相馬千春
高橋一行氏の『他者の所有』(御茶の水書房)について、何回かにわたりコメントを書くつもりですが、初回は、高橋氏のヘーゲル「論理学」(1)の――そのうち「定在」と「定在の判断」の――解釈を扱います。その中でも主に問題となるのは「否定の否定」と「無限判断」の解釈です。
(1) 高橋氏は、『他者の所有』では「「論理学」とは,『大論理学』と『エンチュクロペディー』第一部『小論理学』の総称である」と言っているので、本稿でもこれを踏襲します。なお『大論理学』の正式な書名は『論理の学』で、(初版の)「存在論」は1812年に、「本質論」は(おそらく)13年に、「概念論」は16年に、それぞれ出版されました。また『論理の学』の第二版は「存在論」の部分のみが――ヘーゲル死後の――32年に出版されました。
なお本稿では、初版「存在論」からの引用は寺沢恒信訳『ヘーゲル大論理学1』(以文社)に、第二版「存在論」は山口祐弘訳『ヘーゲル論理の学I存在論」(作品社)に、「概念論」からの引用は寺沢恒信訳『ヘーゲル大論理学3』(以文社)に、それぞれ依っていますが、訳文は必ずしもそれらのものと同じではありません。
一、「否定の否定は肯定」なのか?
さて、高橋氏は前著で、「否定の否定は肯定でもあるが,否定でもあるとヘーゲル自身がはっきりと言っている」(『知的所有論』p.131)と書いていました。
高橋氏はこの句をヘーゲルの『哲学史講義』から引用しているのですが、これを読んだとき、私にはある疑問が浮かびました。「他の何処でヘーゲルは『否定の否定は肯定Affirmation(2)である』と言っていただろうか?」(疑問だったのは、フレーズの後半ではなく、前半の方でした。)
(2) ヘーゲルの翻訳で、肯定、肯定的と訳されるのは、Affirmation、affirmativの他に、Position、positivがある。ヘーゲルは両者を区別して使っていますが、翻訳文では多くの場合、区別がつきません。本稿では、原文でPosition、positivが使われている場合は、それを明記することにします。
この疑問は、もちろん私の不勉強から生じたもので、『論理の学』の「第二版存在論」にも「否定の否定は肯定である」とあります(3)。ところが私は「存在論」を専ら「初版」で読んでいたので、「第二版存在論」の叙述はすっかり忘れていました。
(3) 第二版「存在論」第一篇第二章「定在」(c)肯定的無限性の項には、「それ故、あるところのものは、両者において同一の否定の否定である。しかし、これは、自体的には自己自身への関係であり、肯定である。」とあります。
二、成立期のヘーゲル体系に「肯定」はあるのか
しかし不勉強から生じた疑問にも、それなりの意味があるのではないか?
それで「初版存在論」を調べてみると、こちらの方には「否定の否定は肯定である」とは書かれていない。というより、「肯定Affirmation」というターム自体が初版「存在論」ではほとんど使われていません(4)。さらにもう少し使用例を探す範囲を広げて、『論理の学』の「本質論」や「概念論」を調べても「肯定」は使われていない。『論理の学』に先行する『精神の現象学』でも「肯定」は使われていないし、1817年の『エンチュクロペディー』(初版)でも「肯定」はほとんど使われていない(5)。
(4) 私が調べた限りでは、初版「存在論」で「肯定Affirmation」が使われているのは、「第二編第二章」の「注解〔数学的な無限なものの概念〕」においてだけです。そこでは、次のように使われています。
「彼[スピノザ]はまず無限なものを或る本性の存在の絶対的肯定と定義し、有限なものを反対に打ち消しとしての規定態と定義している。或る存在の絶対的肯定とはすなわち、その存在の自己自身への関係としてとらえられるべきであって、他者が存在することによって存在することではない。これに反して有限なものは打ち消しであり、それの外に他者が始まる限りでは終ることである。さて、或る存在の絶対的肯定はたしかに無限性の概念を汲みつくさない。この概念は、無限性は直接的肯定として肯定であるのではなく、他者の自己自身への反省によって回復された肯定として・換言すれば否定の否定としてのみ肯定である、ということを含んでいる。」
(5) これも、私が調べた限りでは、アカデミー版全集版の§. 39(グロックナー版の§. 40)で一度使われているのみです。そこでは次のように使われています。
「――無をそれだけでみれば、その最高の形式は自由である、しかし自由が否定性であるのは、それが最高度に自己の内に深まって、それ自身また肯定〔Affirmation〕でもある限りにおいてである。」(「ヘーゲル論理学研究」第7号所収、『原典翻訳ハイデルベルクエンチクロペディー』p.62)
彼の体系は、これらの著作をもって取り敢えず成立したと言ってよいでしょうから、ヘーゲルは、彼の体系が取り敢えず成立した時点では、いまだ「肯定」を――彼の体系を叙述するタームとしては――使っていないことになるのではないか。そうすると、これらの著作に「否定の否定は肯定である」という思想を読み込むことが、はたして可能なのか?という疑問も生じてきます。
こうした疑問について高橋氏は、「「回復(hergestellt)」されたということは,肯定なのではないか」(『他者の所有』p.117)と言われる。
たしかに初版「存在論」でも「回復」の使用例はあるので、なるほど、高橋氏の言うとおりかもしれない。またそう考えないと、後年のヘーゲルが「肯定」を多用したことは理解できないのかもしれません。しかしそうであったとしても、次のような疑問が生じるわけです。
すなわち、なぜこの時期のヘーゲルは『肯定』を使用せず、なぜ後年のヘーゲルは『肯定』を多用したのか?外的な事情に依るのものなのか、思想の内容そのものが変化したのか(6)?しかしこれについて私は、いま回答することができません。
(6) さきに紹介した通り、初版「存在論」では、「肯定Affirmation」は、直接にはスピノザ哲学の用語として示されていますが、同時代の哲学者では、シェリングが「自己肯定 Selbstaffirmation 」というタームを使用しています。
なお、ヘーゲルは1817年の「論理学と形而上学」の講義のad §47においては「肯定 Affirmation 」を自己のタームとして使用しています。したがって、この頃にはすでに――著作ではほとんど使用してはいなくても――このタームが彼の思想のうちでは機能していた、と考えることが可能なのかもしれません。
三、「否定の否定」は何時でも何処でも「肯定」か?
しかしそれ以上に重要な疑問は、「回復は肯定を意味する」としても、初版「存在論」の「否定の否定」は、すべて「回復」(=「肯定」)を意味しているのか?というものです。
まず、初版「存在論」で最初に「否定の否定」が登場するところを引用してみましょう。
「第二に、当為としての否定は、即自存在的な規定態である、あるいは逆に、当為は即自存在としての規定態または否定である。その限りで否定は、非存在として・制限として定立されているあの第一の規定態の否定である。したがってそれは否定の否定であり、絶対的否定である。
こうして否定はほんとうに実在的なものであり、かつ即自存在である。この否定性こそが、他在を揚棄する運動として自己へと還帰する単一なものをなすのであり、あらゆる哲学的理念と思弁的思考一般との抽象的基礎である、そして人びとはこの否定性について、近世がはじめてそれをその真理態において把握しはじめたといわなければならない。――この〔絶対的否定性という〕単一態が、存在の代りに、すなわち直接的な形態において即かつ向自的に存在しているものとして受けとられているあらゆる規定態の代りに、あらわれなければならない。これからさきに否定性または否定的本性について語られる場合に、そのことばのもとに理解されるべきものは限界・制限・または欠如というようなあの最初の否定ではなくて、本質的に他在の否定であり、そしてこの否定は、他在の否定として〔あるがゆえにまさに〕、自己自身への関係なのである。
ここでは、即自存在的な否定はただようやく当為にすぎないのであり、たしかに否定の否定ではあるが、しかしそうはいってもこの否定作用自身がなお規定態なのである。即自存在としての自己を非存在としての自己へと関係づけているものは、すなわち限界または否定である。相互に関係しあっている二つの否定が否定の自己自身への関係をなしているのであるが、しかしこの二つの否定はまた相互に他者であり、それらは相互に限界づけあっているのである。」(『ヘーゲル大論理学1』p.146)
このテキストをどう解釈すべきか、ここでは細かな議論には入ることはできません。しかし、おおよそ次の点を抜き出すことができるでしょう。
第1のパラグラフでは、「当為としての否定」は「否定の否定であり、絶対的否定である」といわれる。
第2のパラグラフでは、「この否定性こそが、他在を揚棄する運動として自己へと還帰する単一なものをなす」と言われ、また「これからさき」で言われる「否定性または否定的本性」は「他在の否定として〔あるがゆえにまさに[訳者の補足]〕、自己自身への関係なのである」と言われる。
第3のパラグラフでは、「ここでは、即自存在的な否定はただようやく当為にすぎないのであり、たしかに否定の否定ではあるが、しかしそうはいってもこの否定作用自身がなお規定態なのである」と言われる。
こうしてみると、各パラグラフは単純に整合的なのではない。それで、翻訳者の寺沢恒信氏は第2パラと第3パラの間に〔話がさきのことに及んだが、話題をもどして〕とわざわざ補いを入れています。
第2パラでは、「回復Wiederherstellten」との近縁性をうかがわせる「自己へと還帰するin sich zurückkehrt」や「自己自身への関係Beziehung auf sich」といったタームが現れ、「否定の否定」のより進んだ展開が予示されている。それが第3パラでは、「ここでは」と、展開の現在地点に引きもどされるわけです。
そして、引き戻された「ここ」、すなわち「当為」においては、「否定の否定」は「なお規定態」である。ここでは「或るもの」の「規定」は第一の「否定」として――ヘーゲルは、スピノザを引用して、「規定は否定である」と言います――、「否定の否定」は、この「規定」をのり越えることである。そしてこの「規定」が「制限」といわれ(7)、この「制限」を越えて行くことが「当為」と言われますから、「当為」は「否定の否定」であるわけです。したがって、ここの「否定の否定」においては、何ものかの「回復」または「肯定」が直ちに主張されているわけではない。
(7) 少し正確さが欠ける表現になっていますが、ここで「制限」とされる「規定」は――簡単にいえば――「或るものである」という意味での規定です。しかし「或るもの」は「しかじかであるべし(当為)」という意味での規定でもある。(例えば「武士」というような「規定」の場合は、後者の意味が滲みでているでしょう。また以下で挙げられる『つぼみ』を例にとって言えば、それは『花』ではなく『つぼみ』である、という規定であるとともに、『花』になるべきものという規定でもある。『花』になるべきでない『つぼみ』は『つぼみ』とは言えないのですから。)
このことを具体例(8)を挙げて説明してみましょう。「それは『つぼみ』である」と言われる場合、「それ」は「『つぼみ』である」として規定されています。そしてこの規定が「第一の否定」であるわけです。しかしその『つぼみ』が咲くと、「『つぼみ』である」という規定は「否定」される。この場合「『つぼみ』であること」が「制限」であり、これを「否定」することが「当為」であり、「否定の否定」です。この「否定の否定」の結果は『花』ですが、『花』もまた規定であり、さらに「否定」されることになります。
(8) 第二版「定在」章の「注 当為」で取り上げられている例をもとにしています。
しかしこの場合、「或るもの」が否定されても、そこにあるのは「他の或るもの」です。このように制限と当為がたんに交替するだけなら、それは「悪無限」で、何かの回復あるいは肯定があるわけではない。
例えば因果関係で把握される限りでの自然の過程は、悪無限的(9)なものでしょう。水面に石が落ちる場合、その原因の系列も、その結果の系列も「無限なもの」ですが、こういう意味での無限をヘーゲルは「悪無限」というわけです。
(9) 第二版「定在」章の「注一 無限進行」を参照。
四、「初版存在論」と「第二版」での「否定の否定」の違い
さて、このような初版「存在論」における「否定の否定」の使い方は、実は第二版とは異なっています。第二版では「或るもの」のところで――「当為と制限」の前に叙述される――「否定の否定」が使われています(10)。すなわち第二版では「否定の否定」は、初版とは異なり(11)、「当為」を以て始まる「無限なもの」の領域だけで使われているわけではない。
(10) 「或るものは、単純な存在する自己関係として、最初の否定の否定die erste Negation der Negationである。」この「最初の」は後の「否定」にかかっている点に注意。
(11) 初版でも「或るもの」のところに「他在の否定を通じての自己への関係」(寺沢訳では「存在の否定を…」と誤記されていますが)という表現があり、1817年の論理学講義では、はやくも「或るものは否定の否定である」(ad §44)と言われています。しかし、『論理の学』が完結した時点でこの書を読んだと仮定するなら、読者は「否定の否定」は初版「定在論」で展開された意味で理解するしかないでしょう。
また第二版では「当為」は、「否定の否定」というよりも(12)、――真無限へと叙述が進む中では――むしろ「第一の否定」に繰り入れられている。第二版では次のように言われている。
(12) 正確に言えば、第二版の「制限と当為」でも「否定の否定」は登場しています。「この自己との同一性、否定の否定は肯定的な存在であり、・・・有限なものの他なるものである。かの他のものは無限なものである」というように。しかし、この「否定の否定」あるいは「肯定的存在」は、以下で見るように、すぐに「第一の否定」であるとされます。
「両者[有限なものと無限なもの]の肯定的な内容は両者の否定を含んでおり、否定の否定である。」(山口祐弘訳『ヘーゲル論理の学I存在論」p.147)
「それ[悪無限]は抽象的な第一の否定である。」(同書p.148)
ここでは「否定の否定」である「肯定的な内容」は「無限なもの」の否定を含んでいる。したがってこの「否定の否定」の中では「当為」も否定されていて、「当為」は「第一の否定」に繰り入れられている。そしてこれと附合するように「当為」については、すでに次のように言われている。
「もちろん、制限のどの超出、超克も制限から真に解放されることではなく、真の肯定ではない。すでに当為自身そのような不完全な超出であり、抽象一般である。」(同書p.131)
このように「第二版」では「当為」は「真の肯定」ではないことが明示されている。その「当為」が「初版」では「否定の否定」と言われているわけです。したがって初版において「当為」が「否定の否定」である、と言われているから、その「否定の否定」は「肯定」(真の「肯定」)である、とすることには、無理があるのです(13)。
(13) 第二版においては「否定の否定」は「肯定」である、と読める個所が多いのは確かでしょう。しかし第二版においては常にそうである、というためには、第二版での「否定の否定」と「肯定」の――各々の使用例での――意味の確定する作業が必要となります。この場合、「否定の否定」が「或るもの」において使われていることの他、「肯定」において「真の肯定」というタームが使われていることへの注意も必要でしょう。
五、「否定の否定」にも進展がある
再度初版に戻りますが、初版においても「否定の否定」は当為としての「否定」に留まるものではありません。先に引用した「ここでは、即自存在的な否定はただようやく当為にすぎないのであり、たしかに否定の否定ではあるが、しかしそうはいってもこの否定作用自身がなお規定態なのである」という叙述からは、この先では「否定の否定」は「当為にすぎない」ものではない、ということを汲み取ることができるでしょう。
さらに次のようにも言われています。
「無限なものがこのように定立されるならば、それは悪無限的なものまたは悟性の無限なものである。それは否定の否定ではなくて、単一の第一の否定へと引きさげられている。」(『ヘーゲル大論理学1』p.150)
さきには、「当為」が「否定の否定」であるといわれていたのですが、ここでは「当為」あるいは「悪無限的なもの」は、「否定の否定」ではない、とされています。そして次のようにも言われています。
「無限なものは他在の他在・否定の否定であり、規定態を揚棄する運動を通じての自己への関係である。――無限なもののこの単一の概念において無限なものは、絶対者の第二の定義と〔みな〕されることができる。」(『ヘーゲル大論理学1』p.148)
(真に)「無限なもの」は、「規定態を揚棄する運動」を含んでいるが、この(真に)「無限なもの」が「否定の否定」である。しかし初版では――先に見たように――揚棄される「規定態」としての「当為」についても「否定の否定」と言われているわけです。
以上、初版「存在論」で「否定の否定」がどのように使われているか、その用法が第二版「存在論」とどのように違うか、を見てきました。あれこれ引用したので、かえってわかりづらくなったでしょうが、少なくとも初版「存在論」においては、「否定の否定」は必ずしも「肯定」を意味してはいないことをご理解いただけましたなら、幸いです。
六、「真無限」の意味と意義
次に、ヘーゲルの言う「真の無限性」とは何か?という問題に移ります。上で「悪無限」について簡単に説明しましたが、高橋氏は「真無限と悪無限が同じものだ」と言われるので、ヘーゲルが両者をどのように把握しているかを確認しておきたいからです。初版から引用します。
「だからして有限なものそのものも無限なものそのものも真理態をもっていない。おのおのはそれ自身のもとにおいてそれの反対のものであり、こうしてそれの他者との統一である。だからして両者の相互に対立しあっている規定態は消失している。こうして、そのなかでは有限性も悪無限性もともに揚棄されている真の無限性が出現しているのである。それ[真の無限性]は他在をこえ出てゆく運動のうちに成立しており、自己自身への還帰としてある。それは自己を自己自身へと関係づけるものとしての否定である。〔それは〕、他在が、直接的な他在ではなくて他在を揚棄する運動であり・ふたたび回復された自己との相等性であるというその限りにおいて、他在である。」(『ヘーゲル大論理学1』p.154-155)
これも具体的な例を挙げて考えてみます。ヘーゲルは「真に無限なもの」として「生命」を挙げています(14)。「生命」は、例えば『つぼみ』が『花』になり、『花』はさらには『実』となるというように、「他在」を超え出る運動であるだけでなく――これだけなら悪無限もそうなのですが――、『つぼみ』等に還帰することとしてあります。そしてこの還帰により「生命」においては、因果関係のような悪無限的な運動は揚棄されています。
それはまさに「自己を自己自身へと関係づけるものとしての否定」といえるでしょう。それが「真に無限なもの」と言われるわけです。
(14) 1817年の「論理学と形而上学」の講義のad §47(F.Meiner, Vorlesugen 11,S.91)には「生命はそれ自身だけでfür sich selbst無限である」とあり、1831年『論理学講義』の§94(翻訳書p.131)には「無限性の実例を見てみましょう。生命は[無限です]」とあります。
逆にいえば、この生命の過程を悪無限的な過程として――例えば機械論的に――把握するならば、「還帰」は――単なる偶然であると言う以外――説明できないでしょう。
そしてこのように「生命」に――「因果関係的な悪無限性」を越える――「真に無限なもの」を見出しているが、この点はヘーゲルの思想の核心ではないでしょうか?
そして初版「定在」論が「回復」を語るのは、まさにここにおいてなのです。つまり「回復」は「真に無限なもの」においてあり、「当為」としての「否定の否定」においてあるのではない。
ヘーゲルは「主要なことは無限性の真の概念を悪無限性から区別し、理性の無限性を悟性の無限性から区別することである」と言うのですが、高橋氏はこのヘーゲルの問題意識をほとんど素通りしているように見えてしまう。しかしこの点は、氏の「定在の判断」の把握を検討することを通して、考えることにします。
七、「定在の判断」論をどう読む?―高橋氏の「否定判断」解釈を検討する
次に高橋氏が「定在の判断」をどのように読んでいるか、を検討しますが、その前に「定在の判断」とはどのようなものか確認しておきましょう。
「定在の判断」はヘーゲル「論理学」の「判断論」の展開では最初に論じられるもので、「それの主語は直接的に抽象的な・存在する個別的なものであり、述語は主語の直接的な規定態あるいは性質であり、抽象的に普遍的なものである」といわれます。「定在の判断」は、「a肯定positive判断」、「b否定判断」、「c無限判断」と展開するわけですが、それぞれの具体的を挙げると、
a肯定positive判断:「そのバラは赤い」。
b否定判断:»「そのバラは赤くない」
c無限判断
否定的無限判断:「精神は象ではない」
肯定的positiv無限判断:「個別は個別である」
となります。
ここで「a肯定positive判断」と「b否定判断」は解りやすいでしょうが、無限判断というのは解りづらい。それで、1817年と1831年の論理学講義から引用しますが、後論の都合もあり、両方とも否定判断のところから引用を始めます。
「人が「そのバラは赤くない」というとき、人はそのことによって、述語は完全に否定されていると信じる。しかし述語は完全には否定されていない。というのは、普遍的なもの、色がまだ残っているのだから。だから「非」は、述語を全範囲にわたって否定してはいない。そうではなく、ただある特殊性に関して否定しているだけである。真なる概念においては、特殊的なものも普遍的なものと同様に定立されると同時に否定されなければならない。
否定的無限判断も[肯定的positiv]無限判断も本来的には判断ではない。例えば、「精神は象ではない」は判断ではない。というのはここではただ象そのものが否定されているだけでなく、ここではもはや普遍的な領域にたいしてさえ、関係は残っていないのだから。述語は完全に廃棄されていて、反省に残っているものは何もない。」(1817年の論理学講義ad §120 und 121。F.Meiner, Vorlesugen 11 Logik und Metaphysik,S.151-152より試訳。)
「「そのバラは赤色ではない」と言う場合、ここには、バラには色があるけれども、ただしそれは赤色ではないという意味があります。それゆえ私はただ規定性だけを否定したのであって、普遍性を残したままにしています。ここでは普遍性は色です。それゆえ「赤色である」の[否定]では、私はその規定性だけを否定しました。「そのバラは赤色ではない」という場合に、ここには否定がありますが、しかしなお主語と述語との関係があります。それゆえここにはまだ関係が現存します。その関係そのものは抽象的な関係です。そしてこれは普遍性です。「個別は普遍である」という抽象的なものが残されます。今やそれもまた否定されなければなりません。「個別は特殊である」という場合、[これは]肯定判断です。「個別は特殊ではない」という場合、[これは]否定判断です。それゆえ普遍性が否定され、それゆえ[空虚な同一的な関係]だけが残ります。「個別は個別である」という[同一的判断]の場合、これは無限判断[と同様に不合理であり]、悪無限です。[無限判断の]否定はより具体的であり、主語と述語との関係性の欠如です。今や残されているのは普遍性の形式における関係でも特殊性の形式における関係でもなく、否定的な[無限]判断です。それゆえ述語が特殊性に対応することもなく、普遍性に対応することもないという関係だけが残されています。確かに正しいけれども不合理な〔無限〕判断の例として、「精神は象ではない」があります。ここで〔述語として〕言われることは、主語に対して特殊性においても、普遍性においても、いかなる仕方でも関係がありません。精神は象という類には属さず、またいかなる動物でもありません。このものはまさに単にこのものであり、完全な個別性です。この単なる個別として、完全に空虚なもの、まったくこの個別だけがあることになるでしょう。」(1831年『論理学講義』翻訳書p.206)
「講義」なので、『論理の学』よりは、大分わかりやすいのではないでしょうか。
さて、『論理の学』の「定在の判断」の「b否定判断」には次のテキストがあります。
「――バラはなんらかの色をもったものではなくて、それはバラ色であるところの一定の色だけをもっている。個別的なものは、無規定的に規定されたものではなくて、規定された規定されたものである。
否定判断のこの肯定的形式positiven Formから出発すると、否定判断のこの否定はふたたびたんに最初の否定であるようにみえる(15)。しかしこの否定は〔本当は〕最初の否定ではない。むしろすでに否定判断は即かつ向自的に第二の否定・あるいは否定の否定である。それで否定判断が即かつ向自的にあるところのものが定立されなければならない。」(『ヘーゲル大論理学3』p.101)
(15) この文は意味が取づらいのですが、「否定判断のこの肯定的形式positiven Form[バラはバラ色である]から出発すると、否定判断のこの否定[「バラ色である」という規定]は[否定の否定ではなくて]ふたたびたんに最初の否定であるようにみえる」と解釈しておきます。
高橋氏は、この部分に関連して以下のように言う。
「ヘーゲルは,すでに,否定判断において,肯定判断が否定されているだけでなく,すでに,「否定の否定」がなされていると言う。つまり,「私は,この物件の所有者である」という判断が否定されて,「私は,この物件の所有者でない」という判断になり,しかしそれは,「私は,この物件の所有者であった」と,再び肯定を意味するからで,ヘーゲルは,「無限な自分自身への復帰」(『大論理学』「概念論」p.323=武市訳p.95)と表現している。」(『他者の所有』p.125)
率直に言って、私には無理な解釈だと思えます。「私は,この物件の所有者でない」という否定判断が「否定の否定」であるのは、「私は,この物件の所有者であった」と、再び肯定を意味するからだ、と言われるが、「所有論」を離れて、「判断論」として考えた場合、これは成り立たないでしょう。なぜならヘーゲルがここで挙げている否定判断「バラは赤くない」は、なんら「バラが赤かった」ことを意味してはいないのですから。
高橋さんは、ジジェクを引用して「強いへーゲリアン」ではなく、「弱いヘーゲリアン」こそ,ヘーゲルを救うために必要だ、と言います。しかし「否定の否定」は常に「肯定」である、と仮定するのは、あるいは『法の哲学』から『論理の学』の「判断」論や「定在」論を解釈してしまうのは、十分に「強いヘーゲリアン」であるように見えてしまう。
さて、先に見た「定在の判断」の中の「否定の否定」はどういう意味でしょうか。この第二の否定によって何が否定されているのでしょうか?
再確認しておきますが、1816年に出版された『論理の学』「概念論」中の「定在の判断」の前提になっている「定在」論は、1812年に出版された初版「存在論」のそれであり、第二版「存在論」のそれではありません。そして既に見たとおり、第二版と異なり初版の「定在」論には、「肯定」というタームは使用されておらず、また「否定判断」と対応するはずの「当為」における「否定の否定」も「肯定」とはもちろん「回復」とは結び付けられてはいないのです。つまり、この「否定判断」のところを読むとき、「否定の否定は肯定である」と考える必然性はないのです。
「そのバラは赤い」といわれる場合、「赤い」は「規定」であり、したがって「否定」です。これに対して否定判断で「否定」されているのは、この「規定」に他なりません。それとも何か他のものでしょうか?そうするとこの「規定の否定」が「否定の否定」と言われることには、何の不思議もありません。
しかしここにどのような「肯定」があるのでしょうか。すくなくとも「このバラは赤かった」ことが肯定されているわけではないでしょう。仮にこれが成り立つとしても、この「肯定」はヘーゲルの用語ではPositionであって、Affirmationとは言えないのではないか?
八、「無限判断」を越えて
高橋氏の考える「無限判断」と私のそれの違いを言い表すには、私が考える「所有論」の諸判断を示すのが、一番簡潔な仕方だと思います(16)。
(16) 高橋氏は次の諸判断を示しています。
「肯定判断:消しゴムを自ら労働して,作り上げ,そのことが認められて,それを所有する。
否定判断:消しゴムを使い切ってしまったので,もはやそれを所有していない。
無限判断:消しゴムを交換,譲渡,売買したので,もはやそれを所有していない。」(『他者の所有』p.4)
高橋氏の諸判断をヘーゲルのそれらと較べると、ヘーゲルでは「否定判断」である「物の使用」について、「(β)・・・物の使用。物を使用するのは積極的な関係ではあるが、わたしに使用されるかぎりで、物は解体していく」(『法哲学講義』長谷川宏訳p.119~)とされています。つまり「否定判断」では、物は解体過程にあるので、全面的に否定されているわけではありません。先に引用した1817年の講義においても、「否定判断」は「述語を全範囲にわたって否定してはいない」ものとして把握されていて、これに対して「無限判断」では、「述語は完全に廃棄されてい」ると理解されています。
これに対して高橋氏の示した「否定判断」と「無限判断」では、両者とも「もはやそれを所有していない」のであるから、否定される範囲は同じであって、「・・・ので」で示される否定の過程のみが違っているのではないでしょうか。
以下で示される私の諸判断では――ヘーゲルのそれらとは異なりますが――「否定判断」は「述語を全範囲にわたって否定してはいない」ものであり、「無限判断」は述語が全範囲において否定されるものです。
私が考える「所有論」の肯定判断、否定判断、無限判断は次のようになります。
肯定判断 この(私の)所有物は毛織物である。あるいは、
私は毛織物を所有している。
否定判断 この所有物は毛織物ではない。(ただしなんらかの使用価値ではある。)あるいは、
私は毛織物を譲渡する(譲渡を通して他の使用価値物を獲得する。例えば「金」を)。
無限判断 この所有物は使用価値ではない。(私の所有している使用価値はすべて否定される、という意味で。)あるいは、
私はすべてのものを譲渡する。(譲渡を通しての獲得。ただし継起的に。例えば、毛織物→金(17)→インド綿→香辛料→・・・。)
(17) この系列はオランダ東インド会社の交易を参考したものですが、ここで「金」はいまだ特権的な貨幣商品ではありません。
さて、ヘーゲル「論理学」の「判断」論(概念論第1編第2章)の構成は、1「定在の判断」、2「反省の判断」、3「必然性の判断」、4「概念の判断」ですが、「肯定判断、否定判断、無限判断」は1「定在の判断」の中で展開されています。つまり「無限判断」は「判断論」の最初の段階で論じられていて、そこから次の段階である「反省の判断」へと進展していくと言う叙述になっている。
そこで、小坂田英之の論稿(18)によって、「定在の判断」と「反省の判断」の判断の違いを確認しておきます。
(18) 小坂田英之「へーゲルの「概念・判断・推理」論――純粋思考の論理学――」https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/1997/3/1997_3_51/_pdf
まずの「定在の判断」――「このバラは赤い」など――について。
小坂田によれば、「個別によって「定在の判断」(A.12,S.59)の体制が成立する。…この個別としての主語に対して述語は、実体に内属する性質にすぎない」(p.54)。
すなわち「定在の判断」では、主語が実体であり、述語は属性である。すなわちそれは「内属の判断」である。
しかし無限判断において、「主語を実体とする定在の判断の体制そのものが無意味となる」(同上)。
そこで「逆に、述語が実体と認められ、主語である個別がその現象形態にすぎないとみなされなければならない」(同上)ことになる。「[このものは]有用である」などの「反省の判断」は、このような「包摂の判断」です。
さらに「定在の判断」」と「反省の判断」は、それぞれ「知覚」と「悟性」という認識能力の段階に即応している。すなわち、「このバラは赤い」という「定在の判断」の場合は「知覚」によって判断可能ですが、「このものは有用である」という「反省の判断」には「悟性」が必要となります。
「所有」論における判断には「悟性」は必要ですから、「所有」論における判断は、いずれにしろ「定在の判断」とは、言えないでしょう。しかし私が上に挙げた諸判断は「内属の判断」ではある。何故なら、上の例では、この(私の)所有物は、譲渡・交換の中で、或る使用価値から他の使用価値に姿態を変えますが、その限りでは特定の使用価値は、この(私の)所有物の「属性」に相当することになりますから。
ヘーゲル「判断論」の展開からすれば、「判断」は、「無限判断」で終わるわけではない。それで「所有」論についても「包摂の判断」に相当する判断を考えてみます。
私が考えた所有論における「包摂の判断」は次のものです。
包摂の判断 この(私の)所有物は価値物である。あるいは、
私は価値物を所有している。
この場合、価値は「この所有物」の属性ではない。むしろ「この所有物」の方が「価値」の現象形態にすぎない。すなわち、この判断は「包摂の判断」であるわけです。
ところでこの判断はどのようにして成立するのでしょうか。上述の「無限判断」を再掲すると、
無限判断 この所有物は使用価値ではない。(私の所有している使用価値はすべて否定される、という意味で。)あるいは、
私はすべてのものを譲渡する。(譲渡を通しての獲得。ただし継起的に。)
「無限判断」には「定在」論における「悪無限」が『対応』しているとするならば、「無限判断」に対応する「悪無限」は、「毛織物→金→インド綿→香辛料→・・・」というような系列で示すことができるでしょう。
これに対して「真無限」は、「毛織物→金→インド綿→香辛料→毛織物」という「円環」で示されます。(「円環」ですので、それぞれのモノが始点=終点であり得ます。)
「悪無限」においては、使用価値は常に否定されるが、それは常に新たな使用価値の登場でもある。しかし「毛織物→・・・→毛織物」という円環が成立すると、この運動は、なんらかの使用価値を目的にしたものではなく、使用価値とはその存在の性格を異にした「価値」を示すものであることが明らかになる。
悪無限の場合は「直線的」な進行ですが、これが「円環」を成すことによって「真無限」となる(19)。ですから、「悪無限」と「真無限」の区別には拘らざるを得ないのではないでしょうか。
(19) 「無限進行のイメージは直線である。・・・直線のイメージは、真の無限として自己のうちに折り曲げられるならば、円となる」(山口祐弘訳『ヘーゲル論理の学I存在論」p.149)
なお、ヘーゲル「論理学」では、「論理学」全体の最終編である「理念」のところで「無限判断」という言葉が使われています(20)ので、本当はこれを問題にしなければならないのですが、そのためには「概念論」全体を解読しなければなりません。ということで、これについては別の機会に問題にすることが出来たなら、と思います。
(20) 使われ方は次の通り。
「理念は無限判断であって、この判断の二つの側面[概念そのものおよび客観性]の各々が独立の統体Totalitätであり、同時にまさにこうした統体へ完成されることによって、他の側面へ移行しているのである。」(『エンチュクロペディー』(第三版)§ 214)
九、『他者の所有』――批判点も多いが、意義はもっと多い
以上が『他者の所有』のヘーゲル「論理学」解釈に関する私の批判となります。
さて以上の批判からは、私は『他者の所有』を全然評価していないと思われるかもしれません。しかしそうではありません。私から見て――以上で指摘した――問題があるせよ、『他者の所有』は最先端といえる内容を持っている。ヘーゲルについても『精神の現象学』からさまざまなアイディアが引き出されていますし、さまざまな現代の思想家との『対話』が試みられています。「現代思想」とヘーゲルの『対話』は――専門化された領域を越えたものであり、したがって日本の「アカデミズム」ではなかなか成立しないのでしょうが――必ず豊穣をもたらす試みだと思います。
『知的所有論』に関連する領域も――今回、私はその『舞台装置』としてのヘーゲル「論理学」の解釈を批判したわけですが――これからの社会変革の試みに多くの示唆を与えるものであることは疑い得ません。
私は「江戸の読書会」に関する一文(21)を書いて、江戸の「学問」がどのような「ルール」のもとに行われていたかを紹介したのですが、今回はそこで紹介した「ルール」に忠実であろうと努めました。
拙文の書き方は、現代の「標準的な」マナーからするならば、率直過ぎたかもしれません。しかし金沢藩明倫堂の「入学生学的」には、「会読之法は畢竟道理を論し明白の処に落着いたし候ために、互に虚心を以可致討論義[もつてたうろんいたすべきぎ]に候」とあります。
「公共空間X」で、このような精神を甦えらせることができるなら、と思っています。
(21) なぜ「新しい公共空間」か 連載② ―江戸の読書会とは何か―http://pubspace-x.net/pubspace/archives/317
(本稿は、2015年3月15日に開催された「公共空間X」例会(高橋一行『他者の所有』の合評会)に提出した文章がもとになっています。)
(そうまちはる 「公共空間X」同人)
(pubspace-x1742,2015.03.18)