高橋一行
C. マラブーの新著『抹消された快楽 クリトリスと思考』はもうその題名を見ただけで、私の手に負えるものではないと思う(注1)。冒頭に「クリトリスとは性的な想像力という大きな履物の中に潜んでいる小さな石である」と彼女は書く(マラブー p.5)。それは「快楽にしか役立たない — それゆえ、「何の」役にも立たない— 唯一の器官が持っている秘密である」(同 p.5f.)と続ける。
J. デリダの弟子で、ヘーゲル論を書いて世に知られ、ハイデガー論を続けて出して、脳論でフロイト批判をし、今やマラブーは現代思想のスターになった感がある(注2)。その彼女が、学生から「男根中心主義をそれほど論じているのに、なぜクリトリスに言及しないのか」と問われて、衝撃を受けて、本書を書き始めたと、これは訳者が後書きに本書成立の事情として書いている。
マラブーは男根を中心に物事を考える男性優位の思想を、デリダに倣って、男根ロゴス中心主義と呼び、それを批判する。特に前中期のJ. ラカンがその批判されるひとりであることは、これは以前私が論じたJ. バトラーと良く似ているし(注3)、これは多くのフェミニストと共通している。そして多くの人は、男根に対立するものとして、ヴァギナ-子宮(こういう表現がマラブーの訳書に使われているので、それをそのまま使う)を考える。これは女性の生殖器官である。女は生殖器官としてのヴァギナ-子宮に還元される。そこでは「女の快楽は一度も問われていない」とマラブーは書く(同 p.16)。しかしそれに対して、クリトリスは生殖に関わらない。純粋に女性の「快楽にしか役立たない」器官であるとされる。マラブーはきわめて戦略的に、その器官にこだわるのである。
つまり男根vs. ヴァギナ-子宮という従来からある対立を克服して、後者を称揚するというのではなく、新機軸としてクリトリスに着目し、それが決して男根vs.クリトリスという対立になるのではなく、またヴァギナ-子宮vs.クリトリスを主張するのでもない。「不在と見なされ、切除され、切断され、否認された存在。クリトリスは否定とは異なる仕方で、精神、身体、無意識のうちに存在しうるのだろうか」とマラブーは問うのである(同 p.10)。
M. フーコーはその大著『性の歴史』において、一行もクリトリスに言及せず(同 p.16)、フロイトやサルトルにとって、クリトリスは「縮小され、切断され、去勢されたペニス」でしかない(同 p.60)。ボーヴォワールにとっても、「結局、クリトリスはヴァギナの快楽に優先権を与えなければならない」ものに過ぎない(同 p.61)。そう言われると、マラブー以前に、レズビアンを公言している人たちやフェミニストやフランス現代思想がなぜクリトリスを取り挙げなかったのか、不思議なくらいだと思う。
しかしマラブーはていねいに資料を探していく。C. ロンツィというイタリアのラディカル・フェミニズムの先導者は、「女性器とはクリトリスのことである」と1974年の本の中ではっきりと書いている(注4)。
このロンツィの思想が評価できるのは、まさしく先の男根vs. ヴァギナ-子宮、男根vs.クリトリス、ヴァギナ-子宮vs.クリトリスという対立で物事を考えるのではなく、差異を主張しているところである。クリトリスを肯定すること、「自分の快楽がどこにあり、それが何であるかを知らずして自らを知ることはできない」とマラブーはロンツィに言及しつつ、「欲望の真の源泉を覚醒させる」べきであると書く(同 p.88)。
ここでこの議論の本筋には関わらないのだが、私自身の関心で少し横道に逸れれば、ロンツィはさらに主張を進めて、2017年には『ヘーゲルに唾を吐こう』という題の本を出す。そこでは例の、「主人と奴隷の弁証法」が批判される。つまり支配権を持つ主人に対して、奴隷が力を付けて、権力関係をひっくり返すという思想が批判される。フェミニズムは解放された奴隷の思想ではないと言うのである。
ロンツィの言うこと自体は正しい。劣位にある女性やクリトリスが、優位に立つべきだという話ではなく、同等の権利で以って並び立てば良いからである。しかしこんなところでヘーゲルを出されたのではヘーゲルが可哀そうだと私は思う。つまり「主人と奴隷の弁証法」は、若きヘーゲルが持っていたたくさんのアイデアのひとつに過ぎず、決してヘーゲルの考えを典型的に表すものでもなく、後年のヘーゲルが彫琢した概念でもない。世の中には時に、権力関係が転覆されることがあるだろうということに過ぎない。こんなところにヘーゲルを出さなくても良い。
さて、マラブーがその論理を進める上で、大きな役割を担っているもうひとりの思想家は、L. イリガライである。「女性器はひとつではない。少なくともふたつはあるが、ひとつずつには識別できないものだ。その上、女性にはもっと多くの性器がある」。これがマラブーの引用する、イリガライの主張だ(マラブー p.95, イリガライ p.30)。
女性は至るところに性器を持つ。ひとつの身体の部位で快楽を享受するのではない。このことが意味するのは、ひとつには、男根に対立する部位が問題ではなく、「能動/受動といった対の彼方へと快楽がもたらされる」ということである(マラブー p.99)。もうひとつ含意されているのは、性を性器に還元することを拒否するということである。女性は性の価値を剥奪されてきた。それは女性という自然性のせいにされていたからである。要するに、女はこういう身体を持っているのだから、こうあるべきだと、自然性を根拠に規範付けがされて来たのである。イリガライはそこを鋭く突く。
イリガライはしばしばレズビアンのためにその主張をしていると言われている。異性愛が自然であるという世間の主張に違和を唱える。マラブーは、唇を重ね、抱擁し合う女性たちを記述するイリガライの文章を引用しつつ、フェミニストは実際にレズビアンであるかどうかに関わらず、レズビアンの意識を持つことが必要だと言う(マラブー p.102, イリガライ p.270f.)。自然性を強要する異性愛と男性優位は通じるからである。
先に対立ではなく、差異が論じられ、ここでは支配的な単一の文化の押し付けではなく、複数性が論じられる。
イリガライに触発されつつ、マラブーはここでヴァギナ-子宮とクリトリスと、どちらが優位かという議論をするのではない。両者の差異と隔たりがテーマとなる。マラブーの本の最後のふたつの章では、「クリトリスはアナーキストである」(マラブー p.161)とマラブーは結論付ける。クリトリスは特権ではない。女性の抵抗の源泉ではあるが、それによって、新たな権力を創り出そうということではない。支配や統治は最初から否定され、欠如しているのである。
またそこから師匠のデリダも批判される。デリダは確かに男根ロゴス中心主義を脱構築した。しかしデリダとは異なる方法で、つまり女の快楽を問う仕方で、脱構築ができないか。クリトリスは男根をモデルにする必要はなく、またクリトリスの方が男根よりも強力なのであると言う必要もない。二項対立とは異なった論理において、「私はクリトリスを思考する」。いやむしろ、「私のクリトリスは思考する」とマラブーは書く(同 p.160f.)。
円地文子の『朱を奪ふもの』(初出1956)、『傷ある翼』(初出1962)、『虹と修羅』(初出1968)という三部作を取り挙げる。これは谷崎潤一郎賞を受賞している。だからというのではないが、円地は谷崎を思い起こさせる作家である。いささか倒錯しているのではないかというくらいに性にこだわり、江戸時代の頽廃的な耽美文芸の影響を受けている。しかし男から見た女を描くのではなく、女が自らを描くという点で、円地は卓越した女流作家である。
先に書いておくと、この長編三部作が扱うテーマは重い。性的な告白が続き、私の手に余るのではないかと思う。
小説は半ば自叙伝の体裁を取っている。円地の父親は著名な国語学者の上田万年であり、彼女は父親の影響で早くから漢文学や歌舞伎、浄瑠璃に親しんで、若い時から戯曲家として認められる。小説の主人公も同様である。明治の終わり頃の生まれで、大正時代に少女時代を過ごし、昭和の戦前、戦後を生き抜く女性の物語が展開される。
彼女は望まない結婚をさせられ、しかし結婚の直前に、別の男と肉体関係を結ぶ。結婚後もその関係は続く。相手は女たらしであるが、主人公の方から積極的に付き合いを求めている節がある。女性にだけ姦通罪が適用された時代の話である。
その後、この第一の男は主人公の積極性に付いて行かれず、逃げ腰になり、やがて第二の男となる若い男を紹介し、自分は身を引き、間もなく病に倒れる。第二の、と言うのは、主人公は夫には愛情を抱いていないから、夫は数えないで、主人公が愛した男はふたりいたということであるが、このふたり目の男は先の男と違い、不器用で、うぶで、知り合ったのちに容易に関係は進まない。そして戦争を挟んで、10年の間隔を置いてふたりは再開する。その間に女は、結核性の乳腺炎で乳房の片方をなくし、戦後すぐに今度は癌で子宮を摘出されている。「女ではなくなった」とか、「女の性質を失った」とか、「片輪者」だという言葉が何度も使われ、「化け物のような自分の肉体」(『虹と修羅』 p.199)という表現さえ使われる。剰え(あまっさえ)、主人公は司馬遷を自らに結び付けるのである。宮刑を受けた、つまり男でなくなった二千年前の歴史家に思いを寄せる。そして「司馬遷は失われた性の執着を全部史記の中に注ぎ入れた」と作家は書く(『朱を奪ふもの』 p.9)。これは伏線である。
ところが主人公は女でなくなった訳ではなかった。ちゃんとこの男と性行為をするのである。ここがこの長い小説の一番の見せどころで、子宮摘出後の予後が悪く、不安を抱えながら、しかし女は行為に及ぶ。そして性行為のあとは、さすがに手術後の敏感な部位に充血があり、女は慌てて病院に行くのだが、医者に心配することはないと言われ、そのことを男に告げる。男は女に言う。「そう、それは良かった。じゃあ、もっとあなたに対して、無遠慮に振舞えるわけだ」と(『虹と修羅』 p.255)。
ここで少なくとも主人公の眼から見て、男も性的に満足をしていることが窺える。女はそれをうれしく思う。
乳房を片方失い、子宮を失ってから、むしろ女の本領発揮というところで、このあたりの生々しさはもう、凄いとしか言いようがない。「自分の破壊された生殖器・・・いわば荒廃した女の墓穴に再び何ものも招き入れようとは夢にも思わなかった」のだが、同時に「こういう日が来ることを乾くほど待ち望んでいた」のである(同 p.242f.)
血のイメージが何度も語られる。初潮の時の、その血糊の記憶。最初の男との最初の性行為のあとの血の滲み。そしてふたり目の男との、子宮摘出手術後の性行為のあとの出血。
物語のクライマックスはこのあとに来る。男は肺癌で急死するのである。主人公はもう二度と男と性行為をすることはなくなる。代わりにと言って良いと思われるが、主人公は小説を書き始める。男に勧められての話である。「女が男によって動かされ、変えられ、やがてそのことが逆に男を変えていく、そういう男女の愛情や相克の相の内に自然に形づくられて行く人間の歴史を描いて見たい」(同 p.299)。
女性性を失ってからなお性行為をし、しかし主人公も相手の男もともに配偶者がおり、その関係が長くは続かないかもしれないということが暗示され、実際に男は間もなく亡くなって、関係は永遠に閉ざされる。しかし女の性は、主人公が小説を書くことで、つまり小説の中で確立される。女の性がいよいよ小説の中で開花することが示唆されて、この小説は閉じられる。
福田和也は、病気と日本文学を論じた本の、最終章に円地文子のこの三部作を挙げる。そこでは11人の小説家、文芸評論家が論じられており、円地の小説がこの本の締め括りに最もふさわしいものであると福田が考えていることが分かる。彼は「女性の身体と文学というテーマを論じるにあたって、これ以上適切な作品は見当たらない」と書く(福田 p.259)。そして円地の小説の次の箇所を引用する。主人公は、戦後すぐの、医療環境の良くない時代に子宮摘出手術を受ける。予後が良くない。「生け殺しのような状態に縛り付けられて、毎日切除された後の子宮口にラッパ型の金属を挿みこまれ、数人の男の眼に両股を開いたカエルのような姿勢をさらして、冷たい液体で傷あとから膿を洗い出されている」(円地 p.83, 福田 p.275)。
実際ここまで露骨に書くのかという印象を私は持つ。男には書けない。この強さは何なのか。
小説家は主人公を自虐的と表現するが、そうであるのは作者自体である。福田は、「この作品で円地文子は明確に体を張っていますよね」と言うが(同 p.273)、いささか露悪的と言うべきである。
しかしこの身体上の喪失があって、主人公は作家として自己形成をする。福田は、「言い方が難しいけれども」と断った上で、「女でなくなることと作家になることが、トレードオフになっている」と書く(同 p.280)。私はそうではなく、主人公は、「女でなくなった」と大騒ぎをするが、しかししっかりと好きな男と性行為をして、女であることの実感を得て、しかもその男の助言で、女は小説を書き始めるのである。身体上の喪失が、女としての主体性を確立させる。それも二重にである。まずは性行為を通じて、次いで小説を書くことによって。前者において、女はすでに満足しているが、それは永続しないことが予感されている。そして後者もまた、男女間のやり取りの中で推奨され,つまり男から触発されて、取り掛かられるのである。
実際、男と性行為をし、その後、男と付き合いを深めつつ、その際に男から小説を書くことを勧められるあたりは、この小説の中で主人公が最も幸せを感じている時ではないのかと思う。新たに書き始められる小説は女の性を主題とするものだが、直接的には、主人公の父親の妾だった女と、主人公は戦後に交流があり、その彼女の突然の死に触発されて、この自由奔放に生きた女の一生と、主人公自身の生き方を重ね合わせて、小説を書くことを決意するのである。ファザーコンプレックス気味の主人公が、父親とその妾との男女関係に思いを馳せるとき、いささか複雑な気持ちになる。この人は「女として生まれ、生きることには悔いのない生涯を送ったのではないか」と思いつつも(『虹と修羅』 p.264)、自分とはあまりに異質であると思い、その人の人生を小説化できるのかと主人公は悩む。しかし男は強く小説を書くことを勧める。主人公の想像力が女の像を作り上げることが、男が望んでいることである。それはその父親の妾の人生だけでなく、むしろ主人公の女としての生き方が問われるべきものになるはずだ。男が考えていたのは、そういうことではなかったか。そしてそういう会話をしているときが、一番主人公の充実した時間ではなかったか。しかしそれはあまりにも短く、男はそのときにはもうすでに病を発症していたのである。
主人公が小説を書くことを決意して小説を閉じるのは、プルーストを思い起こすまでもなく、小説のひとつの定番である。この小説の中では男の尽力もあり、主人公はすでに小説を書き始めており、それは世間で好意的に受け止められ始めている。そこで小説は終わる。
もうひとつ書いておくべきは、主人公は子宮癌に掛かり、長く苦しむ。また第二の男も肺癌になり、こちらはあっけなく死ぬ。癌というロマンティックな響きのない病がこの小説を支配している。
ここでロマンティックな響きのない病という言い方をしたのは、S. ソンタグを受けての話である。彼女は『隠喩としての病』という本の中で、病は隠喩(メタファ)として使われること、またその際に、結核は上品で繊細な感受性を示す病だが、癌は無残で、苦しみが付きものの病だとされている。結核はロマンティックだが、癌はむしろ悪をイメージさせるものである。
また池田功は、医学の進歩に伴い、文学に描かれた病の表象が変容していく様を描く。その結論を使えば、結核は、医学の進歩により、治療可能な病となって、その隠喩は変わってくる。しかし癌は今なお完治が難しい病であって、ロマン化されず、痛みを伴う病であることはなお変わらない。癌に苦しみの中でもがきながら死んでいくというイメージは付き纏うのである(注5)。
実際ロマンティズムというものが、どうしても男の目から見た感覚のように私には思えてならない。例えば、『風立ちぬ』に見られる堀辰雄の描く世界は、つまり結核に掛かり、サナトリウムで静かに過ごす女と、彼女に付き添う男の紡ぐ愛の物語は確かに美しいが、それは男の感覚から描かれたものではないだろうか。一方、癌は男のロマンを拒絶する。それは無機質で、冷酷である。まして子宮癌とあれば、これは円地文子にしか書けないものである。
マラブーは子宮ではなく、クリトリスを論じ、円地は子宮を摘出された女の性を描く。女の性はひとつではない。哲学者は複数の女の性を語ることで、西洋哲学の枠組みを揺さぶり、小説家は小説の中の主人公に小説を書かせることで、女の性を成就させる。
注1 原文は2020年に出て、訳書は2021年8月25日に出ている。本稿は訳書を入手してすぐに書き始められた。
注2 本サイト「マラブーのエピジェネティクス理解を問う」、「X主体の論理(6) 否定性から出現する主体(1)」、「主体の論理(7) 否定性から出現する主体(2)」で私はマラブーを論じている。
注3 本サイト「主体の論理(3) 性的主体の論理」で論じている。
注4 ロンツィの邦訳書はない。また英訳や仏訳もなさそうであり、マラブーはイタリア語の原著を読んでいる。
注5 柄谷行人も、ソンタグの主張を受けて、日本近代文学における結核のイメージを論じている。これは次回扱う。
参考文献(アルファベット順)
円地文子『朱を奪ふもの』(初出1956)、新潮文庫、1963
—- 『傷ある翼』(初出1962)、講談社文芸文庫、2011
—- 『虹と修羅』(初出1968)、講談社文芸文庫、2013
福田和也『病気と日本文学 近代文学講義』洋泉社、2012
池田功「日本近現代文学に描かれた結核と癌の変容の考察」『明治大学人文科学研究所紀要』Vol.74, 2014
イリガライ, L., 『ひとつではない女の性』棚沢直子他訳、勁草書房、1987
柄谷行人「病という意味」(初出は1979)『日本近代文学の起源』1980
マラブー, C., 『抹消された快楽 クリトリスと思考』西山雄二、横田祐美子訳、法政大学出版局、2021
ソンタグ, S., 『隠喩としての病い』(原文は1978、同年『思想』に訳出される)富山太佳夫訳、みすず書房、1982
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x8334,2021.10.04)