った初期の実験ではミラーシステムについて否定的なものが多いのだが、ひとつには被験者がロボットのアニメやCGなどに馴染んでくると、ロボットを使った実験でも好成績を収めるということである。私がここで感じているのは、メタバースをごく自然に受け入れる世代では、今後ミラーシステムにおけるバーチャルの他者との交流がごく自然に行われるのではないかということである。
少なくとも、私たちの自分の身体の動きと脳の中の神経細胞の変化が対応しているということだけでなく、他者の身体の動きにも私たちは反応するということは確実なのである。そしてバーチャル空間の中のアバターは身体を持ち、他者たる資格を持って、現実の私たちに向き合っている。アバターは私たちの分身として身体を持たせられたのだが、そのために他者となり得ている。ここでさらに、他者にもレベルの違いがあると言うことができる。先の実験のロボットもそうだが、アバターも、私たちがより身近なものとして受け入れれば、その分他者としての役割も増すということはごく自然に考えられるのである。
さてその身体を持った他者としてのアバターは、しばしば「美少女」である。前々回、「美少女ねむ」という、アバターの名をそのままペンネームにしている人の本を紹介し、参照した。この人が実世界でどのような人なのかは知らないが、恐らくは男性であろう。そして多くの場合、おじさんが「美少女」になりたがるのである。それはなぜかということをここで考えたい。
今の時点で、まだそれほど多くの人がアバターを持っている訳ではないので、その中でおじさんが「美少女」に変身する例が目立っている。もっともアバターを創るのは簡単だと言われており、さらに数年経てば、さらに容易になるはずで、そうすれば今後は多様なアバターが生まれるだろう。つまり「美少女」が目立つというのは、これは過渡期の問題なのかもしれない。
まず黒木萬代の「少女になること」という論文を参照する。黒木は以下のように説明する。
今や「バーチャル美少女受肉」という言葉があるほどに、おじさんは美少女になりたがる。それは男性である自分の身体に対して強い否定性があるのかもしれず、ロリコンのオタクの強い幻想に基づいているのかもしれない。
さて黒木によれば、まずはこのことは肯定される。それは少なくともファルス中心主義、つまり女性はファルス(男根)を持っていないために、男性よりも劣った存在であるという考え方がそこでは否定されているからである。おじさんは男であることに絶望しているから、少女に救いを求めているのである。それはファルス中心主義や家父長制を批判する力を持っている。
問題は、少女になりたい異性愛男性は、自らを救済してくれる存在として女性を求めている。しかしここでこの理想的救済者像と生身の女が照らし合わされて、後者が暗黙の裡に裁かれる事態が生じていないか、つまり現実の女性は男性に完全な救済を与える存在ではないとして否定されはしないかと黒木は問い掛ける。
しかし彼女は、そういう問題があるものの、少女になりたいという端的な肯定の希求はそのまま認めるべきではないかとも言う。
実はこのあたり、多くの論者がいる(注1)。もう少しそれらを参照して、考察を続けたい。
さておじさんが「美少女」になることは肯定されるとして、しかしユーザーは様々な欲望や思惑があって、アバターを創る。例えば小説を書くという行為において、当然、作者の狭隘な意識がステレオタイプ化した登場人物を生むことは良くあることだ。同じことがメタバースにもあるだろう。
しかし私たちの現実の世界でも、様々な意識を持った人がいて、必ずしも人格的に優れた訳でもない人達が集まって、社会を構成している。その中で私たちは揉まれ、互いに影響を与え合っている。また小説においても、作者がその登場人物を通じて成長することはあるだろう。メタバースでも同じことが言えるはずだ。
もうひとり、ここで長門裕介を参照して、この間の議論を補強する。バーチャル空間において如何にアバターが充実した生を送り得るかというのが、彼の問題意識である(長門)。
長門によれば、アバターは道徳行為者である。それは自分の行為の帰結について責任を負う存在であるということである。また同時に道徳被行為者でもある。他の道徳的行為者の行為に巻き込まれるに当たって配慮をされるべき存在でもあるということである。
それはなぜかと言えば、アバターがユーザーの制御下にあり、自分に対してなされた行為の意味を理解できる存在だからである。差し当たって、アバターは現実の世界の私たちの分身として、私たちが道徳的行為者であり、かつ道徳被行為者であることに対応して、アバターもまたそうであると言い得るのである。
ただその道徳の在り方は現実世界のそれと異なるはずである。つまりそれはメタバース独自のものであって良い。
私たちは何かしらの欲求を持ち、しかしその欲求をストレートに実現すべく行動するのではなく、まずはその欲求が望ましいものであるかどうか、反省したり吟味したりする能力を持っている。そしてこの分脈で言えば、私たちはアバターを通して様々な欲求を抱くのだが、しかしさらにそこから私たちは、アバターの身になって、その欲求の妥当性を考えることができる。私の言葉で言えば、アバターは他者である。そのことを長門は、アバターはまた人格でもあると言う。すると私たちは、アバターがバーチャルな世界でアバターとしての人生を生きている、その感覚をこちら現実世界において得るのである。
さらにアバターはメタバースの世界の中で、他のアバターと相互作用をする。互いに心理的な距離を測ることもあれば、助け合うこともあるだろう。するとさらにそこから、アバターはメタバースの中で固有の道徳性を発揮し得ると言うことができる。
そこから結論が導かれる。前々回取り挙げた「美少女ねむ」が言うように、バーチャルな世界において、現実の制約を取り払って、アバターたちが理想的な関係を創る可能性はある。
メタバースを作成する側が、ステレオタイプな差別意識を持っていたとして、その意識がそのままアバターに反映される。しかしそれでも、作者がその登場人物を描くことにより、作者自身が成長することはあるだろう。さらにアバターは身体を持っている。つまり人格であり、他者である。とすれば、アバターもアバターの世界で成長する可能性はある(注2)。
しばしばメタバースの世界を描いたとして注目されている小説がある。飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使I』(2002)と『ラギッド・ガール 廃園の天使II』(2006)である。
前者は、1000年後の未来の話で、仮想リゾートに人間の訪問が途絶えた後に取り残されたAIたちの生活を描いた長編の物語である。後者は、人間の情報的似姿を官能素空間に送りこむという画期的な技術によって開設された仮想リゾートの、開発秘話といった作品などを集めた短編集である。
そこでは完璧なメタバースの世界が展開されている。良く考えられている。ただそれは衝撃を受けるというような話ではない。では物足りなさを感じるのはなぜなのだろうか。
メタバースは今、急速にその技術が進んでいるから、あり得ないSFの話ではなく、もう実現されつつある話として展開すべきではないか。つまり考えるべきは、1000年ののちではなく、数十年先の話で良い。
私が言いたいのは、シンギュラリティが2045年に来るとして(注3)、そのくらいのスパンで、誰もがアバターを創ることができるようになるはずだということである。今までは小説の中でしか実験ができなかったが、今後は誰もがそれぞれの物語を容易に創ることができる。
さて三度(みたび)書くが、バーチャル空間におけるアバターは身体を持っていて、そのために他者としての要件を備えているということが本稿のテーマである。
さらに先に進む。以下、最後の観点を提出したい。
S. ジジェクの提議する問題から始める。1993年に出版された著書の中で、ジジェクは、人工知能の問題を論じている。そこではバーチャルな現実において転倒が起きている、つまり真の現実そのものがバーチャルなもの、人工物として理解されなければならなくなるのではないかと言う(ジジェク p.86)。
このことは何度も言い換えられる。人間とアンドロイドの関係で言えば、「人間とは自分がレプリカントであることを知らないレプリカントである」(p.82)。またコンピューターを用いてオリジナルな人間の思考のモデルを創っていく場合、「もしもこのモデルがすでにオリジナルそれ自身にとってのモデルだったらどうしようか」とか、「人間の知性そのものがプログラムされていたものだったら、どうしようか」と問い掛ける(同 p.86)。
さらにはバーチャルな現実の最終的な教えは、真の現実そのものが、それ自身の見せかけとして、純粋に象徴的なものとして措定されるとも言う(同 p.90)。「現実とはいつも幻想によって枠づけられている」とも言うのである(同 p.88)。
ここで「現実」というのは、J. ラカンの「現実的なもの」という概念と重ねられて議論がされている。そのことはきちんと検討しなければならないのだが、それはまた別の機会に譲ることにして(注4)、ここでは以下に説明するように、ヘーゲルの論理が隠されているということを指摘しておく。
ジジェクの言うところは、現実がバーチャルであり、つまり確固とした基盤があるとされている現実がバーチャルであり、またそれはバーチャルなものとしてしか認識され得ないならば、逆にバーチャルはバーチャルであるということを経由して現実となり得るのである。ここで転倒が起きている。
もう少し詳しく言えば、現実だと思っていたものは、意識がそのように捉えたものに過ぎず、私たちは現実そのものには近付き得ない。現実だと思っているものは、意識の中にあるものに過ぎず、従って、それはバーチャルなのである。しかしここからすべてがバーチャルであるということが結論として導かれるのだが、同時にそもそも現実とはバーチャルなものを生み出すために、バーチャルなものの根拠として存在すべく、意識によって創り出されたものなのであると言うこともできる。するとバーチャルの方は、まさしく最初から意識によって創り出されたものであって、バーチャルなものはかくして現実となる。
これはヘーゲルが「論理学」の本質論で展開する関係性の論理である。対立するふたつのカテゴリーが、互いに自己の根拠を相手の内に持っている。それぞれが成立するのは、相手との関係においてである。
例えばそれは、本質と現象の関係とパラレルに考えることができる。そこでは次のような論理展開がなされる。本質は現象する。しかし私たちは現象を捉えて、そこから本質を探り出す。それはつまり本質を創っているのである。すると本質は現象が現象したものに過ぎないということになる。かくして現象が本質であり、本質は現象の現象である。
このジジェクの本は1993年のもので、メタバースを念頭に置いていない。当時、つまり1990年代は電脳空間(cyber space)という言葉が使われていた。加藤夢三は当時の熱狂について語っている。「「電脳空間」のノスタルジア」という題の論文の中で、先のジジェクも引用しつつ、ITの発達によって、バーチャルな空間が現れ始めた時期に、そこに「何か過剰とも言うべき期待が託されていたような印象を受ける」と言うのである(加藤 p.152)。当時は「何か途方もないパラダイム・シフトが生じつつあるのではないかという漠然とした実感が、この時期の言論空間で大まかに共有され、その思想的意義もまた旺盛に議論されていった」と言う(同)。
しかしそれから30年経ってメタバースが出現したとき、その時の熱狂に比べれば、今のブームは少し冷めているのではないかと加藤は言っている。そこでは形而上学的な思索は退けられていて、よりテクニカルな安全性や利便性が謳われていると言うのである。そういう状況から30年前を振り返って、そこにノスタルジアを感じるという訳である(同 p.160f.)。
私は別にパラダイム・シフトが起きているとは考えないが、しかし本質的に今、大きな変革が起きていると思う。それは身体の問題なのである。現実の世界とバーチャルな世界を身体が繋いでいる。
つまり1990年代の電脳空間論においてさえ、現実とバーチャル、本質と現象といったことが相互に転換し得るという議論があったのである。加藤はそういった論調に対して、冷ややかな目線を向けているが、私はジジェクの慧眼を評価する。そして今や2020年代になって、もっと大きな変化が起きていると思う。
繰り返すが、ここで身体の役割が問われている。ふたつの世界があり、それをそれぞれに属する身体が繋ぐということである。
この機微をもう少し説明する。身体のひとつの能力は、自己と他者を結び付けることである。これはまず現実世界において、私たちの身体がそういう能力を持っていると言うことができる。そしてメタバースにはアバターの身体がある。これがメタバースの世界の中で、アバター同士を結び付ける。その上で、このアバターの身体と私たち現実世界の身体が結び付く。そうしてバーチャルな世界と現実世界が繋がれる。このことを私は今まで説明してきた。
また身体の役割には、自己と他者を繋ぐということのほかに、もう一点、精神と物質を繋ぐというデカルト以来の問題もある(注5)。これは例えば、フロイトの、精神的な悩みが身体に現れるという例を考えれば良い(注6)。この問題をメタバースの議論の中でどう考えるか。
次のように考えてみよう。進化の過程の中で、物質としての身体が精神を生んだ。これが身体の根源性である。また人は脳だけで思考するのではなく、身体全体を使って思考する。身体の様々な器官が発達して精神を生んだのだから、それは当然の話である。しかしそうして精神が生まれると、今度は精神が身体を支配しようとする。精神は身体を完全に制御し得ると考えてしまう。しかしそう単純ではないというのが、本シリーズで考えてきたことだ。身体は精神の命じるままに動くのではなく、自律して、精神の思いもよらない動きをすることもある。また身体の方が精神を動かすこともある(注7)。ここで差し当たって言えるのは、精神と物質としての身体は密接に結び付いているということである。
メタバースもまたこの進化論に即して考えられないか。アバターは最初は物理的な存在である。それが身体を持ち、私たちと交流し、人格、すなわち他者としての資格を持ち、メタバースの世界を創り、さらには私たちの世界と交流する。
つまり精神は今やバーチャルな世界に物理的な身体を創ることができる。そしてその精神によって創られた身体は、今度は私たちの精神に影響を与える。その影響について、ここで議論をしているのである。
進化論的には生物の身体が発達して、私たちの精神が生まれる。しかし一旦精神が生まれると、それは身体の隅々にまで入り込んで密接に結び付き、両者を切り離すことができなくなる。ここでは、精神と物質としての身体が統一されている。そして今度は、その精神がバーチャルな世界で、物理的実在としての身体を生み出すのである。それは精神の産物である。しかしそれはただの人工物ではなく、紛れもなく身体であり、身体として人格を持つ。
メタバースの世界こそ真実の世界だということを前々回に書いた。もちろんメタバースは人工物なのである。しかしその人工物の創り出した世界こそが、人格の集まりとして真実の世界なのである。この倒錯が評価されるべきである。
同様に、メタバースのアバターは精神がバーチャルな世界に創り出したものであるが、それはまさしく実在する。そしてそれは私たちにとって他者として存在し、その身体と私たちの身体とを通じて、バーチャルな世界と私たち現実世界とは繋がっている。身体が精神を生み、その精神が身体を創り出し、さらにその身体が精神性を生み出す。
現実世界とメタバースのバーチャルな世界は、本質と現象の関係から、相互転換し、ふたつのそれぞれ独立した世界の関係となる。これは対立するふたつのカテゴリーが、互いに自己の根拠を相手の内に持つということである。
郡司ペギオ幸夫は、物理世界とバーチャルな世界との双対性について議論する。つまりメタバースは現実世界に接続したバーチャルな世界である。彼は、バーチャルな世界は、直接アクセスできない現実世界をバーチャルな世界の外部に潜在させていると言う(郡司 p.183)。つまりメタバースが、相関の外は何もないという世界観から脱却する材料を提供すると言う。
メタバースの世界と現実の世界は影響を与え合うが、しかし別の世界である。メタバースの中にいるアバターは現実世界にアクセスできない。しかし現実世界が存在することは知っており、そこから影響を受けている。逆に私たちはメタバースの世界に直接入ることはできない。あくまでもアバターを通じてメタバースの世界と交渉するだけの話である。これはまるで、自らの世界が現象で、もうひとつの世界が物自体であるかのようだ。重要なのは、他の世界はアクセスできないし、ましてやそこに住むことはできないが、しかし別の世界が存在していることは知っており、影響を与え、かつ与えられるということである。ふたつの別の世界をそれぞれの世界の中にいる身体が繋いでいる。これがまとめになる(注7)。
注
1 L. ブレディキナは、メタバースにおいては「かわいい」という言葉がキーワードになり、先に論じたように、「美少女」が多く創られるのだが、そういった「バーチャル美少女受肉」をした男性たちへのインタビューやアンケートをして実証研究をしている。まずは彼らが少女になりたがるのは、日本では人形浄瑠璃や歌舞伎があり、そこでは変身は容易であること、第二にそれは「かわいい」という理想的な概念を具現化しようとしていること、第三に、男性中心の社会で、男性が直面する困難と痛みから逃げて自由になりたいという気持ちを表していると言う。それは男性にとっての新しい自己表現なのである(ブレディキナ)。
しかし先に書いたように、これは私は過渡期の現象であって、いずれ誰もがアバターを創るようになれば、この「美少女」は相対的に減っていくだろうと考えている。
2 ゲームAI研究者の三宅陽一郎は、この2年間のメタバースを巡る環境の変化は極めて大きいと言う。そして我々が現実の三次元空間で持っている欲望をメタバースに持ち込んだのだが、しかしそこに生じた世界は現実世界と比べて望ましいものである可能性が高いと言う。オンラインゲームの多くは善意から成り立っているとか、メタバースを通じて人を助けるということがなされていると言うのである。例えば現実的に私たちが自分の住む世界でゴミ拾いをするのは難しい。手は汚れるし、面倒でもある。しかしこのゴミ拾いのメタバースは容易に創れると彼は言う。そういうところから始めて、メタバースが社会参加の在り方を変えていく技術となり得るのではないかと言う(三宅)。
3 人工知能の能力が人間のそれを追い抜く瞬間を指す。
4 拙著でラカンを扱っている(高橋 第4章)。これはこの短い論稿で扱うには大き過ぎるテーマである。
5 市野川容孝は、自己-他者と、もうひとつ精神-物質というふたつの軸で身体を考察する(市野川)。このことについては次回説明する。
6 フロイトの取り挙げる心身問題については、以前このサイトで扱った。「身体を巡る省察(3) 言葉と身体」( 2019/03/09) http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6420
7 以下を参照せよ。「身体を巡る省察(1) 心の暴走を抑える身体」( 2019/01/01)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/5818
8 木澤佐登志は、身体/精神、物質/情報と、二元論的前提で物事を考察する思考パターンを批判する。その上で現実はもっと進んでいて、今やバーチャル空間と現実世界を組み合わせた複合現実(Mixed Reality)が唱えられているとしている。両者は互いに折り返される関係にある(木澤)。
また前々回も取り挙げた出口康夫は、メタバースを一種の可能世界と見なす。それは現実の人間の分身であるアバターが闊歩する世界である。このアバターは独立した存在だと見做すことができる。このアバターがいる世界は、私たちが物理的事象を活用して共同で思考する可能世界である。
メタバースの世界を私たちの共同作用として考えている点は重要であるが、しかし可能世界という考え方を私は採らない。確かに可能世界を認めれば、メタバースはそのうちのひとつである。出口は、小説の世界もひとつの可能世界であると考え、それに対して、メタバースの特異性を探っている。しかし私はそのように議論を持っていくのではない。カフカの小説を読んで、虫の気持ちになることと、虫のアバターの身体感覚を理解することと、やはり話は異なるのである。
出口の議論では、世界はたくさんあり、その中でメタバースの世界の特殊性は何かという問題設定になる。しかし私はそういうことを論じるのではなく、ここでは現実世界とメタバースの世界とふたつのカテゴリーがあり、それが身体で繋がっているということだけを論じたい。
参考文献
市野川容孝『身体/生命』岩波書店、2000
加藤夢三「「電脳空間」のノスタルジア – 仮想現実はどのように語られたか -」『現代思想』Vol.50-11(2022年9月号)
木澤佐登志「一九八四年のメタバース」『現代思想』Vol.50-11(2022年9月号)
黒木萬代「少女になること – 新しい人間の誕生と救済の非対称性 -」 『現代思想』Vol.47-2(2019年2月号)
郡司ペギオ幸夫「「以前、確かにそのゲームの世界に自分が住んでいた」という記憶はどこから来るのか – メタバース = 宙吊りにされた意識モデル -」『現代思想』Vol.50-11(2022年9月号)
嶋田総太郎『脳のなかの自己と他者 – 身体性・社会性の認知脳科学と哲学 -』共立出版、2019
ジジェク, S.,『否定的なもののもとへの滞留 – カント、ヘーゲル、イデオロギー批判 -』酒井隆他訳、筑摩書房、2006
高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論』ミネルヴァ書房、2021
玉城絵美『BODY SHARING – 身体の制約なき未来 -』大和書房、2022
出口康夫「現前世界とメタバース」『現代思想』Vol.50-11(2022年9月号)
飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使I』(初出2002)、早川書房、2013
—- 『ラギッド・ガール 廃園の天使II』(2006) 、早川書房、2013
長門裕介「メタバースでアバターはいかにして充実した生を送りうるか」『現代思想』Vol.50-11(2022年9月号)
バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論 – 仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界 -』技術評論社、2022
藤井直敬『つながる脳』NTT出版、2009
—- 『ソーシャルブレインズ入門 <社会脳>って何だろう』講談社、2010
ブレディキナ, L.,「要約「バ美肉 バーチャルパフォーマンスの背後にあるもの – テクノロジーと日本演劇を通じたジェンダー規範への対抗」」池山草馬訳、『現代思想』Vol.50-11(2022年9月号)
ヘーゲル G.W.F., 『ヘーゲル論理の学II本質論』山口祐弘訳、作品社、2013
三宅陽一郎「メタバースに寄る人の意識の変容」『現代思想』Vol.50-11(2022年9月号)
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x9738,2023.03.13)