石川 求
「戦後」という言葉がなぜ日本では、そしてこの国だけにおいては、こんなにも人口に膾炙するのか。日本を除く東アジアでは、「戦後」って、どの戦争の後のことなのですか、というような反応こそが一般であるはずなのに。これはアジアにかぎらないだろう。合州国で生まれた詩人のアーサー・ビナード(1967~)は1990年に初めて日本へやって来てこの国に特有の風潮を目の当たりにし、そうかこの私も戦後に生きていることになるんだ……、という珍奇な思いに囚われたといっている。アメリカに戦後はなかったし、今後もありえないだろう。1945年8月、日本はアジア・太平洋戦争に大敗し、合州国の軍隊に占領され、安保条約という軍事同盟――対当の同盟というよりは隷属――と引き換えに〝独立〟を認められて現在にいたる。その日本が、ここだけが、なぜ戦後でありうるのか。なによりもそれは、私たちの耳に「戦後」というフレーズが、あのセイレーンの歌声のように心地よいからではないのか。見たくも聞きたくもない現実からありがたくも意識を逸らしてくれるからではないか。
1951年、日本が戦争状態を終えるべく講和条約を一部の国々と結んだそのとき、すぐ隣の朝鮮半島では、この世の地獄のような戦闘が展開している真っ最中だったというのは、幾重にも象徴的であろう。東アジアには戦後はもちろんのこと、いわゆる冷戦体制すら代理1の「熱」戦が許さなかったという事実に、私たちはどれほど自覚的でありえたのだろうか。同胞どうしが敵味方に分かれて殺し合う、その惨すぎる激戦を対岸視すなわち無視した日本2の講和。いや、じつは戦争景気でがっぽりと大儲けしながらの平和。日本人はここに矛盾も疚しさも感じないまま、それどころか我が国の長期にわたる平和が誇らしいなどと嘯いて、今を迎えている。この救いがたい自己中心性が、戦後と平和をイコールで結べると70年以上も思いつづけてきた。敗戦によって帝国日本は植民地を一度に失ったが、領地を手放したからといって、植民者意識からも脱却したと思うのはばかげた妄想である。この意識はほとんど無傷のままで残っている。日本がいまだに反レイシズムにおける(最)後進国(の一つ)なのはそれゆえである。
日本のレイシズムにも朝鮮戦争は濃い影を落としている。サンフランシスコ講和条約が発効した1952年の4月28日は半島ではまだ戦闘がつづいていたが、日本ではそれまで一方的に日本国籍をもたされていた旧植民地出身者がその時を境にとつぜん外国人として扱われる。同じ帝国臣民であったのに以前ならたとえば戸籍によって半ば隠微に差別されていた人々が、以後は公然と国籍によって差別されるようになる。民族差別(レイシズム)と国籍差別を一体化させるこの強制措置は、日本人のレイシズムに法的根拠をあたえて温存する役割さえ果たした(その行き着く先に、差別と憎悪と偏見を野放しにした日本の現在がある)。梁英聖も鋭くいい当てた「1952年体制」3の始まりである。けれども、問題はいわば政府公認のレイシズムにかぎらない。日本の再軍備がすんなりと決定されたのもまさにこの時代ではなかったのか。奇跡の経済復興だけではなく、さらに沖縄の切り捨てと差別も含め、戦後日本の骨格を陰に陽に形づくるもののほとんどすべてを、私たちは朝鮮戦争という混乱ないしドサクサのなかで火事場泥棒のように手に入れた。いや、火事場泥棒という表現もまだ手ぬるいというべきなのか。戦後の日本人は、かつてのおぞましいミリタリー・アニマルから温和なエコノミック・アニマルへと生まれ変わったと思っている。しかし、どう過小に見積もっても、後者が経済戦争という総力戦を戦っていることは前者と変わらない。戦前も戦後も「体制」は同じなのである。吉見俊哉の言葉でいうなら、「『戦後』と名指されるプロセスの全体を、むしろ『戦時』からの連続性として把握することが必要である。」4
俗にいう戦後の平和が、内的必然性の誇りうる産物であるなどと、どの口でいえるだろう。よしんば日本人の内発性が関与しているとしても、それは、降って湧いたような外的要因に只乗りする才覚(あるいは没知性)の勢いが絶倫だったというだけではないのか。ここでは、(物を獲るために心を殺しながらの)独善的延命という自己中心性が自発性と取り違えられている。
「アジアとは日本のことである」。この妙句は国分良成(中国政治)に由来するとのことだが、私は徐勝の著書から教わった。徐はこれを次のように解説する。日本は、
西欧の視線から見た「アジア」概念に日本という屈折レンズ〔を〕はめ込んで、お家芸の〔、〕舶来品を模倣し作り替えて日本製品を作るように、日本バージョンのアジアを作り上げたのである。……日本は前近代の中国中心の華夷秩序を、日本中心の東アジア地域秩序に塗りかえるために「アジア」を変造した。日本はそれを、露骨に「日本主義」と言う代わりに「アジア主義」と言ったのだ。5
この認識をあえて一般化するとこうなるだろう。自己と他者の間に引かれるもっともらしい区別。しかし、自己に視座の中心を置いているかぎり、これは区別ではない。他者は、無限に拡大する自己のことだからである。日本史と東洋史と世界史。かなりの昔から私たちはこの区別にも慣れ親しんで今にいたる。しかし、この区別は客観的に妖しい。しょせんすべての歴史は日本という自国史の延長にならないか。じっさい古代朝鮮史の李成市は、「〔日本における〕東アジア世界論とは、徹頭徹尾『日本史』の問題であった」6 と語っている。日本人がいう世界とは、あるいは国際社会とは、どのみち日本のことではないか7 。
いや、それはこの日本にかぎらず、周辺のどの国だって同じだろう、そう反論されるだろうか。
中国共産党の一党独裁にあるとされるその中国では、1990年代の初めから自国史と他国史すなわち中国史と世界史を一冊に編集した『歴史』という教科書が一部の高校で使われている。編集した一人である孔繁剛はその目的についてこう書いている。
中国の歴史を世界の歴史の背景として位置づけ、中国の歴史を世界史上の舞台の一部分とし、できる限り世界的な視野から中国の歴史の変化や発展を認識しようと試みた。8
ここで「背景として」というのは、前景ではなく後景として、という意味において語られている9。齋藤一晴10によれば、当の教科書の「はじめに」で掲げられた「執筆意図と特徴」には、
関係づけることと比較することで、私たちに歴史を深く理解させることができる。また「中外」の歴史を一つにするうえでも関係することと比較することは便利である
と謳われる。自国史に立脚して他国史を眺めても「関係づけること」にはならない。比較してはいないからである。比較するためには、すくなくとも自己の歴史を「舞台の一部分」として相対化するのでなければならない。いまだに日本史を歴史という舞台の主軸にした、いいかえれば「前景」にした歴史区分に拘泥している私たちに欠けているのは、この相対化ではないだろうか。
上海で先進的に始められた統一『歴史』の試みは、2005年からはいよいよ首都・北京でも開始された。もとよりそこには一筋縄ではいかない多くの問題が山積しているらしい。齋藤は、中国における歴史の問い直しプロセスが、「ナショナリズムの高揚と両義的に存在して」いるとも述べている。だが、むしろそうであればこそ、現地の試行錯誤を外から冷笑するまえに私たちにはやるべきことがある。齋藤がいうとおり、「中国で行われている点検と更新を阻害しないために、自分自身への点検・更新作業を進めなければならない」11。
いってみれば、内地あるいは自国の支配者意識とは、外地の自己検証を(直接間接、意識無意識を問わず)無理解という刃によって妨害しておきながら、ほんらい肝心要であるはずの己の自己検証を自虐的だからとなにからなにまで封殺してしまうことである。
私たちの戦後には他者が存在する。同じ日本人でも、時代を風靡する戦後意識を共有しなかった、いや共有することを内地人によって拒まれた精神的な異邦人がいた。いわゆるシベリア帰り、そして中共帰りの戦犯たちである12。後者のほぼ千人は9割方シベリア抑留を経験し、その後さらに1950年から新生中国で最短6年間の収容所生活を余儀なくされる。だが、そこには一切の強制労働はなく、十分な食糧とあり余る時間があたえられた。56年に戦犯法廷が開かれた13が、死刑判決は一件もなく、みずから極刑を欲した戦犯でも生きて日本に帰るように諭された。東大の倫理学科出身だった(旧姓)石渡毅(1913~2015)は56年、15年ぶりに帰国して、旧制水戸高校からの大親友であった哲学者の梅本克己(1912~1974)を清瀬のサナトリウムに訪ねた。梅本は日記にごく短く、石渡は日に焼けていたと書いている14。もともと石渡は色白の優男だった。数年前まで元気でおられたご本人に、どうしてかを私は直接うかがったことがある。入所して数年後に設けられた日本人のためのサークルの一つ陸上部で毎日きたえていたからね、とのことだった。
撫順の、そして太源の戦犯管理所でなにがあったのか。中国人と日本人の間に、当初どのような対立があって、そしてその後どんな交流がなされたのか。これについては厖大な資料が残されている。かつては思い起こされもした。けれども、ネットが世論をこれでもかと牛耳る昨今では、その千人は、〝中国共産党に洗脳されたアカ〟というお得意のレッテル張りを即時になされて、嘲罵どころか無視の対象となっている。「洗脳」という言葉を使い使われるやいなや日本人は思考を停止する。自分はどんな思想にたいしても無垢、無関係でいられると信じ切っているようだ。だが、無垢とはむしろ無知の美称にすぎない。知らなくていいよ、知ってもどうせ孤立するだけだから……。こんな集団的安眠の勧めによって私たちこそがマインド・コントロールされているのである。その千人が無視される理由は簡単だろう。内地意識に染まり切った人間には彼らの存在および言動がそもそも理解を絶しているからである。
この無理解はシベリア帰りの詩人・石原吉郎をも大いに悩ませた。1953年に帰国できた石原は6年後、彼がいない間に内地の故郷を〝守って〟いた肉親に向けて、ほとんど絶縁状ともいえる手紙を書いている。
「〔帰国したとき〕私たち〔抑留者〕は日本の戦争の責任を身をもって背負って来た。誰かが背負わなければならない責任と義務を、まがりなりにも自分のなまの躰で果たして来た」という自負をもってそれぞれの家へ帰って行ったわけです。
しかし、私自身が一応おちつき場所を与えられ、興奮が少しずつさめてくるに従って、次第にはっきりしてきたことは、私たちが果たしたと思っている〈責任〉とか〈義務〉とかを認めるような人は誰もいないということでした。せいぜいのところ〈運のわるい男〉とか〈不幸な人間〉とかいう目で私たちのことを見たり考えたりしているにすぎないということでした。しかも、そのような浅薄な関心さえもまたたくまに消え去って行き、私たちはもう完全に忘れ去られ、無視されて行ったのです。15
もちろんこれは内地にいた日本人すべてにたいする絶縁状として読むべきものである。石原にとって戦犯すなわち戦争犯罪人とは、とりわけ巣鴨プリズンに収容されていた戦争指導者たちをいうのであって、自身も含めた一般の兵士に罪はない。本当なら(処刑された7名を除き)巣鴨の戦犯たちが担うべきはずの「責任」や「義務」を、彼らに代わって(その理不尽はさておき)抑留者が果たして帰ってきたのである。これが石原のいう「自負」であろう。ところが、これに思いをいたすことのできる内地人はいなかった。それどころか、シベリア帰りは(彼らもまた)、あたかも〝生きて虜囚の辱めを受け〟た、あるべからざる敗残兵のように扱われたのである。戦後日本は東条英機の時代からほとんど変わっていなかった。
シベリア帰りと中共帰りを単純に比較することはできない。とはいえ、入所して数年がたった後者が、自らもやはり戦犯であることを強く意識するようになったことはたしかである。もちろん濃淡というか明暗はある。そそくさと罪を認めて〝優等ぶり〟を誇り、早々と帰国させてもらうと戦前と同じ裁判官の口がそのまま待っており16、今度は中国で学んだことを180°翻して、日本の平和に向けた画期的な判決をあの手この手で妨害しては、中共帰りの団体である中国帰還者連絡会(中帰連)からただひとり除名された猛者17もいる。だが、当初は誰もが「戦犯管理所」という名称に激怒した。なぜ俺たちが戦犯なのか。まずやったのは反抗の連続である。反抗できるだけの暇がごまんとあった。でもそのうちに馬鹿らしくなって興じたのは賭け事と猥談。こうして一年がたち、遊ぶことにも飽きてきた。幸いなるかな、人間は一本の考える葦である。俺はなぜここにいるのか。そもそも、なぜ武器を手に大陸にまでやって来たのか。自分たちは中国でなにをしてきたのか、……。じっくりと考え、かつ記憶をたどる時間もたっぷりとあった。
彼らがついに学びえたのは、日本の戦争が侵略であり、この不当行為を遂行した日本軍や政府の一員として自分たちが組織を構成していた以上は、武官であれ文官であれ、加害責任は免れえない、という単純明快な真理である。
加害と被害。ふたつは連関しているようでいて、じつは絶望的に分離している。彼らはこのことを思い知らされる。彼らが作ったサークルには演劇部もあった。中国で犯した蛮行を創作劇にして演じた。強姦のシーンがある。被害者である中国人女性を、加害者であった日本人の男みずからが演じるのである。このような体験をしえた者が今も昔もどこにいるだろうか。そしてそれを日本人収容者たちが観劇する。もちろんそこには中国人職員も加わっている。この時間と空間は異様なまでに貴いと思える。
しかし、現実は甘くはなかった。1956年の春、彼らには約2週間にわたる参観旅行が企画された。かつて日本軍によって蹂躙された中国がどのように復興しているかをじかに見学させるのが目的だった。その中で彼らは日本軍が1932年に犯していた平頂山虐殺事件の生き残りとも対面する。一族を皆殺しにされひとり生き残った女性が、満身の怒りを込めて泣きながら証言した。ところが、全身を耳にして聴いていた彼らは、数々の希な学習体験を経た彼らですらも、茫然自失するだけだった。謝ることはおろか、うんともすんともいえず、ただ押し黙ることしかできなかったのである。
罪を認めることは、その度ごとに襲ってくる絶望とまさに背中合わせだった。彼らが日本にもち帰ったのは確信ではありえない。将来しえたのはむしろ自らに向けた、そして自らを育んだ日本社会に向けた、永遠の問いかけではなかったか。彼らは、正解などありえない文字どおりの宿題を背負って生きた。戦後といわれる日本で各自の日々を過ごしながら、それは生涯をつうじ問い直され、考え直されていった。その日常が彼らの自己検証であり自己更新にほかならなかった。
あなたは、あなたがたは、洗脳されたのですか―—彼らは内地人が、とくに報道陣が、必ずや向けてくるこの質問にうんざりさせられた。それは、シベリアから帰ってきた石原吉郎が伊豆の実家を訪問したとき、いの一番にいわれたことが、どうか君がアカでないことを証明してくれ、もしアカならお付き合いはできない、といった要望いや無心であったのと似ていよう。石原は「その無礼と無理解を憤る前に、絶望し」18たとあの手紙に書いた。洗脳されたのか、という疑問の形をしたその「質問」は、中国から帰還した彼らが胸に刻みつけていた永遠の問いとは、似ても似つかないものだった。それは、一切の自己検証と自己更新を棚上げにした場所から発せられている点においてあまりにも安直であり、さらには姑息である。しかしながら、戦後日本はそうした愚問をだれもが共有できる間主観的な意味空間を、でも客観的には不可解きわまるあの〝空気〟を、いまだにせっせと作り上げていないか。そのバリアーに身も心も洗脳された内地人が、これはよそ者だとなにも考えずに決めつけた他者を、〝洗脳された〟といいつのるのである。ここにも植民者の支配意識はすこぶる健在である。
中帰連の彼らが戦後社会において黙殺されるのは、戦争それ自体の過ちと愚かさを、日本人として最もラディカルな次元から知り尽くしている彼らによって証言され続ける真実の一つ一つが、加害はもちろん戦争責任という概念さえ知ろうとはしない内地人の空気に冷水を浴びせるからである。寝耳に水。罪深いのは、水をかける方かそれとも寝ている方か。真の意味で外地すなわち外部世界を知る者にとって、安らかに眠っていられる人々は、戦前からのまどろみを昏々と戦後も継続している。その眠りは、自力では醒めようがない。彼らの証言活動は余暇ではありえなかった。たんなる厭戦でも嫌戦でも、さらには非戦でもない、ただ反戦の意志だけが平和に連動しうる。彼らが一貫して使い続けたのは、使い捨てられ変質する「平和」ではなく、「反戦平和」の四文字だった。
戦後の他者は、たしかに「引揚者」という呼び名で括れるだろう。軍民の総数にすれば、じつに650万人! 当時の日本人の10人に一人は引揚者だった。しかし、「引き揚げ」というこの表現にしても、「戦後」のような、いやそれ以上の聞こえのよさをもっている。できごとの加害性とその責任問題がみごとに後景へと退く反面、ここでもまた、まるで天から降ってきた災難であったかのような被害性が前面に押し出される。はっきり「植民者」と呼ぶべきだという声もあるが、それだと、〝本土〟にいた9割の植民支持者をぼかすことにはならないだろうか。ともかくこうしたことにも、支配された側よりも支配した側にとって好都合な曖昧語法が絡みついている。
朴裕河の引用19 から以下の印象深い発言を知ったが、朝鮮半島北部で生まれ育ち、引き揚げの途上で父と祖母を失った作家の後藤明生(1932~)は70年代の終わりに或るインタヴューの中で、日本は、本当なら植民地支配によってそれ自体が変化しなければならなかったはずだと語っている。
ところが、全然、化学的変化を起こしていない。そこにやっぱりぼくは、日本の不思議さがあると思うんですよ。とにかく事実として植民地政策をとっちゃんたんだから、国家観念とか、民族意識とかいうものに、化学的変化を起こさせなきゃならないと思うんですがね。それが物理的に広がっただけで、また物理的に収縮したわけでね。全然、質的に変化していない。実になんの影響も及ぼしていないというところに、ぼくは不思議さを感じたんです。20
はたして戦後という〝画期〟は日本人に質的変化を起こしたのだろうか。私たちは、植民地支配どころか侵略戦争の大失敗いや大罪によっても、自己に化学反応を起こさせなかったのではないか。外地からやってくるいかなる触媒も、寝耳に水の激怒や反撥を惹起しこそすれ、いつのまにか無と化してしまうような、この精神風土は一体なんなのだろうか。(そういえば、〝本土〟で起きた―いや起こした―今回の原発事故によってもなにかが変わったといえるのだろうか。)
古く?は21福沢諭吉と夏目漱石。彼らは当時の日本人の誰よりも西洋という他者と出会っていたはずである。とくに漱石は、とことん惨めな絶望を味わったといわれる。そこには「化学変化」の兆しがあってもよかった。しかし、もしそうであるなら、ロンドンで意識したであろう他者の視線を、どうしていわゆる韓満では、今度は自身がその視線の主体となって、アジアの他者へと投げかけられるのだろうか22。劣等感から優越感へのその変わり身が物語っているのはむしろ、西洋という他者との接触によっても、彼の絶望はあくまで情緒ないし神経の次元に留まってそこから深化せず、その魂魄までは、すなわち思考の基盤までは、質的変化にさらされなかったという実態ではないのか。視点を右から左に交換もしくは移譲できるのは、当の視点をより大きな歴史的文脈の中でまず相対化し、それを客観的に検証し更新する大事な作業――あえていえば、魂に向かって自己の「身」を削ること――を忘れた(あるいはもともと知らなかった)からではないのか。いや、そもそも他者と出会ってすらいなかったというべきかもしれない。やはり漱石も和風の文豪として終始一貫、内向する私の世界に、(どれほど気宇壮大であろうとも)自己から眺めた内地という意味空間に生きたのだろうか。福沢にいたってはなにをかいわんや。彼が本当に他者と出会っていたのなら、そこに否応でも求められる自己検証が、そして日々の自己更新が、あれほどのレイシズム23を黙って放置するはずがあろうか。
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(本稿は、2017年5月21日に一橋大学で行われた日本哲学会のワークショップ〈「戦後」再考〉で提題したものと同じである。)
1 「冷戦」体制や「代理」戦争という表現は大国の目線による曖昧語法である。東アジアでは今なお冷戦は終わっていない。
2 しかしGHQの政治顧問だったシーボルトは、朝鮮戦争が始まると「東京は一躍戦争のセンターになってしまった」とまで書いている。W.J.シーボルト(野末賢三 訳)『日本占領外交の回想』(朝日新聞社 1966年)、164頁。この発言は以下に教えられた。矢部宏治『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(2016年、集英社)、227頁。
3 『日本型ヘイトスピーチとは何か――社会を破壊するレイシズムの登場』(影書房、2016年)。この名称それ自体は大沼保昭に由来する。
4 『ポスト戦後社会』(岩波新書、2009年)、iv頁。
5 『徐勝の東アジア紀行――韓国、台湾、沖縄をめぐって』(かもがわ出版、2011年)、3頁。
6 『東アジア文化圏の形成』(山川出版社、2000年)、84頁。
7(天皇ではなく)米国へのかぎりない忠誠を自己の中心に据えている日本政府としては、世界とはアメリカという一国のことだというべきか。なるほど合州国は、通常の外務省を国務省と自称し続けることをやめない。
8 「私の歴史学習と歴史教育の50年」、二谷貞夫 編『21世紀の歴史認識と国際理解――韓国・中国・日本からの提言』(明石書店、2004年)、159頁。この論文の存在は、以下の齋藤一晴の著書に教わった。
9 ちなみに同じ訳者によるワン・ホンズイ王宏志の論文では、統一『歴史』は米英を模範にして、「中国の歴史を中心とし、世界の歴史を背景とするのがよいだろう」(151頁)と、孔と逆の意見が述べられている。
10 『中国歴史教科書と東アジア歴史対話――日中韓3国共通教材づくりの現場から』(花伝社、2008年)、238頁。
11 上掲書、281頁。
12 両〝グループ〟以外にも他者は存在すると思われるが、ここでは割愛する。
13 厳選された45名にたいしてであり、他はみな免訴釈放となった。
14 『梅本克己著作集』、第10巻(三一書房、1978年)、471頁。
15 『石原吉郎全集』、第2巻(花神社、1980年)、167頁。
16 この連続性にも唸らされる。
17 飯盛重任(1906~1980)。最高裁長官を務めた田中耕太郎の実弟。後に鹿児島地裁所長を解任され辞職するも、今度は私立大学の教授職が待っていた。
18 上掲書、171頁。
19 『引揚げ文学論序説――新たなポストコロニアルへ』(人文書院、2016年)、64~65頁。
20 本田靖春「日本の〝カミュ〟たち――「引揚げ体験」から作家たちは生れた(特別企画 インタビュー・ルポルタージュ)」、『諸君』、1979年7月号、225頁。
21 ちなみに上の後藤は、日本は『日本書紀』「から一歩も出てませんね」[ibid.]といっている。
22 「韓満所感」、『満洲日日新聞』、1909年11月5日、6日。これは2013年に〝発見〟された。
23 杉田聡 編『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集――「国権拡張」「脱亜」の果て』(明石書店、2010年)に明らかである。
(いしかわもとむ)
(pubspace-x5229,2018.08.15)