森忠明
2003年10月刊行『「酒鬼薔薇聖斗」への手紙』(宝島社)に寄せた拙文はこうだった。
〈一字の師〉より
憶えておられますか。
’01年1月17日、初めて君に会い、同月31日、三回目の授業を最後にお別れした講師の森忠明です。
その折、さしあげた『寺山修司選・森忠明ハイティーン詩集』と『少年小説・きみはサヨナラ族か』と『貴作〈瞹想笑いに手には名刺を〉感想文』の三点――もしかすると没収されてしまったかもしれませんね。
二回目の授業で、君が自作掌編〈曖想笑いに手には名刺を〉を僕に提出してくれたことや、その最終行の一字改稿を素直に受け入れてくれたことを、今でも嬉しく思っています。
「たった一字でも直すように指導しただけで「一字の師」と呼ばれるらしいから、もう君と僕とは師弟関係だね」
と言ったとき、君は微笑して頷き、少し頬を染めました。ほかの時間でも君はしばしば紅潮。ウィリアム・ブレイクという英国の詩人が〈赤面は自重心の外衣である〉と記しているように、僕は君の赤面に君の誠実を見ていました。
一字の師となった僕は、その特権を発動、二、三の週刊誌に君の掌編を発表しました。あずかっている原稿科はいつかお渡ししましょう。
君と対面する三十分前。全体が幽居じみた関東医療少年院の玄関先に立ち、〈Kanto Medical Reform & Training School for the Juvenile Delinquents〉と刻まれた白御影石を見つめながら、僕は小さく溜息をつき独りごちた。「リフォームか……。壁紙を張り替えるようにはいかねえだろうな。オレに「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老くらいの器量があればなあ……」
なぜドストエフスキーの作品を想起したのかというと、そこに登場するスメルジャコフ少年やイワン青年と君とを重ね台わせて、畏れつづけていたからです。
おととし、十八歳の冬、「作家になりたい」と言明した君のことですから、既に「カラマーゾフの兄弟」は読み終えているのではないでしょうか。
超長期収容(G3)の重大事犯だという君と、他の四名の少年に向かって、僕が開口一番に述べたことは、たしかこうでした。
「この教室のどこかに盗聴装置があるはずで、授業内容は監視役の教官に加えて二重にチェックされていると思う。僕は本音しか喋らないから、一回こっきりで講師をクビになるかもしれない。そうなったら出所後、僕の所に来てください。こちらからシャシャリ出て君たちの力になりたいというような、善事に対する熱情はあまりありませんが、こんな無名の作家でもよいと判断したら頼ってきてほしい。君たちの犯行が事実だった場合、そこに至るまでのことを深く分析しつづけ、また苦悩しつづける限り、僕は有力な友人たちと協力して、末長くフォローアツプする覚悟です。
ひとつ提案ですが、僕ら六人で〈人間学会〉なるものを発足し、毎週一回、人間の狂気研究や欲望についての考察などを試みたい」
指導方法はすべてお任せする、などと言っておきながら、あれするなこれするなと、入れ替わり立ち替わり制限してくる少年院幹部に、大きな嫌悪を感じつつ始めた授業。
案の定、君が僕によこした掌編が原因で、少年院の高圧的な次長らと衝突し、一年以上おつきあいできる約束だった君と、三回しか対話できずに終わりました。
しかし、僕としては合計百四十分余りの邂逅のうちに、君へ贈る言葉と君の蘇生を願う気持ちは送りきったのでした。
あれから二年半が経過した現在、改めて君に伝えたいことは二つ。
どこかの出版社から大金と心ある編集者を前借りして、静かな場所に落ちつき、勉強と肉体労働と愛をおこない、人間のあらゆる迷宮と、自己の過去についてのエクリチュールをつづけてください。
インターネットなどを攻防両用のツールとして駆使する君が目に見える。不日、ドストエフスキー級の作家になることが、自他への真の悪魔祓いになるのだと信じます。
もう一つは、すばらしい美貌の君の、唯一の惜しむべき点である歯を、大修理してほしいということ。独特の迫力は失われてしまうかもしれないけれど。
以上、君の健康と健筆を析ってやみません。
ごきげんよう。
森忠明(詩人・童話作家)
そして本年6月半ば、「週刊ポスト」記者・小川善照君(『我思うゆえに我あり―死刑囚・山地悠紀夫の二度の殺人』で第15回小学館ノンフィクション賞受賞)から電話あり、「まだ読んでないんですが『回収しろ』とか『自己陶酔など読む気もせん』とか悪評だらけのようです」と言った。
「おれも未読だけど、14年前、関東医療少年院で面接授業した時点ですっかり魔物が抜けちゃってた人間だからね、歴史的名作を残せるマジカルパワーが残ってるとは思えないね。それにさ、医療という名の“去勢手術”で、あそこまで骨抜きにできるのか!さすが“国家プロジェクト”、税金いっぱい使っただけのことはあるって、カンシンしちゃったわけ。カンは寒いほうの寒心だよ。
神戸のあの事件を、国家犯罪へのカウンター・クライム、反対犯罪の一種だと考えてたおれとしては、医療、メディカル・リフォームとか更生権力と称する“新変態製造ライン”に、少年Aは当時2回目の敗北を味わってたんだ。そんな可哀そうなハイティーンに『僕は作家になりたい』とか『この作品に感想ください』なんて赤面しながら迫られたら、『きみはもう魔物の抜け殻なんであって、タカがしれてます』なんて本音は吐けませんでした。ほめ過ぎ、励ましすぎたことに悔いはないけど―」
小川君とは旧知の間柄ゆえ、そんな軽口になってしまった。
それからすぐ、アマゾンから『絶歌―神戸連続児童殺傷事件』(太田出版)をとりよせ、読みおえて間もなく、フジテレビ『情報プレゼンター・とくダネ!』なる所から取材申し込みあり。
六月二十三日午後一時から約二時間、自宅で『絶歌』について、“文学上の師匠”としての感想を述べた。大要は以下の通り。
○『絶歌』出版における最大のミスは、文学的指導者たる私の検閲を受けなかったこと。『ポケット・モンスター』劇場版脚本家・園田英樹は一番弟子だが、大家になった今でも私のダメ出しを受けにくる。直木賞作家・森絵都などは、私の厳しいチェックに涙目になりながらも二十歳の頃から耐えていた。
ひとことで言えば、出版は30年早すぎた。人間は最低六十年生きなければ、自他への真の苛察力と暴露技術を身(神)得できないからだ。いかなる才人でも、プロフェッショナル・ノベリストになるには、それくらいの歳月を経ねばならず、今回の処女?出版本は、良くてもア・マン・オブ・レターズにとどまっている。
○人物観察、ナメクジ解剖、Y夫妻描写など、評価できる局所もあるが、ザンゲ録としても、自己分析史としても、単なるライターズとしても、全体の構成がなっていない。太田出版担当編集者の不親切、あるいは非力を恨む。
俗に言えば、ゼニの取れない物を世に送り、我が弟子に大いなる恥をかかせたことを怒っている。<心ある編集者>ならば、安っぽいディファレンシャル・アドバンテージ欲動やpompous(気障ぐせ)などを止揚し洗練する術を、長時日に渡って教えるべきであった。
○私が望んでいたのはニーチェ級の魔界腑分報告書だったが、それはあと30年たっても無理なようだ。結局「自分に見えたもの」しか書いていないのだ。パンピーの喜ぶ本とは、「作者が見てきた珍しい物のことだけで、作者の考えなど必要としない」とはショーペンハウアーの至言。元少年Aの分析モドキ本は卑俗現実主義者の日常を、いささか補強するだけだろう。残念でならない。
○作家たらんとしている以上、ドストエフスキー作『二重人格』レベルの魔神現出力を、いつか手にし、人類への置きみやげを実現する以外、二人を殺めたことの償いは無いはずである。三島由紀夫や村上春樹をバイブル視しているようでは心許無い。つまり、勉強が圧倒的に足りないのであり、「文学がわかっていない」だけのことなのだ。「万葉集」の作家群、紫式部や清少納言に取り付いた藤原一族がらみの憑き物を極めず、いっきょに三島へ、というのは信じられない。
○肉親、特に母親への大甘な対応は許し難い。ゼロ歳児のAを虐待した事実への調査、父親の出身地と、その地への民族学的な切り込みはどうなっているの?本の構成としては、この未生以前へのアカデミックな考究が冒頭か、その近くになければならない。
○少年院での“治療”過程を、その次あたりに配すべきなのに、一切載せなかったのも、フェアではない。治療を受けるという<優しいサディズム>に屈辱をおぼえたのか、無防備で受身の自分をさらすことができなかったのは、彼のうちにいまだ捨てることのできない、なけなしのヒロイズムがあるからだろう。32歳のチョンチョコピイに、放下や解脱を期待した私がおろかだった。
師弟の、今後最善の課題は<愚を養う>ことだろう。
<くつろぎとは あらゆるヒロイズムを すすんで失うこと>
ロラン・バルトの定義は絶対的に正しい。
<どのみち全てが過ぎるんだ はかない歌をつくろうよ>と記したリルケも真実であって、これらのものを、本統の「絶歌」というのである。
○永遠にくつろげない男ほど悲劇的なものはない。彼は幼少年時代にロール・モデルたる卓越した人物、一生もののヒイキ役者に、一人として出会えなかった存在だ。この世は気の毒の容れもの、とはいえ気の毒でならぬ。ドスト氏ほどの文豪になれないのであれば、終生「錯乱のエクササイズ」(市川浩)を重ねるほかはない。それは彼だけの悪業ではなく、世界嫌悪百パーセントに達し得ず、“死にっかす”(我が祖母の口癖)として在るほかない、不純にして未練たっぷりの、私の姿でもある。
以上
2015年6月24日午後記。
(もりただあき)
(pubspace-x2061,2015.06.27)