ジジェクを巡る思想家たち(8) 数学篇

高橋一行

 
   今回は目次を先に書いておく。全体の見通しを与えるためである。
   ジジェクは結構数学が好きである。それもジジェクの積極的な主張を展開するために数学を活用するというのではなく、ヘーゲル哲学を数学で説明しようとする。結論を先に言っておけば、それは十分成功していると思う。
   しかしヘーゲル自身は数学をあまり評価していない。真理を記述できるのは哲学の概念の力が必要だと考えている。だから数学を評価しないヘーゲル哲学を、ジジェクは数学を使って説明するということになる。
   今回のテーマの背景には、ひとつには現代思想が数学を好んで使うということがあり、さらには数学と哲学という大きな問題が潜んでいる。それは今回の短い論稿では到底解明できないもので、従って、ここで提出するものはラフスケッチに留まる。
 

目次

1 ジジェクは数学が好きである
① カオス理論
② トポロジー理論
③ 量子論
2-1 ヘーゲルは数学を評価しない 1
① 『自然哲学』の冒頭部
② 『精神現象学』の序説
③ 『惑星軌道論』
2-2 ヘーゲルは数学を評価しない 2 

『大論理学』の量論

3 現代の思想家は数学にこだわる
① ドゥルーズの微分
② バディウの集合論と圏論
③ メイヤスーの確率論
 
1 ジジェクは数学が好きである
   ジジェクはヘーゲル哲学を、数学を用いて解釈する。これらはヘーゲル理論の根本に関わる。つまりヘーゲルの主張は、意外なことに数学と相性が良いのである。
 
① カオス理論
   以下に書くように、ジジェク理論とカオス理論は親和性が強いと私は思うが、そして実際随所でジジェクはカオス理論に触れるが、まとまったものは書いていない。
   このあとの1-③で書くヒッグス場の議論の際には、おまけのような感じで、カオス理論に触れる。例えば『身体なき器官』では、アトラクターが出てくる(p.56)。これは秩序形成に関わるシステムの動的な動きを表す。このあとの説明で(1-③)、何も物質のない宇宙に、どのようにして物質が生まれてくるのかということを論じるが、このアトラクターは生物がまだ存在しないときに、どのように物質の運動から生物が出てくるのかということを解明するのに役立つものである。これは散逸系の秩序を形成する、カオス理論の重要な概念である。
   『身体なき器官』にはオートポイエーシスも取り挙げられている。これがヘーゲルの真無限であるという正しい認識もある。オートポイエーシスでは、目的論的で、自己組織的な実在としての生についてのヘーゲル的概念をほとんどそっくり繰り返しているとジジェクは言う(p.224ff.)(注1)。
   オートポイエーシスとカオスは、生命システムを理解する上で関連する。前者がシステムが自らを構成要素から作り出す自己完結的な仕組みを指すのに対し、後者は初期値のわずかな違いが予測不能な結果を生む、複雑な振る舞いを説明する。秩序形成に関わる場面で、オートポイエーシスシステムがカオス的な側面を持つ。
   また『神話・狂気・哄笑』でも、このオートポイエーシス理論が取り挙げられている。そこでは次の様に言われる。「生命が創発するのは、環境による存在者への外的な制限が、自己制限へと転化するときである。ここで私たちは無限を巡る問題に立ち戻ることになる。ヘーゲルにとって、真無限とは、他のものによって規定されているという在り方が、能動的な自己規定になることを意味する。まさしくこの意味で、生命とは、生ける細胞という、その最も基本的な在り方において、真無限の基本形態である」(p.199ff.)。
   恐らくカオス理論について、一番まとまった記述は、『斜めから見る』にある。「カオス理論の功績のひとつは、必ずしもカオスは計り知れないほど複雑に絡み合った原因を含むとは限らないということを証明した点である。単純な原因でも「カオス的」な行動を引き起こし得る。どんな過程も放っておけば必ず一種の自然均衡(静止点あるいは規則運動)へと向かうというのが古典物理学の基本的直観であったが、カオス理論はそれをひっくり返したのである」。
   ジジェクはこのように言ったあとで、先のアトラクターに触れ、このアトラクターの中のストレンジ・アトラクターを享楽を具現化しているフロイト的な<物自体>であると言い、さらには、ラカンの<対象a>の物理学的隠喩であると言う。「重要なのは、カオスの背後に秩序を探ることではなく、むしろカオスそのものの、つまり不規則な散乱の形、パターンを探ることである」。
   さらにジジェクは、カオス理論を「未来の<現実界>の科学」と呼ぶ。「現代科学の真のパラダイム・シフトは、・・・カオス理論にこそ見出されると言って良い」(p.79ff.)。
   私は以前進化論について書き、そこでカオス理論をまとめている(注2)。それを使って、ジジェクの言いたいことを考えてみる。
   そこで次のように私は書いている。「まず、複雑系とは、「無数の構成要素からなるひとまとまりの集団で、各要素が他の要素と絶えず相互作用を行っている結果、全体としてみれば、部分の動きの総和以上の何らかの独自の振る舞いを示すもの」である。それはカオスの概念と親近性がある。複雑系は、秩序の維持と変化の要求との微妙なバランスの上に成り立っているからである。複雑系は、カオスの縁と呼ばれるところに発生する。そのカオスの縁とは何か。それは、「近過ぎると散逸と分解の危険に見舞われ、逆に離れ過ぎていると硬直と画一化に囚われてしまうような、絶妙な均衡点」であり、そこにおいて、革新性と安定性とを得る場所である」。
   ジジェクはカオス理論を正しく理解し、またヘーゲル哲学のポイントを把握して、両者を繋げている。またその際に、秩序が法則に従って形成されるという方に力点を置かず、偶然性を徹底し、その中に、思いがけず生じてしまう秩序というこのパラドックスを重視しているのである。
 
② トポロジー理論
   このテーマについては、以下の論稿と著書にすでに書いている(注3)。ここであらためてその意義を確認したい。またその際に、この理論はラカンが晩年トポロジー理論に嵌っていたことにジジェクが示唆を受けたものであるということに加えて、カントのアンチノミー理論からの進展として、出てきているという観点も重要であると指摘したい(注4)。
   さて、私は長い間ヘーゲル論理学に拘って読み続けてきたが、ジジェクを知り、トポロジー理論でヘーゲル論理学を解明できることに気付くと、もうこの論理学はトポロジー理論そのものだと思うようになる。
   このことは以下の理解に基づく。まずヘーゲル論理学は、存在論、本質論、概念論から成る。ジジェクはそれを、メビウスの輪、クロスキャップ、クラインの壺というトポロジー概念で説明する。存在論ではカテゴリーが移行する。本質論ではそのカテゴリーが相互に反照し合う。そして概念論でカテゴリーは発展を記述するものとなる。
   メビウスの輪は反転しつつ移行して、ふたつが組み合わされば、クロスキャップになる。さらにその反照関係を取り込んで、次元を挙げてクラインの壺へと発展する。
   その生成発展を駆動するのが否定性である。本稿の1-③で述べる、ジジェク理論の「無以下の無」が最初にあって、それが存在を生んで、それが生成発展していく。「論理学」は宇宙の生成発展の論理を記述する。物質が生まれ、物質が生成して生物が生まれ、生物から精神が発生して、その精神が発展する。その論理を記述するのが「論理学」である。
   トポロジーは幾何学だけれども、変形する幾何学である。トポロジーは伸縮自在なゴム膜の幾何学とも言われる。メビウスの輪において、二次元世界にいると思っていたら、平面が捻じれているために、いつの間にか三次元空間にいる。つまり次元が上がっている。クロスキャップを経てクラインの壺に到ると、そこにおいては、三次元にいるはずなのに、いつの間にか四次元にいることになる。これはつまり、一般にn次元にいると思っていたら、いつの間にかn+1次元にいるという話である。こんな風に生成発展する。
   まずは、メビウスの輪、クロスキャップ、クラインの壺とそれぞれの閉局面の中での生成がある。次いで今度は、メビウスの輪それ自体を位相的に変形して、つまりメビウスの輪の境界を捩れのない円にするとクロスキャップになる。またメビウスの輪をふたつ張り合わせるとクラインの壺になる。
   これはイメージで言うと、生物の最も原初的な形態である原核細胞は、個と普遍が未分化のまま、個は死滅して、類という普遍の面が現れる。そういうことを繰り返しながら類を繋いでいく。それが複雑化すると真核細胞になる。さらにその真核細胞が進化して多細胞になる。ここで次元が上がる。こういう3段階で、これはきれいにメビウスの輪、クロスキャップ、クラインの壺の3段階に対応すると思う。
   一般に数学では、トポロジー理論とカタストロフィー理論との親近性も指摘される。これらは、発展と消滅という不連続の変化を記述する数学である。それらの理論において、形態の変化が説明される。
   あらためて、ヘーゲル論理学についてジジェクの言うところは正しいと思う。存在論、本質論、概念論とどう展開するかということをトポロジーは良く説明している。つまり移行、反照、発展と論理が展開されるのである。
   また先に指摘したもうひとつ重要な観点は、このトポロジカルなヘーゲル論理学は、カントのアンチノミーにおける行き詰まりを打破するものでもある。アンチノミーにおいて、カテゴリーは、もう先には進めなくなっている。それをヘーゲルは、これらのカテゴリーを反転させ、反復させることで先に進めるのである。
 
③ 量子論
   ジジェクは量子論にもしばしば言及する。これはまず「無以下の無」という概念を説明するのに使われる。またさらに、この量子論にはもっと広汎な意義がある。「無以下の無」に使われるヒッグス機構についてなら、今までも書いてきたが、今回はもう一歩踏み込みたいと思う。
   ここで量子論とは、量子力学と量子場理論と呼ばれるふたつの理論物理学上の領域を含み、量子化を受けるようなすべての現象と効果を扱うものである。具体的には、粒子と波動の二重性、物理的過程の不確定性、観測による不可避な擾乱などがテーマとなる。
   この理論をジジェクは、ヘーゲル論理学の冒頭部分の説明に使う。これはジジェクの著書『操り人形と小人』と『身体なき器官』において短い言及があったが、まとまったものは、『性と頓挫する絶対』で初めて書かれた(注5)。
   まずヘーゲル論理学は、存在と無の弁証法を扱う。最初にあるものは、何か規定されている訳ではないので、それは無である。しかしその規定されていない純粋存在と無から、規定された存在が生まれるとヘーゲルは説明する。これは宇宙の開闢の理論とパラレルに考えることができる。まず宇宙が始まって、最初はそこに何もないのだけれども、真空に光が走ることで、抵抗を受けて、最初の物質、つまり粒子であり、同時に波動でもある物質が生じる。その機構をヒッグス機構と呼ぶ。
   こんな風に、ヘーゲル論理学と量子論をジジェクは結び付けるのである。すべては無から生じるのであるが、その無を生むための「無以下の無」があり、その機構がうまく存在の生成を説明するのである。
   さて今回は、そこからさらに一歩進みたい。つまりこの量子論の議論を、宇宙の始まりの解明に使うだけでなく、自然の構造の説明にも使いたい。
   そこでこの量子論を使った「無以下の無」の議論が、先(1-②)のトポロジーに接続する。つまりメビウスの輪は、「無以下の無」に始まって、反復運動をする。しかしそれは失敗の連続であり、反復は反転しつつ成されるのである。クロスキャップはそれを救い、反転は反照関係になる。そしてクラインの壺は、これらの運動を含む、回旋状の運動を表している。
   その際にカント的な見方があらためて問われてくる。
   カントは、対象は認識に従う、つまり私たち個人の意識の根底に、一般意識と呼ばれる人類共通の意識があって、感覚データを対象世界の表象にまとめ上げて秩序化すると考えた。ジジェクはここで、シェリングもヘーゲルも、このカント的な見方は共有していると言う。それは正しいと私も思う。
   さてジジェクは、これは量子論の考え方においても成り立つものだとしている。ジジェクは言う。<現実的なもの>それ自体は、バーチャル(重なり合ったもろもろの可能性の集まり)であり、それに対して、私たちにとっての、事物の厳然たる現実は、主観(主体)によって構成されている。このカントの教えは、シェリング及びヘーゲルにとって、妥当性を失っていない。より厳密に言えば、私たちがごく普通の意味での主体を扱っていないときであっても、波動関数が崩壊して、ひとつの現実になる際の媒介となる、何らかの記録する働き(大<他者>)が必要なのである(『性と頓挫する絶対』p.418f.)。
   ただここに大きな問題がある。偶然性をどう位置付けるかということである。量子論の根本原理として、世界は確率論的なのである。
   本稿のこのあと(3-③)で扱うメイヤスーだと、偶然を絶対化し、それをカント的相関の外に置く。しかしジジェクは偶然を世界の内部に置く。トポロジーには外部はないからである。これがジジェクの実在観になる。
   ここでさらにジジェクは扱っていないが、如何にもジジェク的な、つまり、もしかしたらジジェクが今後扱うかもしれない話をしたい。それは、この量子論が最近では人工知能(Artificial Intelligence、以下、AI)の研究に用いられるということである。それは超微細な素粒子の世界に見られる、重ね合わせや量子もつれという性質を利用して、従来の電子回路目ではできなかった高速で超並列的な処理を行うものである。
   藤井啓祐を参照すれば、これは2010年代に、グーグル、IBM、マイクロソフト、アマゾンなどが取り組み始め、2020年代には、実際に稼働し始めている。なぜ量子コンピュータが有用なのかといえば、それは量子力学が自然を支配している物理法則そのものだからだということになる。それは、自然を自然の言葉である量子力学の言葉で計算できる機械なのである(藤井)。
   すでに早くからジジェクはAIに興味を抱いている。1993年に書かれた『否定的なもののもとへの滞留』に、現実の世界とAIが紡ぎ出すバーチャルな世界とか、反転し合うという記述がある(p.86ff.)。
   さらに2020に出たHegel in a Wired Brainで、AIと脳の研究が議論される。しかしそこに量子コンピュータの話はない。
   しかしいずれジジェクによって取り組まれる領域だと思う。この量子コンピュータで、ヘーゲルとジジェクと数学論と脳論が繋がるかもしれないという期待を私は持っている(注6)。
   今までの議論をここでまとめる。
   物質の始まりは、1-③で扱う量子論の問題だが、生物の始まりは、1-①カオス論を使って考察される。両者は同じ論理構造をしている。
   また世界の構造は、1-③の量子論でその始まりの議論がなされ、1-②のトポロジー論に接続する。
 
2-1 ヘーゲルは数学を評価しない 1
   ヘーゲルは数学を評価しない。これが本稿の結論である。しかしそのヘーゲルの理論を、ジジェクは数学を使って説明する。ヘーゲルが数学を評価していないということをジジェクは言わない。ジジェクにとっては、ヘーゲルが数学についてどう考えていたかということなどは、問題にならないのかもしれない。しかしヘーゲル哲学の特徴のひとつとして、数学を高く評価しないということがあり、それはきちんと確認する必要がある。その上でなぜジジェクはそのヘーゲル哲学を数学で説明するのかということが問われるのである。
 
① 『自然哲学』の冒頭部
   以下の記述は全面的に加藤尚武の論文に依拠している(加藤)。まずヘーゲルは『エンチュクロペディー』を2回改訂している。つまり3つの版があり、これを以下、初版(1817)、二版(1827)、三版(1830)と呼ぶ(注7)。『エンチュクロペディー』は、『(小)論理学』、『自然哲学』、『精神哲学』の三部から成り、ここで取り挙げるのは、『自然哲学』の冒頭の部分である。というのも、初版では、『自然哲学』の目次は、第一部「数学」、第二部「非有機体の物理学」、第三部「有機体の物理学」となっており、その第二部「非有機体の物理学」が、1「機械論」(Mechanik)、2「元素物理学」、3「個体物理学」となっている。これが二版と三版では、第一部「機械論」、第二部「物理学」、第三部「有機的物理学」となる。二版と三版では、第二部の中にあった「機械論」が第一部になり、「数学」が消えたのである(注8)。
   私たちが馴染んでいるSuhrkamp版は三版を使っているから、多くの人にとって、『自然哲学』は数学を取り扱わないものであって、かつて初版では、『自然哲学』が数学から始まったというのは新鮮な驚きである。問題はこれが何を意味するかということである。
   それで初版のこの第一部「数学」の中身を見てみると、そこでは空間と時間が扱われている。この空間と時間をヘーゲルは、中心のない状態と呼び、それは数学に属すると初版では考え、二版以降では、それは機械論に属すると見做されたのである。
   加藤は詳細に、この初版と二版以降の記述を探っている。ここで私はその結論部分だけを引用したい。
   それは以下のような話になる。つまり初版の数学論が、この空間と時間の説明から成り立っていて、それがほとんど変わらずに、二版以降では機械論に移っている。とすると、初版において、数学という言葉が見出しに使われているが、内容からすれば、それは空間と時間のことであり、それは二版以降では機械論で扱うべきものとされ、実質的には数学は自然哲学の体系にないということになる。さらに『(小)論理学』や『精神哲学』にも数学は出てこないから、数学はヘーゲル哲学の体系にないということになる。
   プラトン以降、カントまでのプラトン主義的な見方では、数学は特別の地位を占め、また空間と時間も数学と同じ次元に位置付けられて、経験的なものとは異なる次元に置かれている。それをヘーゲルは、すべてを一者の自己展開的変容で説明する。空間と時間も、存在の変容として同一の存在の異なる姿であるとされる。こういう新プラトン主義的な世界観をヘーゲルは持っていたので、そこでは、数学を根源存在の外部に特別な位置を占めるものとして考えなかったのである。かくして数学はヘーゲルの体系から消えたのである。
 
② 『精神現象学』の序説
   山口誠一が、『精神現象学』の序説を詳細に分析している(山口)。ヘーゲルは、あちらこちらで数学批判をしているが、ここ『精神現象学』の序説が一番まとまっている。以下は山口のまとめを使う。
・数学知の限界の先に哲学知がある。
・数学の原理は、生を相手にすることができない。
・哲学は本質的規定を考察する。
・哲学の場面・内容は、現実的なものである。
・現実的なものには、過程という否定的側面と真理という肯定面がある。
・現実的なものの否定的運動は、虚偽の経験の道である。しかし真なるものは虚偽と切り離すことができない。
・現象の生成生滅が生成生滅しないところに真理がある。
・『精神現象学』の現象は真なるものの陶酔である。
・数学的方法を学問の方法との模範とすることは時代遅れである。スピノザの数学的方法などは時代遅れである。
・数学的方法は哲学の道具立てとしては好まれていない。
・数学的やり方は、真理が現れ得る形式ではない。
・概念の必然性によって、学的哲学だけが肯定される。
 
   以上、はっきりと数学は拒否されている。
 
③ 『惑星軌道論』
   本節では、ヘーゲルが31歳のときに書かれた『惑星軌道論』を扱う。この著作は村上恭一が翻訳し、そこに詳細な注を付けている。私が以下に書くことは、ほぼそこから得られた情報に基づいている。
   まずヘーゲルは遠心力が理解できない。遠心力とは、正しくは、回転座標系において作用する慣性力であり、円の中心から外側へ向かって働くのだが、ヘーゲルはそれを接線方向の力だと思っている。つまり90度間違えているのである。ヘーゲルにはベクトルの概念がなかったのかもしれない。
   そうした数学の間違った理解の上で、ニュートン批判を繰り返す。
   批判のひとつは、万有引力の発見は天体運動を法則化したケプラーの功績であり、ニュートンはそれを数学化しただけであり、それは評価に値しないというものである。ヘーゲルは、ニュートンにおいては、物理学的規定と数学的規定が混同されていると言うのである。しかしもちろん今日の評価では、ニュートンの努力が自然科学を発展させて、今日の私たちの科学技術の基礎を創ったのである。
   もうひとつは、均質空間という考え方がヘーゲルにはないということである。世界には中心があり、すべてはそこに向かっているとヘーゲルは考える。だから重力が極めて重要で、振り子はこの重力が働いて、時間が経つと静止するとされる。摩擦という外部の力が加わらなくても、止まるのである。重力は、振り子を物質の概念によって静止させる力であると考えられている。これはニュートン力学を根本から否定する驚くべき世界観であるが、しかし哲学的には、この物事には中心があるという考え方は、確かに有用である。
   さらにヘーゲルは、天体と地界は質的に異なる場所であるというアリストテレス的世界観を持っているから、そのふたつの世界で同一の法則が成り立つと考えて、物理法則の定式化を図ったニュートンの功績は否定される。
   そうすると、次の様に言うことができる。先に見たように、『自然哲学』から数学を追い出すことで、ヘーゲルは反プラトン主義の哲学を完成させている。数学と切り離された物理学だけが、生きた自然を把握できるとヘーゲルは考えている。しかし『惑星軌道論』では、ケプラーが、プラトン的イデーを実現したコペルニクス的天体の幾何学を克服して、天体の機械論を成立させ、それでもう十分なので、さらに数学化を徹底することによって物理学を創り得たニュートンが批判される。つまり『自然哲学』では、数学を追い出した物理学をヘーゲルは追究し、『惑星軌道論』では、数学と結び付けられたニュートンの物理学が批判される。
 
2-2 ヘーゲルは数学を評価しない 2
   先に書いたように、ヘーゲルの体系に数学は位置付けられていないし、また数学に関する記述も短いものがあるだけなのだが、『大論理学』量論とそのあとの度量論は量的規定が展開され、数学の問題が扱われている。また定量の注釈として、微分が取り挙げられている。どれも結構分量がある。また結論を先取りしていえば、ここでは数学がヘーゲルによって極めて高く評価されている。
   最初に、私が今回見た限りで、この分野の研究史の整理をしておく。
   まず本多修郎に、1970年と1989年の2冊の著書がある。私は本稿で直接引用はしなかったが、以下に取り挙げる論文の中で活用されている。
   次いで、渡辺祐邦は2004年と2005年と2007年に、本節に関わるヘーゲル論理学の翻訳と注解を書いている。
   また海老澤善一の2010年の論文は、この分野の決定版と呼んで良いものである。またこの論文を分かり易く解説し直したものが、2012年の著書に収められている。
   黒崎剛は『ヘーゲル論理学研究』に、2019年から2022年の4年間、『大論理学』の本節で扱う箇所の注釈を書いている。
   吉永良正は2020年に、「ヘーゲルと数学」という論文を発表している。
   私が最も優れていると思われた論文は、2015年と2017年に、真田美沙が書いている。
   翻訳については、以文社の寺沢恒信訳と知泉社の久保陽一編集訳は『大論理学』の初版の訳である。作品社の山口祐弘訳は第二版を使っている。
   さて本稿2-1において書いたように、ヘーゲルが数学を理解せず、それを低く見ていることは明らかである。しかし本節で書きたいのは、次のことである。まず一見すると、この『大論理学』ではヘーゲルは随分と詳細に数学を論じていて、結構数学を理解しているかのようだ。ところが実際にその箇所を読んでいくと、やはりヘーゲルは数学を理解していないことが分かる。それは仕方がないと言うべきかもしれない。しかしここでさらに一転させて、ヘーゲルはそれなりに数学を評価していると考えたいのである。少なくとも、ヘーゲルの論理学の体系の中にうまく数学を位置付けている。こう解釈することで、このヘーゲル哲学と数学との微妙な関係が読み解ける。
   具体的に説明をしていく。「論理学」は存在論、本質論、概念論の三部からなり、その最初の存在論は、質、量、度量から成る(注9)。
   まず、存在論全体の流れを押さえる必要がある。最初に質の段階で悪無限の議論があり、それを経て、真無限の概念が得られている(注10)
   あるものは別のものになり、さらにそれはまた別のものに変化していくのだが、その変化の中で、その変化したものは実は自分なのだと認識すると、そこに自己関係が成りたって、その変化は真無限だとされるのである。この議論は、「論理学」の中で最も重要なもののひとつである。
   それを量論で、数学的無限を使ってもう一度繰り返す。ここで量的無限に達する。そうして度量に進む。ここでは質の議論と量の議論とは対等である。そのふたつがないと度量に進めない。ここで数学的無限は相当に重要な役割を果たしている。そうすると数学は結構大きな働きをしていると言うべきである。
   もう少し具体的に書く。質の量における真無限の議論と同じように、ここで量の無限が議論される。量は変化する。その変化は止まらずに、無際限に進行する。これが量の矛盾である。
   ヘーゲルはこの矛盾の解決方法を数学に見出す。ここでヘーゲルは、比という概念を出す。3分の1は、1と3の比であり、少数で表すと、0.333…となり、これは悪無限だが、分数だと1/3であり、これは真無限だと見做される。ここに1と3という分量は、1/3という分数の中で互いに関係する。この関係、すなわちふたつの分量は、分母と分子を持つ分子の中で自己関係するとヘーゲルは考える。この自己関係というのは、ヘーゲルの論理の特徴で、これがあると真に達するとされている。先の質の無限においても、これが成り立っていた。これでまずひとつの解決策が出されたとヘーゲルは考える。
   もうひとつの解決策は、冪という概念である。ここで自乗が考えられている。例えば3の自乗は9であるが、これは3を3回足すという意味である。ヘーゲルはここで3という単位数が3回という集合数の分だけ足されると考え、単位と集合数が同じものであるということに注目する。つまり冪比例においては、変化する自己の内に自己関係を見出される。ここで量の冪という比において、自己関係が成り立ち、質的なものが見出され、量は質を持ち、次のカテゴリーである度量に進むのである。
   さてこのことと微分の関係は、以下のように説明される。まずヘーゲルは、ライプニッツからは、dxとdyという表記は学んだが、それ以上のものは影響を受けていない、影響があったのはニュートンとラグランジュで、前者からは流率という概念を得る。これは物体の変化の比であるということができる。するとここで、次々と物体が変化する中で、変化の比という規定性が保存されているとヘーゲルは考える。
   また後者からは、導関数の形式を学ぶ。つまり微分は無限級数展開、つまり無限進行の展開式になるが、その第一項だけで表現することができ、それ以降の項は消去して良い。これは私たちなら極限を考えて、第二項以降を微小量として無視して良いとするのだが、ヘーゲルは、第二項以降は冪であり、量的な性格を止揚していると考える。
   つまり微分は、私たちは極限で理解しているのだけれども、ヘーゲルはそのことを理解していなくて、代わりに比と冪という自己関係に求め、そこに真無限が成り立つとするのである(この辺りは特に海老澤の論文を参照した。海老澤2010、2012)。
   今まで私が散々書いてきたことなのだけれども、ヘ-ゲルは数学の能力には恵まれず、そのために数学を正当に評価できなかったのである。しかしそのお陰で、数学ではなく、哲学の概念の力で、あの膨大な記述を残した。それがヘーゲルをヘーゲルにしたのである。しかしその割には、ヘーゲルは結構数学を気にしているということも付け加えなければならない。
   黒崎剛が書いている。「ヘーゲル論理学というものは論理的カテゴリーの必然的な移行を網羅した体系的な本なのではなくて、ヘーゲルの努力と探求心が詰まった本だ」(黒崎2022 p.122)。ヘーゲルが懸命に数学を取り込もうと努力した跡が見えるのである。
   その結果、量論は恐らくヘーゲルの著作の中で唯一、まともな数学論になっている。ヘーゲルは質的な、つまり哲学的な無限性の概念から、量的つまり数学的無限の説明に進む。比と冪が真無限であるというのは、数学的には荒唐無稽であるが、しかし無限概念を何とか自らの体系に取り入れようとしたのである。
   真田美沙は、質論の真無限と量論の真無限とどちらに優位性があるかと問い、どちらもそれぞれ、その利点を示せるとしている(真田2017)。
   そもそも量論を設けたこと自体、ヘーゲルが数学を評価していることにならないか。量論で、ヘーゲルは数学が無限を把握していることを認めている。その限りで数学をかなりの程度評価していることになる。かつそこからさらに度量の無限も扱って、それから本質に進むのである。質の真無限からすぐに本質論に入るのではない。
   私はこの量論の議論は、ヘーゲルの体系の中で異色のものだと思うのだけれども、同時に極めてヘーゲルの特質を良く表しているところだとも思う。つまりここで数学的な思考がかなり高く評価され、かつその上でそれが哲学の体系の中に位置付けられているのである。
   質的な無限論がヘーゲル研究者によって、恐らく最もヘーゲル的な思考方法であると評価され、それに対して、量的な無限性はその陰に隠れている。しかしそれは質的なそれと同等、もしくはそれ以上のものであり、だからこそ、そこから次の度量が出てきて、そしてそこでまた数学的な思考方法が採用されて、本質に進むのである。
   吉永良正は、数学史の中にこのヘーゲルの量論における注を位置付けている。つまりヘーゲル哲学が幾何学のパラダイムの圏内にあり、それに対して数学史の主流は幾何学のパラダイムから離脱したと言う。吉永は、ヘーゲルは数学の旧体制を体現していると言う(注11)。しかしそれでいて、ヘーゲル哲学は現代物理学と奇妙に呼応しているとも言う(吉永)。
   また、度量の最後に注があり、そこでは「求心力と遠心力」が論じられる。若き日の『惑星軌道論』における間違いを引きずっている。しかしこれがないと本質論に移行できない。
   結論として、数学的には無意味な議論をしつつ、しかしヘーゲルは懸命に、数学の中に無限概念を見出そうと努力していると言うことができる。
   とりわけ若き日の『惑星軌道論』に比べれば、体系期のヘーゲルは数学に対して、大分正確な理解を示していると言うこともできる。つまり微分の理解自体はまともであるのだが、それを無理にヘーゲル哲学のターム結び付ける、つまり比や冪を真無限にすると、それは滑稽に思える。しかし数学の知見を哲学的に整理すること自体が間違っているのではない。現代の数学の水準で、極限や収束といった概念を使って、私たちがそれをヘーゲル哲学と結び付けるなら、それは有意義なのではないか。
   ジジェクがやろうとしているのは、そう言うことなのだろうと思う。ただ、ジジェクは、この量論に言及をすることはないし、数学的な無限概念に触れることもない。
   そもそもジジェクはなぜ無限概念を追究しないのか。無限概念はヘーゲルにとって根本ではないか。私は、ジジェクならば、現代数学の今の水準で、この無限性をヘーゲル以上にうまく説明できるはずだと思う。その際に、この量論を使って、ヘーゲルの意図を汲み出していけば良いのにと思う。
   もちろんジジェクがまったく無限概念に言及しない訳ではない。先に書いたように、所々で言及をしている。しかも無限概念はヘーゲルにとって本質的なものだという認識もある。しかしその際に、ヘーゲルを引用しつつ論じるということはしないのである。
 
3 現代の思想家は数学にこだわる
   本稿第3章で取り挙げる、ドゥルーズ、バディウ、メイヤスーは、自らの主張に数学を活用する。あるいは数学を自説にうまく取り込んでいると言って良い。しかしジジェクは、ヘーゲルの解釈に数学を使う。そもそもジジェクは、ヘーゲルやラカンを巧みに自説の中に取り込み、まるでそれが自説であるかのように書くことも多い。そしてその際に、数学を使う。
 
① ドゥルーズの微分
   ドゥルーズ論をソーカル事件の話から始める。それは、物理学者A. ソーカルが、現代思想系の学術誌に論文を掲載したことに端を発する。彼はポストモダン思想家の文体をまねて、数式をちりばめた論文を作成し、これをポストモダン思想専門の学術誌に送ったのである。その論文は受理され、すぐに掲載された。その後ソーカルは論文がでたらめでかつ無内容だったと言い、ポストモダンの思想家は、数学を権威付けとしてでたらめに使用していると主張したのである(注12)。
   これは1995年の話だから、もうその事件について、賛否両論が十分良く整理されている。現代思想が徒らに難解であると思っている人たちには受ける話であろうし、今でも私が数学を使って哲学の話をすると、ソーカルの名前を出してくる人がいる。
   しかし私は実際しばしば数学を使うのだが、それで権威付けができたと思ったことはないし、証明ができたと考えたことはない。人を脅かそうと思ったこともない。むしろ逆である。私が数学を使うのは、その方が、話が分かり易くなるからである。それだけの話だ。私が言いたいことが数学で最も分かり易く説明できるから、数学を使うのである。
   だからソーカル事件に対しては、基本的にはひどい話だと思っているが、しかしその言い分が分からなくもない。分かり易く語れるものをわざわざ難しく話す必要はない。
   このようなことを確認した上で、いよいよドゥルーズ論に入っていく。『差異と反復』は微分に根拠を置く。それを読み解いていく。
   私はドゥルーズの全体像に迫ることは到底できない。微分という観点でのみドゥルーズを読解する。
   さてドゥルーズは、ヘーゲルの同一性の哲学を批判し、独自のニーチェ解釈に立脚することで、質の差異の哲学を構築した。ベルクソンの影響もあり、生成の哲学と言うべきものを確立した。その際に微分概念に、その本質的なところで依拠している。
   ここで詳細に論じることはできないが、『ニーチェと哲学』、『ニーチェ』、『ベルクソニズム』というドゥルーズの著書を挙げておく。またジジェクもLess Than Nothingの中で、生気論者(Vitalist)・反プラトン主義者として、ニーチェ、ベルクソン、ドゥルーズを並べている(p.40)。差異だとか、生成だとかといった概念がドゥルーズの哲学の根本であり、それはまさしく微分がうまく説明するのである。
   カーソルは先にも書いたように、ドゥルーズ批判を特に念頭に置いていたように思われるが、しかしその批判は当たっていない。つまり微分を使うことはドゥルーズにとって本質的である。本節ではそのことを説明したい。
   ここで『差異と反復』の第4章を読んでいく。まずドゥルーズは、微分(différentiel)と分化(différenciation) というふたつのキーワードを結び付けて、différent/ciationという表記をする。檜垣立哉はこれを「微分/分化」と訳す。以下、この訳語を使い、檜垣論文を参照して論じていく(檜垣)。
   ここで微分は、流れに孕まれている微小な差異を切り分けるものであり、分化は流れに孕まれる差異が自己展開を遂げて姿を現すものである。微分は、未決定な見えない力(潜在性)を示し、分化は、未決定な力が現実化して姿を現すものである。このふたつの意味が、「微分/分化」に託されている。
   ここでドゥルーズは、差異からさらに無限をテーマにする。すでに『差異と反復』の第1章で、ヘーゲルとライプニッツが議論されていたのだが、第4章でも、ヘーゲルの矛盾は、理念を最も大きな差異の側に求めていることにあり、またライプニッツの微分は、無限小の深淵に落ち込む危険性があると言う(p.18)。まずドゥルーズにとって、このふたりが無限の議論の先鞭を付けたのだということを確認する。しかし矛盾を通じて無限を積極的に捉えたヘーゲルではなく、微分の概念を生み出したライプニッツを評価する。ライプニッツにおいて尚残る表象の概念は同一性に従属してしまうと、ドゥルーズは批判をしつつも、ライプニッツの微分概念には、先の檜垣の言葉を使うならば、未決定的なものが無限の襞に織り込まれているイメージがあり、それをドゥルーズは評価する。
   ここに差異と無限を微分で結び付けたドゥルーズ哲学の核心が見えてくる。檜垣論文の末尾の言葉をそのまま使えば、それは、「自然的能産力の放埓な力そのものを引き出し、人間もそこへと解消していくもの」であり、「剝き出しの生命力であるような未決定性を突き進むカオスの自然と、その力能の率直な肯定」である。
   ドゥルーズ論の最後に、以下のことを書く。先にヒッグス場の理論やオートポイエーシス論を説明する際に取り挙げた『身体なき器官』は、ジジェクの数学観を見る上で重要な作品である。実はこの本は、ドゥルーズ論として書かれたのである。しかしドゥルーズ論としては、どうも成功していないようで、ドゥルージアンからの評価はすこぶる悪いのだが、しかしドゥルーズ的な発想をジジェクが持っているということが、この本から良く分かる。つまりドゥルーズを論じつつも、いつの間にか、自らの主張をここで繰り返しているからである。
   さらにこの本ではヘーゲルも何度も取り挙げられ、「ヘーゲルが不気味にもドゥルーズに近い」(p.104)などと言い出す始末で、ドゥルーズはヘーゲルが大嫌いだったし、ドゥルージアンもそうだろうから、もう彼らの神経を逆立てるような論述が続くのである。そしてこの「ヘーゲル的ドゥルーズ」を論じながら、散逸構造の提唱者ブリゴジーヌを取り挙げたりもする(p.108)。彼は非平衡系における秩序形成の仕組みを数量的に研究した人物であって、ジジェクの頭の中で、こういった理論が極めて互いに近いものとして理解されているのだろうと思われる。
 
② バディウの集合論と圏論
   バディウについては、2025年10月に「公共空間X」に書いている。そこではバディウの思想の根本に、集合論と圏論があることを書いた。ハイデガー流の存在論を展開するには数学が必要である。これがバディウの思想の核心で、今から3か月前に、私はそのことを書いたばかりなので、本節の議論の詳細はそちらに譲りたい(注13)。
   ただ概略だけを述べておけば、まず、バディウが主張する存在は、まずG. カントールの集合論とP. コーエンのジェネリックという概念で表すことができるということである。次いでバディウは、個の集合論を代数的位相幾何学で発展させた圏論に進む。
   存在は本質的に多であり、それは集合論で表せる。そしてこの存在の基本的な様態である多によって構成される全体が状況で、その状況に対して過剰なものとしての出来事という概念が導出される。さらにその出来事から主体が出てくる。
   そのようにバディウの主張は数学で記述できるし、それが最も効果的だという評価を与えた上で、そのことをジジェクと比較する。ジジェクもまた数学を使う。しかしそれは先に書いたように、ヘーゲル読解と絡めている。それに対して、バディウの理解はカント的である。その違いがひとつ指摘すべきことである。
   また両者はラカンの影響が大きい。さらに両者ともコミュニストを自認する。このように両者の主張の異同を考えることで、難解とされる両者の議論が分かり易くなるかと思うのである。
   さて、バディウにはドゥルーズ論がある。そこでバディウは次のように書く。「60年代のはじめに、私はドゥルーズを読んでいた。私のサルトル的青春と、アルチュセール、ラカン、数理論理学との付き合いを行ったり来たりする私の試行錯誤・・・(ドゥルーズは)むしろ特異で美しい敵(である)。・・・彼は数学をとても気に掛けていることを私は認めていたが、その数学においてさえ、彼の好みは微分学やリーマン空間に向かっていた。彼はそこから強固なメタファーを汲み取っていたのである。・・・私はむしろ代数や集合の方を好んでいた。私たちはスピノザにおいて互いにすれ違っていた・・・」(バディウ『ドゥルーズ』 p.5f.)。
   また、以下に取り挙げるメイヤスーはバディウを参照する。「バディウの主要なテーゼのひとつは、彼が、彼固有の規定を介して、カントールの定理の持つ存在論的な射程を主張したということだ。バディウはそれを、「存在としての存在」の非全体化の数学的な思考可能性を明らかにするようなやり方によって主張した。・・・私たちが必然論者の推論に内在する存在論的条件を引き出す手法を発見することができたのは、バディウの独自のプロジェクトのお陰である。というのも(バディウの主著)『存在と出来事』の力線のひとつは、計算的理性をその限界から数学自体の力によって、解放することにあるからだ」(メイヤスー p.171f.)。
   このメイヤスーの主張を以下の節で解明する。
 
③ メイヤスーの確率論
   メイヤスーの提唱する思弁的唯物論は、現代哲学が思考と存在の相関のみを問題にする相関主義に陥っていることを批判して、その相関の向こうに何かしらの物質が実在することを主張する(注14)。
   その際にメイヤスーは、偶然性は必然的であると考えている。あらゆるものが他であり得る。つまり偶然的である。しかしこのこと自体は他の様ではあり得ない。つまり必然的である。必然的な存在、つまり神は存在しない。そのことは必然的だ。しかしメイヤスーはそう考えているにも拘らず、数学的実在を信じ、カオスが自己規範化するのを信じている。メイヤスーにとって、物自体は存在し、かつそれは数学化可能な質であるような実体である(p.163)。するとあらゆるものが偶然的に存在し、同時にその偶然的な存在は必然化されているということになる。
   ここで、このメイヤスーが依拠する数学とは一体何を指すのか。
   その問いに対しては、確率的推論やカントールの集合論が取り挙げられる。前者は、まさに偶然と必然を数学的に記述できるのは、確率論であると言うことができる。また後者については、先の節の最後に書いたのだが、バディウが参照される。カント理解についてもそうなのだが、メイヤスーに対して、バディウの影響は大きい(メイヤスー p.170ff.)。
   ここでメイヤスーは、数学的に思考可能なものは絶対的に可能であるというテーゼを出す。少々長いが、メイヤスーの言うところをそのままここに書き写す。「数学的に処理可能なものが絶対的であるということが含意するのは、思考の外側に事実的な何かが実在するという可能性であり、思考の外側に必然的な何かが実在するということではない。数学的に処理可能なものは、あくまでも仮説としてではあるが、私たちからは独立して存在する、存在論的に破壊可能な事実として提示される。言い換えれば、近代科学は、私たちの世界のすべてを数学的に定式化し直すための、仮説的ではあるが、思弁的な射程を私たちの内に発見したのである。科学によるガリレオ=コペルニクス的な脱中心化については、かくして次の様に言うことができるだろう。数学的に処理可能なものを思考の相関項に還元することはできない(同 p.194f.)。
   ここで國分功一郎の議論を使う(注15)。以下、3段落に亙って、少々長い引用をする。
 

   私たちは確かにずっとカントの呪縛の中で哲学してきた。超越論哲学は確かに何度も疑われてきたけれども、いったい誰がそれを決定的に覆しただろうか。ならば、その呪縛から何とか解き放たれねばならない──そう主張したのが、カンタン・メイヤスーである。
メイヤスーによれば、カント以降の哲学は彼の言う「相関主義」に囚われている。相関主義とは、思考が実在そのもの、存在そのものに迫ることは不可能であって、我々にできるのは思考と存在との相関関係を問うことだけだという考え方である。その著作『有限性の後で』において、メイヤスーはこの相関主義が抱える様々な矛盾点を指摘しつつ、その前提を疑う。そして、ある意味では読者が自らの眼を疑うほど単純なことを述べる。数学を使えば実在そのものに迫れるではないかと言うのである。・・・
   だが、なぜ数学なのか? 結論だけを述べると、メイヤスーが数学による実在そのものへの接近の可能性を主張できるのは、現代の科学が数学を使っているからである。メイヤスーは科学が実際に数学を使っているという事実に依拠している。言い換えれば、メイヤスーは実在そのものへの接近可能性を数学の側から論証しているわけではない。数学を論じていった結果、数学のそのような能力が論証されるのではない。・・・
   ここではこの点をこれ以上論じることはできない。だが、それでも述べておきたいのは、相関主義に対するメイヤスーの批判は、同時代を生き、同時代の哲学を学んできた者として強く同意できる点を多々含んでいたということである。私は『有限性の後で』を読みながら、理論的に納得したというより心情的に共感した。気持ちがよく分かる感じがした。つまり、僭越ながら、彼が抱いてきたように思われる現代哲学への苛立ちを、私自身も共有していたように感じたのである。そして、その共感の事実を前にして、私は自分が問いかけられているような気になった。

 
   この國分の議論の内、最初の段落の、カントの呪縛云々と、最後の段落の、メイヤスーの気持ちが分かるという文言については、私も同感である。ヘーゲルもジジェクもこの論稿で取り挙げている人たちは皆、カントの呪縛の内にあり、そしてそこから脱却したいと思っている。
   しかし真ん中の段落の、数学を使う必要性についての説明には同意しない。というのも、確率論と確率論を発展させたカオス論は、存在の根底を記述できるとメイヤスーは考えているだろうし、先の節に書いたように、バディウの集合論は、存在を記述するのに最適なものなのである。従って、確率論と集合論をメイヤスーが選んだのは、単にそれが自然科学で良く使われているからという理由だけではなく、その選択には必然性がある。
   本節の結論として、次の様に言うことができる。カントを批判するのにヘーゲルは概念の力で以って立ち向かう。メイヤスーは数学に頼る。ジジェクはそのふたつ、つまりヘーゲルの概念と数学を結び付ける。
   また本稿全体の結論として、次の様に言いたいと思う。ジジェクはヘーゲルを、現代数学を使って記述していく。それはそもそもヘーゲルが持っていた可能性を開花させたものなのだろうと私は考える。ドゥルーズ、バディウ、メイヤスーが皆、数学を活用して自説を主張しており、ジジェクもまたそれと同じ手法を取るのはごく自然である。しかもカントの呪縛を最初に感じたのはヘーゲルで、カントからどう脱却するかというときに、数学は重宝な手法である。そのことをヘーゲルは自覚していないし、結局ヘーゲルは数学を嫌ったのだけれども、しかしそのヘーゲルが、数学で以って見事に説明され得るのである。
 

1 ここで目的論というのは、ジジェクがしばしば繰り返し言っているように、偶然に依拠し、その必然性を遡及的に認識するというものである。
2 「進化をシステム論から考える(9) 複雑系について」(2015/11/16)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/2702
3 高橋2022及び、「主体の論理(14) ヘーゲル論理学のトポロジー」( 2022/02/08)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8429
4 カントについては以下の通り。「S. ジジェクを巡る思想家たち 第7回 カント論」(2025/12/14)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14430
5 高橋2021及び、「病の精神哲学6  実在論から目的論へ」( 2018/03/17)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/4930
6 その後、つい先月に新しい本が出たのだが、まだ私にはこれを読む時間がない。いずれまたこのテーマについて書きたい。Quantum History: A New Materialist Philosophyは2025年11月13日の日付で出版されたが、私の手元に届いたのは、2026年1月2日である。目次だけ見ると、「なぜヘーゲリアンは量子力学を必要とするのか」、「なぜ量子力学はヘーゲルを必要とするのか」、「AIは本当に思考するのか」という節がある。
7 エンチュクロペディー初版は、いわゆる『ハイデルベルク・エンチュクロペディー』である。また岩波書店から出ている加藤尚武訳は、Suhrkamp版=三版を使っている。
8 Mechanikをここでは機械論と訳す。これは力学と訳されることが多いのだが、力の学ではないと加藤は言い、私はそれに賛成する。因みに前回触れた菊地健三はカントの訳語について、一般には力学と訳されるDynamikを動力学と訳し、Mechanikを力学と訳している。
9 「度量」と訳したのは、Maßで、「限度」と訳されることもあり、山口祐弘は「質量」と訳している。
10 私はこのことについてもあちらこちらで書いている。ジジェクのヘーゲル理解のひとつのポイントとなっている。高橋2021 p.237f.を参照せよ。ただジジェクは、この無限概念を論じる際に、ヘーゲルを参照していない。このことについては、このあと触れることになる。
11  微積学はライプニッツとニュートンによってまとめられ、一般に私たちが親しんでいるのは前者のもので、後者は幾何学的に説明しようとしている。その際、まず当時は数学の正統的形態は幾何学であったということは指摘すべきである。ニュートンはその正統な後継者として、微積学の幾何学的厳密性を重視したのである。しかし微積学の基本は代数解析的アルゴリズムであり、幾何学的認識はそのようなアルゴリズムを伴っていない。従ってニュートンの理論は代数解析技法を含んではいるが、根本的にライプニッツの微積学、つまり無限の代数学とは異なる数学である。以上は佐々木力『数学史入門』を参照した。吉永良正は、微積分の発展を、①ニュートンとライプニッツ、②オイラー、③近代微積分と三段階で考えている(吉永)。
12 ソーカル自身が、この事件を本にまとめている(A・ソーカル & J.ブリクモン)
13 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第5回 A. バディウ」( 2025/10/19)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14289
14 高橋2021及び、「病の精神哲学5 人間が生まれる前に自然は存在したのか」( 2018/03/10)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/4912
15 「来るべき「現代哲学論」に向けて──アレント、メイヤスー、そしてノスタルジー」
https://www.repre.org/repre/vol38/greeting/
 
参考文献(アルファベット順)
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真田美沙「量における質の回復について ヘーゲル『大論理学』における「定量の無限性」を中心に」『ヘーゲル哲学研究』Vol.21, 2015
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ジジェク, S., 『斜めから見る – 大衆文化を通してラカン理論へ -』鈴木晶訳、青土社, 1995
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——— 『身体なき器官』長原豊訳、河出書房新社, 2004
——— 『否定的なもののもとへの滞留』酒井隆史他訳、筑摩書房, 2006
——— 『ラカンはこう読め』鈴木晶訳、紀伊国屋書店, 2008
——— 『ポストモダンの共産主義 - はじめは悲劇として、二度目は笑劇として -』栗原百代訳、筑摩書房2010
——— 『性と頓挫する絶対 弁証法的唯物論のトポロジー』中山徹他訳、青土社、2021
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(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x14539,2026.01.23)