「他者」とは何か。

 

伊藤述史

 
 去る4月11日の第10回「現代批評講座」(於:明治大学)において、高橋一行さんの新刊『他者の所有』(御茶の水書房 2014年)が取り上げられ、参加者の間で議論された。この書物は『所有論』、『知的所有論』に続くもので、ロックからヘーゲルを経て現代思想へと至る「所有」概念を軸とした三部作を完結するものである。そこで当日の高橋さんのご報告の際に考えていたことを、この場を借りて少しばかり書いてみたいと思う。
 『他者の所有』では、「所有」ということが考察の基礎に置かれていた。けれども、もし「他者」という概念から「所有」という考えを取り去ってみれば、どのような可能性が開かれてくるであろうか。「他者」の問題は、哲学の領域だけではなく、社会科学や文学といった領域でも論じられてきた。「他者」概念から「所有」をいったん脇に置けば、それは男とか女とかの一人の人間であるだけではなく、「家族」であり「社会」であり「共同体」であり、あるいは「自然」であり、場合によっては日本の近代化の過程での「西欧」であったりする。そこで「他者」と遭遇した「自己」は、初めて「自己」を「自己」として意識化、対象化していく。例えばこの「自己」を一つの「国民国家」であると考えるなら、ナショナリズムは「他者」、つまり他国と遭遇して自国を自国として意識化した産物だ。
 最近しきりと気になるのは、人間としての「他者」であり、あるいは人間が生を営む「社会」としての「他者」のことである。この場合も「自己」は、ナショナリズムと同じように「他者」と出会ってから初めて事後的に現れ出てくる。この意味では、初めから「他者」の存在しない「絶対的な自己」というのは考えられない。人が「他者」と出会うあり様はさまざまであろう。仮に「他者」がその人の理解や解釈からは程遠い、あるいは理解を絶するような「他者」であれば、人はまったくの無関心を装ったり、見下したり、拒否したりする。いずれにしても人が、一人の人間でも集団でも社会であっても、「他者」との関係の中である種の葛藤を経験すると、場合によって人は無意識的にか「観念」としての「自己意識」を形づくって、その中でいわゆる「内面の劇」を演ずることになる。例えば特定の主義信条や宗教や芸術の中に没頭していく時、人はこの「自意識」の球体の中に自足していくのかも知れない。
 僕は「社会」とか「俗世」とは、「他者」との寄る辺のない関係の「相対性」に満ち溢れたものだと思い、虚しさと不安を感じる時がある。あるいは、こう言い換えても良い。つまり、「自己」と「他者」との関係を律していく絶対的な「正義」はあり得るのか。吉本隆明は「関係の絶対性」(「マチウ書試論」)を述べたが、これは人と人との関係が相対的であることが絶対的である、ということであろう。そうであれば、この「俗世」の「相対性」から救われる術はどこにあるのだろうか。仮に神のような「俗世」を超越したと称える硬直した「絶対性」への指向を回避しようとするなら、人は「俗世」での「他者」との関係における「相対性」そのものを全的に肯定して生きるしかないようにも思う。これを「善悪の彼岸」と呼んでも良い。けれどもこうした境地に達することは、僕たちのような煩悩具足の凡夫にはとても無理である。なぜなら人は、「自己」の善悪の基準の中で、「他者」を肯定したり否定したりしながら一生を終えるからである。
 しかし、そうであっても人は、やはりさまざまな「他者」を乞い求めながら生を営む生き物である。生きている限り、どのような「他者」の「他者性」に躓いたとしても人は「他者」と出会い続ける。そして「他者」に対する否定は、一方で「他者」に対する肯定を潜在的に含んでいるものだ。
 舌足らずな感想を書き連ねてきたが、もう少し「他者」の問題をできるだけ自分に引き付けて考え続けてみたい。

以上。

                                    
 
(いとうのぶふみ)
 
(pubspace-x1938,2015.05.06)