高橋一行
8より続く
まだしばらくは思弁的実在論、または新実在論にこだわる。前回までに、Q. メイヤスー、G. ハンマー、R. ブラシエ、I. H. グラント、M. ガブリエル、M. フェラーリス、S. シャヴィロと名前を挙げ、今回は以下に取り挙げるブラシエ理論を受けてさらに自説を展開するE. サッカーも挙げておく。注意すべきは彼らの主張はそれぞれ大分異なっているということだ。同じ思潮として括って良いものかとさえ思う。そこはていねいに見ないとならない。しかし同時に、やはり彼らの主張に共通するものはあり、ここでなぜ一斉にこのような考え方が出て来たのかというのが私の関心事だ。少なくとも上記の8人は重要で、それは押さえる必要があると思う。
彼らに共通して言えるのは、ポストモダン以降の世界像を提出したい、カントから、またはデカルトから始まる近代哲学を総体として批判したいという、壮大な野心がそこには見られるということである。フェラーリスによれば、Foukant(フーコー+カント)が、今や乗り越えられるべき批判対象である(Ferraris p.24f.)。そしてその問題意識は評価すべきことなのではないか。
一方、私の問題意識は次のことだ。以前から、進化論を哲学的に基礎付けようとすると、現代哲学ではできない。メイヤスーの言葉で言えば、それが相関主義である限りできない。つまり思考と対象の相関の内部で物事を考える限り、思考する私たち人間がこの地球上に出現する以前のことは考えられない。また進化論は当然、人間の絶滅の可能性を示唆するけれども、そのことも現代哲学では問えない。だから、思弁的実在論や新実在論が出て来た時、彼らの言いたいところは良く分かると私は思ったのである。
しかしこれもすでに書いたように、メイヤスーは相関主義の内部から、相関主義を超え出ることを示唆し、しかし具体的にそのことを示し得ていない。そして他の論者は、あまり相関主義にこだわらず、易々と相関主義を超え出てしまっている。または逆に、メイヤスーに対して、なぜそこまで相関主義にこだわるのかと非難する者さえいる。その辺りについて、もうしばらく論じてみたいと思うのである。
まずブラシエの絶滅論から取り挙げる。メイヤスーの、人間が出現する以前を、つまり祖先以前を問うことで相関主義を超えようという考えでは、相関主義を批判し切れていない。もっと根本的にそれを批判しなければならないというのが、彼の理論である。
そこでブラシエは、太陽の絶滅に言及する(注1)。絶滅とは、「ある生物種の殲滅として理解されるものではなく、意識であれ、現存在であれ、ある相関関係が生じる場としての特権を人間から剥ぎ取ってしまうような、すなわち人間に授けられていた超越を平らにするようなものとして理解されなければならない。かくして、もしも太陽の絶滅が破局的であるのは、それは絶滅が相関関係の分節を解くものであるからなのだ」(ブラシエ P.68)と彼は言う。
太陽の死は精神の死に他ならない。そして精神は精神の死を、すなわち思考の死をどう思考するのか。
メイヤスーの「祖先以前」理論では相関主義を批判するのに十分ではない。「人類に先立つ先行性は、あまりにたやすく我々にとっての先行性へと変更されてしまう」(同p.73)とブラシエは言う。つまり祖先以前を考えるのは私たちであり、私たちにとっての先行性の意義は何かということを、私たちが考えるのである。そこに私たち、認識能力を持った精神の存在は前提されている。しかし絶滅は「私たちにとって」という思考など完全に破壊してしまうほど強烈なインパクトを持っている。
例えば、ハイデガーはその死に対する思索を積み重ねて来たことで知られているが、ここで言われていることは、そのような考察ではない。太陽の死は、人間の死に随伴する実存的な可能性を導くものではない。またヘーゲルも死を「哲学的思弁の原動力として機能させて来た」が、そのモデルとも異なるとブラシエは言う。「太陽の絶滅は哲学的思考に養分を与えて来た死に対する関係を無効にしてしまう」(同p.68f.)。
ハイデガーやヘーゲルは、死を考察することで、そこに精神の根拠があること、そこから精神が出現して来たことを論じている。そこにおいて、死は精神性を補強する。人間が精神を持っているという事実を死が特権化するのである。
さらに生物種としてのヒトの絶滅では、また時間が経てば、この地球上に人が出現する可能性が残されているかもしれない。汎心論や生気論的に考えれば、人間の出現は必然的だから、一旦滅びてもまた復活するのかもしれない。あるいは私のように、自己組織性の法則とあとは偶然だけが自然を支配していると考えても、再び人類が発生する可能性は残されている。ごくわずかな可能性に過ぎないものであっても。しかし太陽の絶滅は、そういった可能性をすべて吹き飛ばすのである。
ブラシエはニーチェに導かれつつ、太陽の死ののちにはいかなる思考も残されていないという結論に辿り着く。ニーチェは『権力への意志』において、ニヒリズムを次のように説明する。「生成は何も目的とせず、何ものにも到達することはない。・・・これがニヒリズムの原因としての生成の目的に関する幻滅である」(ニーチェ 第一章12A節)。生物が発生してから、私たち人類が絶滅するまでの間に、そもそも何も起きていないとニーチェは考える。人間が発生する前と死滅したあとに広がる永遠の時の流れの感覚がニーチェにはあり、それこそがニヒリズムの根源である。
しかしニーチェの目的はこのニヒリズムを克服することである。それはこのニヒリズムを肯定することによってである。ではブラシエはどうなのか。まずひとつ言えるのは、絶滅に言及するのは相関主義を批判するための戦略だということである。そして第二に、ニーチェとともに、ブラシエはこの絶滅を肯定するだろうということも言えるだろう。相関主義を超えたところで、つまり人間が絶滅したあとにそこに存在するものを、また人間が出現する以前のこの宇宙の存在を肯定する。そして人間が束の間この世に出現し、やがて絶滅して行くということも肯定する。
すべて生成するものはいずれ消滅する。それだけの話なのだと私は思う。存在するものは、すべて消滅の方向に向かっているからこそ、その中で部分的、一時的に秩序が生まれ、それが維持される。
すべて存在するものは、それが出現する以前は存在せず、それが滅びたのちにもまた存在しない。それだけの話だ。人間だけがその例外になる訳ではない。
また私が今まで論じて来たシステム理論は事物や認識の生成の論理であるが、それはそれらの破滅、破壊は扱えるのかという問題は今までにきちんと扱われて来なかったと思う。今それに答えることができる。すべてのものはいずれその生を終える。私たちは個人の死を考えるだけでなく、ホモサピエンスという種の絶滅も、また地球や太陽の絶滅の可能性も考えねばならない。それらが滅びる可能性を常に持っていることを自覚して、しかしできるだけそれらを生き延びさせる工夫が必要だ。
サッカーは、ブラシエの「哲学は絶滅のオルガノン」という言葉を引用しながら、自説を展開する(注2)。ブラシエは、「哲学は肯定の手段でも、正当化の根拠でもなく、むしろ絶滅のオルガノンである」と言った(ブラシエ p.74)。これを受けて、サッカーはさらに考察を進める。哲学は絶滅を思考できる。それは自己否定によってである。
サッカーはブラシエを補強する。しかしブラシエはニーチェに倣って、すべてを肯定したが、サッカーは自己否定という観点を出す限りで、どうもニーチェ的と言うより、ヘーゲル的なのではないか。
メイヤスーは相関主義では祖先以前が問えないと相関主義を批判しつつも、私たちは相関主義を超えられないとし、それをどう内在的に超えるかということを問うた。しかしそれは具体性に欠けると思う。ブラシエは、絶滅の観点を提出することで、これは相関主義を完全に超えているとしている。メイヤスーの祖先以前では、まだまだ相関主義批判としては不十分だというのがブラシエの言い分であった。
重要なのはニーチェのニヒリズムを克服するという観点をブラシエが援用していることだ。これは相関主義を超えて、そこに存在するものをすべて認めよということである。
サッカーはそれを受けて、哲学が自己否定をすることで、絶滅を思考し得るとしている。両者の位相は異なる。
絶滅は経験可能なものではない。サッカーは言う。「経験的でもなければ、経験に即したものでもない絶滅が思考され得るのは、思考自身の否定においてのみである」(サッカーp.88)。さらには次のようにも言う。「哲学が思考できないもの、あるいは思考しようとしないもの、それはこのような仕方で、つまり世界に内在的に関わりつつ、しかし世界とは超越論的に引き離されて、哲学が思考することを可能にする基盤である。言い換えれば、絶滅は思考の地平を指示するのである。なぜなら哲学が絶滅の思考をすら思考することを可能にするような「哲学的決定」があるからである」(ibid.)。
ブラシエもサッカーも哲学は絶滅を思考し得ると考えているが、その場合の哲学とは、相関主義ではない。彼らはとうに相関主義を捨てている。
しかし次のように考えれば、相関主義の内側から絶滅を考えることができるのではないか。
あくまで人間の思考が人間の絶滅を唱えるのである。絶滅は人間の特権をすべて奪い去るのだけれども、限定的にその特権を認める。つまり特権的な人間の思考が絶滅を考えている。そして繰り返すが、私たちはすでに思考する能力である精神を持って存在している。
だが人間の出現は必然的で、私たちは必然的に思考する存在となり得たのだという考えはあり得る。そう主張する場合もあるし、むしろそう主張する人の方が多いだろう。その点で、人間が絶滅した後の世界を考えるのならば、私たちの存在は徹底的に偶然的なものとなり得る。だからそこから考えて、人間の出現もその絶滅も、徹底的に偶然性に依拠するものだと考えるべきなのである。そのことが絶滅を考えることではっきりする。しかし基本的に、そこさえはっきりさせるのなら、メイヤスーの祖先以前性の主張とブラシエの絶滅の主張は変わらない。すでに前回までに書いたメイヤスー批判と同じものを、ここにブラシエ批判として繰り返すことができるのである。つまり偶然人間はこの地球上に出現し、束の間、精神を持って存在している。その精神が自然を認識する。それは思考と対象との相互作用を通じて、つまり相関の内部で認識という行為を行っている。私たちは相関主義の内部にいて、そしてそこからその相関を超えたもの、つまり祖先以前や絶滅を認識する。
するとここであらためて、その相関主義の詳細が語られなければならない。これも書いたように、メイヤスーはカントを「弱い相関主義者」と呼んでおり、その説明は分かり易い。つまりここは常識的な範囲で了解ができる。しかしそこから「強い相関主義」を導き、これはそのカントの物自体を捨ててしまった考え方を指すのであるが、その説明は不十分だと思う。メイヤスーはヴィトゲンシュタインとハイデガーの哲学がそれだというのだが、それは十分説明されていない。それを補う必要がある。私は以下に廣松渉の哲学に言及するが、それはこれこそが「強い相関主義」だと思うからだ。かつ、それは相関主義の最良のものであるからだ。
廣松渉については以下のことだけ書く。『存在と意味』第一巻を読む。先に断ればここは廣松の用語で説明をする。それを私の言葉で言い直すことはなかなか困難である。
まず日常的な意識では、世界は物から成り立っているという物的世界像が成立しているだろう。それは独立する存在物があって、またそれを認識する主観が存在し、その後にそれらが相互に関係するという実体的世界像を背景にするものである。著者はそれを批判する。
実体とされるものは、実は関係規定の結節にほかならず、関係規定こそが第一次的存在である。すなわち指し当たって主観といい、客観というものがそれぞれ存在していると考えるのではなく、先に相互関係があってはじめて、それぞれの存立が認められるのである。このような事的世界観、関係主義的世界観を著者は提唱する。
ここに関係の契機である各項がそれぞれ独立に自存しているという考え方は、物象化的錯視として激しく退けられるのである。
そしてさらにそれを詳細に説明するのが、四肢的存在構造である。具体的に言えば、主観と客観という二つの項が、それぞれレアール( real) とイデアール( ideal)という二肢的二重性をもって構造的に連関し合っていると考える。認識の客観的側面と主観的側面とがそれぞれ二肢的に分節化され、合わせて四つの契機から成り立っていると考えるのである。まず現相的分節態はその都度すでに現相的所与以上の意味的所識として現れる。一方、能知的主体は、能知的誰某以上の能識的或者として二肢的二重態の相で現存在する。この関係態こそが根源的な存在規定にほかならない。
さらにこの能知的主体も個人の主観としてではなく、共同主観として考えられねばならない。主観は単なる個人の主観ではなく、その次元を超えた共同主観性の次元で考えねばならないのである。つまり、共同主観的に同型化された能知的主体が、現相的所与に意味的所識を向妥当せしめ、この向妥当関係は判断によって表出されるのだが、この判断は共同主観的に成立するものである。ここに真理観も更新される。真理は客観的に向妥当する認識ではなく、間主観的に対妥当する認識である。
ここに来て、相関主義は徹底されている。逆に言えば、ここまで来ないと相関主義の良さは本当のところは分からないと言うべきである。
相関主義をここまで徹底しておいて、それでなお、相関主義の外に出られると主張し得るのか。つまり相関主義で物自体を認識できるのか。カントの「弱い相関主義」において、物自体はまだ認められている。それを『判断力批判』の後半で、それを認識できるとカント自身が議論をし、それを受けて、ヘーゲルは現象の否定的作用の中で、物自体を認識し得るとした。廣松の言わば「強すぎる相関主義」では、しかしこの物自体は認識できない。廣松理論の中で物自体を認識したいなどと言おうものなら、それこそ物象化的錯視と言われるだろう。
それこそ廣松理論の欠点である。そこでは、物自体は物象化的錯視だとして切り捨てられる。それはジジェクが言うように、物自体は現象の内部の否定として、または空隙として、つまり無として実在するはずなのだが、そのことを見落としている。しかしむしろ物象化的錯視の意義を確認し、かつ物自体の持つ力を、つまりその実在性を確認したいと私は思う。
ガブリエルに対しては、次のように批判したい。
ガブリエルが言っているのは、次のことだ(ガブリエルp.13ff.)。まず、①Aという名の山がある。②主観Bがその山を見ている。③主観Cも主観Bと異なる地点でその山を見ている。④主観Dは主観Cと同じところで一緒にその山を見ている。
形而上学では、存在するものは①だけである。形而上学にとっては、認識主観がそれをどう見るかということはどうでも良く、A山それ自体がそこに存在することが問題だからだ。
一方で構築主義では、②、③、④だけが存在する。構築主義は、観察者にとっての世界だけが重要だからだ。ガブリエルは形而上学と構築主義をこのように考える。
さてそれに対して、新実在論では、①から④までの全部が存在する。世界に観察者は常にいるとガブリエルは言う。この世界は観察者のいない世界ではない。つまり形而上学はその点で批判される。しかし世界は主観の想像力の産物ではない。構築主義はその点で批判される。世界には観察者がいて、しかし観察者とは関わりのない事実も並存している。
しかしこれは、対立する一面的な思考の両方をそのまま同時に肯定しているだけの話ではないか。相関主義なら、観察者と対象とが相互作用する。その中で、それぞれがその存在を認められる。それに対してガブリエル理論では、認識主観内に構築されたものと客観的対象物とが、それぞれ独立して存在する。切り離されてそれぞれ存在するという言い方よりも、そのふたつを区別しないと言う方が正確であろう。つまり存在するという要件において、両者を等価なものとみなすのである。
さらにこの話を廣松理論と照らし合わせるとどうなるか。ガブリエル理論では、存在するというのは、意味の場に現れるということであるということが確認されている(ガブリエルp.97f.)。この意味の場の存在論は廣松理論における、さしあたって主観と言い、客観と言うべきものが、それぞれそれ以上の意味を持って現れるという二肢的二重性と同じものではないだろうか。つまり四肢的存在構造はガブリエルにも見られ、しかし主観と客観の間の関係の第一次性があると持って行くのではなく、主観と客観をともに等しい権利において存在すると見做すのである。
すると上述のガブリエルの言う①から④までのすべてが存在するのだが、廣松理論から見れば、それは物象化的錯視ということにならないか。主観と客観がそれぞれ自存的に存在しているのではなく、両者の関係性において存在しているということ。また主観は、個々の主観が存在するのではなく、共同主観を個々の主観がそれぞれの内で反映したものとしてあるということ。これが廣松理論である。とすれば、A山という客観と認識主観B、C、Dの構成物がそれぞれ独立に存在しているのではなく、そのすべてが、相互の関係性において存在しているということになる。
ガブリエルが批判する構築主義は、現実を観察者が観察する限りの世界に限定する点で、あまりに素朴である。形而上学が、観察者の役割を無視して、観察者のいない世界を考えているということで、あまりに素朴であるのと同じである。ガブリエルはそれら形而上学の言う存在も構築主義の存在も、どちらも認める。両者を相互作用させることなく、その両方を認めるのである。
さて遠い将来、人間が絶滅し、精神を持った生物がこの世から消えたとき、存在するのは、①だけということになり、②から④までは、過去に存在したものということになる。もちろんそのことを認識する人は誰もいないのだが、ここで重要なのは、認識主観がなくても、客観は存在するということである。このことが新実在論の主張を導く。しかし現時点では認識主観はある訳で、それで現時点では、①から④まですべてが存在するとガブリエルは言う。それは物象化的錯視のもとにあるけれども、しかしその限りで存在することには違いなく、廣松理論でも①から④まですべてが存在することになる。どれも自存的には存立し得ないのだが、相互の関係性の上でそれらは存在している。
私はガブリエルに対しては、廣松理論のように、それらはすべて相互の関係性の中にあると考えるべきだと言いたい。現時点で私たちは精神を持っており、それによって認識活動を行っている。私たちが出現する前の地球や、私たちが絶滅したあとの宇宙を、私たちの精神は認識できるのである。つまり私たちは私たちが存在しないことをも認識できる。現時点では私たちは世界のすべてを、主客の相互関係性と、主観の共同性で以って認識するのである。
しかし廣松に対しては、物象化的錯視の意義はあり、物象化的錯視ではあるけれども、ガブリエルが言うように、①から④まですべて存在しているのだと言っても良いはずだ。
ここまで考えて来て、やはりブラシエの主張は意義があるのかと思う。つまり、かつて地球上には精神を持った生物がいなかったが、今は存在する。今はその生物、つまり人間の出現が必然的であったと事後的に言うことができる。しかし将来、人間が絶滅し、二度と精神を持った生物がこの宇宙に誕生しないとなると、その宇宙の姿を認識することは誰もできないのであって、その時、そこに事物は存在すると言えるのか。今私たちが、そのことを想像することはできる。それで十分なのか。
ブラシエはそのように問い掛ける。しかしそこで私は次のように考える。私たちの認識の構造が必然的に主客の相互関係を要請する。認識主観が勝手に、客観的事物をでっち上げるのではなく、主客の相互関係においてのみ、その事物を認識する。その限りで廣松理論は正しい。それはカント理論の、物自体の存在を認め、物自体からの働き掛けを前提に、認識主観が現象を構成するという考え方を正しいとするならば、ということでもある。ただし、その物自体が何なのかということが次に問われなければならず、そのことについては今まで論じて来た通りであり、今回そこに何も付け加えることはない。
さて、今現時点で認識主観があり、その認識主観が考える限りで、将来その認識主観のいなくなった世界を認識するのである。それで十分ではないか。だから認識主観は、現時点で存在するのだから、それは事後的に必然的に出現したと考えるだけでなく、これまた現時点ではそれは存在するのだから、その存在を前提にして理論を構築するしかない。
私たちが存在しない地球上に、どのようにして精神を持った生物が出現したかということを考えるのは有益である。それこそまさしくシステム理論が追求すべき課題である。同様に、私たちが絶滅したあとの宇宙がどのようなものかということに想像を巡らせるのも有益である。私たちは容易に滅び得る種でいるという自覚は持っていた方が良い。
また一方で構築主義が、ガブリエルが言うようなものであるとするならば、それは客観との関わりを無視している点で、あまりに素朴である。そのことも再度付け加えておく。メイヤスーの相関主義は、カント理論を背景にしている限り、このような単純なものではない。それは主観と客観の相互作用を主張しており、その意味で廣松理論を相関主義の中に入れても良いと思う。ただし、廣松理論が最も精錬されたものだと私は考えている。
絶滅したあともなお物事は実在する。とすれば相関主義は根本的に間違っている。認識主観がなくても事物は存在するからだ。思弁的実在論者や新実在論者はそう考える。
しかし重要なのは、私たちは今ここに認識能力を持って存在しており、その認識主観を通じて、つまりその能力によって、認識主観のない世界をも認識している。認識主観は自己否定の能力を持つ。それは自らが存在しないことをも認識できるのである。
注
1 ブラシエの訳出された論文は、 Nihil Unbound – Enlightenment and Extinction – の抄訳である。
2 サッカーの論文の原題は、’Notes on Extinction and Existence’ ( Configurations , Vol.20, No. 1-2, 2012) で、全文が訳出されている。
参考文献
ブラシエ, R., 「絶滅の真理」星野太訳、『現代思想』Vol.43-13, 2015年9月号
Ferraris, M., Introduction to New Realism , Translated by S..De Sanctis, Bloomsbury, 2015
ガブリエル、M., 『なぜ世界は存在しないのか』清水一浩訳、講談社、2018
廣松渉『存在と意味』岩波書店、1982
ニーチェ, F., 『権力への意志(上) ニーチェ全集11』原佑訳、理想社、1980
サッカー, E., 「絶滅と存在についての覚え書き」島田貴史訳、『現代思想』Vol.43-13, 2015年9月号
(たかはしかずゆき 哲学者)
次号に続く
(pubspace-x5116,2018.06.19)