S. ジジェクを巡る思想家たち 第7回 カント論

高橋一行

 
   今回は、A.ジュパンチッチから始める。
   ジュパンチッチは、その著書『リアルの倫理 カントとラカン』(2000)の第1章において、カントの道徳律はそもそもその根本において病的であると言う。カントの実践哲学においては、病的なものという概念が中心的な役割を果たしていると彼女は主張する。それはどういうことかと言えば、何かに突き動かされて行う行動は常に病的であり、私たちが日常的に行う正常な行動自体、常に多かれ少なかれ病的である。そして私たちが道徳に突き動かされて行動をする以上、私たちの行動は病的なのである。そのようにジュパンチッチは言う。
   私たちの行動には常に何かしらの駆動力が必要である。ここで駆動力とは、意志をその対象に向かわせる衝動である。ここでジュパンチッチはカントから引用をする(注1)。「純粋実践理性の真正な動機(Triebfeder)」についてカントは次の様に書く。この動機こそが、道徳的法則が高貴であることを私たちに感知せしめ、そして自己の本分に対する尊敬を生じせしめる。その限りにおいて、この動機とは道徳法則そのものなのである。そしてそれは、「生きることとはまったく異なるものに対する尊敬から生ずる結果」としての「内的平安」であり、それこそが「純粋道徳的法則そのもの」だと言い換えられている。ここでこの道徳が、人を道徳的行為に向かうよう強制する。
   しかしこれは標準的なカント解釈ではない。ジュパンチッチは、ここで病的なものの対立概念は自由であるとしている。何かに突き動かされて行動すれば、それは自由ではないということなのだろう。しかしカントにおいては、道徳に従うことが自由なのである。だからここで問われているのは、まさにカントの自由概念なのである。道徳に従って行動するのは自由なのか。それは道徳に取り憑かれた「病的な」ものなのではないのかというのが、ジュパンチッチの問うところである。理性的に判断して道徳に従えば、それは自由なのだが、道徳に突き動かされている以上、それは病的なのである。そしてこの駆動力こそが、カントの実践哲学の中枢にあるとジュパンチッチは考えている。
   そしてこのジュパンチッチの理解するカント道徳論に対応するのが、「道徳律とは純然たる欲望に過ぎない」というラカンの言葉である(注2)。つまり道徳を欲望だの、病的なものだのに結び付けたのは、ジュパンチッチではなく、それはラカンの功績に属し、ジュパンチッチのこの著書は、もっぱらラカンをていねいに分析したものに他ならないのである。またラカンは「カントとサド」という論文を書いており、そこにおいてラカンは、カント倫理学の中に倒錯を見出し、サドの中に倫理を見出そうとしている。ジュパンチッチはこの論文からも刺激を受けている。
   ジュパンチッチの著書の第2章でも、このテーマがさらに深められていく。繰り返すが、道徳に従えば自由だと見做されるが、道徳に突き動かされれば、病的だとされる。ここではこの自由と主体がテーマとなる。
   まずジュパンチッチは、カントの実践理性の主体は分裂していると言う。それは病的なものと、この病的な情念を否定するもの、つまり自由な主体とに分かれていると考えられるかもしれない。しかし話はそれほど単純ではない。
   ここでジュパンチッチの理解しているカントの考えは、次のようなものである。まず主体は、自分は自律的な主体であると信じている。しかしそこに主体の及ばない因果律が働く。カントはそこで、その因果律を超えたところにある自由の姿を暴こうとしているのではない。そうではなく、この因果律の支配を最後の最後まで突き詰めることにより、この自由が姿を現す。カントはこのように主張しているというのがジュパンチッチの考えである。
   主体はここで自由の欠如を経験するとジュパンチッチは言う。主体は自由を獲得したと思った瞬間、自由は主体の手をすり抜けていき、病的な動機がその自由に取って代わるのである。
   するとこれは、主体が、病的な主体と自由な主体とに分裂しているというのではなく、主体は、病的な主体と分裂した主体とに分裂するということになる。この後者の主体は、ただ単に主体であること、つまり分裂そのものの形式としての主体である。そしてさらにまたこの主体が、病的な主体と分裂した主体とに分かれる。かくして、主体は無限に枝分かれする。人は決して自由に到達しないのである。これが、ジュパンチッチが著書の第2章で言うことである。
   以下、ジュパンチッチは、カントとラカンの理論が同型であること、つまり単にアナロジーがあるということではなく、両者が如何に同じ問題意識を持っていたかということを詳細に論じている。
   さて、この主張は私にとって盲点であったと言うことができる。私は衝撃を受ける。カント道徳論の核心に病的なものがあるという主張は、意表を突くものである。
   まず私は今まで、カントと言えば、物自体論や無限判断論などがその興味対象となり、つまり専ら『純粋理性批判』のカントを扱ってきたのである。さらにはそこから目的論を示唆する『判断力批判』のカントも論じてきた(高橋2021)。
   ところがジュパンチッチは『実践理性批判』のカントを主に扱う。このことの重要性にあらためて私は気付かされたのである。
   私は基本的にヘーゲルに拘ってきて、彼の哲学を理解したいと思い、そこからカントを読むことが必要になってくる。さらにジジェクを知り、ジジェクの観点からヘーゲルを読み返す。そこでジジェクは、ラカンの物自体=現実界の理解が、カント的段階からヘーゲル的段階に移行したと、これはしばしば言っている。
   これも私は拙著で、ラカンのカント的段階とヘーゲル的段階は、欲望の論理と欲動の論理への移行に対応するという説明もしてきた。拙著のほか、本シリーズ第3回にも、そのことは書いている(注3)。
   かくして私にとってカントは、ヘーゲルの前に位置付けられる思想家である。
   しかしジュパンチッチによれば、カントがラカンを先取りして、ラカン理論のポイントとなるところはもう十分にカントが論じているということになる。さらにはカントが欲望と欲動の区別をも明確にしたということなのである。これはこのジュパンチッチの著書において、繰り返し何度も言われていることである。すでにカントが十分ラカンの論点に言及していて、まるでヘーゲルは必要がない、さらにはジジェクも要らないと言っているような感じなのである。
   また彼女は、『判断力批判』の前半部にも着目する。これは現代思想がカントを扱うときには、皆ここに着目するから、これは如何にも現代思想的だというに過ぎないかと思う。
   つまり私はカントの第一批判と第三批判の後半を論じてきたのに対し、ジュパンチッチはカントの第二批判と第三批判の前半を論じ、そこに出てくるカントのキーワードを病的なものに結び付けるのである。
   ただ私ならば、カントの病的なものの扱いを論じるのなら、『頭の病気についての試論』を取り挙げたいと思う。それはあまり知られていない著作だが、興味深い視点を提供している。一方でカントは人間の能力を吟味し、一般的にはこちらのカントだけが知られているのだが、他方でカントはこのようなものを物しているのである。しかしジュパンチッチは、このようなマイナーな著作ではなく、真正面からカントの代表作に立ち向かうのである。
   ではジジェクはカントについて、どう言っているのか。ジジェクのカントについての引用箇所を整理する。
   ここで『厄介なる主体』(1999)を参照する。ここにジジェクのカント論の要諦はすべて出ている。つまりカントは第一批判において、現象の世界の法則を論じ、その向こうにある物自体には到達できないとし、さらに第二批判では、その物自体の世界に、今度は実践することでアクセスできると考えたのである。しかしこれはジジェクに拠れば、間違っていることになる。つまりカントは、超越論的自由=自発性を現象の根本を成す実体=物自体であると見做す。現象の世界にある存在は因果関係の網目に囚われているが、道徳的主体としての私たちは自由である。その自由は、物自体の世界にある。このようにカントは考えるのだが、しかしこの物自体に直接アクセスできると考えたのがカントの間違いなのである。そんなことをしたら主体は消滅してしまうだろうとジジェクは言う。ジジェクに拠れば、超越論的自由=自発性は現象の世界に属しているのであって、主体は物自体の世界に近付くことができず、それは現象の世界として生じるのである(p.44ff.)。
   つまり第二批判のカントは間違いであるとジジェクは考えている。この点で、ジジェクの考えはジュパンチッチのそれと異なる。
   しかし『性と頓挫する絶対』(2020)において、ジジェクは、カントのアンチノミーが決定的に重要だとしている。この著作の中でジジェクは、カントを、その行き詰まりをヘーゲルによって克服すべきであるという、いつもの観点を繰り返しつつ、しかしカントに多くのページを割いて、その重要性を指摘している。つまりカントの理論は間違っているけれども、それは際立って有用なのである。
   まずこの本は4つの定理から成る。定理1は、新実在論やドゥルーズやバディウによって明らかにされた、現実と超越論的次元との間のギャッブである。これはカントの問いの現代版と言うべきものではないかとジジェクは問い質す(高橋2021を見よ)。続いて定理2は、カントのアンチノミーがラカンの性別化の式に対応するということである。ここがジジェクの「本書の要」であるとされている。従って本稿においても、そのカント=ラカン理論が拙論の要となる。しかしそうは言っても、これはジジェクによって最終的には批判される。そうして定理3に進む。ここでは、ヘーゲル論理学とトポロジー理論の関係が論じられる(高橋2022)。また定理4は、狂気、破壊的性欲、戦争がテーマとなる。
   さて私は今までに、定理1と3については詳述しており、またその際に定理4についても、少しだけ触れている。しかし私が論じていない定理2が最も重要だとジジェクが書いているのである。かつこの4つの定理は、この順番に論じられなければならないものなのである。つまり定理1の問いは、定理2によって答えられ、そこから定理3に行き、最後に定理4が来る。定理2を抜かしてしまったら、ジジェクのこの本の意義は結局分からないということになるのである。
   そこで以下、このジジェクの言う定理2を解読する。まずはその概略を書く。そしてそののちに、この定理を詳述する予定である。
   まず超越論的な次元はセクシュアリティと密接に結び付いている。J.コプチェク(『わたしの欲望を読みなさい』(1994) 第8章)が指摘したように、ラカンの性別化の式はカントのアンチノミーの構造を正確に反映している。ラカンは、男性については、全称命題と例外によって規定され、女性は、「すべてではない」というパラドックスによって規定されるとした。このラカンの定式は、次の様にしてカントと結び付けられる。つまり数学的アンチノミーは女性的であり、力学的アンチノミーは男性的な原理に結び付けられるのである。前者は、すべてではないという性質に関わり、後者は普遍的秩序に対する例外に関わる。
   カントのアンチノミーは不可能性を表しており、失敗という否定的なものを通じてのみ、その輪郭を描くことができる。そしてカントはこの失敗を崇高なものと言ったのである。ラカンにとって、性が崇高なのは、不可能でリアルな物への執着と、そうした物に到達できないという失敗が、性に関する人間の経験を構成しているからである。
   カント哲学のアンチノミーとラカンの性別化の式が同型であるというのは、セクシュアリティと存在論との関係性を示唆する(p.173)。理性は物自体に到達できない。理性はセクシュアリティによって挫折させられる。このようにジジェクは言う。このことは以下、詳しく説明したい。
   ジジェクは、カントとラカンの関係については、コプチェクとジュパンチッチというふたりの女性に深く負っている。コプチェクについては、この本の定理2で、ジジェクが参照したと明記しているほか、すでに『否定的なもののもとへの滞留』(1993)でも次の様に言っている。すなわち、カントとラカンの考えが「構造的に相同であるという決定的な考えに関しては、私は、J. コプチェクに負っている。本書の全体が、彼女への理論的な負債への証である」と書いている(p.473)。またジュパンチッチについても、『性と頓挫する絶対』の中で何回も言及しているほか、ジュパンチッチの本の序をジジェクが書いていて、そこでジュパンチッチを絶賛している。
   ここでコプチェク(Joan K. Copjec)は、アメリカの哲学者、比較文学者、ラカン派精神分析批評家であり、ジュパンチッチ(Alenka Zupančič Žerdin)は、1966年生まれのスロベニアのラカン派精神分析学者であると言っておく。
   するとこの両者によって共通に言われていることは、カント哲学の重要な部分と、ラカンの理論とが同型であるということなのである。このことと、今まで何度も私が書いている「カントからヘーゲルへ」ということと、このふたつはどう整合的に説明され得るのか。
   『性と頓挫する絶対』において、「ヘーゲルは、カントの超越論的地平に留まりつつ、カントの行った、物自体は認識できないという認識論的な制限を存在論的な不可能性に変換した。つまり物はそれ自体において頓挫しており、ある根本的な不可能性を刻印されており、存在論的に不完全なのである」(42f.)とジジェクは言う。これがカントからヘーゲルへということである。
   「接近不可能なヌーメナルな物という現実界と、純粋なギャップとしての現実界というふたつの現実界の対立」がある(p.99)。前者がカントのもので、後者、つまりヘーゲルの考える現実界は、現象とヌーメナルな物との間のギャップなのである。
   このことが、定理2で次の様に言い換えられる。「カントからヘーゲルへの移行は、現象とヌーメナルな彼方とを分かつ外的限界が、現象に内在しているということ」(p.173)である。カントの超越論的帰結は理性の行き詰まりを示している。それは必然的にアンチノミーになる。
   差し当って、カント理論は行き詰っているから、あとは反復するしかない。そこからヘーゲルに進む。つまり反復していると、いつの間にかヘーゲルの言う真無限に達するという理解がジジェクにはある。
   以上のように概略を示しておいて、以下、このことを詳述する。解決すべき点は以下のことである。まず、カントのアンチノミーがどう導出されるのか、次いでラカンの性別化の式とは何かということについて考える。さらにコプチェクはこの両者を結び付けるのである。このことを示す。そして最後にジジェクの『性と頓挫する絶対』に戻って、話をまとめる。
   まずカントから説明する。取り挙げるのは『純粋理性批判』の「先験的弁証論」「純粋理性のアンチノミー」である。これは以下の様にまとめることができる。
第一アンチノミー
テーゼ:「世界は時間・空間的に有限である(時間的始まりと空間的限界がある)」
アンチテーゼ:「世界は時間・空間的に無限である(時間的始まりと空間的限界がない)」
第二アンチノミー
テーゼ:「この世界には最小単位の単純な部分が存在する」
アンチテーゼ:「すべてのものは無限に可分的であり、単純な部分など存在しない」
第三アンチノミー
テーゼ:「世界には自由が存在する。因果関係を超えた意志の自由がある」
アンチテーゼ:「自由は存在せず、すべては必然の因果関係によって生じる」
第四アンチノミー
テーゼ:「この世界の根源として、絶対に必要な存在(神)が存在する」
アンチテーゼ:「そのような存在は必要なく、存在を証明することはできない」
   さて、この解釈は次の様にすることができる。
   まずこの4つは、量、質、関係、様相という、カントの立てた4つのカテゴリーに対応する。そしてこの最初のふたつが数学的アンチノミーと呼ばれ、あとのふたつが力学的アンチノミーである。またこのあとのヘーゲルとの関係で言えば、最初のふたつはヘーゲル論理学の存在論に、あとのふたつは本質論のカテゴリーに相当する。
   また最初のふたつ、つまり数学的アンチノミーは、結局、テーゼとアンチテーゼのふたつともどちらも成立しないということが結論として得られる。それに対して、あとのふたつ、つまり力学的アンチノミーは、どちらも成立し得る。現象の世界には自由も神も存在しないが、物自体の世界に入れば、そのどちらも存在するからである。この違いが重要である。
   続いてラカンを説明する。荒谷大輔のラカン入門書の第6章第1節を使いながら、ラカンの『セミネールXX アンコール』を読む。
   まずラカンが使う論理学は以下のものである。
全称肯定 すべてのAはBである。
特殊否定 いくつかのAはBでない。つまり例外がある。
これが男性の理論になるとラカンは考える。
   それに対して、女性はこの全称肯定と特殊否定のそれぞれを否定する。
すべてのAがBである訳ではない。
BでないAはひとつも存在しない。
   ここで「すべて」が成り立つためには、「すべて」に属さない「例外」が不可欠である。これが男性の理論である。
   これを否定すると女性の論理が得られるが、しかしその命題の内容は否定されていない。女性の論理は男性の論理を否定している訳ではない。
   ここで男性とか、女性というのは、生物学的な意味での話でもなく、また社会的な性差、つまりジェンダーの話でもない。あくまで論理的な区分だということである。
   結論として、次の命題が得られる。
男性
「すべてのxがファルスの作用を受けている」これは全称命題である。
「ファルスの作用を受けていないxが少なくともひとつ存在する」これは例外があるということである。
女性
「すべてのxがファルスの作用を受けている訳ではない」これはすべてではないということである。
「ファルスの作用を受けていないxはひとつも存在しない」これは例外がないということである。
   このことを私は次のように理解している。
   まず「すべての人がファルスの作用を受けている」という命題は、本当にそうなのかどうかは分からないのだけれども、命題として成立することは納得する。そしてこの命題が成り立つためには、「ファルスの作用を受けていない人が少なくともひとり存在する」という例外を認めることが必要だ。論理的にそうだということである。
   しかしここで、すべての人がこの論理の中にいるしかないのか。この論理の外に出ることはできないのかと思ったときに、この「すべての人」の中に含まれながらも、この「すべての人」から逃れたいという特異な存在者を考える。これを女性なるものだとラカンは考える。女性は「すべての人」の中に含まれながらも、そこから逃れている。これがラカンの言う性別化の式である。
   さて以上、カントはカントで理解ができるし、ラカンはラカンで理解ができる。問題はどうしたらこのふたりの理論が結び付くのかということである。
   コプチェクはこれを結び付ける。
   コプチェク(1994) 第8章「性と理性の安楽死」を読む(注4)。これはアンチノミーについて、カント自身がこれを「理性の安楽死」と呼んでいることから来ている。
   まず主体とは、内的な限界または否定、言語の失敗である。そしてカントは『純粋理性批判』と『判断力批判』のふたつの著書でアンチノミーを論じる。それは数学的、力学的な道である。そしてこのふたつの道が、ラカンの性別化の式に対応する。
数学的アンチノミー=女性
テーゼ「ファルスの作用を受けていないxはひとつも存在しない」。例外がない。
アンチテーゼ「すべてのxがファルスの作用を受けている訳ではない」。すべてではない。
力学的アンチノミー=男性
テーゼ「ファルスの作用を受けていないxが少なくともひとつ存在する」。例外がある。
アンチテーゼ「すべてのxがファルスの作用を受けている」。全称命題。
   もう少しコプチェクを詳しく書いていく。
   まず数学的アンチノミーと力学的アンチノミーは非対称的である。コプチェクは、カントのふたつの式の差異を、ラカンをヒントに読み解こうとする。
   まず数学的アンチノミーにおいて、そのテーゼとアンチテーゼのふたつとも、その主張は虚偽であり、真理ではないとされる。しかしカントとしては、懐疑論に陥ることはしたくない。
   ここで話を分かり易くするために、第一のアンチノミーを考える。するとそこで言えることは、世界は有限であるのでもないし、無限であるのでもないということなのだが、これが成立するのは、世界があるという前提が否定されるということによってのみである。ではどうやって世界の実在性を否定するのか。
   ここでコプチェクが言うのは、果てしない現象の系列を絶対的な無制限の全体性として思い描くことは不可能だからというものである。経験可能な、現象の系列として与えられるものは、現象の絶対的全体性という理念と矛盾する。前者は順に追い求めていくものであるのに対し、後者は一挙に把握されねばならない。このことが不可能であるということが、世界の実在性を否定する。
   さてそこからこのカントの理論とラカンの理論の同型性が示される。ラカンにおいて、女性は存在しない。女性を条件付けているものをひとつ残らず数え上げることは不可能である。私たちは女性を再構成することができない。
   さらにここから、もうひとつのアンチノミー、つまり力学的アンチノミーについて言えば、カント理論において、このアンチノミーは、物自体の世界において両立が可能である。つまりここではテーゼとアンチテーゼは、両方とも成り立つ。
   そしてここでラカンの男性の理論は、このカントの力学的アンチノミーのそれを反復する。「すべてのxがファルスの作用を受けている」という命題と「ファルスの作用を受けていないxが少なくともひとつ存在する」という命題は、両者とも真である。
   ここからさらにラカンは次の様に考える。男性は実在するのだが、しかしその存在は接近不可能である。いかなる概念も、男性の存在を具現することはない。また女性の性を具現化するものはすべて見せかけである。女性は存在しないのだから。
   結論は、宇宙を構成することに対する禁止として男性を規定し、宇宙を構成することの不可能性として女性を規定するということになる。
   ここで再びジジェク『性と頓挫する絶対』に戻る。以下抜き出していく。
   まず定理2の説明としては、ジジェクはコプチェクの主張をなぞっているだけのように見える。しかしカントとラカンが同型であるという説明をするとすぐに、ジジェクは、このカントからヘーゲルへの移行に話を持っていく。カントからヘーゲルへという言い回しは何回も繰り返される。
   カントは認識論上のアンチノミーについて議論した。ヘーゲルはそれを存在論の領域に移す。ヘーゲルにおいては、現実それ自体がアンチノミーとして存在しているとジジェクは言う。但しここでカントの哲学上の革命をしっかりと見なければならないのである。カントのこの画期的な発見に基づいて初めて、ヘーゲルは現実それ自体に内在する否定性を論じ得たのである(p.170)。
   そのようにカントの意義を確認した上で、ジジェクが論じたいのはやはりヘーゲルである。ここで先にカントのアンチノミーについて、数学的アンチノミーは量と質を論じており、力学的アンチノミーは関係と様態を論じていたという指摘を思い出そう。そしてこれはヘーゲル論理学の、存在論と本質論に対応する。そしてこのふたつの部門は、ヘーゲルによって客観的論理学と呼ばれている。重要なのは、ここから概念論、つまり主観的論理学が出てくるということなのである。
   ここからジジェクは、ヘーゲルの論理学をトポロジー理論で読み込むということを論じるのである。これが定理3である。そしてそもそもトポロジー理論に着目したのは、ラカンである。これでヘーゲルとラカンが繋がる(注5)。
   認識のレベルでのアンチノミーが、ヘーゲルにおいては、存在のレベルでの捻じれになる。この捻じれをジジェクは、抽象的な否定性が過剰にかつ執拗に存在し続けるということだと言い直す。そしてこの抽象的な否定性は、ヘーゲル論理学で反復される。それは事物と認識の両方の進展において、見られるものである。そして今、これが現実の世界に現れる。具体的には、人間における狂気、性、戦争というトリアーデとして現れるのである(p.464)。これが定理4である。
   まず狂気について、ジジェクはこれは、人間精神の逸脱ではなく、個々の精神を存在論的に構成している基盤に書き込まれたものだとする。要するに、人間であることは、気が狂っているということを意味しているとするのである(同)。そして次に来るセクシュアリティは、狂気を表す特定の形象である。そしてこれは、人間が自然から切り離されたときに必然的に出てくる領域なのである(p.466)。最後に、社会の狂気が戦争である。個人において狂気は常に存在しているのだが、戦争は国家の生を破壊する脅威として常に存在し続ける(p.467f.)。
   以下、まとめをする。
   ジュパンチッチは、カント道徳論とラカンを結び付けた。これは極めて正しい指摘である。カントはその道徳論において挫折している。ジュパンチッチはそのことを示したのである。またコプチェクは、ラカン理論と同型であるとされるカントのアンチノミー理論において、その失敗を論じていたということを示した。ジジェクは、そのふたりの指摘を受けて、カントの理性は、セクシュアリティの前に挫折することを明確に論じたのである。そしてジジェクの功績は、そのことはヘーゲルにおいて、より鮮烈に表れることを示したことにある。理性は性の前に頓挫する。カントからヘーゲルへの理論的深まりは、その頓挫の進展である。
   すると、「カントからヘーゲルへ」というテーゼが、欲望から欲動へと言うだけでは不十分であり、カントのアンチノミー=ラカンの性別化の式から、道徳理論の挫折を経て、ヘーゲルの抽象的否定性へ進み、それが捻りを加えて反復される。ラカンにヒントを得て、ヘーゲル論理学が論じられる。そして現代社会の狂気、性、戦争が取り挙げられる。このようにまとめることで、現在生じている事態がより正確に説明されるのである。これが今回の結論になる。
   本論はジュパンチッチとコプチェクのカント論を、ジジェクがどう自説に取り入れているかということを中心に書いた。ジジェクのヘーゲル論については、今まであちらこちらで書き散らしているので、ここでは詳しくは書かない。
   人によっては、ラカンはカントを参照した方が、より適切に理解ができるし、そもそもラカンはヘーゲルよりもカントの方が、その考えが近いという人もいるだろう。そのことも付け加えておく。
 

1 この言葉は、カント『実践理性批判』第3章「純粋実践理性の動機について」にある。
2 この言葉は、ラカン『精神分析の四基本概念』第20章にある。ラカンはそこからさらに、このカントの考えを明確にすべく「カントとサド」という論文を書いたと言っている。
3 拙論「S. ジジェクを巡る思想家たち 第3回 E. ラクラウ」(2025/09/04)を参照せよ。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14091
4 この著書の第8章で展開された、「存在しない」女について、コプチェクはさらに2002年の本で考察を続けている。
5 高橋2022 1-2、及び拙論「主体の論理(14) ヘーゲル論理学のトポロジー」( 2022/02/08)を参照せよ。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8429
 
参考文献(アルファベット順)
荒谷大輔『ラカンの哲学 哲学の実践としての精神分析』講談社、2018
コプチェク、J., 『わたしの欲望を読みなさい: ラカン理論によるフーコー批判』(1994)梶理和子他訳、青土社、1998
—-  『<女>なんていないと想像してごらん』(2002)村山敏勝他訳、河出書房新書、2004
ジュパンチッチ、A., 『リアルの倫理 カントとラカン』(2000)富樫剛訳、河出書房新社、2003
カント、I., 「脳病試論」加藤泰史訳、『カント全集2』岩波書店、2000
—-  『純粋理性批判(中)』篠田英雄訳、岩波文庫、1961
—-  『実践理性批判』波多野精一他訳、岩波文庫、1927
—-  『判断力批判(上)(下)』篠田英雄訳、岩波文庫、1964
ラカン、J., 「カントとサド」『エクリIII』佐々木孝次他訳、弘文堂、1981
—-  『セミネールXI 精神分析の四基本概念』小出浩之他訳、岩波書店、2000
—-  『セミネールXX アンコール』藤田博史他訳、講談社、2019
高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
—-  『脱資本主義 S. ジジェクのヘーゲル解釈を手掛かりに』社会評論社、2022
ジジェク、S., 『否定的なもののもとへの滞留』(1993)酒井隆史他訳、筑摩書房、2006
—-  『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心 1』(1999)鈴木俊弘他訳、青土社、2005
—-  『性と頓挫する絶対 弁証法的唯物論のトポロジー』(2020)中山徹他訳、青土社、2021
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x14430,2025.12.14)