西兼司
【第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する】
≪明文正読≫
この条文は第1条、第3条と並んで、この憲法第一章の最大の注目点である。一見、天皇の任命権を語っているように見えて、実は国権の秩序を語っているのである。
天皇は、「国会」の指名によって、「内閣総理大臣」を任命する。そして、「内閣」の指名によって、「最高裁判所長官」を任命する。天皇は「国会議長」の任命権者ではないのだ。国権はその長の序列として、「国会」、「天皇」、「内閣」、「司法」という順位づけがこの条文で確認されているのである。そして、憲法全103条を見渡しても国権の順位付けをこの条文以外に明確にしている条文はない。国民主権という国体が国権にこのように投影されているのである。
≪釈義≫
この第6条に至って初めて、実質的に「国民主権」との絡みによる国権規定が出てきた。第1条は確かに、「この地位は、主権の存する国民の総意に基づく」と謳っていたが、天皇が象徴でなければならない理由を語っていたわけではない。第6条に至って、国権の中で「内閣」の長と、「司法」の長の上に立つ人事任命機関だということが明らかにされたのである。そのように読んで初めて国民主権だから「国会」が国権の最高機関で、天皇が(まだ象徴の意味は判然としないながらも)「内閣」と「司法」の上に立つ人事機関であること、そのことによって一種の機能的(指名権は別の国権が持っている)役割を果たすことが開示されたのである。「機能」の彼方に「象徴」が見えてほしいという甘えた願望が透けて見えるようである。
もう一つ、第6条は、第3条の規定を完全に無化している明白な矛盾規定だということも確認されなければならない。第6条に規定されている人事行為が国事行為であることに疑いはない。だが、第1項にせよ、第2項にせよ、「国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」と第3条が語っている助言と承認を受ける余地があるのだろうか。内閣総理大臣を任命するにあたって内閣の助言と承認を受けることがどうして可能なのか。最高裁判所長官を任命するにあたって、内閣の指名によっている上に、また、助言と承認を必要とするというのは、演技指導が内閣によって為されなければならないということであろうか。
さらに、「内閣が、その責任を負う」というのは、馬鹿々々しい過剰規定だということが明白であろう。
≪述義≫
「第一章 天皇」という国権規定の章の中では、この第6条だけが明白な国民主権と国権各機関との関係を窺わせるものであって、主権者国民にとっては実は第6条が最も大切な条文として読み取られなければならない。主権者国民は、公務員組織としての国権機関に対して「国会」、「天皇」、「内閣」、「司法」、という順位付けをしているのだ、ということである。そして、この人事権規定を読み落として、「第三章 国民の権利及び義務」以下の章に書いてある具体的な条文からだけ、国権規定を見ているとしばしば現状追随の解釈を已むを得ざる事と誤解しがちになるのである。
しかし、この条文がそのような意図を持って書かれた条文ではないことも、また、憲法制定過程を見てくれば明らかなことである。GHQ草案では、第5条がこの条文に相当し、「天皇は、国会の指名した者を、内閣総理大臣に任命する」と、司法とは絡まない形で規定しているだけなのである。そして、現行第7条で規定している国事行為についても、第6条で規定しているが、そのなか全9号の中にも、司法府との関係国事行為はないのだ。
GHQ草案は、「第六章 司法」(註1)の冒頭、第68条で「強力で独立の司法部は国民の権利の防塁であるから、すべて司法権は、」と書き始めているのであるから、「強力で独立した司法」を目指していたことは明らかである。第69条では、第一文(第1項相当)では「最高裁判所は、訴訟に関する手続き、弁護士資格賦与、裁判所の内部規律、司法事務処理および司法権を自由に行使するのに関係があると認めるのが相当なその他の事項について、規則を定める権限を有する」とあり、その第二文(第2項相当)で、「検察官は、裁判所の成員であり、裁判所の規則制定権に服さなければならない」とあるのであるから、「訴訟法相当規則制定権」、「弁護士法相当規則制定権」、「司法書士法相当規則制定権」、等とともに「検察統制権」も有していたはずであって、そうすることによって「強力で独立した司法」を担保しようとしていたのである。
確かに国権の最高機関が作った法律が、「行政機関」で執行されているかどうか(例えば、予算)を、あるいは過誤なく執行されているかどうか(例えば、公務員の違法行為)を裁くのに「行政府の中の一機関」に「告発」するというのは漫画ではあるだろう。主権者が国権の一機関(行政)を告発するのに、別の機関(司法の一部としての検察)を使うほうが正当性を担保するに相応しいことは間違いない。だから、GHQは「国会」、「天皇」、「内閣」としたうえで、「司法」を「国会」の下であることは明白であるにしても、「天皇」、「内閣」との上下関係は不明瞭にしていたのである。
この条文をすっきりと「司法は内閣の下」であると読むより他なく変えてしまったのは、GHQではなく、吉田内閣(正確には草案を作った幣原内閣)と国会である。事情はいろいろ抗弁されるだろうが、本質的に当時の日本政府と国会が「国民主権」と「国権」の関係について、その実体的構成員である「官吏」に遠慮をして、「天皇の官吏」性を残したのであろうし、(官吏たちの執行する)行政権に特別な肥大性を残したのであろう。間接統治のためには、GHQも天皇の官吏たちに追従したのである。
さて、もう一つの大事なことである第3条との矛盾規定だということである。これは、第3条の「内閣の助言と承認」を空論として確認してしまうことが本質である。次の第7条規定を、単に形式だけの規定として見做しても可笑しくはないということを導くのである。それが何を齎しかねないかは、次で見る。
【第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2.国会を召集すること。
3.衆議院を解散すること。
4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状および大使及び公使の信任状を認証すること。
6.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7.栄典を授与すること。
8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9.外国の大使及び公使を接受すること。
10.儀式を行うこと】
≪明文正読≫
明文規定で直ちにイメージがわきにくいのは、10号の儀式を行うことだけであるが、あとはまず、仕事の形の類型から区別してイメージすることができる。1号の「憲法改正、法律、政令および条約を公布すること」から8号の「批准書および法律の定める・・・」までの八項目は、まず、御名御璽に関する決裁と称するハンコ仕事である。そして、2号と3号についてはその決裁文書を国会に行って読み上げるという演技行為を行う。この演技行為は、5号と7号にも付随する。9号も10号も演技行為だといえば演技行為であるが、9号はいわゆるお接待が本質である。
10号は国賓の接遇など明白な国家行事に伴う儀式が国事行為に入っておらず、他方明らかに天皇家のイデオロギーに基づく行事儀式が国事行為に入っているなど、誤魔化しがあるのでこの明文正読ではただちに語ることができない。
すると、1号は立憲主義・法治主義という理念に配慮した国事行為であるとともに、国会業務の総仕上げ行為、2号、3号、4号は国権の最高機関の節目に配慮した国事行為、5号は内閣(行政府)の人事決裁に絡む国事行為、6号、7号は主権者国民個人の毀誉褒貶に関する「国民のため」の直接的な国事行為、8号、9号が国外とのお付き合いに関する国事行為となる。国権機関天皇としては公平な感じがするが、やはり「国賓接遇」が位置付けられないことに違和感はある。
同時に、「国会」関連業務が10項目中、1号、2号、3号、4号と四割を占めていることに第6条と同じく、国民主権の投影を感じるのである。
問題は「儀式を行うこと」の曖昧さに帰着するのである。
≪釈義≫
この条文での問題は、これだけの国事行為を行う天皇は(1)、「国家元首」なのかどうか。(2)、内閣(行政府)の人事に絡むことの意味はどのようなものなのか。また、実際は(3)、「ご公務」として説明されている行為を「この憲法の定める国事に関する行為のみを行い」という第4条との絡みでどう理解すればよいのか。(4)、「儀式」とは何かである。
(1)、まず、天皇は「国家元首」なのかどうか。国家元首とはその根拠を巡れば国家有機体説に到達し、社会契約説を否定するとか、ノモス主権論を考えなければならないだとか、面倒なことはいろいろ言えるが、国民と主権の間で考えても仕方のないことである。むしろ、明確に対外関係ではっきりさせられなければ為らないもので、「対外戦争」の継戦・終結の担保であり、転じて「内戦」の正統性の担保であろう。近代国家は主権、国民、領土がなくてはならない三要素だといわれるが、要するに支配権力、被支配人民、縄張りがなければ国家サークルとしてのお付き合いはできない、すなわち、「国家承認」はない、と謂うものである。「元首」とはその主権の代表、中心、統合点であって、分割できない「権力」そのものである。
したがって、本質的には「国民主権」や「民主主義」と両立するものではない。三権分立制をとっている場合は、機関としての「国家元首」ということになるが、機関としての国家元首などというものは、自立した権力である筈はないのであるから、「近代主権国家世界」=主権国家カルテルという想定をしなければならない、擬制的なものであることは間違いない。
そうした理屈をこねたうえでの近代主権国家の元首であるかどうか。もちろん、「国会」の下に置かれている国権機関「天皇」であるから、元首ではない。さらに外国との関係でも、国賓接遇が位置付けられていないように、とても責任ある外交機関とは謂えないから元首ではない。
ただし、「元首」ではなくとも、「天皇」というイデオロギーをまとい、再生産し続け、いつでも擬制的「元首」に復帰しうる存在であることも明白である。自民党憲法改正草案第1条は、「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記している。相変わらず、生きた人間が象徴足りうるのかどうか、という疑問点などはアメリカ国民のセンスで誤魔化したままであるが、国事行為を逸脱して天皇イデオロギーを再生産する儀式を継続してきた成果が生きているのである。
(2)、次に、内閣の人事に絡むことの意味であるが、これは帝国憲法を安易に継承しているからに間違いはない。帝国憲法第10条は「天皇は行政各部の官制及文武官の俸給を定め及文武官を任免す但し此の憲法又は他の法律に特例を掲げたるものは各々その条項による」と明文化している。これが戦前は、「親任官、勅任官、奏任官」(以上、高等官)、「判任官」(以上、官吏)、「雇員、庸人」(官吏でない者)等に大まかに分かれて(もちろん、文武官、時代によってさまざまな差異、変遷はある)天皇との距離感を醸し出すとともに、「天皇の官吏」として、人民の上に立って、統治行為の実施に当たっていた。「公務員」ではなく、「お上の一翼」であったのだ。
これが敗戦後の間接統治、天皇の地位の保全の実質的な中身、天皇の官吏に統治行為を委任する、と謂うことに他ならなかったのだ。GHQは天皇の官吏を使う以外に間接統治の方法がなかったのだから、「天皇の官吏」=「公務員」のご機嫌をとるためには「(国会を除く)国家公務員」の人事に天皇を関与させる方法は極めて合理性があったのである。しかし、「国民主権」体制下で「公務員の任免」(の認証)に天皇が絡む必要は全くない。5号後段の「全権委任状および大使及び公使の信任状を認証すること」の国事行為は対外機能関係が含まれ、事情は別であるが、5号前段は占領統治の終了とともに直ちになくさなければ「お役人様」復活の根拠とも、天皇クーデターを考える文武官の拠り所ともなる文面であるのである。実際に、国会議員より内閣総理大臣が偉いという幻想を筆頭に、5号の「天皇に任免」される官吏(認証官)が、「主」が誰で、「僕」が誰なのか、秩序を弁えていないということは厳然たる事実である。
国会議員が任命の対象にも認証の対象にもなっていないことの意味をよくよく考えてみなければならない。
(3)、三番目に「ご公務」とは何か、という問題である。明確には、憲法的には国事行為に入らず、「国事行為のみ」が行える行為だと明記している観点からは、「ご公務」と称してごまかしている大部分の行為は違憲だと明言しなければならない。
ただ、「ご公務」もふたつ、「宮廷祭祀」と「それ以外の行為」があり、当然それは分けて考えなければならない。「宮廷祭祀」は天皇イデオロギーの再生産に不可欠の行為であって、これの禁止は「天皇」と「天皇制」の否定に直結する問題である。占領軍の考え方は天皇制を直ちにはなくさない、ということであったから大目に見るということであったであろう。しかし、主権者国民がどのように考えるかは全く別問題である。
「それ以外の行為」は、「他の国権が絡む行為」と「国権が絡まない行為」とがあるであろう。国事行為ではなく他の国権が絡む行為とは例えば、宮内庁用語を使えば、平成27年の5月、6月に限れば、「拝謁」、「茶会」、「ご引見」、「ご臨席」、「ご臨場・ご視察」である。国権が絡む行為とは、単純に言って公務員が仕込んで、天皇を使役する行為である。これは憲法論的には、違憲である。第4条と第7条を改正しなければ、憲法順守義務を負う公務員たちとともに結託して憲法破壊行為をしていると指弾されても仕方がない。
国権が絡まない行為とは、「ご夕餐」、「ご臨席」、「ご供花」、「ご覧」であろう。国権が係る国事行為でない行為もはなはだしく多い。これによって、「国民と親しく接触」しているのである。実際にはこれ以外に宮中祭祀そのものではなくとも「天皇イデオロギーの維持」に必要と思われる稲作や養蚕行為などは除いているのであるから、事実としては「ご公務」は多い。
さらに、「東日本大震災」の後の平成23年3月16日のビデオによる「おことば」発言もある。このおことば自身は明晰で、簡潔、情理に満ちたもので、過不足なく国民の心情を慰めていた。今上天皇の人間性を覗わせるもので、今上天皇と側近の力量が並々ならぬものであることが明確になった。私もそうだが、圧倒的多数の国民は好意を持ったであろう。しかし、「未曽有の国難」(この言葉もいかがわしいが)に際して、なぜ、彼はあのような発言をすることが許されたのか。憲法論的にはどのような意味を持つ発言であったのか。
今上天皇の態度は君主の態度、発言、君主の立場確保(確認)の為のものではなかったのか。天皇は、「象徴」ではあっても「君主」ではなかろう。「公務員」ではあっても「主権者」ではなかろう。この発言が出来たのは、考えるまでもなく戦後営々と二代に亘って「国民と親しく接する」「ご公務」を続けてきたからである。着実に、おさまりの悪い「象徴」から脱皮する営為を天皇家は続けてきたのだ。
「ご公務」と称する憲法逸脱行為を積み重ねている例は明確に目に余るほどある。これらの行為は許されない。公務員が、憲法と法律に定める行為以外の行為を「公務」と称して実行することは、主権者に対する背信行為であるし、これが日常化していれば犯罪行為である。
はっきり言えば、宮廷祭祀と関連行為を否定しては「天皇機関」は維持できないであろう。しかし、「ご公務」と謂って他の国権、「内閣」や「地方自治体」が使って良いのかどうかは、全く別の問題である。主権者国民が憲法を改正し、法律を明確にして規矩を定めなければならない。そうでなければ、他のあらゆる公務員よりも不断に違憲行動をしている公務員として、裁かれる法律ができかねないのである。
ただし、最後に、「ご公務」だとか、「おことば」だとか、という不明確で重要な憲法逸脱行為が散々繰り返され、集積されて、「国家元首」や「君主」の復活に繋がりかねない不祥事が繰り返されている根拠を確認しておくことが必要である。第7条国事行為がたくさんある上に、曖昧だということは理由の一つだが、それ以上に重要なことは、第3条、第7条で繰り返されている「内閣の助言と承認」が全く機能していない、機能するように考えられて書き込まれたものではないことである。唯一、3号の「衆議院を解散すること」だけが、「助言と承認」の国事行為に絡む実態であるだろう状況を革めなければ、国権はこの条文から解体しかねない。
(4)、最後に、「儀式」の問題である。儀式が何を指すのかは、正確には解らない。これを直接規定する法律は、皇室典範を含めてもない。しかし、「宮廷儀式」と「国権儀式」の二つに分類できることも明らかである。通常、「ご公務」とされている行事参加は儀式ではない。だから、第4条第1項に照らして違憲の疑いが強いわけである。
その「宮廷儀式」は皇室典範ではそれらしきものが、「即位の礼」(第24条)、「大喪の礼」(第25条)と二つだけ規定されている。それ以外の「宮中祭祀」は実行されているのは確実であるが、10号でいう「儀式」に入るのかどうか不明である。第4条が「憲法の定める国事行為のみを行い」と規定していることを考えると、国事行為にしては規模も小さく国事行為とは謂い難いので、違憲であるか、全くの私的行為ということになるより他はないであろう。
即位の礼とは、いわゆる大嘗祭を中核とする国家行事=儀礼である。それ自身は憲法に明記されており、諸外国から客を招待し、華々しく践祚された新天皇の姿を、即位式で見せてから大嘗祭の本祭に臨んで天皇霊の憑依を受けるのであるから、今上天皇の例による限り合憲性に疑いはない。大嘗祭の本祭の核心が「御衾の儀」といわれる「天皇霊と同衾」する秘儀だと云われるが、外形的に秘儀であろうが、法形式的には問題はなかろう。天皇霊を継承しなければ、天皇になれないのだと、天皇が考えているのなら、法形式だけが問題なのであるから憲法と法律に書いてあるなら問題はないのである。
大喪の礼も同様である。感情的に一公務員の葬式を「国事行為」とすることに違和感を抱く人がいても、それは「象徴職公務員の葬礼なのだから」と説明すれば、基本的な問題はない。
それよりも、「国権儀式」が法律で明確にされていないことこそが本体の問題である。「国事行為」の中の「宮廷儀式」とは別の、天皇が行わなければならない「国権儀式」とは何なのか。決められていなければ、「宮内庁」が「内閣府」に所管されていることをもって、「内閣」に便利使いされる存在としか考えられなくなる。内閣によるいわゆる「天皇の政治利用」の問題が必然化せざるを得ない、と謂うことである。
GHQ草案も、自民党憲法改正草案もこのことについては全く検討した形跡がない。つまり、真面目に「象徴天皇制」について、考えた訳ではないと謂うことである。
≪述義≫
天皇が人間であり、多くの人々によって支持され、支えられ、精神的な拠り所とされてきた、現在でもされている事実は厳然と存在する。だから、GHQは利用した。現行憲法下では、政治家たちも利用している。あたかも、公務員ではなく「特別な曰く言い難いもの」として、である。利用だから、それは無原則な使役なのである。
第7条は、そのようにならざるを得ない現行天皇の性格を基底しているのである。「規定」ではなく「基底」である。仕事がたくさん規定してあって、しかし、「天皇」たる所以のところの仕事が「規定」していないのだ。だから公務員としてたくさん仕事をこなしながら、「ご公務」だとか、「儀式」だとか、天皇にとって大切な仕事に限って何も決まっていない。「国事行為のみ」ができるのに、「内閣の助言と承認」と称される空論規定によってこき使われる雑用公務員にさせられているのだ。宮内庁は、おそらくは「内閣」そのものよりは天皇の直臣意識を持った者がいるのであろうが、「国民と親しく接する」「ご公務」を法理論的には危うい形で入れざるを得ないから入れているのだ。
私が、「国体論」などという古臭い言葉にこだわって、憲法を読解するという目論見をする所以も突き詰めれば、この第7条解釈を典型として説明できるだろう。天皇の「ご公務」とは、憲法第4条を思い浮かべる限り、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行い」ではないのだから、違憲活動である。全国巡行も、全国体育大会への出席も、植樹祭への参加も、国賓待遇を受ける外国訪問も、各地で災害があった際の慰労、慰霊の訪問も、「この憲法の「第4条第2項」、「第6条」、「第7条」の行為」ではないのだから、公務員としては許されない違憲活動であり、公務員の「憲法尊重義務」に反する許されざる行為である。抜け道は、すべてを「私的行為」と言い抜けるよりほかはない。
しかし、「ご公務」を「私的行為」として逃げてほしいと思う主権者国民もいないであろう。宮内庁は違憲行為を毎日組織し続けているのだが、それをごまかそうとも思わないだろう。「ご公務」的実態と、明確な「違憲」的法理の乖離が明白だ。これが、戦後憲法体制下で70年の長きに亘って延々と再生産され続けてきたのだ。世界で唯一の主権者国民の下で象徴職天皇が奉仕する体制は、この程度に出鱈目なのだ。我が国体は、総力戦戦争の敗北の結果として占領軍に書割をされたものだから、主権者にも、先の主権者天皇にも、すべての公務員にも、70年たっても身に就かない代物なのである。我が国体の精華、本義はどこにあるのであろうかと思考するゆえんである。
これが、「国民主権」下での「天皇」という「象徴職公務員」に相応しい取扱い方だとは、当然、私は思わない。
なお、こうした直接解釈問題とは別に、いわゆる衆議院の「7条解散」の問題も触れておこう。既に、連載第一回目(本文でも註でも)触れておいた件ではあるが、別の観点から触れておく。実は、自民党憲法改正草案はこうある。「第三章 国会」第54条第1項で、「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」とあるのだ。「国会」の章の冒頭は、第41条でそこには「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」とあるにも関わらず、である。
帝国憲法では該当する条文は、「第一章 天皇」の第7条「天皇は帝国議会を召集し其の開会閉会停会及衆議院の解散を命ず」という部分である。この前提は、第1条、第4条である。第1条では日本帝国は「天皇之を統治す」といい、第4条は、「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」とある。統治者、元首として「衆議院の解散を命ず」るのである。第3条で、「天皇は神聖にして犯すべからず」とあったから、天皇は国権そのものに収斂されていたわけではないが、衆議院解散権限の根拠を理解するのが難しいわけではない。
しかし、自民党改正草案にある第54条の首相による議会解散権限は、どのように理解したら良いのだろうか。「首相大権」とでも謂うべきものが、憲法外にあるから「国権の最高機関の解散」権限があるのだろうか。
勿論そんな筈はない。ただただ、戦後、既成事実として、昭和23年(1948年)の「馴れ合い解散」(吉田内閣)、昭和28年(53年)の「バカヤロー解散」(吉田内閣)、昭和55年(80年)の「ハプニング解散」(大平内閣)、平成5年(93年)の「嘘つき解散」(宮沢内閣)を「不信任案可決=69条解散」の数少ない例外として、すべて「7条だけ解散」として違憲解散(戦後憲法体制下23回の総選挙中18回)が積み重ねられてきた歴史的重みが、当たり前のこととして「首相大権説」、ないしは「内閣国権最高機関説」を自然に導いているのである。国権の最高機関国会の一翼の衆議院の任期満了選挙は三木内閣(昭和51年)の時だけ、ただ一回である。護憲派、改憲派を問わず、いい加減に憲法の「体制的誤読」を積み重ねてきたからの結果である。国権の最高機関に蟠踞しているだけで全体の奉仕者である自覚に欠ける「政党政治家」たちの責任は重い、と言わざるを得ないのである。
憲法を読む限り、天皇の宣示手続きを定めただけの「7条解散」の根拠も理由も見いだせないということは繰り返さなければならない。
【第8条 皇室に財産を譲り渡し、または皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない】
≪明文正読≫
ここは一番解釈に濁りが出ない条文である。天皇と天皇家の家族は公務員であるから、それも「天皇」機関を構成しているから、各省庁の財産予算と同じく、国会の議決によらずしては、その処分はできないということである。
≪釈義≫
この条文は、歴史的には戦前の天皇家が日本一であることは勿論、世界一であるかも知れない財産家であって、その財産が極めて不明朗な収入と支出に包まれていたから、これを取り上げるという占領軍(戦勝国)の明白な意思による戦争処理策である。満州国は勿論、北支那国建国資金、各種諜報資金が出ていた可能性は諜報戦当事者として、連合国そのものが一番把握していることで、これを断つということは天皇制を存続させるにしても、当面の間絶対的に避けては通れなかったことであろう。
≪述義≫
特に述べることはないが、これが事実と対応しているのかどうかは、また別のことである。戦前の「臣民」の中には、当然戦後も「臣下」意識を持つものは少なくなかった筈であって「家臣」として努力している人々がいないと考えることのほうが難しい。
(第二章 「天皇の章」を読む 後半)ここまで
〔以下註釈〕
(註1)日本国憲法を生んだ密室の九日間p419
(連載第4回)終わり
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(にしけんじ)
(pubspace-x2271,2015.08.16)