続 身体の変容3 脳に電極を埋め込む、または脳とAI 

高橋一行

 
   髪の毛よりも細い電極数千本を脳に埋め込む。それらの電極で脳波を記録し、それを読み込むことができる。これらの情報はスマートフォンで直ちに活用される。そうすると例えば、私たちはコーヒーが飲みたいと思うだけで、コーヒーを淹れてもらうことができる。また今度は逆方向の流れも可能で、脳に刺激を与えることもできる。私たちは、眠りたいと思えばすぐに眠りに付け、また実際に食事をしないでも、満腹感を感じることができる。こういうことが近い内にできるという発表がなされたのは2019年である。
   これは紺野大地・池谷裕二『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』(2021)にある話で、この研究はE. マスクが発表したもので、ニューラリンクと呼ばれる。
   すでに1960年代から、脳の情報を読み取るブレイン・マシン・インターフェース(BMI)の研究が進められている。二匹のネズミの脳を、機械を介在させて繋ぐという試みがある(p.36f.)。人間に対して行われた実験でも、あらかじめ用意された50個の文章をてんかん患者に読んでもらい、その間の脳波を記録する。それを繰り返していくと、人工知能(AI)が学習をして、この文章が音読されるときには、このような脳波が流れるということが分かってくる。すると最終的には、文章が音読されなくても、患者が頭の中でそれを思い浮かべるだけで、AIはその文章を予測できるようになったというのである(p.68)。紺野・池谷は、このような例を挙げた上で、先のマスクの衝撃的な発表を紹介し、その可能性について詳しく論じるのである。
   このニューラリンクの研究は、この数十年間に着々と進められてきた研究の成果の上で、ついにそれまでの水準を飛躍的に上回る手法が開発されて、いよいよ実現が可能だとされたのである。そのひとつは、脳に埋め込む電極が桁違いに多くなったということと、その埋め込み手術をロボットが行えるようになったということである。
   その結果、実際に2021年には、猿が頭の中で念じるだけで卓球ゲームをすることに成功したと報じられている。これは猿が、ゲームのカーソルを上に動かそうとするのか、下に動かそうとするのかで、脳の活動が異なることを利用して、その脳の活動を読み取って、あとはその情報をAIに繋いで、実際に卓球ゲームを行うのである。
   さて上記のように、私たちはすでに比較的単純な脳の働きを読み取ることに成功しているのだが、ここからマスクは、それを積極的に人間に応用するために、莫大な研究資金を投入することを宣言している。私たちはいよいよこういう時代に生きているのである。以下さらに、これらの研究の問題点を見ていく。
   まず脳の活動を読み取る際に、頭蓋骨に穴を開けて脳波計や電極を埋め込むというやり方を侵襲的手法と言う。それに対して、非侵襲的手法とは、身体を傷付けず、頭蓋骨の上に設置した電極から微弱の電気を流して脳を読み取るものである。当然こちらの方が脳を傷付ける恐れは少なくなり、安心感はあるが、しかし脳の情報を読み取る精度もまた低くなるというデメリットがある。
   紺野・池谷は、この脳を読み取る際の侵襲的なやり方には、倫理的な問題があるのではないかと言う。しかしマスクは、そこは無頓着で、未来は誰もが脳に電極を埋め込むようになるだろうと考えている。そういう大きな問題を課題としつつも、彼らは、脳とAIの加速する研究の進展の結果としての、両者の融合に期待を寄せている(注1)。
   しかしここで脳の動きを読み取るというのはどういう事態を指すのか。読み取るには読み取る機械が要る。それはAIだろう。ただのビデオテープではないだろう。そういう機能を持ったAIが、どの程度すでに開発されているのか。単純なものなら、上述のようにすでに開発されているが、複雑な意識を読み取ることは本当に可能なのか。さらにこのあとで詳述するが、脳の意識を読み取ったら、今度はそれを機械に移植するということが必要だと思われるが、そのためには、それが可能なAIが用意されていなければならない。つまり人間の意識を正確に読み取り、移植する機械をそもそも造ることができるのかということが問題である。そこはこの本でも、十分に説明されていない。つまり現実にできるのは極めて限定的なものであって、それは脳の活動のごく一部だけを読み取るものに過ぎないのである。脳の膨大な活動の全域をAIに読み込ませることはそもそも可能なのか。紺野・池谷にしろ、マスクにしろ、そこが楽観的過ぎるという気がする。
   このことについて、紺野・池谷は、まだまだ道のりは遠いし、現時点では妄想になってしまうがと前置きをして、いずれは自分の脳をコンピューター上に再現するという話をする。つまり脳内のニューロンのネッとワークを全体としてシミュレートし、それをコンピューター上に示したいと考えている。しかし脳内には数百億個の神経細胞があり、それらが平均して1万ものシナプスを持っている。これらのネットワークをすべて再現することは、現状の半導体では不可能であると書いている(p.234)。これは正確な認識である。これができないのに、そもそも脳の意識を機械に正確に移植できるのかと私は思う。しかし紺野・池谷は、半導体を二次元ではなく、三次元に積み上げれば、脳内のネットワークを再現することができるかもしれず、そもそもこれは原理的には可能な話なのだと考えている。
   さらに話は一気に飛んでしまう。
   人間の脳を改造することが、この本で主張される最終目的である。紺野・池谷は、人間の脳がAIを超えるという言い方をする(p.150)。これは話が飛躍しているし、そもそも話が転倒していると私は思う。AIの能力が人間の脳を超えるかどうかというのがシンギュラリティの問題ではなかったか。しかし部分的には、すでにAIは人間の能力を抜いている。そのことが前提で、先の通り、人間の脳の中に電極を通して、人間の意識を機械に移植した上で、今度はAIからの刺激を脳に与えることができるという話に持っていく。
   ここに紺野・池谷の楽観的な見通しが良く出ている。つまり人間がうまくAIを使いこなそうという話ではなく、また世間でしばしば語られるように、人間がAIに支配されてしまうのではないかという話でもなく、AIを使って、人間の脳の能力そのものがもっと高まるという話である。
   もちろんすでに私たちは、眼鏡を掛けて視力を上げ、補聴器を使って、聴力を維持している。同じように、頭の中に植え込まれた電極とAIが繋がって、人間の脳の能力が高まるということは、原理的にあり得るだろう。しかしそれはどこまで必要なことなのか。病気の治療という話ならば、その必要性は分かるが、超人を造り出したいとするなら、その欲望はどこから来るのか。
   まずは機械に脳の意識を移植するという話が、つまりそれが可能かどうかということがもっと徹底して語られなければならない。そこからさらに、機械から人間の脳に逆向きに移植が行われるというのは、かなり次元が違う話で、それができるとしても、遠い未来の話である。
   しかし彼らが語りたいのは、こちらの方なのである。それで急いで議論を先に進めてしまったのではないか。紺野も池谷も、そしてマスクも、楽観に満ち溢れている。
   こういったことが考えられるようになった背景には、AIの著しい発展がある。脳研究も著しく展開されているが、それをはるかに上回る進展がAI研究に見られるということがある。つまり脳研究とAIの研究がともに進展して結び付く際に、特に後者の研究の進展が著しいということが前提で、その成果を脳研究に活かしたいという発想が出てきている。
   こういう言い方が可能である。AIは発展して、今や人間がやることは何でも可能になったという感覚がある。人間以上にAIは何でもやれるのである。しかし人間の脳の活動のすべてを、AIを使って再現することはまだできない。要するに、人間の脳の働き方とは別の原理でAIは動いている。両者はごく一部の限られた範囲内でしか繋がっていない。つまり脳の意識はまだごく一部しか機械に繋がっていない。
   例えば、先に書いたように、コーヒーを飲みたいと思う。そう思ったとき、脳内の電波が動き、それが読み取られて、あとはAIがコーヒーを淹れる。その程度なら可能なのかもしれない。しかし私はいつもならミルクを入れるのに、今日は入れたくないと思うかもしれない。またいつもはモカを飲むのだが、今日の気分ではキリマンジャロが飲みたいと思うかもしれない。そこまで私の意識は読み取られるのか。
   ここで言語という問題が出てくる。猿やマウスと異なって、人間は言語を使う。ここが問題である。
   つまり、今日は酸味のあるコーヒーを飲みたいと思う。ここでAIは、「酸味のある」という感覚を理解するだろうか。恐らく機械はこういう感覚を理解しないが、しかし今までの私の行動パターンをすべて入力して分析すれば、今日私が飲みたいのはキリマンジャロであるという結論をAIは出すだろう。
   しかし人間は単に嗜好の問題だけでなく、生活のすべての領域で言語を発達させ、語彙を増やし、想像力を働かせて、言語の巨大な空間を創り上げてきた。それが文化である。今日これから仕事をする前に、複雑な味と香りがあって、余韻のあるコーヒーを飲み、心を豊かにし、気分を盛り上げたい。そういう私の、時間を掛けて練り上げられてきた嗜好と生活様式に対する気持ちをAIは読み取るのか。
   さらに例えば、デカルトとスピノザの違いは何かというようなことを頭で考えたときに、それをAIは読み取ることが可能なのか。私がそういう文章をパソコンのワード機能を使って書けば、あとはその意味が読み取られて、Chat GPTがそれに対して詳細に答えてくれるということになる。しかしそういう問いを私が頭の中で念じただけで、AIは読み取れるのか。
   ここであらためて脳とAIの関係が問われるべきである。
   先に、AI研究は脳研究を上回るほどに進展していると書いたが、その際に、AIは人間の脳に似せて造られているのではないということが重要である。元々は多くのアイデアをAIは人間の脳から借りてきたのだが、脳で働いている仕組みをそのまま機械に持って来てもうまく行かなかったのである。それでAIは、人間の脳とは別の仕組みで、独自に発展してきたのである。またそこで使われる言語も、自然言語をベースにするのでもなく、さらにそれは身体性も持たずに、独自の原理で進展した。それが大規模言語モデル(LLM)で、その説明は、今や夥しく出ている解説本に譲ることにして(注2)、ここで指摘したいのは、その研究の進展があって、今回テーマとなっている脳とAIの接続が行われたのである。だから本当に両者は接続されるのかということは問われねばならない。
   またその際に、AIが意識を持つのかどうかということについても、いろいろな議論がある。脳とAIの違いを説明し、機械は意識を持たないという結論を出しているものもある(注3)。しかし私は、機械が人間の脳の意識を読み取ることができるのであれば、それはその限りで機械にも意識があるとして良いだろうと思う。ここは本稿の最後にもう一度議論されることになる。またこの数年の間に、脳とAIの関係を示す著作はいくつも出ている(注4)。
 
   ジジェクはその著書『接続された脳とヘーゲル:シンギュラリティにおける主体性の行方』(原文2020=訳2026)の中で次の様に言っている(注5)。
   まず、先のマスクの研究が紹介される。脳に差し込まれた電極から、脳の動きを読み取るという話である。またそこで私は、コーヒーを飲む話をしたが、これは紺野・池谷にあった話ではなく、ジジェクが挙げているものである。さて読み取られた脳内の情報は、AIに伝えられ、そこで情報が整理されるはずだが、先の紺野・池谷と同じく、そこのところはほとんど説明がない。すでに十分AIが発達しているということが前提になっているはずだが、その説明もない。
   ジジェクが書きたいのは、こうしてある個人の脳の意識が伝えられるということは、他の人の意識もまた伝えられるということを意味し、すると今度は脳と脳とが接続できるという話になる。ここにジジェクは着目する。「この直接的コミュニケーションには二段階がある。まず脳がデジタル・マシンに接続されると、考えるだけで物事が現実に起こるようになる。・・・次いで、脳が別の脳に接続され、それによって私の思考を別の個人が直接共有できる。・・・ここで一気にショートカットが起こって、・・・あなたの脳 → 私の脳へと移行するのである」(p.49f.)。
   ジジェク自身は、この話はAIの話ではないと書いている。「本書では、制約により、AIの話題は取り挙げない。AIと接続された脳は明らかに関連しているが、両者は明確に区別される。AIは私たち人間を超える可能性があるが、私たちを共有された経験の空間に引きずり込むことはない。つまりAIは、私たちの惨めな脳がこれまで通りに機能するがままにするのだ」(p.23 )。つまりここでも、読み取られた脳の情報を受け止める機械の性能については、問われていない。そこのところは端折って、いきなり私の脳と他者の脳は結び付けられるという具合に、話が先に進む。
   繰り返すが、私の脳の情報が電極を通じて読み取られ、機械に伝達される。その機械は、脳の情報を読み取る能力を持っていなければならない。それはAIなのである。一方で他人の脳においてもまた同じことが行われる。つまりふたりの脳はこのAIを通じて結び付けられるのだが、そういう風にジジェクは考えていない。
   ジジェクがこのように考えるのは、そもそもマスクがそう考えているからである。私の脳と環境との複雑な相互作用が、脳の中に複雑な意味のある経験を生み出す。それは脳の中に記録されている。そのため私の脳における神経細胞のプロセスを再現することによって、共有しようとする別の主体の内に、同じ経験を生成することは可能であるとジジェクは書く(p.55)。するとそこに、私の脳を読み取り、それを再現し、他者の脳の中にそれを生成させる機械、つまりAIが必要なことが省略されているのである。
   ジジェクが急いで話を展開するのには訳がある。言いたいのはその先のことだからだ。つまりすべての人の脳を繋ぐことが可能だとして、しかしそこのところで、それで人間の可能性が飛躍的に進展したという訳にはいかないということを示さねばならない。つまりこの話を取り挙げたジジェクは、さすがに諸手を挙げて科学の進展を歓迎するという訳にはいかないのである。
   私はここでジジェクの言いたいことに賛成し、マスクたち脳研究者の科学万能論を批判したい。ただその際に、議論の中にAIを介在させた方がうまく説明できるということなのである。
   それで以下、ジジェクの議論の中には出てこないAIを補って、さらに話を進めたい。
   まずAIは脳の意識の流れを読み取ることができる。先に書いたように、コーヒーが飲みたいと思えば、コーヒーが淹れられる。次いで私の脳は他者の脳に直接接続され、それによって私の思考を別の個人が直接共有できる(p.49f.)。これを私はコーヒーを飲みたいという私の思考をAIが読み取り、さらにまたそのAIを介在して、私の脳と他者の脳が繋がると考える。問題はその先である。
   ここでジジェクはマスクを参照しつつ、次のように説明する。それは私の思考は言語を通じて伝えられるのではないということである。私たちは通常は言語を通じて思考を伝達するのだが、ここでは思考を一旦言語化する必要はなく、もっとストレートに伝えられるのだとしている。
   しかしそれはマスクが、思考は言語に拠らずに、それとは無関係に心の中に存在していると考えているためである。その思考を、言語を介さずに直接他者とその脳を通じて繋げれば、その豊かさと繊細さをそのまま伝えられるのだとしている(p.56f.)。
   しかしさすがにその考え方は、ジジェクによって批判される。ここはジジェク的に逆説を以って語られるのだが、「言語はまさしくそのぎこちなさと単純化によって、私たちの思考の捉えどころのない豊かさを生み出しているのだとしたらどうだろうか」とジジェクは問い掛ける(同)。そして「思考の真の内容は言語的な表現を通じてのみ現実化する」とも言う。「私たちは言語で思考する」。「鍵を握っているのは言語である」ということになる(p.57)。
   するとここでジジェクはマスクを修正して、ニューラルリンクは言語的な素材を記録すると考えるのである(p.58)。
   ジジェクはさらにヘーゲルを引き合いに出して、人間の精神は、有限の身体に根差し、それは人間の文化の中に実在すると言う。そして言語がその媒介であると書く(p.88)。
   そしてこの身体と言語の議論から、さらにラカンを参照しつつ、無意識の問題を論じ始める。ラカンにとって、根源的な選択は無意識的なものである(p.141)(注6)。
   この無意識は、存在の次元にも非存在の次元にも属さない。それはバーチャルな場に属している。そして無意識は、転移の中で現勢化される。と言うより、無意識が現勢化されるような現実のことを転移と言う(p.145)。そうするとここに根本的な問題が生じる。つまりニューラルリンクは、この無意識を捕捉できるのか。結果に先行せず、結果によって遡及的に生起するような原因としての無意識、というような言い方もジジェクはしている(p.147f.)。そういうバーチャルなものをどうやってニューラルリンクは捕捉するのだろうか。
   この辺りの詳細な議論は、ぜひジジェクの本を直接読んでもらうことにして、結論を書けば、この「接続された脳」は、結局は無意識を無視することになる(p.216f.)。ここでジジェクは次のように話を展開する。
   つまり私たちの具体的な発話や行動についてのデジタルな制御や記録と、人間の思考を直接読み取るニューラルリンクとの間にはギャップがあり、私たちはこの間で分裂している。そしてこのふたつのレベルによって暗示されるバーチャルな領域が無意識である。このふたつのレベル、つまり外部データで捉えられる側面と自己意識の内的な側面とが合致しないのは、このふたつのレベルの間に無意識があり、そのことが把握されていないからである。そしてこの無意識が根本であることがあらためて問われねばならないのである(p.219ff.)。
   このことは次の様に考えると、そう難しい話をしている訳ではないということが分かる。つまりもし人間に無意識がないとすると、私たちは内心の本音というものがあるとして、それと外に現れた行動様式が一致するということになる。言い換えれば、私たちに無意識がなければ、ニューラルリンクは私たちの存在すべてを正確に捉えることができるだろう。しかし実際の人間はそういう存在ではない。私たちはしばしば現実と合致しない構築された自分のイメージを持っている。そして自分自身に纏わる真実を覆い隠す。私たちは自分の本心を隠すために仮面を付ける。しかしこの仮面を被るという行為そのものが、仮面の下にあると仮定されるもの以上に真実なのである。
   ジジェクは長々と無意識の話をする。接続された脳がこの本のテーマだが、接続された脳には無意識が存在する余地がない。無意識が人間の根本であると、ジジェクはラカンに従って考えるから、結論はすぐに出てしまう。つまり接続された脳は成立しない。
   そもそも言語と無意識を持たない猿やマウスを使った実験で成功したからと言って、人間において同じことが成り立つ訳ではない。人間はもっとどろどろとした存在で、無意識に突き動かされているのあって、脳研究者はこの無意識をきちんと扱えるのかということが疑問なのである。
   するとこの本のテーマは、本当は接続された脳ではなく、私たちにとって無意識が根本だということなのではないか。接続された脳を話の枕に持って来て、ジジェクはラカンの主張を繰り返し説明する。
   例えば、ふたりの主体があり、それぞれの脳が接続されているときに、そのふたりの間に性的な駆け引きが成り立つのか。私はあなたとセックスがしたいのだが、そのために映画に誘ったり、食事に誘ったりと、回りくどい仕方であなたを誘い出す。ところが脳が接続されていれば、互いに相手の意図を直接経験できるのだから、そんなことは不要になり、直ちに私は、あなたが私とセックスをする気がないことを悟ってしまう(p.157f.)。そういう話だ。接続された脳の世界は何と味気ないことか。しかも現実はさらに厄介で、セックスをしたいと思う気持ちに意識と無意識が絡んでいる。そういう複雑な世界に私たちは住んでいるのであって、ニューラルリンクはそのあたりの微妙な機微を単純化してしまう。
   何度も書くが、ニューラルリンクにおいて、私の脳の働きを捉え、それを他者の脳に繋ぐ機械は、それ自体知能を持たなければならず、それはAIであるべきだと考える点で、私の説明の仕方はジジェクのそれと異なるが、しかしこの結論部については、私はジジェクに完全に同意する。
 
   ここで再び、先の紺野・池谷の議論に話を戻したい。渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』(2017)は、人間の意識を機械に移植するのは、未来には可能になるのだろうが、現時点では「我々人類にとってはるか彼方の夢だ。意識を宿す機械の目途は付いていない。そもそも意識の原理がまるで分っていない」(p.i)と書いている。これは2017年の本で、その後この数年で状況が劇的に変わったという訳ではなさそうである。つまりこの本で、先の紺野・池谷の楽観を正したいと思う。
   渡辺は、「まえがき」で上のように書いた後、その本の最終章で、私たち人間の意識を機械に移植する際の問題点と困難さをていねいに説明する。
   順番から言えば、意識の機械への移植に先立って、脳と機械の意識の接続が必要で、そのための必要な技術的要素として、第一に、脳に繋ぐに値する機械の実現を挙げる。また第二に、機械と脳を結ぶBMIが必要だと言う。ここまでは紺野・池谷の説明を使って、先に書いた通りである。そしてこのふたつが可能になって、その上でやっと、意識の機械への移植が可能になる。この三つを順に説明していく。
   まず脳に繋ぐに値する機械とは、意識を持った機械を造るということで、これは十分な精度で脳を模した機械を造れば良く、それは原理的には可能だろうと渡辺は言う。ノイマン型のコンピューターで、生体ニューロンに近付けた人工のニューロンを使う。その際に、生体ニューロンの機構のすべてを人工ニューロン上に再現する必要はなく、最低限の能力を持つもので人工神経回路網を構成しても、意識が宿ることが可能であるとしている。つまり人間の脳の機能をすべて持つ人工脳を造ることは不可能なのだが、どこまでの機能があれば、機械が意識を持ったと言えるのかということを常に問うことが必要で、そのことによって、差し当って脳に繋がり得る機械を造れるのではないかと言うのである。
   第二にBMIについて言えば、これは先に書いたように、侵襲型でなければ、十分な精度を得られないのだが、しかしそれでは脳を傷付ける恐れがある。現在マウスを使った実験が進められていて、その研究が詳細に本の中では語られるのだが、ここでも結論として、原理的には十分実現が可能だが、まだまだ困難が多いという言い方をしておく。
   さて未来において、意識の宿る機械が成立し、人間の意識に接続できたとする。次の問題は、人間の意識を機械へと移植するには何が必要なのかということである。つまり単に接続する段階と、移植する段階とではずいぶんとレベルが異なるということをまず押さえておく必要がある。そして移植において重要なのは、人の記憶を移植できるのかということである。この記憶の転写が可能かという問題が最大の問題である。
   ここで記憶というのが曲者である。それは現在の脳の働きなのか。もちろん動物でも、どこに餌があったのかという、過去の記憶を正確に持っている。それは脳の中に何か物質として沈殿しているのではなく、新たに餌を探すという行為の中で、過去の記憶が思い出されるはずである。その脳の動きを読み取ることが可能なのか。
   さらに厄介なのは、人間の場合は、この記憶に言語が絡むということである。先に50の文章を読んで、それぞれの脳波の動きが異なっているという話をした。それは現在形で、その文章の意味するところと、脳波の動きが連動するということである。
   しかし過去のある時点で文章を読み、それが記憶され、ある時点でその文章の意味が思い出されたときに、どう脳は動くのか。
   ここで渡辺は、脳と機械が接続されたあとでなされた行動や会話についての記憶であれば、その記憶を脳と機械とで共有することは可能かもしれないと言っている。しかし機械に接続される前の人間の脳の中にある記憶を機械に移すことは可能なのだろうか。その場合、過去を探っている人間の脳の動きを機械が読み取れば良いということになるのだが、それが可能かということである。渡辺は未来においては、それも可能であるとしているが、しかしこの本の力点は、現時点では、それはかなり困難であるということにあるように思える。とりわけ、乳幼児期の記憶を探ることがAIにできるのか。
 
   ここから話をジジェクに戻してみる。
   まず過去の記憶とは、現在の時点で、過去を探ろうとする作業によって、事後的に創られるものである。ジジェクにとって、過去とは遡及的に創られるものである。それはしかし、現在の脳の働きによるものであるのなら、それを読み取って、機械に移植することも可能なのか。少なくとも渡辺はそう考えていた。
   第二に、無意識とは、乳幼児期に始まる過去の記憶の蓄積の中で創り出され、それは抑圧されていて、容易に再構成できないもののことを言うのではないか。
   しかしそれもまた脳の働きであり、現在の私たちに影響を及ぼしている。ただそれは間接的な働きであって、無意識の動きが直接脳波に現れるものではない。しかし間接的なものであれ、何かしら変化があるのなら、その影響を読み取ることが、これも原理的に可能なはずで、機械に移植できるということになる。つまり記憶が移植可能なら、意識下に沈んだ記憶である無意識も、それが現在の脳に何かしら動き掛けているものであって、その限りで機械に移植できることになる。
   ジジェクは無意識を読み取ることはできないということを前提に、議論をしている。しかし無意識の動きもまた間接的に脳の電波に出てくるのではないのか。
   意識を読み取ることは原理的に可能だが、それを可能にするのに必要な、半導体の性能やパソコンの画面の大きさなどから考えて現実的には、無理ということになる。つまり結論として、単純な意識は読み取れるが、複雑なものは無理ということになる。その複雑な意識に無意識が絡めば、ますます無理な話になる。するとそもそもそれに対して、無意識を読み取ることは、そもそも原理的にも無理だと考えるべきなのか。
   しかし原理的に無理だとすると、しかし意識は無意識に大きく影響されているのであって、そこをどう考えるか。無意識の影響を考えずに、意識の全体を把握できるのか。
   そもそも明瞭に意識化できるのは意識の中のごく一部に過ぎないのではないだろうか。コーヒーを飲みたいと思ったのは、身体が水分を欲したからか、習慣化しているからか。コーヒーを飲むのがおしゃれだと思うからか。先に書いたように、ミルクを入れるか入れないか。キリマンジャロを飲むのか、モカを飲みたいと思うのか。そこまで私の意識は読み取られるのか。子どものときにコーヒーを飲んだ記憶がそこに影響しているのか。またそこに無意識は関わって来ないのか。本当は私はコーヒーを飲みたいのではなく、仕事を中断して、どこかに逃避したいのではないか。
   記憶は私が私であるための根本である。私は今まで私が経験してきたことの記憶を持っていて、そこに私のアイデンティティを感じるからである。私の意識が機械に移植できるとしたら、それは私の記憶を機械に移植できるということなのである。
   同様に無意識も、ジジェクが言うように、人間の根本である。それが人間の意識を支えている。
   記憶が機械で読み解けてかつ移植できるのなら、無意識もまたそれが可能ではないかと、まずは考えるべきである。確かに無意識はジジェクが言うように、バーチャルなものであって、無意識が働いたからと言って、直接的に脳に電流が流れることはないだろう。またそれは、これもジジェクが言うように、それは事後的に読み取られるものだ。しかし意識に何かしら働き掛ける。するとその意識は無意識の影響を受けて、何かしらの変化をする。つまり意識に与えられた影響から間接的に無意識を測定できないか。
   このことはしかし逆に考えるべきであり、つまり無意識を読み解くことは困難であって、とすれば記憶を読み解くことも絶望的に困難であるということにならないか。ジジェクが言う通りで、無意識を機械で読み取ることが無理であり、かつ私も直感的にそう思うのなら、記憶、とりわけ幼少時の記憶を機械で読み取って、それを移植することも無理だと思うべきではないか。二転三転して、結局私の結論はここに落ち着くことになる。
 

1 その後も日々研究は進んでいる。断片的な情報だが、その進展をネット上で見ることはできる。例えば、「ブレイン・マシン・インターフェイス / Brain Machine Interface」https://wired.jp/tag/brain-machine-interface/   
2 岡野原大輔を挙げておく。
3 例えば、高橋宏知を挙げたい。
4 池谷裕二は、その著作のタイトルの通り、この両者の関係を説明するが、しかし力点は、生成AIをどう使いこなすかということにある。脳とAIを接続させるのも、結局はこの生成AIの力を借りて、人間の脳の能力を高めるというところに力点がある。
5 ジジェクの翻訳は2026年6月に出版される予定である。私が「あとがき」を書いたが、紙幅の制約もあり、十分に説明しきれなかった。それを本稿で補いという思いもある。
6 ここでも無意識の話に進む前に、言語の問題がもっと詳細に検討されるべきである。例えばフロイトの言い間違いの話などが議論され、その上で、言語のように構造化されている無意識の話に進むべきである。ジジェクはもちろんそれを、今までに書いた膨大な著作の中で行っている。このフロイトの言うところの言い間違いは、一方で無意識に抑圧されていた本音や願望が心の中にあり、それがうっかり言葉として外に露呈してしまうというように一般には解釈されるが、ジジェクはそこのところをさらに、まさにその言い間違いをした瞬間に、言葉を発した意識的と考えられる私と間違いを引き起こした無意識と見做される私との、その亀裂の中に顔を出すのが主体であると考えている。
 
参考文献
池谷裕二『生成AIと脳』扶桑社、2024
紺野大地・池谷裕二『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』講談社、2021
岡野原大輔『大規模言語モデルは新たな知能化 Chat GPTが変えた世界』岩波書店、2023
高橋宏知『生命知能と人工知能 AI時代の脳の使い方・育て方』講談社、2022
渡辺正峰『脳の意識 機械の意識 脳神経科学の挑戦』中央公論新社、2017
ジジェク、S., 『接続された脳とヘーゲル:シンギュラリティにおける主体性の行方』(原文2020)誠信書房、2026
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x15301,2026.06.02)