永井 旦
どうも皆さん、お久しぶりです。最終講義と言いましても、皆さん方は学生という感じでもないし、かと言って、単なる市民講座の聴衆でもないし。(笑) 市民講座などですと、必ず「頷きおばさん」が居て、僕がしゃべるとコックリ、コックリ頷いているのですが、頷いているから解っているのかというと全然解っていないのですね。(笑) 今回は、非常に奇妙な雰囲気で、初めてで最後なわけです。最終講義をしてほしいと頼まれて、三田の方では形式ばった事は一切しなかったので、皆さん方、ゼミの卒業生が主体となって開かれたこの会が僕のceremonyとしての最終講義になります。演題が「サルトルとフーテンの寅」と言うことで、皆さん、何を話すのかさっぱり想像が付かないでしょうけれども、どのようにサルトルとフーテンの寅がくっ付くのかという点に興味を持って聞いて頂きたいと思います。
今年はサルトルが死んで20年目に当たります。フランスでもサルトルに関する研究書などが出ています。最近は新哲学派(nouveaux philosophes)のベルナール=アンリ・レヴィが出した『サルトルの世紀』と言う本が大変評判になっています。何故評判になっているのかというと、内容的に面白いという事ではない。ベルナール=アンリ・レヴィのような新哲学派は70年代に出て来た人々です。ベルナール=アンリ・レヴィは1948年生まれで、団塊の世代の人ですが、所謂「五月革命」に参加しなかった連中の一人です。五月革命に積極的に関わった人達を非常に冷やかに見ていた人です。右と左と言うのであれば右だし、進歩と保守というのであれば保守派の人です。ベルナール=アンリ・レヴィは70年代にデビューして、60年代の五月革命に参加した人達を揶揄するような本を書いて世に出て来た人です。その人が今度は打って変わったようにサルトルを擁護する。擁護すると言っても、全面的に擁護するわけではありませんが、sympathyを持ってサルトルを語るような本を出した。それが評判になっているのです。内容自体はそれ程面白いものではありません。ただ、ベルナール=アンリ・レヴィは名前から分かる通りユダヤ人です。「レヴィ」というのは、レヴィ=ストロースやジーンズのLevi’sのレヴィですが、大体ユダヤ人です。ベルナール=アンリ・レヴィはアルジェリア生まれのユダヤ人です。だから彼の根底にはユダヤ教、一神教の思想があります。それに対して、「68年5月」に関わった人達は無神論者であったし、或いは、ドゥルーズやフーコー等はニーチェの影響を受けていて、真実は一つではなく複数あって、その時々で変わっていくというギリシャの多神教の系列を引いている。だから、一神教に対して多神教、唯一の真実に対して複数の真実という基本的な違いがあるのです。ユダヤというkey wordは非常に面白いのです。サルトルは晩年に、五月革命で毛沢東派の学生リーダーであったピエール・ヴィクトール(これは偽名でベニー・レヴィと言うユダヤ人なのですが)と共同で著作をしたりしているわけです。レヴィだけではなくて、サルトルが養女にしたアルレット・エルカイムもアルジェリア人とユダヤ人の混血でユダヤ教的な思考を持っている人です。従って晩年のサルトルはユダヤ的な雰囲気の中にいました。これについては、ボーヴォアールは「人質に捕られた」と言っています。アルレットは養女といっても、若いガールフレンドです。晩年のサルトルは何人ものガールフレンドを持っており、その中にはフランソワーズ・サガンもいました。そのガールフレンドたちが交替で盲目のサルトルの世話をしていました。ボーヴォアールは、アルレットに対して、女性の嫉妬だけではなく、「レヴィなどと共にサルトルをユダヤ的な思考に連れ去ろうとしている」ということで反発心を抱いていたのです。これが晩年のサルトルの状況です。
サルトルに関しては今かなり否定的な評価があります。サルトルがスターリニズムの一種の同伴者だったのではないか? 彼は実際に50年代にコミュニズムにsympathyを持った論文『共産主義者と平和』を書きまして、現代における乗り越え不可能な思想としてマルキシズムがあるのだと言いました。しかし、マルキシズムの硬直した人間性を実存主義の人間中心主義が補わなければいけないと言って、60年に『弁証法的理性批判』という分厚い著作を書きました。では、それによってマルキシズムが乗り越えられたのかというと、決してそうではない。実存主義はマルキシズムの単なる補完物なのだ、マルキシズムは絶対乗り越え不可能な20世紀或いは21世紀の基幹となる思想なのだ、という事は全く変わっていなかったのです。それが、例えば89年のベルリンの壁の崩壊などを契機として、マルキシズムが完全に時代遅れになっていった。しかし、では本当にマルキシズムは時代遅れなのか、という問題が当然出てきます。ドゥルーズやフーコーといったサルトルより一つ後の世代の思想家たちの思考は無論サルトルとかなり違います。サルトルの思想は人間の主体を100%信じようとするものです。要するに、「人間は自由なのだ。だから、自由な人間が所謂アンガジェということで、現実の政治や様々な社会的な状況に関わっていかなければいけない。そうすることにより、世界を変えることが出来る、あるいは、変えなければいけない。」というのがサルトルの思想です。しかし、そのあとのフーコーやドゥルーズなどの思想家や、或いはレヴィ=ストロースを理論的な支柱としていた構造主義者は、「人間が出来る事などはたかが知れており、既に出来上がっている文化の枠の中でしか人間は動くことができない」と考えます。「サルトルが一人で現実に関わって現実を変えると言ってもそう簡単に現実なんて変りはしない。(épistémèという言葉がありますが、)現実を作り上げているのはもっと別の知的で全体的な枠組み、ものの考え方であって、一人の人間がそこでいくら足掻いてもたかが知れている。」というのが彼らの考えです。確かにそれはその通りです。しかし、だからといって、サルトルの言う個人のアンガジェ、つまり自分の自由を実現するために行動する事が全く意味が無くなったかというと、そうではありません。
ドゥルーズは95年に自殺しますが、自殺する直前に行ったあるインタビューの中で、彼にとってサルトルの存在は非常に大きく、サルトルの『存在と無』が出版された際には友達と一緒に急いで買いに行って貪るように読んだと言っています。それから、彼は、今マルキシズムが時代遅れになったと言われているが決してそうではなく、今こそマルキシズムが実証される社会的、政治的、経済的状況になっていると言っています。ドゥルーズは重い喘息を患っており、それが原因で自殺するわけですが、もし自分に体力が残されていたら、最後の仕事はマルクスについて書くことだとも言っています。ですから、89年にベルリンの壁が壊されて、ソ連が崩壊して、あたかも資本主義が完全に社会主義を凌駕したように見えるけれども、状況的には、マルクスが指摘した資本主義の矛盾が全然乗り越えられておらず、むしろ、非常にはっきりした形で世界に現れているのが今ではないか? これは、我々にとっても身近な問題ですが、過剰な資本が過剰な消費を産んでいって、所謂バブル経済というのが出てきて、それが潰れていく。そして、富める人間と貧しい人間の貧富の差の両極端が世の中に存在し始める。バブル経済が潰れて、リストラが起きて、今悲惨な状況にある人たちがいますが、もう一方においては、バブルで勝ち逃げというか、食い逃げをしたという人たちもいるわけです。アメリカの経済はまさにそういう状況にあります。いずれバブルが潰れるでしょうけれども。そこで、バブルで利益を得た人と非常に悲惨な状況に陥った人と両極端の人間の不平等が生じる。これは目に見えています。これこそがまさにマルクスが指摘したことであり、もし人間が平等に幸福を共有する権利があるならば、まさにそういう世界的な資本の状況を何とかしなければならない。これこそが、今のもっとも重要な課題なのではないか。ドゥルーズなどはそのように考えていたわけです。彼は、身体的な限界があって、マルクス論を書かずに死んでしまいました。サルトルは、20世紀における乗り越え不可能な思想としてマルキシズムがあると言いましたが、その状況は全然変わっていないわけです。
そういう状況の中で、もう一つユダヤ的な思考が出てきます。レヴィナスという思想家がいます。彼はユダヤ人で、タルムードというユダヤの経典の権威です。レヴィナスとサルトルは同年代です。実は、サルトルに、フッサールやハイデガーの現象学の存在を教えたのがレヴィナスでした。サルトルはレヴィナスにフッサールの存在を聞いてドイツに留学し、そこから彼の存在論が始まります。だから、レヴィナスは年代的にはサルトルと同世代ですが、実際にレヴィナスの思想が表面に出てきたのはずっと遅れて80年代なのです。80年代というのは、サルトルが死んだ後ですから、時間的なズレは非常に大きい。この頃からレヴィナスや先程のベルナール=アンリ・レヴィと言ったユダヤ系の思想家たちが重要になってきます。彼らは同一のレベルではないし、一神教と多神教とか、簡単な区別で論じられるようなものではありませんが、ユダヤ的ということがkey wordになっていくのが80年代以降です。クロード・ランズマンの『ショアー(Shoah)』は、強制収容所の生き残り達やそこの看守等を追って行ったdocumentary filmですが、ランズマンはユダヤ人です。彼は今、サルトルが主宰していた雑誌Les Temps Modernesの編集責任者になっています。ランズマンはボーヴォアールのボーイフレンドでもあり、そこも色々あるのですが。ランズマンやアルレットやピエール・ヴィクトール(ベニー・レヴィ)というユダヤ的なfamilyがサルトルの周辺にいて、それから、レヴィナスのような思想家が80年代になって評価されてきた。また、マルグリット・デュラスもユダヤ人に非常に関心を持っています。デュラスはユダヤ人ではありませんが、私はユダヤ人になる、ユダヤ人になりたいというのが、デュラスのobsessionになっています。
では、ユダヤ人というのは何なのか? 先程言った一神教とか、人種的な差別をされた人間であるとか、色々な切り口がありますが、一つはやはり国家を持たないということがあります。今イスラエルという国家が出来てしまっていますが、それまでは、所謂Diasporaということで、世界中に散らばって、一か所に集まることができない流浪の民としてのユダヤ人があったわけです。たぶんユダヤ性ということで、一番重要なのはそこだろうと思います。資本主義を担う人間にもユダヤ人が大勢います。資本主義の金の流れは国境を越えて自由に世界中を流れていきます。だいたい物が一つの所に存在していては価値が出てきません。必ず、Aという所とBという所とが交わった所に価値の落差が出てきて、今までAの所では全く意味がなかった物質がBの地点では非常に高価なものになっていく。このように価値を産んでいくのは辺境、つまり、ある場所と他の場所との境目の所で、価値が出来てくる。今インターネットが発達して、世界中が国境を超えた経済の場所になっていく。皆さんの中でそういう第一線で活躍している方々のほうが余程詳しいのでしょうが、国境がなくなり、世界中が一つの市場になっていくということです。これが資本主義の形になってきます。そして、それでいいのか、という問題と、そこで生じた問題がもしマイナスとしてあるのなら、それは何なのか、という問題が当然出てきます。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の「反エディプスの構造」と「ノマド(流離、遊牧)の構造」という二つのkey wordがここでまた重要になってきます。ノマド、つまり、ユダヤ人が流離(さすら)っていくということと、遊牧民には特定の定住する場所或いは国家というものがなくて自由に移動していく、という生き方が重なってきます。エディプスというのは何なのかというと、簡単に言えば家庭です。つまり、父親(パパ)と母親(ママ)がいて、その子供(私)がいる。そして、私はママの乳房に執着を持っている。しかし、ある時点になると、パパが乳房から私を引き離してしまう。それまでは私はママと一緒にベッドで寝ていたのだけれども、ある年齢になると、お前はもう大きいのだから一人で寝なさいと言って子供ベッドに移されてしまう。そして、ママのベッドにパパが入り、パパとママが一つのベッドに寝る。これはおかしいじゃないか、ということで、パパに対する一種の殺意=ライバル心が出てくる。そしてパパを何とか乗り越えようとする。これが要するに追いつけ、追い越せという形で出てくる思想です。だから、日本経済というものが、アメリカ経済に追いつけ、追い越せという形で何とか経済成長を遂げたということも、完全に「エディプスの構造」です。そういう「エディプスの構造」は一つの家庭の中の問題ではなくて、世界的な政治や経済の問題にまで及んでいる。だから、この「エディプスの構造」そのものを壊さなければダメだ。これが『アンチ・オイディプス』の思想です。
(中)に続く
備考:本稿は、永井旦氏が慶應義塾大学文学部を定年退職するに当たって、2000年3月4日に有楽町の東京国際フォーラムにおいて、永井ゼミ卒業生等によって自主的に開催された「最終講義」の映像記録を文字化したものであり、「公共空間X」への掲載に当たっては永井ご夫妻の了解を頂いた。
(ながいあきら 仏文学者)
(pubspace-x1510,2015.01.29)