石塚正英
(上)より続く。
三 慣習的権利から普通選挙へ―恭順
〔引用14〕フーアンがさらにつづけた。/「(中略)普通選挙(suffrage universel)といったところで、鍋に肉など入れちゃくれない。地租は肩にがっしりかかってくるし、子どもたちは相変わらず戦争に曳っぱられて行く……要するに革命など何度やったって無駄なことさ。変わり映えなど少しもないよ。ドン百姓はいつまでたってもドン百姓さ」上122頁 p.80.
〔コメント14〕19世紀フランスの農民層が「普通選挙(suffrage universel)」についてどのように理解していたか、という問題について、工藤光一は『近代フランス農村世界の政治文化―噂・蜂起・祝祭』で以下のように解説・分析している。
「民衆が『主権者たる人民』という新たなアイデンティティで自己を認識するに至ったということは、民衆意識の重要な変化の側面を示す事象として注目されよう。もっとも、『人民主権』なる概念が、フランス人民全体の意志ではなくて、自分の村の住民集団の意志を表現するものとして農民に用いられていた事例をマーガダント〔フランス農村史研究者〕は指摘しており、農村民衆の間では、このように伝統的な〈村〉意識に引き寄せた『人民主権』概念の受けとめ方は、おそらく稀ではなかったろう。しかし、〈村〉という準拠集団になお強く規定されていたにしても、村庁の改変という政治的事柄の決定を担うべき政治主体としての『人民』という自己認識を持つに至ったことは、農村民衆における新たな政治意識の形成を認めるに足る事象なのではないだろうか」(☆23)。
政治制度としての人民主権と、習俗慣行としての寄合主権は、ときに連結できるが、村が村である間、後者は一朝一夕で消え去るものではない。
それから、世界システム論のイマヌエル・ウォーラステインは、著作『近代世界システム』において以下の議論を展開している。
「〔イギリス革命前夜における〕大きな対立のひとつは、王権を重視し、特権と恭順においてなり立つ、いまではいささか時代遅れになりかけているシステムに固執する人びとと、他方、農業の商品経済化の促進を第一に考え、社会のパターンがいくらか変化した方がよいと思っている人びととの間に認められる。前者は社会革命を恐れるあまり、他にはなにも考えることができない。したがって彼らは、「世界経済」をどうしても選ばざるをえない状況に追いやられて、進退窮まっていたのである。他方、後者は、宮廷の奢侈には何の価値をも認めず、「世界経済」におけるイギリスの優位を保つことを第一目標にしていた」(☆24)。
「絶対王政といえば、伝統的にブルジョワジーと組んで貴族に対抗するものとされてきたが、このような評価はルイ14世のいわゆる古典的絶対王政でさえ、領主権をまっさきに再確認したという事実と矛盾する」(☆25)。
「英仏両国の王権はいずれも、ブルジョワジーの要求と貴族のそれとの板挟みになると、つねに貴族に接近する方法をとった」(☆26)。
「この事実がもたらした結果のひとつは、本質的には貴族以上に手におえないブルジョワジーを抑え込むために、フランス政府は自己を強化し、官職を売りつけて彼らを手なずけなければならなかったということである。こうしてブルジョワジーは、産業資本家には目をむけなくなったのである」(☆27)。
この論理展開はじつにはおもしい。19世紀人マルクスの階級闘争論では、下層の階級が上層の階級に闘争を挑み、前者が勝利して歴史が前進する。奴隷が奴隷主を倒し、農奴が領主を倒し、資本家が王侯貴族を倒し、そして労働者が資本家を倒し、云々。ところが、ウォーラステインによれば、歴史はつねに社会の上層部分で争われる。下層の民はその争いの脇役でしかない。下層が上層にとって変わるのでなく、上層が自ら新支配層に転身するか、下層の一部が上層に昇って支配層に加わっていくコースが見られるだけである。だから、例えばイギリスの貴族は、自らの階層から東インド会社の経営者を輩出してブルジョワ化し、ついにその家系のいくつかは20世紀に生き残った。貴族が資本家に転化するのであって、農民や中世市民がダイレクトに政権の座についたりして社会のリーダーになったわけではない、ということ。ウォーラステインをそのように読むことができる。

〔引用15〕彼の父イジドール・ウールドカン(Isidore Hourdequin)は16世紀に中産階級(bourgeoisie)に成りあがった古くからのクロワの農家(paysan)の出だった。この家の人々はすべて塩税署(gabelle)に勤務していた。ある者はシャルトルで倉庫番をやり、またある者はシャトーダンで検査員をやった。イジドールは早く両親を失って、6万フランばかりの財産をもっていた。ところが26歳のときに大革命のために地位を失ったので、共和派の悪党どもの盗品で財をつくろうと考えた。彼らは国有財産を売りに出していたのである。彼にはその地方の事情が素晴らしくよくわかっていたので、よく探り、よく勘定して、昔のローニュ・ブークヴァル家の領地の中、その頃残っていた全部であるボルドリーの150ヘクタールの土地を、真の地価のわずかに五分の一にすぎない3万フランで買い入れた。百姓は一人として自分の金を危険にさらそうとしなかった。ただ、商人や法官や金融業者は革命のもたらした処分を利用した。だが、それは一つの投機にすぎなかった。というのは、イジドールは農場をやろうなどとは思ってもみず、紛乱が終ったらすぐ正常な値段で売って、投資した金を5倍にしようと考えただけだったからだ。ところが五執政官政府(革命後の政府、1795-1799)ができ、地価の低落が続いた。彼は予想どおりに儲けて売るわけにはいかなかった。土地は彼のわずらいになり、彼は土地のとりこになった。そこで、かえって片意地になり、少しの土地も手離さないことにして、自分でそれを経営し、結局それで財を築きあげたいと考えた。上132頁 p.86.
〔コメント15〕引用文中にある「塩税」は、〔引用10〕にも関係するが、佐藤賢一「物語 フランスの塩税(第1回)」に興味深い記述がある。
「フランスに『農場には何でもあるが、鉄と塩だけはない』という諺がある。誰の領地、彼の荘園にもあるわけでないからには、塩なら手を出してもあまり文句はいわれない。王は特別な場所だけ押さえれば、全国から税金を集められる。他面、その塩がフランスでは、小麦、葡萄酒と並ぶ三大産品のひとつとされていたほどなのだから、もうしめたものだ。/かくて塩税=ガベルは始まる。人頭税=タイユ、消費税=エードと並ぶ税金三本柱のひとつとして、そのまま『絶対王政』を支え続ける。フランス革命でいったん廃止されるも、ナポレオンの第一帝政、復古王政、七月王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政と、その後の政体も有力な財源として手放さなかった。時代と状況にもよるが、塩税=ガベルは国家収入の6パーセントほどを、常に担い続けたといわれている」(☆28)。
なお、ここに記されている「ブルジョワ(bourgeois)」とは中世から近世にかけて経済的に力を得た都市市民(商人・ギルド親方)のことである。マルクス思想で説かれる市民革命を担う近代的階層とは相対的に区別される。フランス革命はよく市民革命と称されるが、現実はそう単純ではなかった。法服貴族の反抗、農民一揆、女性のヴェルサイユ行進、サン・キュロットの蜂起、平等党の陰謀などなど。利権とは入り乱れて進んだ。イジドールの企みはその中に浮き沈みしたのだろう。
四 財の均分と財の共有―気質
〔引用16〕イエス・キリスト〔イヤサントの別名〕は調子にのって喋り続けた。/「土地、土地と大げさな言い方をしやがって! ほんとに! そんな駄法螺をふき続けていると、今にお前は錆びついちゃうぞ……一体、土地なんて、そんなものが世の中にあるのか。土地はお前のものであり、俺のものだが、また誰のものでもないんだ。元来親爺のものだった土地でも、俺たちみんなにくれるために、切りきざまねばならなかったじゃないか。お前にしたって、お前の息子たちのために切りきざむことになろうじゃねえか。そこで、どうだい。そいつは行ったり来たり、増えたり減ったり、いや特に減ってゆくものなんだ。お前みたいな一人前の旦那だって6アルパンしかもたねえのに、親爺は19アルパンもあったんだからな……俺はそれが嫌だった。あんまり小っちゃすぎたんだ。そこで俺はみんな食っちまった。それに、俺は堅実な投資が好きだ。ところが、土地はどうだい、末っ子どん、ぐらぐらしてるじゃないか! 俺は土地にはビタ一文かけないつもりだ。つまらん取引だからな。今に困った災難が起こって、お前たちはみんな文なしになるだろうよ……破産だ! みんなお人好しだよ」/しだいに死のような静けさが酒場の中にひろまった。もはや誰も笑わなかった。農民たちの不安げな面は、酔に乗じて、ごちゃまぜの奇妙な意見を、アフリカの兵隊あがりや町の浮浪人や酒屋の政治狂の考えなどを吐きちらす、この途方もない悪魔を眺めていた。この言論から浮びでてくるものといったら、1848年の革命時代の男であり、つまり1789年の大革命の前に依然として平伏し続ける人道主義的な共産主義者の姿だった(Ce qui surnageait, c’était l’homme de 48, le communiste humanitaire, resté à genoux devant 89.)。/「自由、平等、博愛だ! 大革命にかえらなきゃ駄目なんだ! 俺たちの分配のときに盗まれちゃった。ブルジョワがみんなくすねちゃったんだ。畜生め! どうしたって取りかえさなきゃ……人の値打に変わりがあるか。ボルドリー農場のとんちき野郎がみんな土地をかかえこんで、俺には何にもないなんてことが、一体、合点のゆくことだろうか。……俺は俺の権利を主張する。俺の分け前を要求する。みんなそれぞれ分け前をもらうべきだ」中60-61頁 p.229.
〔コメント16〕「ブルジョワがみんなくすねちゃったんだ」と嘆く農民やサン・キュロット民衆は、ついに財の共有を説く指導者に巡り合う。フランソワ・ノエル・バブーフである。フランス革命末期に、無所有の諦観から権利の主張へと民衆を領導した人物、バブーフの農地均分法を解説しておく。バブーフは、革命勃発ののち、1789年7月に出版した『永久土地台帳』の中で、農地均分法の思想を表明し、さらに1791年9月10日付の、立法議会議員クールベあての書簡でも、次のように表明している。
「私は言いたいのであるが、農地均分法は、私が述べたことの帰結であります。……この法は金持に恐れられ、その到来を感じられているが、大多数の貧民、すなわち人類の50分の49は未だそれについてなんら考えていない。しかし、この貧民たちは、もしこの法が実施されなければ、せいぜい2世代のうちに滅び去ってしまう」(☆29)。
ただしバブーフは、農地均分がフランス革命の成果として実現するに先立って、それは幻想であると判断するに至った。その上で、先史氏族社会に存在していた農地の共同所有に舞い戻ることとなるのだった。
〔引用17〕彼〔フーアン〕はそれからそれへと出来事の入りくんだとぎれとぎれの言葉で、何故そうせねばならぬかを説明した。しかし、彼の口にしないことがあった。それは人が胸のうちの感動をどんなに喉元で押し殺しても、どうしても染み出てくるようなもので、つまり、財産から引き離されるにあたっての無限の哀しみ、底深い恨み、全身をずたずたに引き裂かれるような思いだった。この財産は父の生前から彼の欲しくて堪らなかったものであり、その後ようやく手に入れると、発情期のような烈しさで耕作し、また一文だって出し惜しむけちな心をさえ犠牲にして少しずつ買いふやしていったものだからだ。ある一片の地所は、パンとチーズだけの幾ケ月、火を節約した幾度かの冬、数杯の水の他には疲れを癒やすものとてない、激しい労働に明け暮れした幾回かの夏を過ごしたその挙句に、ようやく手に入れたものだった。彼は、女性のためなら死にもすれば殺しもする男のように、土地を愛した(Il avait aimé la terre en femme qui tue et pour qui on assassine.)。妻も、子も、誰も、人間的な何もいらない、ただ偏えに土地が欲しかった。しかも、いまや彼も老衰して、かつて父親が自分の無力を憤りつつも、彼その人に土地を譲らねばならなかったように、彼もこの土地を息子たちに譲らねばならなくなったのだ。上31-32頁 p.19-20.
〔コメント17〕19世紀フランス農民社会において、農民は保守的であって断じて伝来の土地を手放さない。フランス革命においてさえもそのような事態が散見された。1791年4月に、立憲君主制を望むミラボーが死に、6月に国王のバレンヌ逃亡事件が起きてから、革命の進展をもはや望まないブルジョワジーに対し、サン-キュロット層が抵抗を開始した。彼らは、とりわけ、共和主義者ジャコバン派の政治指導を受けつつ革命を前進させた。またジャコバン派は、サン-キュロットたちの掲げるパンの要求に応じるため、生活物資(穀物)の最高価格令を発し、また農民、ことに貧農を味方につけるため彼らに土地を無償で与えた。こうしてジャコバン派は、1793年6月から翌94年7月まで独裁的な統治を実現し得た。その後、バブーフの陰謀が登場した。1796年4月にシルヴァン・マレシャル(平等実現のためなら芸術が滅ぶもよしと断ずる画家)が起草した『平等者の宣言』にその要求が掲げられている。すなわち、
「農地均分法、つまり農地の分配は、原則というものを持たぬ兵士らの、理性よりも本能のままに動く野蛮人たちの、はかない願望だった。我々はいっそう崇高なもの、いっそう公正なもの、共同の財(bien commun)、すなわち財産共同体 (communauté des biens) を要求する」(☆30)。
土地は分割せず、昔通り丸ごと農民の共有にしておきたかったのである。
このようにしてバブーフらは、制限されながらも維持してきた私的所有権を完全に廃止し、これに代えて財産共同体を採用しようと呼びかけるに至った。その際バブーフらは、食糧の価格を上げればサン-キュロットたち都市の民衆が苦境に陥り、そうしなければ農民たちが飢えてしまうといった、貧民たちのぎりぎりに追いつめられた状態を、商業活動、投機的活動への批判だけでなく、私的所有そのもの、ようやく勝ち取られた近代ブルジョワ的所有そのものへの批判において克服しようと企てたのである。
〔引用18〕彼〔息子のビュトー〕は、老人〔父のフーアン〕の力なく震える手が自分を叩こうと打ちかかるのを見て、それを宙に捉え、がっちり抑えて、たくましい手で嫌というほど握りしめた。/「しつっこい爺だなあ。今じゃお前なんか屁とも思っちゃいねえってことを、そのやくざ頭に合点させるにゃ、腹を立てて見せなけりゃならねえのかい。……一体、お前は何の役に立つんだ。余計な金がかかるだけよ。……年期がすんで、ほかの者にお株を譲ったからにゃ、人に厄介をかけずに、さっさとくたばっていくもんだ」/彼は一語一語に力をこめて言いながら、父をこずきまわした。そして、最後の一突きで、彼を突きとばした。フーアンはぶるぶる震えながら、後退りによろけていって、窓際の椅子にへたへたと腰をおとした。そして、昔の権力のすっかり滅び去った屈辱感に打ちのめされて、しばらくは息もつかずに、茫然としていた。もうお仕舞いだ。全財産を分けてしまってからは、もう物の数にも入らぬ人間になってしまったのだ(C’était fini, il ne comptait plus, depuis qu’il s’était dépouillé.)。中183-184頁 p.312.
〔コメント18〕当時の農民にとって、財産とは何だったのか。代々受け継いできた土地(農地)こそすべてだったのか。伊丹一浩『民法典相続法と農民の戦略―19世紀フランスを対象に』には、以下の記述が読まれる。
「ところで19世紀フランス農村では人口圧が大きく、土地需要も旺盛であったと考えられるが、こうした状況の中、均分相続を原則とする民法典相続法は、農村地域の土地所有や農業生産の動向に一定の影響を及ぼしていた。そして、こうしたことを無視しては、その意義を十分に把握することはできないであろう」(☆31)。
そのような分析結果を『大地』に登場する農民は知りたくもないのでなかかろうか。
フーアンの家系は農場を経営するような階層(fermier)であって、土地を持たない小作農(paysan)ではなかった。バルザック『農民』には、僧侶プロセット師の言葉として、こう記されている。
「歴史的にいえば、農民はいまだに例のジャックリーの百姓一揆をついきのう起こった出来事のように考えています(Historiquement, les paysans sont encore au lendemain de la Jacquerie, leur défaite est restée inscrite dans leur cervelle.)。一揆の敗北が彼らの脳裡に深く刻みこまれているのです。彼らはもはや事の顛末は覚えていません、すでにそれは本能的な観念の状態に移っています。この観念は、ちょうど優越の観念がむかし貴族の血の中にあったように、百姓(paysan)の血の中に潜んでいま手。1789年の革命は敗北者の仕返しなのです(la revanche des vaincus.)。百姓は、封建時代の法律が1200年このかた彼らに禁じていた土地所有ということに、足を踏み入れたのです。土地に対する彼らの執着は、そこからきています。彼らはわずか一畦を二分してしまうほどにも、仲間うちで土地を分け合いますが、そのためしばしは税の取立てがだめになることさえあります。というのは、土地をそんなふうにこまかく分けてしまうので、土地の価格が地租徴収のための訴訟費用をつぐなうにも足りないということになるのです」(☆32)。
それから、19世紀ドイツの革命職人ヴィルヘルム・ヴァイトリングは、ドイツそれ自体の歴史上でも財産共同体を標榜した人物や運動のあったことを強調するときもある。その点で彼が挙げる事例は、農民戦争期のトーマス・ミュンツァーやライデンのヨハンである。
「16世紀において、ドイツの政治世界は重大な事態をはらんでいた。ザクセンの福音派の牧師トーマス・ミュンツァーは財産共同体を説き、金持を諸都市から追放して多大な支持を得た。しかし、彼には勇気が欠けていた。敵軍が攻めていたとき、彼は、陣営に得ていた3万の兵に、天上にかかった虹をみあげさせ、彼らに天使の加護を告知し、敵と戦うことを禁じたのだ。彼らはほとんど無抵抗のまま惨殺されたのである。/同じ時期に、ライデンの仕立職人ヨハンが、ヴェストファーレンのミュンスターで、同様に財産共同体を実施した。……彼は無残な死をとげる。……/しかるにこれらの例は、財産共同体の学説がすでに当時にあって、不完全に説かれたにもかかわらず電気のように大衆の心を魅了していたことを証明するものである」(☆33)。
ヴァイトリングの説明にしたがえば、財産共同体理論はすでに16世紀のドイツで民衆にとらえられていたのである。農民戦争期において領主制の廃止のみならず土地の共有=神の王国まで説いて貧農を指導した再洗礼派のミュンツァーは、ヴァイトリングにとってある意味ではドイツで第一にプロレタリア革命を提起した人物と評価されたのである。フランス革命にしてもドイツ農民戦争にしても、これらはヴァイトリングの理論世界ではすべて完成されるべきプロレタリア革命の第一歩なのであって、人民は立ち止まらずに第二歩、第三歩を踏みだす任務を負っている。そうした考えからして、社会革命は16世紀にも18世紀にも、また19世紀にあっても、つねに被抑圧人民が現実的に即刻獲得すべき目標だったのである。それ故、ヴァイトリングが展望する将来のドイツ革命は、もはや最初から、即座のプロレタリア革命として直観されており、これを遂行する資格と能力を備えた者は唯一下層の労働者階層なのである。なるほど革命職人――革命的な職人である以上に革命をつくる職人――ヴァイトリングだ。ゾラの小説に、これほどの永久決起人は登場してこない。
〔引用19〕この小さいフランソワーズはきかんぼうだとの評判をとっていた。彼女は不正を我慢できなかった。彼女が一度、「これはあたしの、これはあんたの(Ça c’est à moi, ça c’est à toi)」と言った時には、たとえ短刀を突きつけられようと、言いなおすことはしなかったろう。上173頁 p.117.
〔コメント19〕一方には強い近代的所有権の主張があり、他方には無所有の諦観から権利の主張へ向かう弱々しい態度が、双方メダルの表裏のように表出している。だがその反対に、絶対に手放したくない慣習法のライフスタイル(既得権利)の主張も残っていった。なにしろ、慣習法は中世の共有地を支えてきたのだった。その史実について、歴史学者のマルク・ブロックは『フランス農村史の基本性格』で以下のように説明している。
「法律的にいって、理想的な共有地とは、集団の権利以外の物的権利がそれに対して行使されていない土地であった。それは中世法の用語では、住民によって共有された自由地であった」(☆34)。
地域農民にとっての入会地だったが、ナポレオン法典によって慣習法が廃止されると入会地も種々の土地所有者に分割されていった。
下層民による慣習法遵守の一つに共同体的盗奪がある。18世紀末のヨーロッパ、とりわけ絶対主義体制の強固なドイツでは、中世以来の伝統的な社会は崩れ出したが、しかもなおいまだ近代国家がその権力の網を社会の隅々まで張りめぐらすには至っていなかった。その時代に、入会地を死守するだけでなく、進んで交易商人の蔵に押し入る盗賊団が出没した。それは、たんに一時的にでなく、またたんに一地方的にでもなく、数十年にわたって、独・仏・蘭等の広い範囲に、国境を越えて存在した。また彼らは、絶対王権を頂点におく当時の現存国家に対抗し得る社会的反対組織(Soziale Gegenorganisation)を形成していた。これを構成する人々は、研究者ホブズボームによれば Social bandit と表現され、研究者キューターによれば Sozialrebellen ないしSozial-banditと表現されるが、彼らは、既成秩序からはみ出したアウトローというよりも、既成秩序と完全に対決する構え・秩序をもったカウンター社会勢力、「社会的匪賊」なのであった。このような社会的匪賊は、18世紀から19世紀初めにかけてのヨーロッパにおいて、その存在理由を十分保持しつつ、あるいは当時の下層民衆に多大な支持を得つつ、大規模な、しかし不確定の集団を築いていた(☆35)。
〔引用20〕彼〔ジャン〕は印紙を貼った紙を持ってきて、言いにくそうに続けた。/「どうだい、手伝ってやろうか。まだ書く力があるんなら……何も、俺は欲得じゃないんだ。ただ、お前をあんなにいじめた奴らに何も遺して逝きたくないだろうと思うまでのことさ」/彼女はまぶたを微かに震わせた。それを見て、彼は自分の言葉が相手に聞えていたのを悟った。それでは、フランソワーズは俺の頼みを断る気なのか。彼は訳もわからずに、かっとなった。彼女自身も、おそらく、棺桶に納まらないうちから、なぜこうして死んだ振りをしているのか、その理由を言うことが出来なかっただろう。土地と家とは、まるで旅人のように自分の生活へ偶然顔を出したこの男のものになるべきではない。子どもは一緒に死んでいくのだから、あたしはこの男には何の借りもないわけだ。財産を親族から奪って他人の手へ渡す理由は少しもない。幼稚で頑固な彼女の正義感が承知しなかった。これはあたしの物、それはあんたの物(ceci est à moi, ceci est à toi)、勘定がすんだら、さよならだ! 彼女の脳裡を往来していたのは、こういうことだった。下81頁 p.453.
〔コメント20〕「これはあたしの物、それはあんたの物」の対極をいく思想家で、18世紀フランスの啓蒙運動において、啓くベクトルを交互的に設定した啓蒙期思想家――啓蒙思想家でなく啓蒙期の思想家――がいる(☆36)。ジャン-ジャック・ルソーである。彼は、人間理性に自然感性を対置させ、その往還の運動をもって民衆啓蒙を成し遂げようとした。自著『人間不平等起原論』(1755)において、不平等は人間が自然状態を抜け出し、財産所有を土台にした文明社会を築いた時から発生し、拡大してきたと説き、いまやその状態が最悪の段階に至っていると説く。しかし、その状態をいかにして打破すべきか、その方法や未来社会については語らなかった。その重要なテーマに挑戦すべく執筆・刊行されたのが、かの『社会契約論』である。1762年に出版したこの著作において、ルソーは、主権の不可分なこと、それは譲渡もできないこと、代表もされ得ないことを主張し、独自の社会契約説を提起した。
またルソーは、『社会契約論』出版後ひと月にして、『エミール』をも刊行した。『学問芸術論』(1750)以来、ルソーは、社会の進歩というものをけっして認めなかったが、個人に関しては進歩を認める。社会が人為的産物であるのに対し、個人は、生まれた時には自然そのままである、というのがその理由であった。したがってルソーは、人間教育に対して重大な価値を見いだし、『エミール』を執筆したのである(☆37)。執筆上の子エミールを、ルソーは職人に育て上げた。
五 収穫繁忙下の性風俗―みだれこそ
〔引用21〕その年は夜がひどく暑かった。そこで、ジャンは、いつも寝ていた馬屋のそばの部屋で過ごせないことがよくあった。彼は外に出て、服をきたまま中庭の敷石の上にごろ寝した方がよかった。彼を居たたまらなくしたものは、馬のきびしく堪えがたい体温や、寝藁の蒸発物だけではなかった。それは不眠であり、フランソワーズのひっきりなしのイメージであり、彼女が来る、つかまえる、食い入るほど抱き締める、といったような固定観念だった。今ではジャックリーヌは他に気をとられて、彼をそっとしておいたので、この小娘への彼の友情は、荒々しい情欲に転じていた。この夢うつつの煩悶の中で、明日こそはきっと出かけて行ってものにしてくれようと、20度も誓ったのだった。だが、朝起きて、冷たい水槽に頭を浸すと、すぐそのことが嫌わしくなった。自分が彼女よりもあまり年が上すぎたからだ。それでいて、次の夜にはまたも悩みが始まった。刈入人たちがやって来た時、彼はその中に一人の女性をみつけた。それは2年前、また若い娘だった頃、彼が転ばした女性だったが、今では刈入れの男の一人と結婚していた。ある晩、悩みがあまり激しかったので、彼は羊小屋に忍び込んで、口をあけて高いびきをしている夫と兄にはさまれた彼女の足をひっぱった。彼女はあらがいもせず身体を許した(Elle céda, sans défense.)。それは蒸し暑い暗闇で、たとい熊手で掃除してあっても、冬のあいだ羊が飼育されていたところとて、あの眼に涙のにじみ出るほど強烈なアンモニア性の匂いの残る土間の上で、無言に行うがつがつした色事だった。彼は20日ほど前から、夜ごと夜ごと通い続けた。中67頁 p.233-234
〔コメント21〕“Elle céda, sans défense.”を翻訳ソフトで訳してみたら、「彼女は抵抗する術もなく、屈服した」となった。雰囲気が微妙に異なってくる。ゾラをわいせつ作家と批評する人々は公序良俗を盾にとる。だが、彼が描写するこの種の営みには営々と人類文化的背景が存在する。エドゥアルト・フックス『風俗の歴史』には労働階層の出来事として記されている。フックスの収集した風俗画・諷刺ビラ・宣伝パンフレット・広告ポスターは、その多くが、いかなる類のものであれおよそ「秩序」というものを、ある時は当然の根拠をもって、ある時はこっそりとなし崩しに、またある時はやみくもに壊すか穴だらけにする、そのような効果や役割を保持していた。ある体制をぐさりと諷刺してその土台を突き崩すカリカチュアは、ときに体制を選ばないこともある。性の交わりを私的な範囲に閉じ込めたがるのは、政治的権力に特徴的なことである。その力は時代を下るほどに強まった。そのような権力が存在しなかったか、あるいはまだ弱々しかった古代においては、性は開放的だった。古代人や野生人にとて、性交の禁止は問題にならない。また、性交に公的も私的もありはしなかった(☆38)。
さらに、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』には以下の記述が読まれる。
「どの部屋にも五つないし七つの寝床が寝台もなしに地面に並べられ、いるだけの人間がだれもかれもごちゃまぜにしてそこに寝かされる。このような悪徳の巣窟の中でどのような肉体的・精神的雰囲気が支配しているかについて、私が語る必要はおそらくないだろう(Welche physische und moralische Atmosphäre in diesen Höhlen des Lasters herrscht, brauche ich wohl nicht zu sagen.)」(☆39)。
〔引用22〕時は10月の初め、葡萄の収穫がはじまっていた。まこと牛飲馬食の好時期で、今まで反目していた親戚縁類も多くは、新しい酒壺の周囲に集って、埒もなく和解するのだった。ローニュはこの1週間というものふんぷんたる葡萄の匂いに包まれる。人々はたらふく葡萄を食い、その結果、どこの垣根の下でも女がスカートをまくり、男がズボンを脱ぐ光景が現じられた。葡萄の汁にまみれた恋人たちは葡萄畑の中で噛み合うように接吻した。その結果、男はべろべろに酔っぱらい、女は子を孕んだ(Ça finissait par des hommes soûls et des filles grosses.)。中215頁 p.335.
〔コメント22〕スカートまくりなど、葡萄畑や垣根での性的乱痴気は、古代ギリシア・ローマのディオニューソス祭に代表される、いわゆる価値転倒・地位転倒の祝祭に由来する(☆40)。性道徳は古代社会における近親婚の禁忌に発する。ただし、そもそも先史社会や非文明的な野生社会で発生した近親婚タブーは、そのもとにある女たちにも男たちにも、生き生きとした性生活をかなえる最善の儀礼だったのである。目的は性の禁止でなく、性の開放である(☆41)。性生活においては、このタブーのほかに何らかの規制を加えるに及ばなかった。だが、先史に由来する氏族社会が解体し、政治的な社会――例えばギリシアやローマの都市国家――が成立すると、がぜん性生活にはたくさんの規制が加えられることとなった。しかし、ときには無礼講の乱痴気祭りを挙行して支配・非支配の帳尻合わせを行ったということである。
フレイザー『金枝篇』第4巻には、そのような背景を有する村祭りの記録が収集されている、たとえば以下のように。「同じ種類の儀式が灰の水曜日にプロヴァンス地方で行われる。奇妙な装いのカラマントラ(Caramantran)と呼ばれる像を二輪馬車で引くか輿で運ぶかして、へんてこな服装をした人々が付き添う。彼らはワインを満たしたヒョウタンを携行しそれを飲み干して、本気なのか見せかけなのか分からないが、あらゆる酔態を演じる」(☆42)。
ヨーロッパの下層社会・農村社会に存続してきた五月祭のごとき田畑のカーニヴァルは、聖なる性交でクライマックスに達するのが常だったが、中世キリスト教時代に至れば、聖俗両世界の権力によって魔女のサバトとして否定されるに至った。しかし他方で、イタリアからアルプスを越えて北方へと拡大したルネサンスにおいて、性道徳への挑戦は時代精神と見紛うほどの勢いをつけていく。処々に垣間見られるゾラの性描写は、しごく自然な成り行きを物語っているだけのことである。
六 どうするキリスト教―よしなに
〔引用23〕司祭から見放されても、別に雨が余計に降り、風が余計に吹くわけでもない。その上、村の出費が非常に倹約になった。そこで、司祭は必ずしも欠くことの出来ないものではないことが明らかになり、またそのために収穫が減ったり、寿命が短くなるわけでもないことは経験で証明されているのだから、司祭など未来永劫に来てくれなくてもかまわない。多くの人々が、単にランゲーニュのような粗雑な頭の者ばかりでなく、分別があり打算にたけた、例えばデロンムのような者ですら、この説に加担した。しかし、司祭をもたないことに困却する者の数も決して少くなかった。それは彼らが他の者よりも宗教心において勝れていたからではない。人を恐懼戦慄させなくなった悪ふざけの神など、彼らは問題にしていなかった(un Dieu de rigolade qui avait cessé de les faire trembler, ils s’en fichaient!)。しかし、村に司祭がいないということは、その給料も払えないほど村が貧乏か、ないしは出し惜しみするように思われた。要するに取るに足りないケチ、ゲのゲに思え、10スウも無駄には使わないけちん坊と選ぶところがなかったのである。中226-227頁 p.342.
〔コメント23〕役に立つとか立たないとかはときに相違があるものの、農民生活においておよそ村の司祭(キリスト教会)は飾りに過ぎなかった。一方、自然を動かす呪術による農耕儀礼は盛んだった。その訳は、中世ヨーロッパの各地に伝播されたキリスト教は、大なり小なり先住諸民族の自然信仰と習合し、呪術は生きていたからである。中世文学・習俗の研究者であるジェシー・L・ウエストンは、著作『祭祀からロマンスへ』の「はしがき」で次のように記している。
「実を言えば、わたしは、聖杯城へわたしを旅立たせるように仕向けてくれたそもそものインスピレーションを、他の多くの人々と同じように、ジェームズ・G・フレイザー卿に負っているのである。『金枝篇』の手引きがなければ、故ガストン・パリス氏がいみじくも言ったように、おそらくわたしはブロセリアンド(『マリーン』の中でマリーンが閉じ込められた塔のある場所)の森の中をいまだにさまよい歩いていたに違いないのである」(☆43)。
「数年前、J・G・フレイザー卿の画期的な著書『金枝篇』をはじめて研究した際、わたしは聖杯物語のいくつかの特徴とそこに叙述されている自然崇拝の特異な細部とのあいだにみられる類似性に強い印象をうけた。物語を綿密に分析すればするほど、ますますその類似性は際立って来て、ついにわたしは、この不可思議な伝承(中略)の中に、かつては民間に流布していたが、のちには厳しい秘密の条件の下に生きのびることになったひとつの祭祀の曖昧な記憶が残されていたかも知れないと考えることは果して可能かどうか自分に問うてみたのである。このように考えれば、たとえ明らかに非キリスト教的条件下にあったとしても、きまって聖杯を取り囲んでいる畏敬と崇拝のあの雰囲気について十分説明がつくであろう。聖杯は、たんに食器としての役目を果たしているかも知れないが、しかし、にもかかわらず、それはまったく聖なるものtoute sainte cose なのである」(☆44)。
むすびに
本稿は本格的な論文ではなく、いわば読書ノート、研究ノートのたぐいである。先行研究も何もあったものではない。無手勝流とそしられても反論の余地はない。それはそうなのだがそれにしても、19世紀フランス文学の代表的存在であるエミール・ゾラをかくも非文学的に取扱い、研究のためとはいえ、無造作にコメントした論稿はめずらしいことではないだろうか。
1970年から約20年、私は19世紀ドイツの社会思想史を討究対象にしていた。へーゲル学徒にしてその左派であるルートヴィヒ・フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の出発点、つまり最も抽象的で無限なもの、観念的なもの――絶対精神――を拒否して、それと逆のもの、すなわち具体的で有限なもの、現実的なもの――自然と人間――を出発点に据えることによりヘーゲル批判を断行し、わけても現実的人間をもち出した。この現実的人間とは、感性において自己と他者を結びつけた共同的存在――他我(alter-ego)――としてある。ヘーゲルが思惟を重んじたのに対し、フォイエルバッハは思惟と結合された感性(感性それのみではない)を重視した。このような考え方は、フォイエルバッハと同時代フランスのサン・シモン派諸思想に連なっていた。フォイエルバッハは、ガリア・ゲルマン的原理、ガリア=ゲルマン同盟の中に、フランス思想とドイツ思想の統一的結合として展望した。ガリアの心臓(社会運動)とゲルマンの頭脳(哲学思想)、かような統一の中にこそ、理性と感性、人間と自然の結合されたフォイエルバッハの他我哲学、人間学的唯物論の追究がみられたのである。また、ヘッセン農民蜂起の指導者ゲオルク・ビューヒナーは、農民が豊かになれば革命は萎むといって、こう檄を飛ばした。「どの農民の鍋にも牝鶏が煮えようものならガリアの雄鶏は死んでしまいます!」(☆45)。私はその頃から、そういう研究歴の只中でガリアの野生文化(cultus)に注目してきた。それは自然に根ざすガリア(ゴール)文化と信仰に根ざす中世ゲルマン・キリスト教文化との連携を意味している。私の場合、そのような連携思想を体現する19世紀人としてエミール・ゾラとその作品が存在するのである。
注
23 工藤光一『近代フランス農村世界の政治文化―噂・蜂起・祝祭』岩波書店、2015年、142頁。
24 イマヌエル・ウォーラステイン、川北稔訳『近代世界システム』第2分冊、岩波現代選書、1981年、159頁。
25 同上、161頁。
26 同上、175-176頁。
27 同上、176頁。
28 佐藤賢一「物語 フランスの塩税(第1回)」、塩と暮らしを結ぶ運動公式サイト「くらしおdeワールド」https://www.shiotokurashi.com/world/europe/71221
29 M. Dommanget, Pages choisies de Babeuf, Paris, 1935, p. 314.
30 M. Dommanget, ibid., p.124, p.122.
31 伊丹一浩『民法典相続法と農民の戦略―19世紀フランスを対象に』御茶の水書房、2003年、47頁。
32 Honoré de Balzac, Les Paysans, p.94. バルザック『農民』、58頁。
33 W. Weitling, Die Menschheit, wie sie ist und wie sie sein sollte. Paris 1838,(Nachdruck, München 1895)S. 176. 石塚正英翻訳・編著『ヴァイトリング著「人類」―革命か啓蒙か』社会評論社、2023年、54頁。
34 マルク・ブロック、河野健二訳『フランス農村史の基本性格』創文社、1980年、248頁。
35 石塚正英「社会的匪賊への親近感」、同『革命職人ヴァイトリング―コミューンからアソシエーションへ』社会評論社、2016年、第3章第1節、参照。
36 石塚正英「啓蒙期歴史学とルソーの叙述―歴史知的考察」、同『歴史知のアネクドータ』社会評論社、2022年、第6章、参照。
37 石塚正英「フランス啓蒙思想とルソー」、同『近世ヨーロッパの民衆指導者』社会評論社、2011年、第2章、参照。
38 石塚正英「カリカチュア風俗史家フックスとその時代」、同『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、第1章、参照。
39 Friedrich Engels, Die Lage der arbeitenden Klasse in England. Nach eigner Anschauung und authentischen Quellen, Berlin, 1962, p.296-297.. フリードリヒ・エンゲルス、一条和生/杉山忠平訳『イギリスにおける労働者階級の状態(下)』岩波文庫、1990年、135頁。
40 石塚正英「身体のドローメナ―デーメーテールとディオニューソス」、同『母権・神話・儀礼―ドローメノン(神態的所作)』社会評論社、2015年、第2章、参照。
41 石塚正英「性道徳のフェティシズム―近親婚タブー発生に関する諸学説を手がかりに」、同『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年、第11章、参照。
42 G. Frazer, The Golden Bough, part III, the Dying God, p.226.フレイザー『金枝篇』第4巻、149頁。
43 ジェシー・L・ウエストン、丸小哲雄訳『祭祀からロマンスへ』法政大学出版局、1981年、「はしがき」v頁。
44 同上、4-5頁。
45 ゲオルク・ビューヒナーからカール・グツコウへ、1835年。石塚正英『三月前期の急進主義―青年ヘーゲル派と義人同盟に関する社会思想史的研究』長崎出版、1983年、92頁。

(いしづかまさひで)
(pubspace-x16119,2026.09.14)
