石塚正英
はじめに
前世紀と記せばいかにも古めかしく思われるが、1990年代、私は勤務先の大学で「アグリ・ヒストリー」と題する社会思想史講座を担当していた。その際に使用した自作の同名テキストには、第一講として「Cultus―儀礼と農耕」をおいた。題目にかかげたcultusというラテン語は様々な意味を含んだ言葉である。耕作とか栽培、耕作地、また生活とか習慣、衣服とか装飾、教養とか薫陶、それから尊敬とか崇拝の意味を含んでいる。このクルトゥスが語原となって、耕作・修養・教養(cultivation)、文化・文明(culture)、祭儀・崇拝(cult)などの日常語が成立した。似たような言葉にオカルトがある。これはラテン語のoccultusに発する語で、cultusの接頭語ocは「抵抗・隠蔽」という意味を示すobの派生形であり、オカルトとは「隠された、秘密の」という意味になる。cultusが開かれた場での儀礼だったのに対しoccultusはそれと反対の場での儀礼だったのだろう。カタコンベに潜んだ禁令下のキリスト教もその一つに数えられよう(☆01)。
本稿で議論の基軸に取り上げる19世紀フランスの文学者・思想家エミール・ゾラ(1840-1902)の作品『大地(La Terre, 1887)』には、cultusの要素がふんだんに記されている。そのようなゾラの思想を、私なりの研究歴に見合うよう編集しつつ、「19世紀ガリア農民の堅気と無頼」と題して論じてみたい。本論の運びは、各節とも①ゾラ『大地』からの〔引用〕、②各々の引用に関する〔コメント〕という形式をとっている。作品全体の文脈を無視したぶつ切りの引用となっているが、文学作品を味わうのでない以上、この形式は許容範囲と思う。題名に含まれる「ガリア(Gallia)」とは、フランス一帯に居住していたケルト系先史諸民族の総称であり、ラテン語に由来する。フランス語では「ゴール(Gaule)」と称する。ちなみに、フランス史に脈打つ革命精神、断乎たる決意を象徴する形象として「ガリアの雄鶏(Le Coq gaulois)」がある。たとえば、ティエール市パストゥール通り脇に建つ「第一次世界大戦の犠牲者慰霊碑」のてっぺんに、「戦った人々の栄光」に雄叫びをあげる雄鶏像が置かれている(写真:石塚伸司撮影)。
基軸の引用文献は以下の通りである。エミール・ゾラ、田辺貞之助/河内清訳『大地』(全3冊)岩波文庫、2005(初1953)年。Émile Zola, La Terre, Paris , 1893 (Première édition 1887). なお、翻訳にはやや古めかしい訳語や文体が散見されるので、原文にあたって必要最小限の改訳を施している。〔 〕は私の補注であり、/は改行を示す。引用文末の数字は訳本と原書の当該頁数である。
一 ゾラの描くガリアの野良風景―堅気
〔引用01〕ジャン〔主人公ジャン・マッカール〕はこの畑を南から北へと登っていたのだが、ちょうど彼の前方、2キロのところに、農場の建物があった。畝の端れまでくると、彼は眼をあげて、ちょっと一息入れながら、見るともなくじっと眺めた。/そこには遠く、一廓の低い壁とくすんだ古いスレート屋根が、シャルトルの方に拡がる、ボース平野の入口に埋もれていた。空は10月末のどんよりした広大な空だった。その下の10里にわたる農耕地が、この季節には、黄色い、たくましい、むきだしの地面をくり広げ、大きな四角い畑が、ウマゴヤシやツメクサの緑のカーペットと入り交じっていた。そして丘もなく、樹木もなく、見わたすかぎり、すべてが融けあって、洋上のように鮮やかな丸い地平線のかなたに沈んでいた。西方には、一つの小さい森が、焦茶色の帯をなして、わずかに空をふちどっていた。中央には一筋の道、シャトーダンからオルレアンへの街道が、白亜色に輝く光となって、4里にわたって真直ぐに、電柱の幾何学的な隊列(le défilé géométrique des poteaux du télégraphe)を繰り延べていた。その他には三つ四つの木造風車が、木組みの上に翼を休めているばかりだった。この穏やかにうねった麦を生む土地では、村々は石の小島のように思われ、教会は見えなかったが遠くに一つの鐘楼が、かすかに高まった地面から浮かんでいた。上5-6頁 p.1-2.
〔コメント01〕新時代を象徴する「電柱」にやや意表を突かれはするが、小説の主要舞台となる農景的佇まいがつつがなく描かれている。叙情的ないし叙景的というより、そこはかとなく実存的である。19世紀後半のフランス農村をそこに生きる人々の肌感覚で描写している。日常の近景遠景であり生活の圏域であり、時の移りを気にせぬ習俗である。第3冊の訳者あとがきに以下の解説文が読まれる。
「ゾラがいよいよ『大地』の制作にとりかかったのは、1886年春、作品『制作』を書き了えた時のことであった。彼はかねて抱懐した農民小説の場所をパリの西南にひろがるボース平野におき、屡々幌馬車を駆って実地調査した挙句、平野の中央タロワの町から二里、シャトーダンから四里のロミリー・シュール・エーグル村に舞台をおいた。作品中でローニュ村となっているのがこの村である。作者は多少村の配置をかえているが、この村によって多くのものを観察し記録し、そして構想したのであった。/ゾラはこの作品によって農民及び農村社会の全貌を、その歴史と自然的背景とともに、ひろくふかく立体的に描こうとした。従って外部的な観察だけでは不充分であった。(中略)更に注目すべきは、当時の最も指導的な社会主義者ジュール・ゲードと会談して、社会問題、農業問題についての意見を求めていることで、後でその記録をとっている。この小説が単に末梢的な現実に溺れないで、フランス農民や農業の未来までも暗示するような高邁なものをもっているのは、これらの知的協力者に負うところが多いのである」(☆02)。
ジュール・ゲードはパリ・コミューンを支持しスイスへ亡命したことで知られる。パリ・コンミューンは1871年3月18日から5月27日まで、ほんのわずかな日数しか存在しなかったのだが、それが当時の革命家たちに及ぼした影響は相当なものだった。共産主義者マルクスはこれを史上初の労働者政権とみ、アナキストのバクーニンはこれを大胆な国家の否定とみた。
〔引用02〕夜闇のおちるまで、ジャンは種をまいた。ポトオの畑がすむと、リゴールの畑、カトルシュマンの畑にかかった。彼は耕地の中を大股に調子をつけて往き来した。種入れの麦がなくなるにつれて、彼の背後では大地が種を身ごもるのであった(le blé de son semoir s’épuisait, la semence derrière lui fécondait la terre.)。上23頁、p.13.
〔コメント02〕翻訳が美しい!「種入れの麦がなくなるにつれて、彼の背後では大地が種を身ごもるのであった」。むろん、まずもって言語自体が美しいのだろうが、ドイツ語に親しんできた私には、フランス語からにわかにはその機微を感じ取れない。参考までに、ジェームズ・フレイザー『金枝篇―呪術と宗教の研究』(第7巻)から近世フランス農村の習俗を拾うこと、こうなる。
「フランスのラ・パリスでは、パン生地で作った男を最後の収穫車で運ばれる樅の木に吊るす。この木とパン男は市長の家に運ばれ、葡萄収穫期が終わるまでそこに保管される。それから収穫終了の祝祭が開かれ、そこで市長はパン男を砕いて人々に与え食べさせる(the mayor breaks the dough-man in piece and gives the pieces to the people to eat.)」(☆03)。
農民たちにとって野良仕事は経済活動のみではなかった。それ以上に身体で生命を楽しむ行為だったのである。上代の日本でも、農耕は生命活動に一致していた。たとえば、稲穂に生命を吹き込むには、稲妻(天空の夫)が大地という妻と電雷と稲光でセックスする必要があった。
〔引用03〕冬の仕事が始まる前、ボースの平原は、9月のどんよりした空の下に、見渡す限り堆肥で覆われる。朝から晩まで、畑中の道という道を、腐熟した藁くずを溢れるばかりに積み込んだ荷車が、重そうに動いていく。藁くずは、まるで大地に熱を運んでいくように、濃い煙をもうもうと噴きだしている。到るところ、畑は累々たる山をなし、馬小屋や牛小屋の寝藁が、さながら海の大波のように、うず高く積まれていく。だが一方では、その山を畑にならして敷き拡げた堆肥の波が、黒ずんだ汚れ色で、見渡すかぎりの大地を塗りつぶしている。この糞汁の醗酵と共に、来るべき春の萌芽がみなぎり渡るのである。物質は分解して共同の母胎にかえり、死が生命を創造しようとしているのである。広々とした平野の隅から隅まで、強い獣糞の匂いが立ち昇る。人のパンを育む獣糞の匂いが(d’un bout à l’autre de la plaine immense, une odeur montait, l’odeur puissante de ces fientes, nourrices du pain des hommes.)。下5頁 p.401.
〔コメント03〕パンを自然(堆肥の発酵)の価値転換とみるか労働(堆肥づくり)の価値転換とみるか。いずれにせよ、土地は富の源泉であるという考えは、18世紀フランスの経済学者フランソワ・ケネーによって理論化されていた。ケネーは、『経済表』において以下のように記している。
「財産を手に入れるためのあらゆる手段のうちで、農業ほど優れていて、豊饒であり、快適であって、人間に適った、しかも自由人にふさわしいものはない。キケロ『職務について』」。「各人が、自分の利害と財力、土地の資質に見合った生産物を、自分の畑で自由に耕作すること。そうすれば、できうる限り最大の生産物が得られることになるのである」。「したがって、土地の耕作を貧しい農民にまかせてはならない。家畜が畑を耕作し肥沃にしなければならない。消費、販路、対内・対外商業の便宜と自由、これらが売上価値を保証し、あなたがたの収入を形成する。それゆえ富裕な人間に、土地耕作と農村商業の事業をまかせなければならない。その結果、これらの事業をまかせたあなたがたも国家も、富裕になる」(☆04)。
ケネーの後継者でもあるマルクスは土地(自然)でなく労働(人間)に価値を見出したが、ケネー思想を重視する人々は、今こそケネー復活を求めるべきではないだろうか。「物質は分解して共同の母胎にかえり、死が生命を創造しようとしている」と綴るゾラなれば、復活に賛成してくれるだろう。
〔引用04〕「ジャン、なぜリン酸肥料を使わないんだ」/彼〔ウールドカン〕は相手の返事も待たずに、苦労をまぎらそうとするかのように、長いあいた喋った。畑をよくするための秘訣は、かかってこの肥料というものにある。(中略)/ジャンの掻きまわす肥料の臭気が彼を少し元気づけた(La puanteur du fumier que Jean remuait, l’avait un peu ragaillardi.)。彼はその匂いを好み、まるでそれが大地の営む情交の匂いでもあるかのように、健康な牡の嗜好をもって小鼻をうごめかした。下6-7頁 p.402, p.403
〔コメント04〕19世紀ドイツの化学者ユストゥス・リービッヒは、自著『化学の農業および生理学への応用』において、以下のように物質代謝を説いた。
「第6信 もろもろの化合物に関して、それら種々の組成を比較し、それらの変化や転換や分解を洞察し、しかもこれらの場合、特に説明を付け加える必要がない点からいって、この記号的表現方法(diese Zeichensprache)は、はかり知れないほどの価値をもっています」(☆05)。「第9信 さながら生命そのもののごとく、汲めど尽きざる一つの新しい科学が、無機化学という健全確固たる樹木に(auf dem gesunden und festen Stamm der anorganischen Chemie)萌え出てきました。花は芽、葉、枝の成長がなければ開かず、実を結ぶには花が咲かなければなりません。植物および動物化学は、生理学と力を合わせて、有機体生命の神秘に包まれた源泉(die geheimnißvollen Quellen des organischen Lebens)を探っていこうとするのです」(☆06)。
「第13信 物質代謝が、身体の有する機械力の源泉であることはあきらかです(Es ist klar, der Stoffwechsel ist die Quelle der mechanischen Kraft im Körper.)」(☆07)。
「人間は食物の中から肉体を受けとり、日々食物の中から、太陽によって与えられ蓄積された力と熱を吸収しており、これが生命過程において(im dem Lebensproceß)他の場所でもとのような姿にかえるとき、すなわち生きた形成物がもとどおり初めの元素に分解するとき、再び姿を現わして作用を発揮するわけです。/私たちの地球の汲めども尽きない力の源泉に加えて、日々降り注ぐ日光によって過剰の力が与えられ、これが生命と運動を保つのです。こうして私たちの中にあり、うつし世のいれもの――私たちの肉体――より優れたいっさいのものもこの力から生まれ、またこれからは、塵芥といえども消滅しないのです(und so stammt denn Alles, was besser ist in uns als das irdene Gefäss — unser Leib — von weiter her, und auch von diesem geht zuletzt kein Stäubchen je verloren.)」(☆08)。
そのとおりだ。我々が日々排泄するものの中には先程まで生きて身体を形成していた細胞の大群がいる。それを単純に老廃物扱いし、水洗トイレに流しておしまい、などと忘却できようか。
〔引用05〕こうしてボースは11月から7月まで、緑の芽をふく季節から、伸びきった茎が黄色くなるまで、彼〔ビュトー〕の前に緑の原野をくり広げた。彼は家から出なくても、眼下にそれを眺めたかった。そこで、平野に向かった裏の台所の窓を開け放った。そこに立って、10里にわたるこの地方一帯を、円い空の下にあらわに拡がる広大なテーブルクロスを見た。そこには一本の立木もなく、シャトーダンからオルレアンへの街道沿いの電柱だけが、見わたすかぎり真直ぐに続いていた。初めは、大きな四角い赤土畑の続く中に、地面すれすれに、緑がかったほのかな影が広がっているばかりだった。この柔かい緑がどぎつくなり、同じような調子をおびた、幾枚もの緑のビロードの端切れとなった。やがて苗が伸びしげり、植物がそれぞれの調子をもって、とき色のウマゴヤシが赤々と広がる間に、あらゆる方角に果てしなく延びた小麦の黄色っぽい緑、燕麦の青っぽい緑、さては裸麦の灰色がかった緑などが、遠くからでもそれとわかった。それはボースが、単調のうちにも、一律に新鮮な春の衣裳をまとって、若さに輝く季節だった。茎は一段と大きく伸びて、洋々たる海となった。それは無限に広がって、ゆらめく深い穀物の海であった。晴れ渡った日の朝には、薔薇色の狭霧がたちなびいた。太陽が昇るにしたがって、清澄な大気の中に、大きな安らかな吐息のような微風がわたった。そのために地平の果てからうねりがおこって、野面をなびかせ伸び広がって、他の果てに消えていった。中6-7頁 p.194.
〔コメント05〕本稿の冒頭で言及済みのことなれど、一度ならず読み返しては感じ入った、素晴らしい農景描写である。そのあたりの表現に関連して、フランス文学者の有富智世は論稿「エミール・ゾラの『壊滅』について―『大地』との関連で」で以下のように説明している。
「作品『大地』は周知のようにボース平野を舞台に農村社会の実態を悲劇的に描いた小説である。主人公ジャンは、イタリア戦役(1859)に従軍し、ソルフェリーノの激戦を経て、軍隊生活に嫌気が差し、軍を除隊後、農民として生きることを望んでボースの地にやって来る。ジャンの他に『大地における重要な中心人物としてビュトーButeauの存在があげられる。ゾラはビュトーに情念的衝動に支配される性格を与え、彼に極めて自己中心的な視線をもたせている。そして、土地に根ざした農民の典型を表わし、主人公ジャンよりもビュトーの思考や行動に物語展開の主導的な役割を与えている。これに対して、都会から田園生活を求めてやって来たジャンには、第三者的・傍観者的な視線を与え、農民とは異なる『よそ者』étrangerとしての立場を際立たせている。つまり、ジャンの視線は『大地』において農民と農村杜会を客観的に見つめるものとなっているのである」(☆09)。
さて、この引用文に表現された風景はビュトー的に配慮されているのかもしれないが、浮遊する農の風景が描かれていて、無条件に惹き込まれる描写ではある。
〔引用06〕彼〔小学教師ルキュー〕は自分の言葉に酔い、一同の怒り狂った反駁を撃退した。/「お前さんたちはもう救いようのない連中(une race finie)だな。土地に対する下らない愛情が、お前さんたちを食ってしまったのだ(l’amour imbécile de la terre vous a mangés, oui !)。お前さんたちはいつまでも猫の額のような土地の奴隷になって、おかげで頭は鈍くなり、これっぽっちの畑争いで人殺しもしかねない有様だ。お前さんたちは幾百年も前から畑を女房の積りでいるが、肝心のその女房に裏切られているじゃないか。……アメリカを見たまえ。耕作する者は土地の主だ。家族とか思い出とか、我々を土地に締りつける因縁は一つもない。畑が痩せれば、もっと遠くへ移って行く。もし300里向うに、もっと肥えた畑地を発見したと聞けば、直ぐにテントを畳んで移転する。アメリカ人は、機械のおかげで、土地に命令し土地を支配している。彼らは自由で、しかもぐんぐん金を貯めていくんだ。それに引換え、お前さんたちは土地に金縛りで、貧乏に死んでしまうじゃないか!」下105頁 p.469.
〔コメント06〕けっこう解明的な小学教師ではある。けれども、19世紀後半には見えていなかった若き資本主義国アメリカの歪みについて、20世紀初頭ロシアの革命家レーニンは「二つの道」という括りで乗り越えるべき相手として展望した。すなわち、
「もし勝利をえた革命的プロレタリアートが、後進諸民族のあいだに系統的な宣伝をおこない、ソヴェト諸政府が、その駆使しうるかぎりのあらゆる手段をもって援助にのりだすならば、そのときには、発展の資本主義的段階は後進の諸民族にとっては避けられない、と考えるのはただしくない。(中略)共産主義インタナショナルは、先進諸国プロレタリアートの援助によって、後進諸国は資本主義的発展段階をすどおりしてソヴェト制度へ移行し、そして一定の発展段階をへて共産主義へ移行することができるという命題を確立し、それを理論的に基礎づけなければならない」(1920年7月26日、コミンテルン第二回大会での民族および植民地問題委員会の報告)(☆10)。
この発想は、欧米先進諸国の労働大衆であっても窮乏すればファシズムに投票する事態が生じた点で、今となっては的外れで陳腐に聞こえる。だが、とても先進地域とは思えない19世紀フランス農民の立ち位置からすれば、彼らこそ「後進の諸民族」と連帯し、農民を野良着のままで解放する道を模索するべきだ、との声が彼らの間から聞こえてきそうである。
〔引用08〕フーアン家は粘りづよい植物のように、幾世紀も前からこの土地に生い育ってきた。彼らはずっと大昔には、ローニュ・ブークバル家という、今では壊れた城館の少しばかりの石がわずかに埋もれているだけで、他に痕跡とて何もない家の農奴(serf)だったが、後になってフィリップ・ル・ベル王(フィリップ四世、位1285-1314)の治下に解放されたもののようだ。その頃から彼らは土地所有者(propriétaire)となった。当時困窮していた領主から、1アルパン〔約5100㎡〕かせいぜい2アルパンの土地を、地価の10倍もの血と汗を代償にして買ったのだった。それから長い闘争が、実に4世紀にもわたる闘争が、この財産を守り拡げるために始まり、この猛烈な情熱が父から息子へと受け継がれた。こうして幾枚かの畑が失われたり買い戻されたりし、吹けば飛ぶような所有地はしばしば危くなり、遺産に重税がかけられてまさに消えようとしたりもした。だが、この間にも牧草地や畑が少しずつ拡がっていった。あの飽くなき所有欲や頑張りが徐々に勝利を占めたのである。幾代もの人々がここに倒れ、長いあいだの人間の生命が土地を肥やした。だがついに1789年の革命が起こって、所有権を認定した時、当時のフーアン・ジョゼフ・カシミールは、昔の荘園領から4世紀の間に獲得した21アルパンの土地を持っていた。上48頁 p.30.
〔コメント08〕19世紀フランス農民社会について、バルザック『農民』から読み知ってみよう。
「マキャヴェリから多くのものを学ぶだけの力のある人にはすでに明らかであるように、人間の賢徳とは要するにけっして人を脅迫しないことであり、不言実行でもあり、ことわざにしたがって言えば、『蛇のしっぽを踏まずに』敵の退却を見おくることであり、そして自分より小さなものの自尊心を傷つけるのは、あたかも相手を殺すに等しいと考えて、慎むが上にも慎むことである。(中略)〔フランス革命期に起こった〕内乱の際にブルターニュやヴァンデで見られたように、お互いに殺し合った二つの家を和解せしめることはできるけれども、強奪したものとされたもの、中傷したものとされたものに至っては、もはや和解せしめることはできまい。互いに殺し合う前に両方から悪口を言ってもかまわないのは、古い時代の叙事詩の世界においてのみである。野蛮人と、野蛮人によく似ている農民とは、彼らの敵手にわなをかけるため以外にはけっしてものをいわない(Le sauvage, le paysan, qui tient beaucoup du sauvage, ne parlent jamais que pour tendre des pièges à leurs adversaires.)。1789年以来フランスは、人は平等なりということを是が非でも人々に信じこませようとして骨を折っている。ところで『君はずるいぞ!』と、ある人に向かっていうのは、何でもただの冗談で終わるけれども、現場をおさえ鞭で引っぱたいてそのずるいゆえんを証拠立てたり、本気ではなくただの威かしで訴え出るぞと言ったりするのは、これは相手を地位の不平等へ引きもどすことである」(☆11)。
そのほか、同時代イギリスの事例であるが、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』から読み知ってみよう。
「すでに序章で、小ブルジョワジーとそれまでの労働者の幸福とが破滅すると同時に、どのようにして小農民もまた破滅させられたかをみた。それは、それまでの工業労働と農業労働との結びつきが解体し、空き地となった耕地が大きな小作地に合併され、小農民が大農場の競争に圧倒されて耕地から追い出されたことによる。それまでのように、自分自身が土地所有者ないし借地農であるかわりに、彼らは自分たちの農場経営を手放し、作男(Ackerknechte)として大借地農や地主のもとで雇われざるをえなくなったのである」(☆12)。
中世の農奴が耕作した土地には、領主の直営地と、領主から借用した保有地の2種類があった。そのうち領主直営地で、通常週2-3日働き、これが賦役(労働地代)となり、その他さらに自己の保有地からの収穫物の一部を貢納として領主に納めた。農奴解放後もそうした強制は形を代えて残存し、多くの貧農が「作男」に転じていったが、フランスのフーアン家は「昔の荘園領から4世紀の間に獲得した21アルパンの土地を持っていた」。
〔引用07〕そこには苦痛と流血と、涙と苦しみと、また反抗することどもがあった。フランソワーズが殺され、フーアンが殺され、悪党が勝利を得、村々の残酷で臭気紛々たる虫けらどもが土地を汚し食い荒らしていた。たが、それは人力を以てはどうにもならないことではなかろうか。世界の進行には、麦を灰燼と化す霜害と、なぎ倒す降雹と、押し流す雷雨とが必要であるらしいように、血と涙も必要な事柄なのではなかろうか。星辰と太陽との厖大な仕組みの中にあって、我々人間の不幸は、どれほどの重みがあろう。慈悲の神は我々を問題にしてもいないのだ! 我々は、惨憺たる毎日の決闘をやってようやくパンを得るにすぎない。しかも、土地だけが、我々が生まれかつ死して再びそこに還る母たる土地だけが、永久不滅である。我々が罪を犯すまでに愛するこの大地、これはうかがい知るべからざる目的のために、我々人類の卑劣と悲惨とを以て、絶えずその生命を更新していくのである。/長いあいだ、このように雑駁でろくに形もなさない空想が、ジャンの頭の中を右往左往した。しかし、遠くにラッパの雷が鳴り響いた。ハゾッシュ・ル・ドウイヤン(Bazoches-le-Doyen)の消防隊が、遅ればせに駆けつけて来たのだった。ジャンは、その冴えわたる響きを耳にすると、すっくとばかり立ち上った。戦争が、軍馬と大砲と殺戮の叫喚とが、煙の中を駆けていく心地がしたのである。感動が喉を絞めつけた。ああ、なんてこった! 俺にはもう土地を耕す気力はないのだから、せめては武器を執って擁護しよう、この古いフランスの土地を!(Ah! bon sang! puisqu’il n’avait plus le cœur à la travailler, il la défendrait, la vieille terre de France !)/彼は立ち去り際に、もう一度、眼をめぐらして、いま草も生えない二つの塚から種蒔きの群が絶え間ない動作を繰りかえしているボース平原の広々とした畑を見渡した。屍骸と種子、そしてパンは大地から生まれでるのだ。下177-178頁、p.518-519.
〔コメント07〕この引用箇所は『大地』の最後尾だが、さて、古いフランスとは、これ如何に? その場合のフランスとはシャルルマーニュ以後の祖国(祖父)でなくゴール人の生地ボース平原(祖母)の意味合いが強い。「パンは大地から生まれでるのだ」から。あるいは、キリスト教的に潤色されて生きながらえてきた自然信仰の農耕社会だっただろう。ジャンが手にする武器は母なるガリアの昔を復活させるためにあるのではないだろうか。フランス近代史専攻の工藤光一は、著作『近代フランス農村世界の政治文化―噂・蜂起・祝祭』において以下のように解説している。
「フランス革命後、教会の勢力は後退したが、それによって農村民衆が宗教的実践と信仰の放棄へと向かうことはなかった。彼らが向かったのは、『異教的形態とキリスト教形態の非正統的な混合』という信仰のあり方であった。そのことを最も顕著に示すのが、『七月王政の初期までに、中世以来未曾有の隆盛に至った』守護聖人崇拝である。守護聖人崇拝においては、豊作、人間や家畜の病気平癒、旱魃や冷害などの天災の終焉・回避などが祈願され、日常の不安の現世における解決への切望が表明された。そこには呪術的要素が含まれ、聖的・超自然的な力が現実的な利益をもたらすものと信じられた。また、守護聖人に捧げられた祭りにおいては、ミサや宗教行列のような宗教的儀式ばかりでなく、ダンス会、競技会、宴会などの陽気な行事も祭りを構成する重要な要素であった」。「この宗教的矜持の念が、名望家への服従から脱却して自立的に意思決定する民衆を生み出すのに寄与したであろう。だから、蜂起の過程で表出した『主権者たる人民』という意思決定する民衆としての自己認識も、根底においては宗教的衿持に支えられたアイデンティティであったと考えられる」(☆13)。
フレイザー『金枝篇』第2巻には、以下のような伝統的民俗資料が採集されている。
「ヴォージュ山地のいくつかの村々では、五月の第一日曜日に少女たちが隊列を組んで五月を讃える歌をうたいながら家々をめぐるが、その歌の中に『五月に来るパンと粗挽き粉』という文句がある。お金をもらうと少女たちは緑の枝を扉に結ぶ。もし断られると、その家に子どもがたくさん生まれて彼らに食べさせるパンがなくなるよう願う。フランスのマイエンヌ県では、マイヨタン(Maillotins)という名前の少年たちが五月一日に祝歌(carols)をうたいながら農場から農場へと歩き回り、お金や飲み物をもらい、苗木や枝木を植えた」(☆14)。
1830年7月パリに、1846年9月ラ・サレットに、1858年2月にはルルドに、各々聖母マリアが出現して信徒に慈愛を垂れた。まさしく、ゾラの描くガリアの野良風景にマッチしたマリアなのではなかろうか。
二 ガリアの大地を生きる農民諸衆―無頼
〔引用09〕すると彼女〔グランド婆さん〕は金切り声で怒鳴りつけた。/「阿呆ども! 意見などとっくに聞かせたはずだ! 脚がたつ限り、財産をうっちゃるなどとは、トンマか意気地なしのすることよ。わしなら、たとえ短刀で斬られたって、否と言ったにちがいない。……自分のものがひと手に渡るのを見るなんて、物欲しがる子どもらのために自分から裸になるなんて、ああ、否だ! 否なこった!」しかし、フーアンは反対した。/「でも、畑仕事が出来なくなっちゃ、土地にしたところで嘆くだろうよ……」/「歎くなら歎かしとくさ! 1スティエ(un setier)だって手放すよりは、アザミの生えるのを毎朝見に行った方がましだよ!」上51頁 p.32.
〔コメント09〕「スティエ」は小麦を撒く面積の単位らしい。ところで、女とはいえ、いや女だからこそ大地に執念がある。フランスをはじめヨーロッパ各地の中世農村では「五月の女王」と称する女の春祭(農耕祭)が挙行された。現在のメーデーに余韻を残す儀礼であり、ジェームズ・フレイザー『金枝篇―呪術と宗教の研究』(第2巻)には以下の記述が読まれる。
「時には、春の植物の精霊が王の代わりに女王で表現されることがある。(中略)アイルランドの南東地方では五月祭(May Day)に、最も美しい少女をその地方の女王に選んで12ケ月間その役につかせる慣習があった。彼女は野の花の冠をつけ、宴会、踊り、粗野な競技(rustic sports)が次々と開かれ、夕方の大行列で幕を閉じた。女王はその任期中、村の若人たちの踊りやその他の娯楽の集まりの主宰者を勤めた。もし彼女が次の五月祭前に結婚すると、女王の位は失ったが、しかし次の五月祭までは後継者の選挙は行なわれなかった。〈五月の女王〉はフランスでは一般的で、イギリスでも馴染み深いものである」(☆15)。
ところで、引用文中に「粗野な競技」とあるが、元来スポーツは、その起原からしてきわめて原始的で粗暴な力をうちに秘めている。特に格闘技にみられる闘魂は、観客をも巻き込み、キッチュは場外にまで拡大する。スポーツがうちに秘めている暴力性は、様々の社会的言説、身体概念の合理化等を介することで、近代に至りたいがいは発現を抑えられるようになった。こうしてキバを抜かれたスポーツは文化にまで昇華したが、そもそもは無頼の行為だったのである。それと似た歴史を有するものに古代ギリシア・ローマの演劇(ドラーマ)がある。わけても女たちのデュオニューソス祭での演劇「バッカイ」は、子殺しも含めて動物の血潮飛び散るものであって、中世農村の五月祭などはその名残ともいえる(☆16)。
〔引用10〕彼〔フーアン〕は一冊の脂まみれの小さな本を取ってきた。それは帝政時代に田舎にふんだんにばらまかれたボナパルト党の宣伝文書の一つだった。ある行商人の荷物からたまたまここに落ちたものだ。「ジャック・ボノンム(14-15世紀頃のフランスの平民階級の総称)の不幸と勝利(Les malheurs et le triomphe de Jacques Bonhomme.)」という哀訴風の題名で、旧政権を猛烈に攻撃し、大革命前後の農民の劇的な歴史を述べたものだった。/ジャンはその本を手にとると、すぐ読み出した。その声は文章の句切などにかまわない小学校生徒の読み方のように味がなくたどたどしかった。だが、みんなは敬虔に耳を傾けた。/それは先ず自由に生きたゴール人から始まっていた。その彼らがローマ人によって奴隷におとされ、次いでフランク人に征服されて、ここに封建制度が立てられ、彼らは奴隷から農奴となった。そしてジャック・ボノンムの長い受難が始まった。それは幾世紀にもわたって搾取され、死ぬほど酷使された、大地の労働者の受難だった。都市の住民が自治体をつくり、市民権を獲得して反抗していた時にも、農民は一切を剥奪され自分自身さえ自由に出来ないで孤立していた。そして、ずっと後になってはじめて解放され、自分の金で一個の人間たるの自由をあがなったのだった。ところで、その自由の何という錯覚だったことか。土地をもつ者は、血のにじむような、破産するほかにどうしようもないような、重税に縛られ圧し潰された。所有地はしばしば怪しくなり、砂利のほかには食う物が残らないほど、大きな負担をかけられた! その時恐るべき数々の税金がはじまって、貧民を叩きつけた。誰もその正確な完全な目録など作れる者がいなかった。それほどさまざまな税金が急激にふえ、国王からも司教からも領主からも一斉に発せられた。同じ一個の肉体に喰いついた三匹の貪欲な獣だったといってよかろう。国王は免疫税と人頭税を課し、司教は十分の一税を、領主はあらゆるものに課税して、何でも金にした。もはや土地も水も火も、吸い込む空気までも、農民のものではなかった。彼は何につけても、生きるにつけ、死ぬにつけ、契約、家事、商売や娯楽につけても、しょっちゅう金を払わねばならなかった。税金は溝の雨水を自分の土地に引き込むのにも支払ったし、夏の日照りに羊の足が国道の埃を捲き上げるといっては支払った。支払いできない者は、肉体と時間とを提供して、勝手に税をとり立てたり賦役に使ったりするにまかせた。そして耕作や収穫、草刈や葡萄の剪定、城壕の浚渫や道路の改修に酷使された。さらに現物課税があった。それから領主の施設、つまり風車や窯や酒搾機などを使用する義務があって、収穫の四分の一はそちらに回った。夜番や見張りの税は監視塔のこわれてしまった後までも、金納の形で残っていた。それから宿所や徴発や糧食の権利というものがあって、国王や領主の通行の際に、付近の百姓家を掠奪し、藁布団や掛布団をとりあげ、住民をその家から追い出したものだった。もしも速かに立退かなければ、戸口や窓を破壊されても仕方がなかった。だが、今なお部落の隅々までに恨めしい思い出を残している、特に憎まれた税金は、かのおぞましい塩税(la gabelle odieuse)だった。塩の倉庫だった。家々は一定の塩を定められて、否応なしに国王からそれを購わねばならなかった。すべてこうした徴収が不正であり専横であったがために、全フランスを暴動化し、鮮血で彩ることとなった。上111-113頁 p.72-73.
〔コメント10〕「ジャック・ボノンム」とはジャックリーの乱(Jacquerie)における架空の指導者のこと。11世紀末から約200年間続いた十字軍は、中世ヨーロッパ封建社会の崩壊に積極的な役割を果たしたが、こうした崩壊・解体にはいくつかの類型が存在した。十字軍以後の14・15世紀には、黒死病(ペスト)の流行、農民一揆、農民逃亡、農村の荒廃、戦争がヨーロッパ各地で頻発したが、この危機に対する領主の対応の仕方から、荘園制度の解体には次の3類型が見られた。第1、まずイギリスでは、13世紀には貨幣地代が採用されるようになり、封建的制約が撤廃されて自営農民が成立し、近代的な農業経営がいち早く出現した。第2、次いでフランスおよびドイツ西部では、生産物地代が支配的で、一部の富裕な農民だけが解放され、中小農民の封建的義務は長く残った。第3、さらにドイツ東部では、元来、領主権が強く、かえって農民支配が強化されて賦役=労働地代が復活し、グーツヘルシャフトが成立した。その間に生じた農民一揆の代表に、イギリスで生じたワット=タイラーの乱(1381)がある。その思想的指導者ジョン=ボール(?-1381)は、「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが領主だったのか」と高唱して一揆を煽動したといわれる。別名“ケントの気違い僧”ともよばれたジョン=ボールは、「ロラーズ」(ロラード派)と称するウィクリフ(1320頃-1384)の信奉者の一派に属していた。フランスでは英仏間の百年戦争中にジャックリーの乱(1358)が生じている。またドイツでは、少し遅れて15世紀前半から同世紀末期にかけて南西一帯で一連の農民一揆、いわゆるブントシュー一揆が激化した。 “ブントシュー”とは長い革紐のついた農民靴のことだが、これが農民一揆の旗印となったのである(☆17)。
〔引用11〕農民はもはや死ぬよりほかになくなると、いつの時代にも同じような激昂を爆発させ、熊手や鎌で武装して百姓一揆を起こしたものだ。ゴールのキリスト教徒バゴード(西暦280)、十字軍時代のパストウロー(西暦1214、1251、1320)の反乱もそうだったが、ずっと後になって貴族や国王の軍隊に追い迫ったクロッカン(西暦1594-5)やニュ・ピエ(西暦1639)の反乱もそうだった(Ils ont été les Bagaudes chrétiens de la Gaule, les Pastoureaux du temps des Croisades, plus tard les Croquants et les Nupieds courant sus aux nobles et aux soldais du roi.)。400年の後になって、ジャックの苦痛と憤激の叫喚は、再び荒廃した原野をつらぬいて鳴りわたり、城館の奥におさまった支配者等を戦慄させた。彼等は数をたのんで今一度憤ったのだろうか、ついに享楽の分け前を要求したのであったろうか? かくて古くからの幻影はかけ巡った。ぼろを纏った裸にちかい巨大な悪鬼の群が、残忍と欲情に気が狂って、かつて彼らが破壊され殲滅されたように、こんどは相手を破壊し殲滅し、相手の婦女子をけがしたのである! 上117頁 p.76.
〔コメント11〕ゴール時代の古代フランスについて、春岱寮資料室編著『フランス料理の背景としてのフランス農村の変遷』には以下のように記されている。
「古代フランスはゴール人の社会であった。アルプスの峰の彼方には、ローア人の社会があり、そこには古代文明が咲き誇っていたにも拘らず、ゴール人の社会は誠に野蛮な生活しかなかった。その頃、東欧からラインを渡ってゴールに漂着した人々(キルト・キ厶リス・ベルジュ等の民族)が遊牧の民であったことは言うまでもない。そして彼らが穀物を殆ど食べず、肉食していたことはシーザーの「ゴール戦記」に誌されているとおりである。今日のフランス人と言えば豪奢な人種のように思うが、彼らの祖先が丈高く力強きをもってローマにまで聞こえたのは鳥獣魚類を得るための狩猟漁労の生活に従事していたからだとシーザーは正しく考えている」(☆18)。
それから、カエサル(シーザー)の同じ作『ガリア戦記』には以下の関連記事も読まれる。
「ハエドゥイー族のディウィキアクスが人々に代って話した。それによると全ガリアには二つの党派があり、その一方の首位はハエドゥイー族が、他はアルウェルニー族が占めている、長年のあいだ互に激しく覇を争った、ゲルマーニー人がアルウェルニー族やセークァニー族に雇われて迎えられることになった、まずゲルマーニー人約一万五千がレーヌス河を渡った、兇暴野蛮な人々がガリアの土地と文化と資源を愛するようになってからは更に多くのものが渡って来て、現在ではガリアにいるものが十二万の数に上る、ハエドゥイー族とその被護民は再度これと武力に訴えて戦ったが、敗北して散々な目にあい、貴族も元老も騎兵もみんな失ってしまった、かつてはガリアで武勇のほまれもあり、ローマの好意や友情を得て最も強かったものが戦争と災難にうちひしがれて、部族の高貴な人々をセークァニー族に人質として渡さねばならなくなり、誓って人質の返還を求めたりローマ人に助けを求めたりしないこと、ゲルマーニー人の命令と支配に逆らわないことになった」(☆19)。
ガリア人は、ローマに征服されるに先立ってゲルマン人に圧倒されていたことがうかがわれる。
〔引用12〕フーアン爺さんも言った。/「ほんとにそうだ。わしらの若い頃は、とにかくよかった。このわしでも、シャルトルで一度ナポレオンを見たことがある。20歳の頃だった……当時は自由だったし、土地もあって、大変よかった。いつだったか、うちの親爺が、銅貨を蒔けば金貨を収穫できると言ったのを、覚えているよ……それからルイ18世やシャルル10世やルイ・フィリップの世の中が来た。だが相変わらずうまくいって、食べる物にこと欠かず、何も不平を言うことはなかった。……そうしてとうとう今のナポレオン3世になったわけだが、昨年までのところじゃ、またあまり悪くもなかった……だが……」/後は言うまいと思った、しかし言葉がついすべって出た。/「だが、自由だとか平等だとか言ったところで、ローズやわしに何か為になったかね。……わしらは50年もあくせくと働いたが、そのために太ったとでもいうのかね?」上119-120頁 p.78.
〔コメント12〕19世紀フランス農民のおかれた隷属的境遇の描写だが、同時代のイギリス農民はどうか。エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』にはこう記されている。
「それまではヨーマンYeomenと呼ばれる多数の小土地所有者がおり、近所に住む耕作職工と同様に、静かに、頭をつかうこともなく、ほそぼそと暮らしていた。彼らは親父と同じ、まったく旧式で粗雑なやり方でわずかな土地を耕し(Sie bebauten ihre Fleckchen Land ganz in der alten nachlässigen Weise ihrer Väter)、幾代にもわたって安定した生活を送ってきた習慣の奴隷につきもののがんこさで、どのような改革にも抵抗した。彼らの中には小規模な小作人もいたが、それとて今日の意味での小作人ではなく、契約による永代小作権か旧来の慣習かによって、父祖伝来の小さな土地を受け継ぎ、あたかも自分たちのものであるかのように、そこにどっしりと腰をおろしている人々だった。工業労働者が農業から身を引いたため、いまや土地がたくさん余っていた。そこへ、50モルゲン、100モルゲン、200モルゲン、さらにはそれ以上の土地をまとめて小作する、大借地農という新しい階級が住み着いた。彼らは任意小作人tenants-at-will、つまり1年ごとに小作契約を解約されうる小作人だったが、農業改革と大規模経営により、土地の収益を高める術を心得ていた(die nun durch besseren Ackerbau und großartigere Wirtschaft den Ertrag der Grundstücke zu steigern wußten.)」(☆20)。
エンゲルスの記述を踏まえると、いつまでも小農や小作農が主役だったフランスと、独立自営農民が出現してきたイギリスの相違ともみえる。だが、パリ・コミューンを指示するジュール・ゲードと交友のあったゾラにすれば、そんな相違は五十歩百歩にすぎない。「わしらは50年もあくせくと働いたが、そのために太ったとでもいうのかね?」と嘆く「わしら」とは、いったい誰のことか。「わしら」とともにあった民衆指導者はバブーフやブランキ、プルードンでないのか(☆21)。
〔引用13〕ウールドカンは自分の冗談に大口あいて笑ったが、彼はそれを結論だと思いなしていた。すると、ロシュフォンテーヌ氏は勢いこんで言った。/「では、労働者は餓死してもいいと思うのかね」/「とんでもない、あたしは百姓を生かしたいのですよ」/(中略)「いやはや、銘々が他を顧みない心でしてね。……パンを高く売らなけりや、フランスの土地は干上ってしまうし、パンを高く売りゃ産業が店じまいをするし(Si je ne vous vends pas le pain cher, c’est la terre en France qui fait faillite,)。あんた方のほうの手間があがれば、道具類や衣類やそのほかあたしの方で入用な百般の生産品が値上りになる……ああ、途轍もない泥沼でさ。しまいにゃ出るも退くも出来なくなるでしょうよ」/この二人は、地主と工場主、保護貿易主義者と自由貿易主義者とは、互いにまじまじと顔を見合った。片方は陰険な田舎者の冷笑を浮べ、他方は敵意をむき出しにした大胆さで、これこそ近代的な戦争状態で、生存競争の地盤に立つ現代の経済闘争だ(C’était Tétat de guerre moderne, la bataille économique actuelle, sur le terrain de la lutte pour la vie.)。中262-263頁 p.366-367.
〔コメント13〕フランス革命のジャコバン独裁はこの矛盾の中に盛衰した。ジャコバン派は、サン-キュロットたちの掲げるパンの要求に応じるため、生活物資(穀物)の最高価格令を発し、また農民、ことに貧農を味方につけるため彼らに土地を無償で与えた。こうしてジャコバン派は、1793年6月から翌94年7月まで独裁的な統治を実現し得た。だがそれでもジャコバン派は、サン-キュロットが求める独自の要求、例えば経済的な平等には応じることができず、ついにサン-キュロットとの同盟を断ち切った。
なお、1851年に生じた農民蜂起について、工藤光一は『近代フランス農村世界の政治文化―噂・蜂起・祝祭』において以下のように解説している。
「すでに蜂起民が村庁を奪い、村レベルで山岳派の権力奪取が実現していたこの局面では、さらなる武装行動が村レベルでの変革の期待を農村結社員のうちに再び高揚させる可能性は小さかった。ブリニョル(地中海沿いのワイン産地)よりもはるかに遠方の県都まで赴く不安や予想される軍隊との衝突への恐怖が、変革への期待を凌駕した。先に見たル・ヴァルの結社指導者アミエルの「合法主義」の立場にしても、おそらくそれは政治的信念以上に、村民を危険に巻き込みたくないという心情に基づくものではなかったか。〈政治組織〉と〈村〉の狭間で揺れ動いた彼は、最後には同じ村の仲間の安全を優先させ、一旦は蜂起軍へと送り出した村民を呼び戻す。ブリニョル周辺の多くの農村結社員たちも〈政治組織〉の人間として蜂起軍の隊列に加わることよりも、村に留まることや仲間と共に自分の村に引き返すことを、つまりは〈村〉の人間として行動することを選択したのである。(中略)ブリニョル地域の農村結社員たちは、ブリニョルの住民と連携した〈政治組織〉と自己の〈村〉との間で揺れ動くが、多くの農村結社員においては、〈村〉がなお準拠集団として彼らの思考と行動を強く規定している。ブリニョルの結社指導部のヘゲモニーは、この〈村〉の論理に取って代わるほどに強力ではなかった。多くの農村結社員は、この論理に基づいてブリニョルからの「命令」の効果や危険性を独自に判断し、場合によっては、「命令」に応じないこともあったのである」(☆22)。
フランス革命以前から土地に生活基盤をおいてきた農民の慣習的共同的ライフスタイルは、近代的な政治利害と完全には一致できなかったのである。
(下)に続く。
注
01 拙稿「Cultus―儀礼と農耕の社会思想史」、拙著『歴史知とフェティシズム―信仰・歴史・民俗』理想社、2000年、第1章、参照。
02 訳者あとがき、エミール・ゾラ、田辺貞之助/河内清訳『大地』(下)岩波文庫、2005(初1953)年、179-180頁。
03 James G. Frazer, The Golden Bough―A Study in Magic and Religion, Third Edition, part V, vol. ii, p.48-49. ジェームズ・フレイザー、神成利男訳/石塚正英監修『金枝篇―呪術と宗教の研究』第7巻、国書刊行会、2017年、45頁。
04 フランソワ・ケネー、平田清明/井上泰夫訳『ケネー経済表』岩波文庫、2013年、89頁、90頁、102頁。
05 Justus von Liebig, Chemische Briefe, Vierte Auflage, Erster Band, Leipzig und Heidelberg 1859, S.125-126. ユストゥス・リービッヒ、柏木肇訳『化学の農業および生理学への応用』(『化学通信2』)岩波文庫、1952年、21頁。
06 ibid., S.157. 同上、55頁。
07 ibid., S.219. 同上、119頁。
08 ibid., S.220. 同上、120頁。
09 有富智世「エミール・ゾラの『壊滅』について―『大地』との関連で」、『フランス語フランス文学研究』第73号、1998年、14-15頁。
10 レーニン、川内唯彦訳「1920年7月26日、コミンテルン第二回大会での民族および植民地問題委員会の報告」、『帝国主義と民族・植民地問題』大月国民文庫、1979年、200-201頁。
11 Honoré de Balzac, Les Paysans, Paris 1876, p.108-109. オノレ・ド・バルザック、水野亮訳『農民』筑摩書房、1973年、66頁。
12 Friedrich Engels, Die Lage der arbeitenden Klasse in England. Nach eigner Anschauung und authentischen Quellen, Berlin, 1962, p.473. フリードリヒ・エンゲルス、一条和生/杉山忠平訳『イギリスにおける労働者階級の状態(下)』岩波文庫、1990年、183頁。
13 工藤光一『近代フランス農村世界の政治文化―噂・蜂起・祝祭』岩波書店、2015年、146頁、149頁。
14 J. G. Frazer, The Golden Bough, part I, the Magic Art, vol. ii, p.63. フレイザー『金 枝篇』第2巻、国書刊行会、2004年、51頁。
15 J. G. Frazer, The Golden Bough, part I, vol. ii, p.87. フレイザー『金枝篇』第2巻、66頁。
16 石塚正英「外来語〔スポーツ〕の多義性―社会的な観点に即して考える」、同『ソキエタスの方へ―政党の廃絶とアソシアシオンの展望』社会評論社、1999年、231頁以降、参照。
17 石塚正英『情報化時代の歴史学』北樹出版、1999年、95頁以降、参照。
18 春岱寮資料室編著『フランス料理の背景としてのフランス農村の変遷』春岱寮美食会蔵版、1940年、1-2頁。
19 ユリウス・カエサル、近山金次訳『ガリア戦記』第1巻・第31節、岩波文庫、1989年、50-51頁。
20 Friedrich Engels, ibid., p.240-241. エンゲルス、前掲書、32-33頁。
21 石塚正英『近世ヨーロッパの民衆指導者』社会評論社、2011年、参照。
22 工藤光一、前掲書、132-134頁。
(いしづかまさひで)
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