高橋一行
メタバースは情報化社会が進展することで生まれた。それは私たちが現実世界とは別の世界を持つことができるということを意味する。
ひとつはゲーム業界が、もうひとつはSNS業界がメタバースに参入している。しかしメタバースはゲームやインターネットによるネットワークそのものではない。それらを基にして発展してきたものであり、今やそれはショッピングにも使えるし、職場が会議を開くのに利用したり、教育機関が活用したりするものである。
私たちは今、情報化社会に生きている。日々情報に晒され、それらに囲まれて生活をしている。そしてそこにおいては、私たちの身体の感覚が希薄化しているという印象を持っているのではないか。畑を耕し、物を作るのと異なって、私たちの多くが従事している第三次産業においては、身体を移動させず、身体を用いずに、ただ単に情報を操作して、経済活動をしている。そこに身体が存在しているという感覚はあまりない。またゲームに登場するキャラクターたちに対しても、また情報がやり取りされるだけのインターネットにおいても、そこに身体感覚がないのではないかという印象を、長い間私は持っていた。
ところがその情報化社会が生み出した究極の産物であるメタバースには、強い身体感覚があるということを知る。今回のテーマはそのことを示すことにある。
メタバースとは、インターネット上に構築された仮想の三次元空間である。超越を意味するmetaと宇宙や世界を意味するuniverseとの合成語である。その世界では人は、主にアバターを用いて接する。それは現実とリンクした人々が活動するもうひとつの世界のことであると言っておく。
このアバターとは、サンスクリット語で神の化身を意味するavataaraから来ており、何か具現化されたものという意味である。 ITの分野では、インターネットやゲームなどの仮想空間上に登場するユーザーの分身となるキャラクターを指す。
つまりメタバースにはアバターがいて、それは自己の分身であり、自己そのものであり、またリアルな私と共同性を持つものである。私とアバターで新しい世界を仮想空間上に創っていく。そう考えたら良い。
私は、情報化社会が行き着くところまで行ってしまい、そこで創り出された世界に、今後は多くの人がより深く関わることになると思う。多くの人にとって、次第にこのメタバースの世界で過ごす時間が多くなり、現実の世界よりもこちらの方に生活の比重を置くようになるのではないか。
私はまだメタバースについてはごく初歩を知っているに過ぎない。最近になって、大学で教えているゼミ生に教わって興味を持ち始めたところである。そのため、メタバースについては、次の本を参照して、以下、説明をしていく。
3冊の本、すなわち岡嶋裕史『メタバースとは何か – ネット上の「もう一つの世界」 -』(2022)、加藤直人『メタバース – さよならアトムの時代 -』(2022)、及びバーチャル美少女ねむ『メタバース進化論 – 仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界 – 』(2022)を使う。
まず岡嶋裕史から読み始める。著者は50歳の情報学を専門とする大学教員である。
現在メタバースはゲームとして一番使われていると思われるが、それはゲームそのものではない。先に私が書いたように、ショッピングや会議の媒体として使われたり、教育の手段として用いられたりと、用途は広い。
メタバースとは「現実とは少し異なる理(ことわり)で作られ、自分にとって都合がいい快適な世界」と岡嶋は定義する(p.25)。
近年の歴史を見ると、まず「大きな物語」がほどけたのが「ポストモダン」である。さらにそこにSNSが出てくる。これは人と人を繋げるネットワークだと思われているが、実際は「実体としては繋がりを絶って人を囲い込む技術」である。フェイスブック、インスタグラム、ユーチューブと、閉ざされた空間で人は平和に暮らすことができる。
それがもっと洗練され、世界として完成され、人はほとんどの時間をSNSで過ごせるようになると、それがメタバースである(p.30ff)。そう言うことができる。
「あつまれ どうぶつの森」は2020年に流行ったゲームで、うちのゼミ生も結構はまっていた人もいた。これは無人島での生活を楽しむコンテンツである。今私はこれをゲームと言ったが、しかしすでに仮想現実としての色合いが濃いと、岡嶋は言う。その中で利用者が望む生活が実現されているからだ。つまりこれはもう広義のメタバース、またはメタバースの導入と呼んで良いものなのである(p.96)。
ではなぜメタバースが出てきたのか。もちろんIT技術が飛躍的に進歩したからということが大きな要因になる。同時に、自分の生活がリアルでなくても良いと考える人が増えてきたということも大きい。現実世界はリスクに満ちている。それは避けたい。人との衝突もしたくない。そう考える人が多くなったのである。
すると生涯メタバースの世界で生きていきたいという人たちが出てくる。ゼミ生の中にもそういう人がいる。岡嶋もまた著書の中で、仮想現実の方がリアルだとか、そこはリアルを超えて居心地の良い場所だとか、そういう表現を繰り返す。
さらにメタバースにGAFAM(Google, Apple, Facebook, Amazon, Microsoft)が目を付ける(p.170ff.)。Facebookは2021年に社名をMetaに変える。ベンチャービジネスも続々と参入する。このあたりの各社の戦略を、岡嶋は良く分析している。そこについては私はこれ以上触れないが、こういった企業間の競争があって、今やメタバースは私たちの生活全般を覆うものとなっている。
加藤直人の著作は興味深い。著者は34歳の現場の人である。メタバースの第一人者と言って良い。理系大学院を中退して、ひきこもりの経験があり、その後ゲームを開発し、今に至っている。
現在インターネットが発達して、私たちは一日中それが提供する情報の中で生活しているのだが、しかしそこには身体感覚が欠如している(p.10)。
そこにメタバースが出てくる。これが従来のインターネットと異なるのは、そこに身体性があることだと加藤は書く。私たちは身体を伴って、メタバースの世界に住むのである。そこではデジタルで身体を実感する(p.37)。
メタバースは自己組織化された構造体である。その中でアバターが縦横に動き回る。その アバターは身体を持ち、この身体性がメタバースを構成する要素として不可欠である。身体性があるから、アバターにアイデンティティが強く紐づくと加藤は言う(p.120)。
例えばメタバースでショッピングをするのは、友だちとショッピングに出掛けることが目的であり、ショッピング自体は付随的なものである(p.98)。
産業革命以降、今までの時代はモビリティの時代である。蒸気機関車に始まり、車と飛行機が出てきて、人や物が世界中を移動した。それが今やバーチャリティの時代になり、アトムからデータへ主役が移行する。ここでは人や物は移動しない。つまりモビリティの時代は終わる。このように近現代史をまとめた上で、加藤は、こうして誕生したメタバースの世界が決して現実世界の代替物ではなく、独自のリアリティーを持つものだということを力説する。現実の世界で身体は移動しなくなるが、メタバースの世界で人は身体を持ち、新たな価値を創っていくのである。
メタバースの本質的価値は現実世界で不可能なものを創れるということにある。例えばリアルの世界でテーマパークを作ろうとしたら、土地を購入して建設する必要があり、数百億円が掛かるが、バーチャルならすぐにできる。過去の世界に行くこともできる。タイムトラベル体験はメタバースのひとつの売り物である。
また体を重ねるという表現がある。通常この表現は性行為を意味するが、メタバースの世界では文字通り体を重ねることができる。しかしむやみに相手と体を重ねるのは無礼だとされている。
つまり身体表現がデフォルメされているのである。そこでは新たな礼儀作法が必要だ。この観点はこのあとで深めていきたい。
バーチャル美少女ねむの書いたものはさらに面白い。著者はメタバース原住民を名乗る、個人系バーチャルユーチューバーであるそうだ。編集は、20代の技術評論社の編集者が担当している。
なぜ「美少女」なのかということについては、本人の弁では、著者自体が「本人の技術や、お互いの共通認識、そして相手との掛け合いによって生み出された、本来ないはずの理想の存在であり、集合知による一種のアート作品」であるからで、アニメで見られる「かわいい」という概念を具現化した象徴的な存在だとも言える(p.171)。
ここにメタバースの定義がある。それは「リアルタイムに大規模多数の人が参加してコミュニケーションと経済活動ができるオンラインの三次元仮想空間」というものである(p.29)。
またメタバースはバーチャルリアリティに支えられている。これは実際の環境と同じ状態で人工の環境を利用する技術のことである。これは以下の三つが支える。
ひとつ目はゴーグルである。私たちはこれを身に付けてバーチャルな世界に入る。ゴーグルを身に着けたままで、飲み食いもできるのだそうである。
二番目は仮想空間のアバターと現実の身体の運動を連動させるトラッキング技術である。
第三がまさしくアバターである。アバターとはユーザーの分身として画面に表示されるキャラクターのことである。この仮想空間では、アバターでなりたい自分になれるのである。
このアバターは自分で作るものである。目を大きくするとか、背を高くするという調整も自分でできる。アバターの表情やさらには全身の運動を、リアルな世界の自分のそれと連動させる。そうするとアバターの動きは完全に自分自身の動きとなる。例えばダンスをすれば、アバターと自分で同時に身体が動くのである。
さらにアバターは名前を持ち、声を持つ。本稿の最後で詳述するが、ねむは、名前と声を持つアバターこそが真実の存在であると考えている(p.196f.)。現実世界の私の自己同一性を保って、自分をより深く理解できると、著者は言う。
この世界では、まず飲み会がある。コロナ禍で、私たちはズーム飲み会を経験した。私にはそれはあまり面白いものでなく、実際世間でも評判が悪かったように思う。しかしメタバースでの飲み会は、それとは異なる。
これは先ず飲みたいと思ったときにすぐに始められる。友だちがいなければ飲み屋街に行けば良い。すでにそこに会話の輪ができているので、そこに加わる。メタバースでは空間性があるので、飲み相手との心理的な距離感が空間的に可視化される。
ズーム飲み会がつまらないのは、この距離感がないからである。ひとりが話をしているとき、他の人は全員それを聞くしかない。隣の人とこそこそ話すことができない。席を移動することもできない。距離を縮めることができない。メタバースが身体性を持つために、そして身体は空間の中に存在するために、メタバースではオンライン飲み会では経験できなかった、伸縮する距離感を味わうことができる(p.206ff.)。
ただ現時点ではまだ仮想世界で食事や排泄はできていないと言われている。つまり実際の飲み食いは現実の世界でしている。飲み会という場があって、そこに自分の分身であるアバターが参加しているということである。
スキンシップはある。メタバースの世界では、人は疑似的に触覚を感じることができる。
さらにはセックスもできるのだそうだ(p.235ff.)。そこでは新しい人間関係をデザインすることができると著者は言う。
メタバースでは「身体からの解放」されるという表現がされるが、しかし正確に言えば、そこでは新しい身体感覚が得られるのである。例えばアバターを通じて他人の吐息を感じるのだそうである。そこでは吐息の音声から吐息の感覚が得られる。木々の揺れ方で風を感じることもできる。食べ物を見て、味や匂いを感じる。新しい身体がそこにある(p.288ff.)。
現実世界ではなり得ない自分になることができるということがメタバースの最大の利点だとしよう。すると食については、メタバースに必要な器具を変える程度のお金がある人なら、今の時代食べるのに困らないから、メタバースの世界でおいしいものを食べたり飲んだりしたいとは思わないのかもしれない。ここのところは私の勉強不足なのだが、メタバースで、現実世界ではあり得ない程の美味を享受したという話は聞かない。
しかし性はメタバースにおいて重要な役割を持っている。ねむによれば、メタバースでは物理的に遠く離れた相手と行為に及べる、自分と相手の物理性別の制約から解放される、妊娠・感染・物理的暴力のリスクが排除されると、仮想空間での性行為について、そのメリットを挙げている(p.236f.)。今後さらにどう性的な付き合いをするかについて、議論が深まるだろう。
ここでとりあえずにまとめをすれば、以上3冊の本を通じて得られた結論は、情報が身体を持っているということである。情報化社会については、様々なことが言われ、私もまた情報化社会の所有概念について本を書いた(注1)。今まさしく、究極の情報化社会が来ているのではないか。そしてそれは身体性を伴った情報化社会なのである。
さらに話を進めたい。ここで2022年に出版された玉城絵美『Body Sharing』を読む。今までメタバースの身体論を展開してきたから、まさにその問題意識にぴったり合う本である。
玉城はロボットを研究している。そこから人の知覚の研究に進み、BodySharingの研究に行き着く。BodySharingとは、人とバーチャルキャラクター、ロボットが身体情報と体験を相互共有することである。これによって、サイバーとリアルを融合させることができる。するとこれはメタバースの話とロボットの話なのだと思えば良い。
メタバースではアバターが身体的存在だということが結論として得られている。玉城理論では、その身体性を共有することが主題である。これらは今までの情報理論にはないものだろう。
例えば仮想空間で、私がオリンピック選手の身体を持ち、100メートルを10秒で走る感覚を味わえるということになる。それは私自身が経験したことのない感覚だが、すでにそれを成し遂げた人の感覚を共有するのである。恐らくその際に、多分身体が先に進んでも、私の頭は付いて行かれないということになるだろう。
まったく逆の経験ならある。子どもの小学校の運動会で、父親のレースがあり、俺は昔は足が速かったのだという意識があり、しかし身体はなまって実際には動かないから、意識だけが先行して、身体が付いて行かれずに転倒する。そういうことがあった。私だけでなく、世のお父さんは、そういう時にバタバタと倒れていく。意識と身体の乖離は大変な話なのだ。本書で展開されているのは、その反対のパターンなのだろうと推測するのである(玉城は、「老人が若かりし頃に身体を使ったのと同じ意識で行動したところ、うまくいかず怪我をするという事態」と言っている(p.73))。
本の中では、著者自身が乳牛になって、下腹に付いているはずの乳首から搾乳される経験が説明されている。こういうこともできるのである。意識になかった新たな身体の経験が可能なのである(p.204)。
具体的に言うと、まず著者は、腹ばいになって、Head Mounted Display(仮想現実コンテンツを楽しむために、頭部に装着することで目の前に大画面が広がり、ゲームや映像コンテンツに没入できるアイテム)とヘッドフォンを付け、UnlimitedHand(腕に巻いてユーザーの手指とゲーム内のキャラクターの手指とを連動させ、疑似的な感覚を与えるもの)を腹部に巻き付ける。著書にはこの時の著者の写真が紹介されている。腹ばいになっている著者の写真がある。これで乳牛になった感覚を味わう。まさしくこれが、BodySharingの一例である。
ここで電気刺激によって、乳牛が搾乳されるときの感覚が得られる。つまりおなかの複数個所が絞られるような感覚を得るのだそうである。仮想現実(Virtual Reality : VR)で視覚情報を得るだけでなく、搾乳の固有の感覚も味わえる。玉城は、自分は本当は牛なのではないかという感覚すら生じたと言っている(p.205)。
メタバースで私たちが身体感覚を得られるのは、以下の技術が活かされているからだ。まず視聴覚、動き、力の入れ具合や緊張感までをもデジタルデータ化し、インターネットを介して体験をシェアする。ロボット、バーチャルキャラクターなどのアバターに自己を内在化させ、それらから得られる複数の体験を相互共有する。さらにひとりの人間が複数のアバターに感覚情報を送り、別の身体として同時並列に存在し、他者と融合する。これが玉城の言う、BodySharingである。それは「2022年現在、有史以来はじめての大きな変化」だと言う(p.6)。
さらに玉城の、身体主体感と身体所有感の議論を紹介しておく。
他者(ここではロボットやアバター)の身体を自分が動かしているという実感があることが、身体主体感である。他者の身体は自分の身体だと思うことが身体所有感である。まずこのように定義する(p.60)。居合の稽古において、刀を自分の身体の一部であると思うのが身体所有感であり、その刀を自分の思うように動かさせると感じるのが身体主体感である。
ここで先の乳牛や、100mを10秒で走る人の動きや感覚をインプットして、アバターにアウトプットすれば、メタバースの世界で、リアルな世界での自分の身体能力を超えた感覚を味わうことができるのである。メタバースで、この驚異的な能力を持つアバターを自らのものと感じ、自らが思うように動かすことができるのである。
もちろんここで、スポーツ選手の鍛錬や修行が必要ないと言うのではない。また実世界で満足していれば、メタバースは必要ないと言うのでもない。現実では味わえない体験を共有するのである。玉城は人類全体のコモンズという言い方をする(p.8)。実世界で頑張って磨き上げた身体の感覚を他の人と共有するのである。
ひとつ気になっているのは、私は自ら武道を経験し、そこではずっと修行ということを考えているので、現実に過酷な修練を経ないで、オリンピック選手や武道の達人の身体を持つことの意義が問われるだろう。そこは大きな問題となる。
スポーツ化されていない武道では、試合は原則としてしないし、実際に戦うのは一生に一度あるかないかだということで、日々の修行こそが武道そのものということになる。そういう考えでいるところに、修行なしに、達人の身体を得ることに何の意味があるか。
以下、修行については少々ていねいに書きたいと思う。私自身、空手のほかに最近は居合を始めて、いくつか思うことがある。そこには細かな礼儀作法があり、姿勢をどう保つか、目をどこに向けるかなどといった立ち振る舞いがうるさいほどに指導され、ひとつひとつ所作を身に着けていく。これが武道の修行である。
もともと武道とは人を殺す技術である。しかし実際に人を殺す必要がなくなった時代に、観念的にのみ人は戦うことになり、そこで武道が完成し、時とともに洗練されていく。そこにおいては、技は道場の外では使わないのに、実際に使うつもりになって、修行に励むことになる。刀ひとつ振るのに、全身全霊を込める。そこに命を懸ける。つまり武道とは日々の修行がすべてではないか。
私がメタバースの世界で、安易に剣の達人の身体を得たところで、それは何の益になるのかと問うのはそういうことである。日々の修行の中にこそ武道の醍醐味があるのだから。
しかしお前のようにリアルな世界で武道の稽古をし、ワインを愉しんでいる人間はメタバースに来なくて良いと言われそうだ。私はただ単に情報化社会が高度に発展し、ゲームとSNSが相互に刺激して融合した結果、新たに生まれた次世代の情報産業の一分野に、身体性が強くあるということを問題にしている。そこでは現実にはできない体験ができるのである。
結論として、リアルな世界での身体性はそれはそれで大事にしたら良いのだが、リアルな世界では絶対に得られないものをバーチャルな世界で味わってみるということは悪いことではないということになる。
この身体の共有が何か役立つのか。また、この身体の共有をベースとするメタバースはそもそも何の役に立つのか。
現時点でそれはまずはゲームであり、次いで音楽・ライブに利用されている。さらにショッピングができ、将来的にはそちらが重要になるかもしれない。
経済的な利益は大きいだろうと思う。まず、メタバースは教育分野に使えそうだ。学習者がバーチャルな環境で、そこに働き掛け、そこから働き掛けられるという体験をすることができる。社員教育も含めて、この分野で今後開発されるだろう。また不動産屋が物件の広告に使える。今や海外の富裕層が日本に来ることなく、物件を購入するという例がある。バーチャルな世界を通じて、その物件に住んでみることができる。
海外旅行に行ったつもりになるとか、宇宙に行ってみるとか、体験型のゲームと考えれば、用途は広い。単にビデオを見るだけでなく、その環境の中に入って、そこで周囲の人たちと相互作用をし、その環境に能動的に関わるという体験ができるのである。それを私は身体を伴った情報を活用すると表現して良いと思う。
さらに進みたい。以下、3点論じたい。
人の痛みが分かるロボットや、人の能力を超えた身体感覚を持つアバターは、様々なシミュレーションを可能にするだろう。それは人工知能を発達させる。もちろん人工知能が発達した結果として、この能力が得られたのだが、この身体能力を持つ人工物であるところのロボットやアバターは、さらに人工知能を発達させるだろう。
加藤直人が言うように、計算能力は身体と結び付いている。私たちが10進法を使っているのは、指が10本あるからに他ならない。そして今その人工の計算機に身体能力が付与されれば、さらに飛躍的に計算能力が伸びるのではないか。
順番から言えば、まず人間が身体を持ち、そこから計算能力が出てくる。さらに計算機を作り、その計算機は身体的な限界を超えて計算が可能になる。機械は眠ることなく、疲れることなく、またミスも最小限に抑えて働くからだ。そこでロボットやアバターが生まれる。そして今やそのロボットやアバターが身体能力を持ち、人工知能をさらに活性化する。
ここでそもそも身体能力とは何かということを問う必要がある。それは本シリーズで私が今まで書いてきて、さらにこれから書こうとしているもの全体が説明する。まず私たちは生まれ、成長し、病になり、やがて死ぬ。それが身体を持つ生命の営みである。また生物はものを食べ、排泄する。また性行為をする。また他者からは身体を通じて認知される。毛づくろいをする。それは移動する能力を持つ。またそれは自らを調整する能力を持つ。それは五感の能力を持つ。ここまでは多くの生物が持つ能力だ。
さらにそれは精神と交互作用をする。精神を生み出し、精神から影響を受ける。また目的意識を持って、自然に働き掛ける。つまり労働する能力がある。それは鍛錬され得る。それは踊ったり、演じたりする。それは衣装を身に着け、化粧する。そんなところだ。
私はこの中で、他者との相互作用をするということが身体の能力として最も根本だと思う。具体的には、人と握手をし、抱擁する。相手の顔を見て、どう行動するかを決める。一緒に踊り、同期し、気を受け取る。食事も人と一緒にする方が楽しい。人の看病をし、また看取られる。
そうすると身体はそもそも他者に開かれているということが言える。そして今やその身体を通じて、他者の身体の感覚を共有することができる。これがここで論じたい第二の観点である。
先の玉城絵美の身体主体感と身体所有感は、古典的な認識の枠組に留まっているように見える。つまり私と他者が二元論的に前提されているものだからだ。しかしそこから、仮想世界における身体もまた自分の身体だと思う感覚に話を進める。仮想世界におけるアバターの持つ痛みもまた自らの痛みとして感じ得るのである。ユーザーがアバターを操縦する。そこでは私が主体で、アバターを所有する。ところがその際に、操縦することが目的なのではなく、そのアバターが感じる身体感覚をユーザーが共有できるかということが問題となる。つまりアバターという他者もまた主体であり、何かしらを所有しているという感覚をユーザーも共有するのである。
その上で、先に論じたように、オリンピックの選手や乳牛という他者の身体データを分析し、それをアバターに移植する。それがユーザーに伝わる。
もう少し厳密に言えば次のようになる。体験共有の仕方はふたつある。ひとつは、他者、ロボット、仮想空間のアバターも含めた誰かの身体を使って、リアルタイムに何かを経験する手法である。これは借りて来た身体の感覚と自分の身体をシンクロナイズさせるか、自分の身体を他者に預けてしまうことによって、可能となる。もうひとつは、他者の身体感覚をアーカイブ化して、事後にその経験を得るというものである(p.76ff.)。
そこでは私たちは自分の感覚を超えて、他者と繋がる。主体、所有という認識の古典的枠組みを使って思索を進め、他者と身体感覚を共有することで、自他という二元論を超えていく。
他者は身体を持っているから他者なのであり、私もまた他者からは身体を持った存在として認識される。互いに身体を持つ存在して、世界を創っている。
さて身体と他者ということを議論してきたが、もうひとつ、最後の論点をここで出したい。
出口康夫は「「わたし」としてではなく「われわれ」として生きていく」という論稿の中で、「わたし」というのは、身体や道具や環境要因なども含めて、複数のエージェントが私の身体を動かしていると考える(注2)。つまり「わたし」を含む複数のエージェントが全体としてひとつのシステムとなっている。それを自己と捉えるべきなのではないかと提案している。そしてそこには他人も含まれる。「わたし」も「あなた」も「われわれ」というひとつの自己を構成している要素であると考えるのである。「われわれとしてのわたし」という主張がここで出てくる。また現代の情報環境ではAIやロボットも「われわれ」の一部なのである。
さらに出口は、鳴海拓志との対談「わたしとアバターと自己と:メタバース時代の「自己」とは何か考える」において、アバターもまた「われわれとしてのわたし」を構成していると言う(注3)。以下、引用する。
「アバターを持つことで、自己が「We化」し得る、ないしは「自己のWe化」が前景化しうると思います」。
「Self-as-Weでは、「自己=We(われわれ)」だと捉えています。「I」は「We」の一員ではあるけれど、自己と完全にイコールの存在ではない。アバターとしての自己、ないしはアバターと自己の関係もこのようなWeという枠組みで考えると、新しい視座が開けるのではと考えています」。
「アバターを含んだWeは生身の私をも含んでいます。アバターがバーチャルなメタバースの住民だとしたら、生身の私はリアルな世界の一員です。アバターを持ったWeはバーチャルとリアルにまたがった存在なのです。匿名化されたアバターを含むWe全体を、自らが属しているバーチャルとリアル、両方の世界に対して責任感を持つように設計していくことが重要です」。
「私は、Self-as-Weのメンバーを結びつける一つの原理は「共冒険性」だと考えています。一緒に冒険をすること、共にリスクを冒すことです。さらに言えば、身体を賭ける、失敗したら痛みを伴うという身体的コストを共同で引き受けることでもあります。例えば、身体に食い込む重さを感じながらお神輿を一緒に担ぐ行為は、一緒に転んだり、下手をしたら怪我をしたりする危険と常に隣り合わせです。でも、だからこそフェローシップ、仲間意識が生まれる」。
ここでアバターは複数であっても良い。
「「この生身の私だけが自己で、その自己が複数のアバターを使っている」というように、「自己=わたし」とアバターたちの関係を主従関係のように考えるのではなく、「生身の私」と「私が使っているアバターたち」を一つの共同行為を行う仲間の集団として捉え、その集合全体(We)を自己と捉え直すということです」。
出口康夫を参照し、リアルの世界にいる私もアバターもともに身体を持ち、そこで私たちという関係を創っているのだと結論付ける。
この出口の理論と玉城の身体の共有理論を併せると、メタバースの理論が補強できる。もちろん出口と玉城の理論はそもそもロボットやAI一般に当てはまるものであって、メタバースの理論を補強するために創られたのではない。しかし情実下ごとく、実に興味深い理論がここにある。
まずはメタバースにおいては身体性が強調される。それは情報化社会が生み出した究極の産物である。
またそもそも私の身体とは別の身体を持った存在が他者である。メタバースの世界においては、アバターは他者になり得る。そしてその他者と私は繋がる。
さらに私と他者とで私たちが成立する。するとアバターという他者を含めて私たちになり得る。
そういう世界を真の世界と呼んで良いのではないか。
バーチャル美少女ねむは、メタバースの世界こそが真の世界であると、プラトンのイデア論を使って説く。私たちの現実の世界は、実は本質であるメタバースの世界の魂が現実に落としたひとつの影に過ぎないと言うのである。メタバースの世界では、私たちは現実よりもひとつ上の次元にシフトし、現実の世界では知覚できない自己のイデアと向き合うことができると言うのである(p.197f)。
イデアが真の実在で、その不完全な模写として現実があるというプラトンのイデア論をそのまま使い、しかしメタバースは元々現実を模倣する疑似現実であり、さらにそこから自律的な仮想世界として出現したものであったはずで、つまり現実を映し出す世界なのに、それをひっくり返して、その人工的な世界こそがイデアなのだと考える。この転倒は興味深い。
これは本当の世界など存在しないという小賢しい教えを超えている。実際私たちは、仮想世界に遊んでいると、世間からは、お前は現実から逃げているのだと言われる。仮想世界はあくまで仮想世界なのである。しかしそういう世間の圧力の中で、あえて仮想世界の方が現実なのだと、このメタバースの住人は言う。
ポストモダンの主張では、私は偶然の中で編まれたものであり、つまり私は他でもあり得たし、私が私であることに必然的な根拠はないと考える。そもそも人間の本質など存在しないのであって、それは制度が生み出したものに過ぎないと考える。
例えば鷲田清一は、衣装について論じた論稿の中で、まったく以って偶然的な存在である私が、衣服を着ることで共同体的な表象を纏い、そのことによって私の無根拠性が隠蔽されると言う(p.130)。これはポストモダンのひとつの典型的な主張である。服を着るという共同体の中での作法が、私という存在の偶然性を隠蔽する。
ここで言われているのは、本当の自分など存在しないのだということであって、私は実につまらない主張だと思う。メタバースの世界では、私たちはアバターに自由に衣装を身に付けさせて、身体性を持たせ、自由に動かしていく。しかしそれは本当は逆で、メタバースの世界こそが真の世界で、メタバースを動かしているはずの私たちの現実の方が、本質の陰に過ぎないというのである。この屈折した転倒は評価すべきである。仮想空間の自分こそ本当の自分なのだと言い張ることができるのである。これはポストモダンを突き抜けている。
今回はメタバースの全容を問うものでなく、その身体性だけに着目して論を進めてきた。最後にメタバースの案内をしておく。
このメタバースは、スマートフォンでも楽しめるのだが、パソコンがあった方が良い。またヘッドセットのようなVR機器も用意する必要がある。
すぐに始められるものとして、Meta Quest 2という一体型のVRヘッドセットもある。一体型とは、ヘッドセットをPCとケーブルで繋いだりすることなく単独で使うものである。ヘッドセットを被ったまま前後左右自由に動くことができるし、VRの中で他者と相互作用ができる。自分がバーチャル空間の中にいるという強い没入感を体験できる。
先に広義のメタバースと呼んだ「あつまれ どうぶつの森」は、2020年3月に発売され、価格は6,578円で、この程度なら学生でも買える。
また今盛んにテレビコマーシャルが流れているMeta Quest 2は、ヘッドセットなどがセットで59400円。学生がアルバイトをすれば買えない金額ではない。
またアバターで収益化もできる。その際には、仮想通貨とウォレットが必要になる。しかし今回はここまで踏み込まない。この経済性に着目する必要はあること、また世間でメタバースは利益が出ると受け止められていることは認識はしている。
私が考えているのは、パソコンが大学院生が買える程度の値段になり、そこで様々な複雑系のシミュレーションが、貧乏学生の手によってなされたということと同じく(吉永)、これから様々なメタバースの体験が広がり、進化するだろうということである。
身体の様々なシミュレーションが行われれば、このシリーズで展開している身体の様々な能力が明らかになるだろう。
注
1 拙著4冊は、情報化時代の所有の問題を論じたものである。
2 出口康夫「「わたし」としてではなく「われわれ」として生きていく」
http://furue.ilab.ntt.co.jp/book/202002/contents1.html
3 出口康夫×鳴海拓志対談「わたしとアバターと自己と:メタバース時代の「自己」とは何か考える」
参考文献
岡嶋裕史『メタバースとは何か – ネット上の「もう一つの世界」 -』光文社、2022
加藤直人『メタバース – さよならアトムの時代 -』集英社、2022
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—- 『知的所有論』御茶の水書房、2013
—- 『他者の所有』御茶の水書房、2014
—- 『所有しないということ』御茶の水書房、2017
玉城絵美『Body Sharing』大和書房、2022
バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論 – 仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界 – 』技術評論社、2022
吉永『「複雑系」とは何か』講談社、1996
鷲田清一『モードの迷宮』(初出は1989)筑摩書房、2021
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x9332,2022.12.14)