「所有という制度」アガンベンを読む(3) -『他者の所有』補遺(3)

高橋一行

(2)より続く
 
 もうしばらく、アガンベンのテキストに即して論じる必要がある。とりわけ、彼のヘーゲル観を見て行きたいと思うのだが、しかしそれは、(4)に回して、今回は、(1)と(2)の内容をもう一度整理し、果たして人は、「所有しないで使用する」ということができるのかということを、再度考えてみたい。アガンベン論としては、少々、脇道に逸れる。
 
 人が、そもそも所有をしないことが可能かということに対して、所有は人間の制度なのだから、どのようにでもあり得ると考えることはできる。近年の政治哲学は、ロックやヘーゲルが、なぜ、あれほどにまで、所有の必然性、ないしは、所有という制度の自然性にこだわるのかということに対して、批判が集中する傾向にある。ロックもヘーゲルも、今や、すっかり、保守イデオローグになってしまった。しかし、それはどうなのかという思いが私にはある。
 つまり、ロックは身体の所有を前提に、その身体を使って、労働して得た生産物の所有を正当化した。それが、『統治二論』の出発点の議論である。またヘーゲルは、『法哲学』の最初に、所有の議論を置き、ロック流の労働所有の正当化とともに、社会的承認という点も加えた。いずれにしても、所有を、人間の自然性に基づく、根源的なものであるとし、そこから社会の制度を作って行こうとしたのである。そして今や、そのことが、批判されている。
 例えば、國分功一朗は、ロックを論じて、「どんぐりやリンゴが彼の所有物であることを保証する所有制度が有効に機能している限りで、それらが彼の所有物と言い得るだけのこと」に過ぎず、所有とは、「制度の総体によってはじめて可能になる権利に他ならない」。つまり、ロックの議論は、「よくある取り違え」であると言う。ロックは、身体と言う自然性に、所有の根拠を求めるのだが、「所有こそはその自然に真っ向から対立する制度」であると、その自然性を批判する。ロックの所有制度正当化理論は、あまりに安易だとされている(注1)。
 しかし、それに対しては、まずは、ロックやヘーゲルの意義を、確認しておきたいと思う。これはあまりにもオーソドックスなのかも知れないが、しかし、制度の自然性を根拠に、その正当化を図ることで、彼らは、近代的個人の自由を保障し得たのである。ロックの場合、所有こそが、個人の自由である。ヘーゲルの場合は、所有は、個人の自由の基礎である。そこから社会的諸関係を作り、その中で、次第に自由を獲得して行くのである。ただ、今や、そういった近代哲学の基本的なところに対して、強烈な違和感が満ち溢れている。私たちが今抱えている弊害が、皆、そこから来ているかのように言われてしまう。しかし、そういう論調に対しては、一旦、私は、守旧派になる必要があると思っている。
 
 しかし、その上で、なお、所有は、人間の作り出した制度に過ぎず、所有しないで、使用するということはあり得るという議論をしたい。
 実は、ヘーゲル的に言えば、所有は自然であり、自然でないとすれば、事足りる。それは自然に由来し、自然性を強く持つが、しかし、それは人間の作った制度であり、自然からは切り離されている。それだけのことだ。
前著『所有論』で、私は、ヘーゲルの論理では、所有と消化は同じだと言った。これは、所有の自然性を強調したものだ。そしてこの論理は、ロックも共有し、かつ、ヘーゲルにおいては、それこそが観念論の基本となるものなのである。つまり、外界を自己の中に取り込んで、自己化する。それが所有であり、消化である。観念論というのは、他者を自己のモーメントにするということである。そのことは、一旦は正当化されねばならない。
 しかし、『他者の所有』では、他者の根源性から、他者は自己のモーメントになり得ず、また、他者は必然的に招来され、そこでは、人は他の自己意識を所有できず、また、さらには他者一般も所有しないということがあり得るのではないかと示唆していた。このことは矛盾するのだけれども、両立する。それこそがヘーゲルの論理だと私は考えている。
 
 ヘーゲルの文脈で言えば、精神は、自然ではない。しかし自然の産物だ。精神は、自然から切り離されているということが大前提で、しかし、精神は自然から出現する。その連続と断絶の機構を論じるべきである。私は、『他者の所有』において、精神の自然性を論じている。そして今度は、逆に、自然の中に見られる精神性を論じたいと思っている。このことは、近い内に取り組むべき、私の課題である。
 
 ここで、再度、情報化社会の所有論を展開する必要がある。
 前回書いたことは、情報化社会では、原理的に誰もが所有を保証できる程度に、生産力が上がったのに、現実的には、格差が拡大して、所有できない人が、多くいるということだ。また、所有の意義が失われて、所有できないと思い込む人たちも、これも大勢出て来る。すると、その社会では、所有できない人々と、所有していないと思い込んでいる人たちが、たくさんいるということになる。そういう時代の所有論をどう考えるか。
 それで、前々回の議論においては、アガンベンは、13世紀の修道院を舞台にし、そこで、シュミットの例外状態という概念を活用し、そこにフーコーの統治という戦略を使い、そこにおいては、「所有しないで使用する」ということがあり得るとした。これをここで、つまり、情報化社会において、特権的に使えないかと思う。例外状態は今や常態であり、それは情報化社会において、そうなのである。
 さらに私は、十分に生産力が上がったら、それが、つまり、所有しないで使用するということが可能であると言いたい。どの程度の生産力なのかと言えば、まさに、情報化社会が訪れる程度にと答えることができる。
 それは、繰り返すが、原理的に、誰もが所有できるのに、現実的には、所有していない人、または、所有していないと思い込んでいる人が出て来る社会であり、しかし、原理的に、誰もが所有することができるので、所有の意義自体は、すっかり薄れてしまった社会なのである。
 
 ここで知的所有のことを論じたい。というのは、情報化社会というのは、情報の所有、つまり知的所有が、第一義的な意味を持つ社会のことであるからだ。そして、前著で唱えた、知的所有権の制約について、「所有しないで使用する」という観点から、再度、その主張を検討したいと思う(注2)。
 前著において、私は、知的共産主義ということを考えていた。つまり、知的所有においては、私的所有と共有が両立し得るからである。
 そこにおいて、重要なのは、知的所有は、まずは、私的所有されねばならないということである。情報は、一旦は、それぞれの個人が、それぞれの頭で理解し、つまり、所有しなければならない。これは、努力の要る作業で、つまり、ロックやヘーゲルが重視した労働を必要とするということである。
 しかし同時に、情報の所有は、他者を本源的に必要とし、それは本来、他者とのやり取りのことであって、つまり共有である。私の使った言葉で言えば、知的所有物は、使用するということが、同時に、交換・譲渡・売買することなのであり、使用することは、共有することである。
 
 さて、今回は、ここで、知的アナーキズムを主張してみたい。それは、知的所有物を、所有しないで使用できるかということである。
 前著では、知的所有も所有であるという面を強調した。ここでは、逆に、やはり、知的所有の特殊性を強調すべきだ。というのも、普通、モノの所有は、使用すれば、なくなるのである。しかし、知的所有権は、使用してもなくならない。さらに、知的所有物は、原理的には、交換・譲渡・売買できるのだが、現実的には、それらはなされず、単に、所有者の権利を守るだけである。つまり、知的所有権は、そもそもの所有者に保存されたまま、その使用権だけ譲渡される。つまり、知的所有は、ここでも、なくならない。なくならないものが、日本の法律で言えば、ずっと、著者の死後50年も保存される。これはおかしくないか。
 すると、私はかつて、知的共産主義を唱えたが、ここで、知的アナーキズムを唱えるべきではないか。所有物は、使用して、なくならなければならないし、交換・譲渡・売買して、やはりここでも、なくならなければならない。なくならないものならば、最初から、所有しないで、自由に、誰もが使用できるべきではないか。つまり、なくならないものを、特定の誰かが所有してはいけないのではないか。
 
 ここで理論的に考えねばならないのは、知的所有における、著作を使用する権利と著作物を販売する権利との区別である。通常使われている言葉で言えば、使用することと利用することの区別である。分かり易く言えば、本を読むのは使用であり、その本をコピーして販売するのは利用である。私たちは、著作物を使用することはできるが、利用することは、著者の承諾がなければできない。
 前著で展開したのは、本を読む、つまり知的所有物を使用するということは、努力して、その内容を理解することであり、それは、私的所有することなのだが、しかしその行為は同時に、著者との情報のやり取りであり、また、その本を通じて、他の読者とのやり取りも発生し、つまり、その限りでは、情報の共有であるというものである。
 しかし、ここで展開されていることは、話が異なり、その本をコピーして販売しようとするなら、著者に許可を求めねばならず、それは、その本の著作権が著者にあり、利用者にはないということである。著者は、現行の知的著作権法によって保護されている。
 この、使用という観点から言えば、私的所有と共有とが両立し、知的共産主義が適用され、利用という観点から言えば、利用者が、では果たして、著作権がなくして、勝手に、利用することができるのか、つまり、所有をしないで、利用できるのかという問題になる。ここで、知的アナーキズムが適用されるのかということだ。
 
 さて、最近の著作権に関する資料をまとめて読む機会がある。この数年で、格段に進化していると思う(注3)。
 具体的には、以下のことが論じられている。
 まず、情報化社会、第三次産業中心の社会で、著作権は根本だということは再度確認できる。
 それから、小説家にしろ、音楽家にしろ、著作権で利益が上がるのは、1%の人に過ぎない。従って、99%は、著作権をフリーにしても差し支えないという議論がある。儲かるものは、現行法で保護するというのが根本であるが、多くは、儲からず、現行法で保護してしまうと、却って、自由な創作活動が阻害されることになる。
 そこから、今の強すぎる著作権制度の中で、どうすることができるのか、その戦略として、次の三つが出て来る。
 まず、最初は、フェアー・ユース規定を活用するというものである。これは例外規定の立法のことである。分かりやすい例を出せば、検索エンジンは、インターネットのホームページの情報を集めて、インデックスを作成するのだが、それは著作権に反するのではないかと言われて来た。しかし、それでは、検索エンジンはできないので、これに必要な作業が合法的にできるよう、例外規定を作ろうという話になり、具体的に言えば、2009年には、立法化されている。立法までに時間が掛かるが、しかし、合法的に、例外を作って行くことができる。
 次に、作品を公開する段階で、著者が、利用者に対して、その著作物を自由に扱って良いという許可を与えるということが行われている。著者が、コピーフリーを宣言するのである。これは、クリエイティブ・コモンズと呼ばれる。これは、アメリカで、2002年に始まり、すでに、各国で多くの賛同者がいる(注4)。こうすれば、利用者は、著作権を所有しないのに、自由に、その著作物を利用することができる。
 第3に、現行法の保護期間を、これ以上延長させないということが重要だ。このことも、前著で書いたが、本当は、レッシグの言うように、著作権は、5年毎に更新を必要とするという制度に変え、更新しないものは、自動的に、著作権が消えてしまうという制度にするのが、一番良いと思う。あるいはもっと単純に、その期間を短くしたい。しかし、短くするのは、現実的に困難である。とすれば、せめても、長くしない。一旦長くしてしまったら。短くするのは、絶望的に困難なのだから。
 
 このようにして、少しでも、著作権の共有部分を増やそうという運動がある。私は、それを、所有しないで利用できる部分を増やそうという運動だと整理した方が良いと思う。つまり、そもそも知的所有権は、所有しないということが大事なのではないか。所有しないということと、共有するということと、現実的には、変りがないが、理論的には、大きな問題である。
 もちろん、そう考えても良いという程度のことだ。つまり、所有権をすべてなくせという過激なことを私は主張してはいなくて、しかし、所有権がない場合もあり得て良いということを主張しているに過ぎない。
 

1 國分功一朗『近代政治哲学 -自然・主権・行政-』(ちくま新書、2015)の、第4章がロック論である。
 
2 『所有論』3-3で論じた。
 
3 とりわけ、次の2冊を、参照した。
野口祐子『デジタル時代の著作権』(ちくま新書、2010)
岡田斗司夫・福井健策『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』(阪急コミュニケーションズ、2011)
後者の本の中で、岡田は、モノは使用すれば、なくなってしまうが、著作権は使用してもなくならない。そういう性質の、知的所有権は、なくても良いのではないかと言っている。私は、それに賛同する。
 
4 これは、レッシグが提唱した。注3の前者の本の著者、野口は、アメリカで、そのレッシグの下で学んでいる。
 
(4)へ続く
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x2313,2015.08.22)