病の精神哲学11 精神の出現の偶然性とその絶滅の必然性について

高橋一行

 
10より続く
 
 思弁的実在論または新実在論が提起した問題は、カントの物自体をどう解釈するかという問題である。それに対して、まずヘーゲルの解釈があり、そしてさらに近年の研究では、カント自身がのちにこの問題に新たな解決案を提示していたことが知られている。それは私がこの近年、このシリーズでこだわっていた問題である。思弁的実在論、または新実在論は、あらためて私の問題意識が極めて現代的なもので、かつ近代哲学の根源に関わるものであることを示してくれたと思う。
 もうひとつ私が関わって来たのは進化論である。その提起する問題は、ここでも思弁的実在論または新実在論の提起する問題と重なる。つまりメイヤスーは人が出現する以前に自然が存在していたということがその主張の根拠になっているし、ブラシエの場合は、精神を持ったヒトが絶滅するかもしれないというところに思いを寄せるべきだと問い掛ける。それはまさしく進化論の提起する問題なのである。
 私は「進化をシステム論から考える」(1) – (12) + (補遺1)において、進化の機構を検討してきた。それをまず復習してみたい(注1)。
 拙論第1章で取り挙げたのは以下のことである。
 まず精神が出現する以前の自然の中に存在しているのは、偶然と物理法則だけである。物理法則に従って、物質ができ、その物質は物理法則の下で、ランダムに動く。また生物は物質が進展して生まれて来たが、しかし生物自体に即して考えれば、それは生物ではないところから、つまり無から生まれたのである。同様に、精神は生物が進化して生じたのだが、精神自体から考えれば、それは無から生まれたのである。そのことをまず押さえておく。
 それから進化論においては、遺伝子が主役になることが多いのだが、それは生物が出現してからの話であり、私は進化論を物質の進展から、つまり遺伝子が生まれる前の段階から考えて行くべきだと思う。そこで重要なのは情報という概念である。田中博を援用して、次のように言うことができる。物理的存在の多様性が、偶然の役割を高め、統計的頻度の偏りを生じさせる。これが情報である。そこから秩序形成ができる。重要なのは、人間が出現する以前に、いや、生物が出現する以前に、物質の存在様式に偏りがあり、それが秩序形成に繋がるということである。物質はそういう傾向を持っている。これは汎神論でも汎心論でもない。そしてこれが生物が生まれる前の世界なのである。
 かねてから思っているのは、メイヤスーや彼が引用するヒュームには、この統計の観点がない。彼らが議論するのは確率である。しかし偶然が偏りを持ち、そこから秩序形成ができるという観点を持つべきだろう。
 第2章と第3章では、ラウプの絶滅論が取り上げられる。そしてこれはもう、ブラシエが言いたいことをブラシエ以上にはっきりと言っていると私は思う。ブラシエは太陽系の絶滅に言及する。それは絶対的な絶滅の話である。思想的なインパクトはある。しかしそこまで言われると、それは可能性が恐ろしいまでにも低い話になってしまう。つまりそれは数百億年先の話なのである。しかしラウプに言わせると、この世に出現した種の99.9%は絶滅しているのである。人間もこの自然法則の例外ではない。つまり容易に絶滅し得る。絶滅する可能性は極めて高い。それはもう必然的なのだと言って良いほど高く、それもそれほど遠い将来ではない。そういう認識をすべきである。
 さらにグールドがそれを補強する。グールドに言わせれば、バクテリアのように進化を拒否した生物は、少々の環境の変化があっても生き残れるのである。しかし人間のように、高度に進化することを選んだ種は容易に絶滅する。人間は生物の中で最も容易に絶滅し得る種なのである。グールドの議論の根本には、偶発性と理不尽性がある。これが彼の進化論の根本にある。
 第4章から中立説の説明になる。ここから本論であると断っている。
 生存競争と最適者生存というダーウィニズムの原理ができ、さらにネオ・ダーウィニズムは遺伝子の突然変異と自然淘汰というふたつの原理を確立したのだが、中立説はそれに挑戦する。中立説とは、自然淘汰に有利でもないし、また不利でもない中立的な変異が遺伝的浮動によって集団内に広がり、進化が起きるという考え方である。ネオ・ダーウィニズムにおいては、遺伝子の突然変異は偶然起きるにしても、それが長い時間掛けて、淘汰にさらされて進化が起きると考えているのだから、重要なのはこの自然淘汰であり、その原理に中立説は抵触する。
 それに対して、木村資生自身は、次のように説明している。まず遺伝子レベルでの変異と表現型の変異の違いが重要だ。自然淘汰によらない中立的な突然変異が蓄積され、それが進化に大きく関わっているが、表現型に発現するためには、正の自然淘汰である必要があり、そこに自然淘汰が間接的に関わっている。そのように考えて、ネオ・ダーウィニズムとの融和を図る。しかしここで考えるべきは、表現型レベルでの進化の前に、遺伝子レベルでの変異の蓄積が重要だということである。その上で、遺伝子レベルでの変異と表現型の変異の違いを前提に、前者は中立的になされるが、後者に自然淘汰が掛かるので、うまくネオ・ダーウィニズムと調和すると考えるのである。
 このことを特に、カンブリア紀に爆発的な進化の多様性が現れたことを例に出して説明する。これはおおよそ今から6億年前から5億5千年ほど前に多細胞生物が急激に現れたのだが、しかしこれは10億年前から9億年前に掛けて、遺伝子の多様化が起き、それが蓄積されて、一気に形態レベルでの進化に繋がったのである。従って、この遺伝子レベルでの変化がどのように起きたのか、その仕組みの解明が重要だというものである。その変化は自然淘汰に掛からず、しかもすぐに表現型の変化に影響せず、無駄なものまで含めて様々な変化の蓄積がある。その重要性に着目したい。
 さらにそこから、遺伝子レベルでの変異は中立的であるだけでなく、少々有害なものであって、集団内に広がるとする説が出て来る。明らかに負のものは淘汰されるのだが、しかし少々不利であるという程度のものであれば、生き残り、広がって行く。そもそも自然淘汰の正の変異は数が少なく、このやや有害といった程度のものが数が多いので、実際に広がるのは、この弱有害突然変異なのである。
 さらにこの中立説を進めると、ここから自然淘汰を完全に否定するものまで出て来る。遺伝子レベルだけでなく、表現型レベルにおいても中立説は成り立つのである。例えばカバに突然変異が起きて、足が退化する。これは生存に不利な変異であるのだが、水辺で何とか暮らせるのなら、中立的か、やや不利といった程度の変異である。しかしその子孫が川に出て、さらに海に出ると、生存に有利なものになり、これで種分化が起きる。今日のクジラやイルカの祖先となったのである。このように表現型での変異も中立的に起きる。変化は偶然起き、あとはその種が主体的に環境適応的に行動する。
 さてここで中立的な遺伝子の変異は決定的に重要で、しかし表現型レベルでの変異は、カバの例はあるけれども、これはまだごく一部の進化の話で、全体的な説明はまだ十分なされていない。ここから次の話になる。
 さて第7章では、表現型レベルでどのようにして変異が起きるかということが主題である。遺伝子の突然変異が進化を説明するのではなく、それは中立的に勝手にどんどん起きていて、その変異は蓄積されている。それをどう使って、進化がなされるのかということが問題だ。それが、進化発生生物学である。遺伝子の発現調節が問題となる。遺伝子をどう使って行くのか、それと協調して働く分子ネットワークの進化の役割を解明する。
 ここでエピジェネティックという言葉を使おう。発生機構論とでも訳すべき言葉だが、遺伝子の変異がなくても、細胞分化の過程で、様々な変化が発生することが知られている。環境の変化を受け、遺伝子の発現のメカニズムが遺伝子の機能を変化させるのである。遺伝子を発現させたり、沈黙させたりする能力が分子ネットワークにあるというのである。すると進化は、まずは遺伝子の変異があり、それが蓄積され、今度は遺伝子の変異に直接は拠らず、それらを使ったエピジェネティックな変異がある。さらにそれらの相互作用によって、表現型の変異がなされると考えるべきなのではないか。
 第8章で取り挙げる田中博の進化システム生物学は、この進化発生生物学の遺伝子発現調節ネットワークを重視し、さらにそこに細胞間の配置などの役割も考えて、分子ネットワーク全体が進化に関わっていると考え、また代謝ネットワークの役割も加えた理論を提唱している。
 第9章で複雑系を説明し、その上で金子邦彦の複雑系に話を持って行く。複雑系はまさしく進化論を説明するために創り出された理論である。また実験と観察という自然科学の方法とは異なって、パソコンでシミュレーションをするという手法が使われる。
 具体的な金子理論は、第10章と第11章でなされる。複雑系とは相互作用を通じて如何に秩序形成ができるかということを説明する。ふたつの分子集団の役割分担から始まり、種の中の個体間の相互作用までを論じる。
 すると必ずしも、遺伝子の変異があって、表現型の変異が生じるという順に進化がなされる訳ではないということも明らかになる。遺伝子系が同じなのに、表現型の分化が先にあり、その上で、それぞれの集団に遺伝子の変異が生じ、それで以って、表現型も遺伝子系も異なって種分化がなされる。自然淘汰ではなく、相互作用が進化を駆動する。
 第12章では、中沢弘基を参照して、無機質からどのようにして高分子ができるかということを論じる。この物質の生成を論じてようやく、進化論全体が論じられる。私見では、ここでも複雑系の理論を使うとさらに整理ができるはずである。
 補遺1では、社会進化論、優生学の愚かさをあらためて指摘している。人間は生物の中で最適者ではなく、また社会の中で最適の個人だけが生きる資格がある訳ではない。
 さて以上が、拙著「進化論」の要約である。偶然と数学が人間の出現する以前の自然にあるとメイヤスーは考えている。私はその数学とは、物理法則であり、それはニュートン物理学だけでなく、自己組織性の法則をもそこに含めるべきだと考えている。徹底的に偶然に依拠する世界の中に、その偶然性を利用して秩序化を図る法則がある。
 遺伝子の突然変異があり、それに基づいて表現レベルでも突然変異し、その中で淘汰が掛かり、環境に適したものが生き残るという進化観は、根本的に考え直さないとならない。遺伝子レベルでの突然変異は中立的ないしは弱有害なものであり、それが蓄積されて行く。その上で、その蓄積を活用して、表現型レベルの進化は環境に適合するようになされる。ないしはここでも中立的または弱有害な変化が生じる場合があるが、しかしそのようにして生じた種は自ら主体的に環境に適合するよう、ニッチを求めて行く。
 当然それでも環境に適合できない種はたくさんあるだろうから、そういったものは滅びるのだろうが、しかしより重要なのは、多くの種が環境に適合していても、その環境の方が、火山の噴火だとか、隕石が降って来るとかの理由で変化し、その環境に適合していた種も理不尽に滅びて行く。そういった進化観が語られる。
 
 さらに精神を持ったヒトの出現にはより多くの偶然性が付きまとう。以下は「進化をシステム論から考える 補遺2」として書くべきことである。これだけの偶然があって、それが積み重なってやっとヒトは出現したのであり、そのことは逆に、人の脆弱性を示し、それは絶滅の必然性を示すことになるだろう。
 つまり裸で、二本足歩行をし、脳の容量が大きく、言語を用いる現在のヒトが、進化の過程の中で、突然変異があっていきなり出現し、それが生存に有利であったために生き残ったという訳ではない。裸化も、二本足歩行も、脳の肥大化も、言語使用も、それぞれ自己組織性の論理で出現し、それらはどれも最初から生存に有利であった訳ではなく、しかし他の要因と偶然に相まって、その不利な条件を何とか生き延び、今日に至っているのである。具体的には次のように考える。
 島泰三の『はだかの起源 - 不適者は生きのびる -』を参照する。その主張は副題にある通りである。ヒトが裸化したのは明らかに生存に不利である。生存競争があり、最適者が生き残ると考える考え方では、人の裸化は説明できない。
 よく知られているように、ダーウィンは性淘汰、すなわち「人間、最初はとりわけ女性が、装飾上の目的のために毛を失うようになった」と説明している(注2)。つまり無毛の方が異性を引き付け、生殖に有利になると考えるのである。しかしこれは間違っている。
 裸化した哺乳類は確かにいくつかの例がある。まず言えるのは、これはすべて突然変異で生じたのである。ヒトの場合も同じく、突然変異で生じたということができる筈だ。さて問題はその次である。この無毛の生物は、著しく生存に不適であり、多くは生き残っていないということである。生き残れたのは、体温と水分の調節が何らかの方法でできた場合だけで、極めて稀である。
 ではなぜヒトが生き延びられたかというと、タイミング良く知能が発達して、衣服を着、家に住み、火を使えたからである。著者は、この服か火か家か、どれかひとつが使える様になったときこそが、ヒトが裸で生き延びられる条件が備わったときであると言っている。そしてこれは実に偶然的なことで、地球が寒冷化するよりも早く、ヒトの知能の発達がたまたま生じたから、ヒトは裸でも生き残れたのであり、裸化の方が早く、知能が発達せずに、そこに寒冷化が進行したならば、ヒトは生き延びられなかったはずだ。そういう意味で、極めて偶然的なことなのである。そしてさらに知能が発達すると、裸化が一層それを促す。私たちは今現在そうであるように、この服と火と家のお蔭で、むしろ無毛の方が快適であり、そこで社会性をさらに複雑化させている。
 著者はさらに、人間の喉が気管と食道が同時に使えない構造になっていることにも着目する。チンパンジーは食べ物を食べながら、声を出すことができるし、呼吸もできる。ヒトは食事と発声を同時にすれば、気管に食物が詰まる。これも明らかに生存上不利である。不利な突然変異が生じると同時に、しかし神経系の発達もあり、言葉が使えるようになる。そうして精神活動が盛んになり、結果として生存に有利になる。
 つまり裸化も、気管と食道が同時に使えないことも、それは適応的形質ではなく、生存上明らかに不利なのに、その不利益を補う偶然が重なり、結果として、または回り道をして、成功を収めたのである。
 私は進化の過程で、常に最適者だけが生き残っているのではなく、少々不利な変異であっても、何とか生き延びることもあり、または自ら適する環境を求めて行くこともあると書いた。ここではさらにヒトの場合のように、偶然によって、その不利益を補えた場合もあると言うべきである。
 さて以上は、進化の過程で不利な発現が、脳の発達によって補うことができたという話だが、今度はその脳の発達自身も極めて生存には不利だという話である。しかし別のことが幸いして、それ自体は不利な脳の肥大化を抱えて、それでもヒトは生き延びたのである。
 更科功の『爆発的進化論 – 1%の奇跡がヒトを作った -』を読む。この本の主張するところも副題が示す通りである。脳は燃費が悪いから、それを維持するのに多くの食べ物を必要とし、従って、脳が大きくなること自体は生存に著しく不利である。しかしヒトは脳が大きくなるのと同時に、石器を使い始め、肉食をして、その摂取した栄養が脳を支えたのである。さらに脳が発達して知能が出て来れば、食物に火を通して、さらに栄養効率が良くなる。あとは相乗効果でうまく行く。
 同じ著者の『絶滅の人類史 – なぜ私たちが生き延びたのか -』でも、同じ話が繰り返される。さらに著者によれば、人類はたくさんいたのである。しかしヒトだけが生き残った。森林を追い出され、草原で直立二足歩行をするヒトは、速く走ることができない。草原で、肉食獣に狙われて、逃げるのも下手で、生存が際立って不利である。しかしヒトは子どもをたくさん残すことができた。出産間隔が短いし、前の子の授乳期間にも出産できるし、育児を共同ですることもできるからである。だから生存に適していたからでなく、ちょっとだけ出生率が高かったということが生き延びた要因としては大きい。とりわけ、共同の育児という社会性が出て来たことが大きく、それが不利な要因を克服したのである。
 ここで先の話に繋がる。肉食をし、社会性を育て、脳を発達させ、脳の肥大化自体は生存に不利でも、最終的に脳の肥大化はその欠点を補って、なお余りある成果をもたらす。火を使い、ますます消化が良くなって、脳に栄養が行く。石器などの道具を使い、食べ物をたくさん取ることができるようになる。
 著者によれば、直立二足歩行と脳の肥大化は関係がないということだが、因果関係はなくても、共に生存の不利な要因が克服されることで、あとは相互作用が生じ、手が使え、武器を使い、共同で猟を行い、また食べ物を遠くまで手で運ぶことができる。
 本書では、さらに私たちはまずいものでも食べるし、寒くても暑くても生きて行かれる。そういう偶然が重なって、人類の中で、ホモ・サピエンスだけが生き残ったと主張される。
 何度でも書くが、突然変異があって、脳が大きくなり、それが生存に適しているから生き延びたのではない。脳が大きくなること自体は生き残る上で不利であり、しかしそれを補うべく、他の偶然が作用し、その中でヒトはさらに脳を育て、結果としてその脳が生存に適するようになったのである。私は上述の著者たちの言い分の正しさを自ら証明することはできないが、しかしこのことだけは確かなことであると思う。つまり私たちは生存のぎりぎりのところで進化して来たのである。一歩間違えれば絶滅していたのである。
  
 さてともかくも脳ができる。それはどのようなものか。藤井直敬『ソーシャルブレイン入門 - <社会脳>って何だろう -』を読む。
 たくさんの脳が集まって社会を作っている。その社会を前提として、その社会に組み込まれた状態の脳の仕組みを捉える(p.14ff.)。また、その脳そのものがたくさんの神経細胞が集まって、円柱状の構造(カラム)を成し、そのカラムが集まって機能単位を作り、さらにその脳領域型の脳領域と繋がって、多層的なネットワークを作る。そのようにして出来上がっている。この多層的神経ネットワークが脳である(p.58f.)。つまりひとつの脳自身の中に他者性、複数性があり、それが他の脳と繋がっている。
 さて精神は単一ではなく、そもそも社会的である。つまりネットワークとして成り立っている。それは上に説明したように、それぞれ独立の主体が集まって、ネットワークを作っているという意味と、それぞれ独立した脳が、その中に他者を取り込む仕組みを持っているということである。
 さらに脳は進化の過程で徐々にできたものである。最初から高度な設計を持っていた訳ではない。脳には進化の痕跡がある。先に脳は神経細胞が円柱状の構造を持っていると書いた。脳が進化の過程でその能力を高めようとする場合、このカラムの数を増やして行くという戦略が採られる。しかしこのカラムはひとつひとつ独立して、本来汎用性を持つ。つまり状況によって、いろいろな機能を実現できるのだが、それが組み合わさって、役割分担をしている。当然、その機能は重複し、場合によっては矛盾する。ひとつの命令系統によって制御されているのではない。それは進化のその時の段階で、何とか切り抜けてやり繰りをしており、現在の姿はその遺産であって、いわば継ぎ接ぎだらけで、極めて非効率的なのである。
 ここに、澤口俊之を参照して補いたい。脳は機能の重複したカラムがたくさん集まってモジュールを作る。そしてそのモジュールが階層的に構造化されてフレームが成立している。このフレームもまたその機能が重複している。すでに原始的な哺乳類であるハリネズミにも、ヒトと同じ、視覚、聴覚、体性感覚の経路が存在しているそうである。知性は誕生の時からすでに多重であり、重複を基礎に拡大して来たのである(澤口 p.92ff.)。
 またしばしば引用されるものに、盲視という現象がある。脳の視覚を担当する部位に傷がつくと、視力が失われる。ところがその視力のない人が、何かが見えるという感覚を持っている場合がある。そして実際に目の前にある物を正確に見出すことができたりする。これが盲視である。どうして見えるのかと言えば、脳の中に、進化の過程で以前に視力を担当していた部位が機能しているからだと言われている。現在の脳が担当する部位が傷ついて、昔の能力が呼び出されるのである。これは脳が進化して今の機能を持つに至ったということを示している(大澤真幸p.48)
 大隅典子は上の脳論を補強する(大隅 p.221ff.)。脳が進化の産物であること、及び社会的なものであること。これが主張される。すでにカンブリア紀の大爆発の頃に視覚が生じ、霊長類もまたこの視覚を武器に、社会性を発達させる。さらに社会的な序列を複雑化させて、神経機能が発達して行く。霊長類は、自分の所属する集団の中で自らの位置関係を認識しなければならず、視覚は最も重要な能力である。
 さらに彼女は、ダンバー数で知られる人類学者ダンバーの仮説を参照する。それは、様々な霊長類の形成する社会集団の大きさと、脳の中での大脳皮質の割合を調べ、社会集団の規模が大きいほど、新皮質の割合が高いことを実証したのである(ダンバー p.92ff.)。
 
 かくして生物が進化して脳が発達し、精神が出て来る。今までその機構を見て来た。脳は本質的に社会的であり、つまり他者との関わりをその内に持っている。精神は最初から他者性を内に含んでいる。さてそうすると、最後の課題は、この他者と精神、または言語の関係である。そこでは無意識や精神の病理が言わば必然的なものとして組み込まれているはずである。そのことはすでにこのシリーズにおいて、カントやヘーゲルを参照しつつ、述べて来た。
 言語は精神の窓であると、久保田泰考は言う。統合失調症の言語障害に触れ、それが思考障害と区別しがたいことを示す。またフロイトの「無意識について」にある例が挙げられる(注4)。フロイトの患者の一人は、にきびをいじくって、それが取れると皮膚に穴(Loch)が開く。そのことで彼は自分を非難する。それは罪であると患者は感じ、さらにそれによって生じるのは女陰であるという思いに捕らわれる。つまり「にきびの跡の穴は女陰の穴(Loch)である」と彼は言う。しかしにきびの跡の毛穴のような皮膚の穴と女陰はそれほど似ている訳ではない。
 同じような例をタウスクが報告しているとフロイトは言う。タウスクの症例では、患者の若い男にとって、靴下の網の目の穴が、女陰の象徴であった。しかしここでも女陰は靴下の穴とはだいぶ異なるだろう。
 フロイトは言う。「統合失調症の代理形成と症状とに奇妙な性格を与えているものが何かを考えるならば、私たちは、それが事物関係よりも言語関係の方がはるかに優位であることであると思う」(p.417=p.111)。表現されるふたつの事物が類似しているのではなく、それは単に言葉の表現の問題である。フロイトは言う。つまりこれは「穴は穴なのである」(同)。ここで言葉と物とは合致していない。単に穴という言葉だけが、ふたつの穴を結び付けている。神経症の患者ならば、このふたつの穴を結び付けることはない。
 「穴は穴である」とは、まさしくヘーゲルの無限判断である。ヘーゲルはこういうタイプの判断を「空虚な同一関係」(173節)と言い、「正しくはあるが、馬鹿らしいものである」(173節注)と言い、「主観的思惟のみにおいて行われる」(同)と言う。主観と客観の対応が問題とならず、主観の中だけ、つまり言葉の問題なのである。
 久保田は次のように言う。「精神病の発症は言語使用の避けがたい代償であるかもしれない。・・・言語があるおかげではじめて脳=内部システムにおける意味レベルの混乱が外在化=意識下されうるのであり、それは少なくとも何の外部出力も失われたままフリーズするより、生体システムの生存には有利だろう」(p.151)。
 久保田は無理に進化論的な言葉で精神の病を語っているように見える。しかし実際、精神の病こそ、精神が進化の過程で出現したということを最も雄弁に示しているのではないだろうか。つまりヘーゲルが、病こそが精神を生み、またその精神は、その進展の過程で必然的に病に陥ることを示したが、ここでそのことが精神分析学の用語で説明されているのではないか。
 またヘーゲル論理学の中で、無限判断は判断の段階において不可避のものであるとされている。同様に言語の使用において、このような混乱は避けられないものであり、精神の発生において、精神の病は必然的に起こり得ると考えるべきである。
 ヘーゲルの無限判断にはふたつの種類があり、「精神は象でないものである」という否定的無限判断と、「象は象である」という肯定的無限判断があり、たいていは、前者が参照されるが、主語と述語が結び付かないのに無理に結び付けているという点では、両者はともに無限判断と呼ばれる性質を持っている。
 ここで、「にきびを取ったあとの穴は女陰の穴である」という判断は、事物関係としては結び付きがなく、単に「穴」という言語においてのみ結び付けられている。こういう事象関係がないのに、主語と述語を結び付けるという作業を言語は行うのである。つまり言語は意味や指示対象に拠らず、音韻と文字だけで成立している。
 このことについて、久保田は、「統合失調症では言語は言わばそのままで器官となり、何ら置き換えの媒体を必要とせず、単独である固有の症状としての価値(ラカン派が<享楽>と呼ぶもの)を体現する」(p.140)と言い、「穴は穴である」と言うときに、ラカンの用語で言えば、「象徴的なものはすべて現実的なものになっている」(p.152)と言う。
 実際、久保田が言うように、私たちの生きる現実は、言語によって構成されたバーチャルな世界である(p.152)。私たちは言語によって覆いつくされた世界の中にいて、その外に出ることはできないのである。本稿のテーマに関わらせて言えば、精神が出現する以前から自然は存在するが、しかし一旦精神が発生すれば、すべてはその精神の中にある。私たちはその外に出られないように感じる。
 事物関係において結び付かないふたつの事象が、言語関係においてのみ結び付く。言い換えれば、事物との対応を失ったまま、言語の世界がそれ自体で自立する。それは統合失調症の病理として描かれるものだが、しかし程度の差はあるが、私たちの言語活動に必然的に伴うものではないか。ある個人の持つ意味上の連関が異常なのか、正常なのかを判断することは、社会的な慣習の中で行われるものであって、直接事物に尋ねることでなされる訳ではないからである。
 
 この議論を補足するために、船木亨を引用する。デカルトは私が思考する限りで私が存在すると言った。とするとデカルトは夜、眠ることはなかったのか。眠っているとき、私たちは思考していないのではないか。するとその時私たちは存在していないのか。しかし私たちは私たちが眠るということを知っている。そして眠っているときも私たちが存在していることを知っている。つまり意識は意識の知らないものがあるということを知っている。意識において明晰になる以外のものがこの世界にはある(p.169ff.)。
 もうひとつ眠りが教えてくれるのは、眠りの中で出会う物質は、それは意識中のことではないのだから、意識が発生する以前の「深くて冥い闇」(p.173)のはずである。私たちの眠りとは、意識が自らが現れた暗黒物質に戻ることである(p.175)。眠りは意識の出現を繰り返す(同)。私たちは生物と精神の間において、「思考の暗闇」(p.189)に出会う。
 この辺りのことは進化論よりもカントやヘーゲルの方がより明確に論じていることだと私は思う。つまりこれらのことは、私の言葉で言えば、次のようになる。進化論は、生命が物質から出現し、精神が生命から出現したということを教える。その機構がどういうものか、完全には分かっていない。しかし、生命は生命のないところから生まれ、精神は精神のないところから生まれたのである。それだけは確かだ。そしてヘーゲル「精神哲学」がそうであるように、それは「闇」とか、「坑」というような表現しかできないものなのである。精神は無意識の領域に関わり、病理に囚われている。そこは進化論や脳研究が解明するだろうが、今の時点では、哲学者の方が私たちに分かりやすく教えてくれる。進化はその頂点に最も脆弱なものを産み出したのである。
 

1 以下、拙稿「進化をシステム論から考える」のまとめの部分では、引用に際して、引用先を明示しない。拙稿を参照して下さい。
2 ダーウィン、C., 「人類の起源」第2章『世界の名著 39 ダーウィン』所収、池田次郎他訳、中央公論社1967
3 ダンバーは次の本も参考にした。『友達の数は何人?』藤井留美訳、インターシフト、2010=2011、『人類進化の謎を解き明かす』鍛原多恵子訳、インターシフト2014=2016.これらの本の中で、ダンバーは猿の毛づくろいを言語の起源だと考えている。
4 フロイトは次のものを使った。Gesammelte Werke Band2, Jazzybee Verlag =『フロイト著作集6』井村恒郎他訳、人文書院1970
 
参考文献
島泰三『はだかの起源 - 不適者は生きのびる -』木楽舎2004
更科功『爆発的進化論 – 1%の奇跡がヒトを作った -』新潮社2016
更科功『絶滅の人類史 – なぜ私たちが生き延びたのか -』NHK出版2018
藤井直敬『ソーシャルブレイン入門 - <社会脳>って何だろう -』講談社2010
澤口俊之『知性の脳構造と進化 - 精神の生物学序説 -』海鳴社1989
大澤真幸『生きるための自由論』河出書房新書2010
大隅典子『脳の誕生 - 発生・発達・進化の謎を解く -』筑摩書房2017
ダンバー、R.,『ことばの起源 – 猿の毛づくろい、人のゴシップ -』松浦俊輔他訳、青土社1996=2016
久保田泰考『ニューロラカン - 脳とフロイト的無意識のリアル -』誠信書房2017
船木亨『進化論の5つの謎 - いかにして人間になるか -』筑摩書房2008
 
                                     了
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
 
(pubspace-x5307,2018.09.13)