ゲバルト-ローザ:日本における新左翼、ジェンダー、暴力

チェルシー・シーダー

 
最初に日本の戦後学生運動について研究したいと思ったときに感じたのは、日本のいわゆる「新左翼」運動の始まりでも終わりでも女性の活動家が重要な役割を演じていたということであった。まずは1960年の安保デモで亡くなった樺美智子だ。樺は死で有名になって、戦後学生運動の犠牲者だけではなく、戦後民主主義の象徴でもあった。新左翼の70年代におこった「死」では、もう二人の女性活動家がきわだっている。その二人は樺さんと全く違って、悪名高い新左翼の過剰を象徴している永田洋子と重信房子であった1
 
新左翼の後に生み出されたウーマンリブによると、60年代の新左翼は男性の運動で、70年代からのリブは女性の運動という”narrative”もありますが、このように新左翼の「純粋」な側面でも「過剰」の側面でも象徴になっているのは男性ではなくて、女性であった。
 
もちろん新左翼においてのみ女性にこのような両極端なイメージがあったとはいえず、社会の中の新左翼の女性というイメージと運動の中の女性の参加理由と参加の仕方に関係があった。私の博士論文では、いろいろな視点から女性の新左翼活動家の意味を考えて、新左翼の「新」にも女性が参加したということもふくまれていると議論した2。つまり、戦前の「左翼」学生運動と戦後の「新左翼」学生運動にはいくつかの違いがあって(例えば、共産党との関係、暴力との関係)、その中でも重要な違いの一つは戦後の共学になった大学の関係と女性の参加だった。女性の参加は学生運動の動きにもその運動の社会の中の可能性と限界にも影響を与えた。
 
このプロジェクトの背景にあるとても大きい問題意識は、戦後の社会と社会運動のなかで、女性はどのような役割を演じ、どのような役割を演じることができ、どのような役割を演じることができなかったのかということだ。それはただ、女性が運動に参加するとか社会問題に関心あるとよいという意味ではなく、女性の参加も社会のなかになにかしらの意味が作られているということで、もちろん、あとでまた述べますが、ジェンダーというと、「女性」だけを示すことなく、女性らしさと男らしさを分析する必要もある。
 
最近のニュースから例を挙げて、2014年の秋に特に話題になっていた香港の学生デモについてのマスコミの扱いを見てみましょう。東京新聞の夕刊で偶然この記事を見つけた。
 

写真:「私は冷静、安心して」11月13日

写真:「私は冷静、安心して」11月13日

この記事をジェンダーニュアンスで読むと、東京新聞の香港の学生デモにたいするシンパシー(sympathy)の深さを理解できる。まず目に入るのは若い女性の笑顔の写真である。記事には次のように書かれている。「(香港の学生バリケードにいる学生は)みな上品で愛想もいい。女性の比率も4割ほどと高く、かつて角材を手に機動隊と衝突した日本の学生運動とは拍子抜けするほど様子が違った。」この比較では日本の60年代後半にあった学生運動、当時の日本の学生運動の中にもマスコミが驚いたぐらい女性がいたということがわすれられ、「女性参加=暴力じゃない」という概念が繰り返されている。
 
その上、女性の体についてまで書いている。「体」といっても主に髪の毛についてである。「肩までの髪をかき上げながら言った。」とか「髪を結びながら打ち明けた」。この点も、いかにも60年代の学生運動の時代を支配した記事のようだ。女らしい女性であることをこのニュアンスで強調している(髪の毛を触りながら話すことで)。60年代の日本の新左翼運動の中でも女性がいた、そして、有名になった女性もいた。にもかかわらず新左翼運動が男性の運動だったというナラティブ(narrative)でその歴史が消された。
 
それで、今日の発表の題名の「ゲバルト-ローザ」という表現には、「新左翼」「ジェンダー」「暴力」という三つのテーマが絡んでいる。
 
「ゲバルト」はドイツ語の「暴力、力」という言葉で、1960年代後半の学生運動の中で国家の「暴力」に対して運動の「カウンター暴力」というニュアンスで使われていた。なかでも、一番耳にした使われ方が「内ゲバ」で、70年代の左翼セクトの暴力が思い出される。
 
ローザはローザ-ルクセンプルクから由来したそうだ(1871−1919、ポーランド出身の社会主義者で、ドイツで活動して、ドイツの義勇軍に虐殺された)。さらに、ローザという名前にはもうひとつの60年代の響きがある。それは偶然ですが、アメリカの60年代の黒人の市民権利運動のなかでヒーローになったローザ-パークスである。
 
「ゲバルト-ローザ」というのは1968年に作られた言葉で、最初は当時の東大学生運動で活動した女性の一人を示したニックネームだった。次第に一人の女性活動家だけではなく、マスコミですべての女性学生活動家を示すようになった3。このことで分かることは二つある:第一に、1968年代の学生運動のなかに女性が参加したこと。第二に、学生運動に参加した女性は皆だいたい同じように見えて、このように呼ばれるようになった。つまり、活動家であっても女性であったことが強調された。
 
もちろん、その当時でも、今でも「女子学生」という言葉が流行して、「学生」が男性を示すのは常識で、女性の学生なら「学生」の前に「女性」のアイデンティティー(identity)が強調されて、「学生」の「subgroup」に属する。例えば共学の大学がまだ珍しかった60年代のアメリカで使われた「coed」(共学している人)、つまり普通の学生(男性)と共学した女性の表現と似ているように、大学の教育では男性がメーンで、一緒について行く女性が補完的となる。
 
この戦後の大学教育に共学がなかったら、戦後の学生運動にもこんなに多くの女性が参加しなかっただろう。戦後と戦前の学生運動の違いのひとつは男女共学だということがある。日本の戦後フェミニズム運動についての資料編と活動家の体験論をみるだけで、その60年代新左翼の体験の影響が深いということがわかる4
 
これで三つのテーマ (新左翼、ジェンダー、暴力) を問いながら日本の戦後学生運動のケースをもっと広い問題意識とつなげたいと思う。「ジェンダー」と「暴力」を問うために”policing”と”vulnerability”という用語も紹介して、この側面から「ジェンダー」と「暴力」を考えたらどんな分析や議論ができるだろうか。
 
安藤たけまさが去年に出した本「ニューレフト運動と市民社会」では、新左翼よりニューレフトという言葉が使われている5。安藤によると、今の日本では「新左翼」という言葉に暴力的な過激派のイメージがあるため、英語圏で使われた「ニューレフト」を日本語でも使うことにしたということである。
 
英語で書いた博士論文で”New Left”を使った私は今回でも「新左翼」を使うことにした。60年代の左翼学生運動に海外からニューレフトの”student power”が影響を与えても、その学生運動は日本の左翼のナラティーブの中で生み出されたということを強調したい。その上、英語圏のニューレフトという表現を使うとアメリカ、イギリスの影響を強調して、フランス、ドイツとそれより近い中国でおこった文化革命の影響を小さくすることになる。
 
日本の新左翼の出現には、国外と国内における重要な理由がいくつかあった。ソ連での”destalinization”と「ハンガリー事件」が1956年に起こって、たくさんの国の左翼学生がソ連を支配した共産党から離れていった。その上に日本共産党の場合、学生を失望させたのは「六全協」の判断だった。それで日本共産党はその時まで支えたゲリラ活動を批判した。でも革命のために退学した若者はもちろん、その他の左翼に期待した若者達も日本共産党を信用できなかった。それで1958年にブント「共産主義者同盟」という組織が日本で初めての日本共産党(旧左翼)とつながりがない新左翼のグループになった。
 
日本の新左翼についての”chronology”を作ろうと思ったら、この1958年に生まれたブントから1972年に起こった連合赤軍事件まで、つまり、1958年から1972年の16年間になると思う。ブントがずっと指導した一つの運動ではなかった。その16年間のなかでも、二つの学生の世代が成長して、運動の目的も多様だった。しかしその背景を考えたら、1954年から始まった高度経済成長があって、1973年のオイルショックまで運動は続いた。その時期も学生運動の新左翼”hegemony”の時期とほぼ一緒だ。そのように考えると、たぶん1958年のブントの結成から連合赤軍の粛清という新左翼のイベントで”chronology”を定義するより、高度経済成長の”chronology”で学生運動を研究したほうが面白いかもしれない。
 
つまり、今までの戦後学生運動の研究では、1960年安保闘争か60年代の後半の反ベトナム戦争学生運動か、その中のひとつがテーマになって、その20年間に近いもっと長い歴史についてはまだあきらかにされていない。小熊英二の分厚い「1968」という本で高度経済成長の重要性について書かれているが、彼の研究ではまだ納得できない6。最近は英語で書いた記事で1968年の「叛乱」は社会的な変更と転移に対しての反応であったと議論しても、学生運動の原因はまだ曖昧な不安と不満として描かれている7。それもあったと思うが、小熊の60年代の学生運動について研究は分析より、すこし記述的なものだと思う。当時のマスコミの記事はよく集めて、それで重要なテーマについて書いたが、マスコミと運動に参加している学生の間の動的なパワー関係、そのうえに学生運動の参加者の間の動的なパワー関係について問題化していない。
 
私も博士論文で”chronology”を長くしたといっても、まだその時代の継続性、どこで分裂があったということについては、まだ理解できていない。ただ、学生運動とその経済的な背景を一緒に考え、学生/学生運動の社会的な意味について多角的に考えることが必要だと思う。
 
例えば、高度経済成長で核家族が理想的な家庭構造になって、それでジェンダーで区別した労働が決められ、つまりサラリーマン/主婦制度が強まった。
 
そして、高度経済成長の社会の中で、中流の神話が登場し、日本人の90%以上は、自分が中級であるということを調査で知った8。その神話の中には日本にいる市民は同じ民族であったことが入っている、当時の雑誌や新聞に他の”minority populations”はもちろん、「階級闘争」についてもあまり書かれていなかった。むろん、たくさんの「主婦論」があって、戦後の教育も共学になって、1960年代に「女子学生亡国論」といういわゆる「論争」が出た9。ある意味で階級と人類より、ジェンダーが一番注目された社会の格差になった。労働運動の中でも1960年に総評も主婦会を作って、そこでも「社会で」働いている男性/家庭で働いている女性という「中流」家庭制度が理想的になった10。ですので、新左翼も高度経済成長のジェンダー制度の中で考えなければなりません。
 
そのように考えたら、新左翼の中でいろいろなオープンの可能性が開けても(例えば、あるキャンパスの全共闘でとか)、この社会のジェンダー区分けが新左翼のなかにも見える。戦後日本の社会を批判した新左翼のなかでも男女の労働を区別しており、その意味で高度経済成長の社会制度を新左翼が無意識に真似していたのである。
 
「ジェンダー」というともちろん「女性」を示すだけではなく、今でも話題になっているように「女らしさ」と「男らしさ」を示す。そのため、新左翼に女性が参加して、それでリブの前史でもあったということだけではジェンダーの視点からの分析にはならず、運動の中でも「おんな」というもの、「おとこ」というものは何だったということも問わざるを得ない。
 
その話に入る前に、今までふれなかった「暴力」についてちょっと考えたいと思う。
 
「暴力」で新左翼を考えるなら、先にいったように「内ゲバ」を思い出したり、連合赤軍の血だらけの歴史を思い出す。逆に、路上で闘争した学生活動家と機動隊、また東京大学への機動隊の侵入も頭に浮かぶかもしれない。60年代、70年代の警官の策略についても、研究不足で、新左翼の「死」がだいたい新左翼の過誤だったとよくいわれている。しかし、どのぐらい当時の警察が新左翼運動を弱めて、右翼を支配したのかということについて、まだ分かっていない。例えば、どんな安保デモにも、反戦デモにも、右翼集団はいたが、その影響がまだ分析されてない。
 
そのため、新左翼が「過激になって、悪くなった」という意見を支持したくない。しかし、「暴力」というと路上の暴力だけではなく、”policing”=「取り締まり」は警官が行うものだけではない。例えば、ジャック・ランシエール(Jacques Rancière)の”policing”の定義を借りたら、”The police is not a social function but a symbolic constitution of the social”(警察は社会的な機能ではなく、象徴的な社会組成である)。ランシエールの思想で”politics”は政治的な主体性の生み出す過程で、いつもいまの状況(社会組成)で見えないものと可能を表す過程である。そのような”politics”はいつも警察と対立し、そんな”politics”と対立している警察の仕事のメーンは「見えること」と「見えないこと」を判断することになる11 。この象徴的な話のごく普通で具体的な例もあげることができる。例えば、今の東京の交番でニコニコしている警官の隣に「過激派犯罪者」の写真を張ることによって、警察も今日の新左翼の意味を作っている。ウイリアム・マロッティが分析した1968年の佐世保で起こったデモで、学生の「ゲバルト」で国家権力の暴力=警察が見えるものになって、それで市民から同情されるようになったということがわかる12。1970年代の後半に、警察の暴力が見えないようになって、ただ学生の「ゲバルト」だけが見える暴力になった13。コミュニティーリレイションズ(community relations=CR)で「見えること」と「見えないこと」をうまく管理できるようになり、これは学生運動が受けた”external policing”=「外からの取り締まり」ということだった。
 
そのような”policing”で考えたら、日本で起こった新左翼も結局男女の役割を別にして、女性の労働を消したのである。つまり階層関係がないという理想で作られた全共闘のなかでも女性の労働が「見えないもの」になった。そのことを”internal policing”=「内からの取り締まり」として名をつけたいと思う。前掲「全共闘からリブ」という本では、たくさんのリブ活動家に、全共闘運動で、多くのおにぎりばかりを作らせて、それで初めて女性だけの運動の必要性を感じたと書かれている14
 
もちろん女性だけの運動の中でも序列があって、女子大の全共闘でも序列があった。その場合にはジェンダーより他のシステムで(例えば後輩/先輩の関係で)役割が決められた。でも全共闘の日常生活の労働(おにぎり、ガリ版、獄支援)はだいたい見えないようにして、見える「活動」は「ゲバルト」であった。それは主に男性の「男らしい」活動であった。
 
「ゲバルト-ローザ」に戻ると、ある女性の活動家はゲバルトに参加して、運動の中でもマスコミにも注目された。しかし、「ゲバルト-ローザ」の柏崎智恵子も例外で、ある意味で「名誉男性」にもなった(Gayarti Spivakの表現で、彼女がHannah Arendtについて使った言葉)15。女性なのに「本当の活動(ゲバルト)」にも参加した。ゲバ棒を振って(Freudによるとphallusを持つようになった女かもしれないが)、それで結局柏崎が「怖い」女性になった。逮捕後、刑務所にいた時に本を書いて、女性であるにもかかわらずゲバルトに参加したらおかしいということを批判しても、新聞に載せられた柏崎の本にたいするレビューでは「とても女らしい」という言葉も出た16
 
女らしい女性で弱くて、守られるべき活動家というイメージか、男と並んで闘える女らしくない女性で怖いと思われているイメージだ。この二つのタイプが繰り返される。例えば樺美智子が亡くなったら、彼女(と彼女が参加した学生運動)が繊弱で共感すると受け止められた。しかし調べたら、樺美智子はある男性の活動家よりラジカルで「怖い」という言葉でも描像された。さきほど紹介した記事も女性の女らしさ(おとなしいところ)を強調して、香港の学生運動も弱くて守られるべきものだというイメージを作った。
 
そして、暴力をもう少し深く考えるために、”policing”だけではなく、”violence”対”vulnerability”について考えましょう。最近 ジュディス・バトラー(Judith Butler)も暴力を”vulnerability”の視点から議論しているが、英語での”vulnerability”と日本語での「被傷性」も微妙に意味の違いがあって、それを先に説明したいと思う17
 
”vulnerability”という表現には時間的な意味も含まれており、「弱さ」とか「被傷性」だけという言葉に翻訳するとその意味を失うと思う。つまり、”vulnerable”な人間は基本的に「弱い」人でもなく、ただある状況で(年、住んでいるところ、社会の位置)で危険にあいやすいという意味である。
 
だれが”vulnerable”ということで何が”violent”ということもわかる。例えば、学生運動のデモがマスコミに”vulnerable”のように取り上げたら、警察の方が”violent”にみえる。社会の中でだれが”vulnerable”でだれを守るべきかが決められる。女性学生が新左翼のデモに参加して、それで若い女性=”vulnerable”の社会的なイメージでそのデモが”non-violent”であると取り上げられた。1960年安保ではそうだった、そして60年代後半の学生デモも共感を得た。女性だけではなく、若い学生も”vulnerable”だというイメージで、特に1968年の始まりにおこった佐世保デモにおける機動隊の”violence”の批判には、その考えも入っていた。
 
しかし60年代の新左翼学生運動で国家権力の暴力を示すことが目的になり、「ゲバルト」が「男らしさ」と関連し、「男らしさ」も目的になった。このときに、「男らしさ」が「守るべき」”vulnerability”になった。Judith Butler によるとこのような「男らしさ」が”vulnerable”になると普段”vulnerable”と思われた女性が脅威になる。まだ結論がでていないが、「ジェンダー」と”vulnerability”の関係を考えて、本当の”vulnerability”をふまえた上で、”vulnerability”の概念と分析することが大事である。例えば、女性が”vulnerable”という社会的概念があっても、ある階級の女性は比較的”vulnerable”ではない。このようにして学生運動のなかの「ジェンダー ディスコース」を分析すると、”sexism”はあっても、本当に”vulnerable”な人々は見えないでしょう(さきほど言ったように、この60年代の日本社会の神話で皆が日本人、皆が中産階級で、そうではない人が見えなかった。それも”policing”だね)。そのため、社会の中で”vulnerability”がどのように「ジェンダー」とつながっているかということを分析することも重要だ。
 
ちょっとだけ Butler から借りている思想を英語で引用する:
 
“If vulnerability has been culturally coded feminine, then how are certain populations effectively feminized when designated as vulnerable, and others construed as masculine when laying claim to impermeability? And conversely, when it is men and their honor that is figured as vulnerable, to what extent are women expected to function as protection and, when they fail, become cast as threats to be contained?” 18
 
60年代の新左翼学生運動の中で、「男らしさ」が目的になったということがいろいろなところで見えた。しかも、右翼と新左翼の類似点にあったということが「全共闘vs.三島」の討論でわかった19。1968年の秋の東京大学駒場キャンパス祭のポスターで闘争しているキャンパスの代表的なイメージはヤクザのような男性であって、日本社会のoutlawであるヤクザの男らしさに憧れて、男らしさロマン主義も新左翼にあった(これは日本のケースに限らないが)。
 
運動の中の弱さも「女らしい」と呼ばれ、運動の価値観においても「ジェンダー差別」が入った。もちろん「学生運動」だけをみても、いろいろな人が参加して、さまざまな意見を持っていた。しかし、たくさんの資料をみると、このカジュアル(日常的)な”sexism”が多く、「女々しい」や「女らしさ」という言葉はだいたい軽蔑で使った表現だった20。もちろん、マスコミでは、女性参加=”sexual”(性的)参加で、女性=性的なものであり、その女性性別も怖く描いた。例えば、女に「弱い」(vulnerable)と思われた男性は女性のために運動に入るかもしれない。
 
1969年以降、学生運動がだんだん外からのpolicingにも内からのpolicingにも弱くなり、就職転向という表現が流行して、女性も結局「主婦転向」する期待がうまれるようになった21 。そのうえ、「ゲバルト」が学生の時だけの「遊び」になって、70年代に参加した女性がフェミニズムの過剰で暴力に参加したという解釈があった。例えば、この1978年の New York Times の記事によると重信房子のようなテロはリブの結果であった、と説明していた22
 
結論の代わりに残っている質問をあげたいと思う。日本のケースで「ジェンダー」と「暴力」の視点から社会運動を分析するときに、どのようにその用語も分析できるでしょうか?例えば、この記事で書いたように”policing”を「見えること」と「見えない」ことを判断するものとして考えたら、国家権力(国家暴力?)を隠すためだけではなく、運動の中で序列と階層を管理するために使われるものとして”policing”を新しく考えることができる? 例えば、”vulnerability”とジェンダーの関係で考えたらジェンダーをもっとクリティカルに考えることができるだろうか。つまり、女性はいつも「被傷性」があって、「被害者」になりやすい者ではないが、そのような社会的な期待があるために、その”vulnerability”を示す女性活動家がより支配権(sympathy = 同情心?)をもらえるのだろうか?主婦フェミニズムと母/女性グループの活動にこのようなジェンダー役割が演じているが、それを超えて”vulnerability”を考えたら、どのような社会運動研究ができるだろう。
 


1 これは2014年10月の6070研究会での発表だ。6070研究会は日本大学文理学部のコウ-ヨンラン(准教授)が行う研究会で、アジアの60年代と70年代に関する研究者が集まるグループだ。発表のコメンテーターの東京外国語大学の小田原琳(講師)に特別な感謝を。
2 Chelsea Szendi Schieder, “Coed Revolution: The Female Student in the Japanese New Left, 1957-1972” (Ph.D. Dissertation, Columbia University, 2014).
3 「読売寸評」読売新聞1969年3月23日
4 例:溝口明代-佐伯洋子-三木草子編集『資料日本ウーマン-リブ史I』(松香堂, 1992);女の現在を問う会編集『全共闘からリブへ』インパクト出版会1996.
5 安藤丈将『ニューレフト運動と市民社会:「六⚪年代」の思想のゆくえ』世界思想社2013.
6 小熊英二『若者たちの叛乱とその背景』新曜社2009; 小熊英二『叛乱の終焉とその遺産』新曜社2009.
7 小熊英二「Japan’s 1968: A Collective Reaction to Rapid Economic Growth in an Age of Turmoil 日本の1968 混乱期の高度成長への共同体的反応」The Asia Pacific Journal: Japan Focus. Vol. 13, Issue. 11, No. 1. (March 2015).
8 William Kelly, “At the Limits of New Middle Class Japan: Beyond ‘Mainstream Consciousness,’” in Social Contracts under Stress: The Middle Classes of America, Europe, and Japan at the Turn of the Century, ed. Olivier Zunz, Leonard J Schoppa, and Nobuhiro Hiwatari (New York: Russell Sage Foundation, 2002), 232–54.
9 小山静子『戦後教育のジェンダー秩序』勁草書房2009.188.
10 Christopher Gerteis, Gender Struggles: Wage-Earning Women and Male-Dominated Unions in Postwar Japan (Cambridge, MA: Harvard University Asia Center, 2010).
11 Jacques Rancière. “Ten Theses on Politics.” Theory & Event. Vol. 5, No. 3, (2001). フランスの60年代のケースでこのランシエールの思想を使った本だと: Kristin Ross, May ’68 and Its Afterlives, 1 edition (Chicago: University Of Chicago Press, 2002). (クリスティン-ロス(著)箱田徹(翻訳)『68年5月とそのあと(革命のアルケオロジー』航思社2014)
12 William Marotti, “Japan 1968: The Performance of Violence and the Theater of Protest,” The American Historical Review 114, no. 1 (2009): 97–135.
13 安藤『ニューレフト運動と市民社会』
14 例:徳山晴子「私は動けば世の中が一人分うごくという実感」『全共闘からリブへ』82-89;大原紀美子『時計台は高かった』三一書房1969.
15 Gayatri Spivak, “An Honorary Male,” Arendt After ’68: A Symposium, Columbia University, NYC, February 12, 2009.
16 「東大ゲバルト」読売新聞1969月7月11日
17 ジュディス・バトラー(著)本橋哲也(翻訳)『生のあやうさ:哀悼と暴力の政治学』以文社2007.
18 Judith Butler and Zeynep Gambetti, “Rethinking Vulnerability and Resistance: Feminism and Social Change,” Columbia Social Difference, September 16, 2013, http://socialdifference.columbia.edu/projects/rethinking-vulnerability-feminism-social-change.
19 三島由紀夫・東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会『討論三島由紀夫vs.東大全共闘:美と共同体と東大闘争』新潮社1969.
20 岡本雅美・村尾行一『大学ゲリラの唄:落書東大闘争』三省堂1969.
21 「坊や、覚えておいで。ママは昔ゲバルト・ローザという凄い女でした」ヤングレディ1971年7月5日
22 Judy Klemesrud, “A Criminologist’s View of Women Terrorists,” New York Times, January 9, 1978.

 
(チェルシー・シーダー:Chelsea Szendi Schieder:比較社会学)
(pubspace-x2082,2015.07.09)