老いの解釈学 第15回 小説の中の認知症(2)

高橋一行

 
   小島信夫の『残光』を読む。この作品は2006年、小島が91歳で亡くなる半年前に出版されている。文中に、主人公は90歳であることが記されている。以下に書くように、そのときの小説家=主人公の年齢から見ても、またその小説の文体や構成を考えても、明らかに認知症の主人公の言行を、認知症の小説家が書いているかのようなのである。
   しかし結論を先に書いておけば、小島はその時に認知症ではなかったのかもしれない。90歳という年齢であって、軽度の認知症であったかもしれないが、しかしまず言えるのは、重度の認知症であれば、何も書けないだろうということである。そしてさらに言えることは、小島はもともとこういうタイプの小説を書いていたということである。つまり以下に書くようなこの小説の特徴は、若い頃からの小島の作風である。そして軽度の認知症になって、ますますその特徴がはっきりと出てきたということに過ぎず、この書き方こそが小島の小説の魅力なのである。すると小島の場合はその小説作法のために、せいぜい軽度の認知症であるにもかかわらず、如何にも認知症の人が書いたかのような作品が出来上がったということなのである。
   まずこの作品では、主人公の今の生活が描かれる。そして同時に、主人公は昔の生活を思い出す。記憶が反芻される。昔と言うのはいつのことか。それは40年前に前妻と交わした会話であったり、10年前に長男の病気が段々と悪化していくときのことだったりする。さらには若い頃の戦地での記憶も混じる。時間は錯綜する。小島の今までの小説を読んでいれば、その複雑な時間の系列を解きほぐして、理解することが可能だが、もし初めて小島の小説を読むならば、話があちらこちらに飛んで、付いて行かれないということになる。
   また語り手の一人称が「ぼく」になったり、「私」になったりする。さらには「小島信夫」という表記だったりする。この作品は、執筆前に予め構成を決めないで書き始められる。また著者が書き直しをした形跡はない。
   小説家=主人公は、以前起きた事実関係を忘れ、自らが書いた本の中身を忘れている。そしてそのことを平気で、「忘れてしまった」と書く。
   また「自エイ隊」だとか、「エイ智」だとか、またさらにこれは「エイチ」になったりと、中途半端な表記も気になる。辞書を引くか、または隣りに編集者がいるのだから、彼に聞けば良いものを、そうしないのである。漢字など、忘れてしまっても構わないと思っているかのようだ。小説家=主人公は、ぼけているのか、あるいはぼけたふりをしているのか。
   しかし繰り返すが、小島信夫は元々こういう小説を書くのである。これが、彼の手法である。
   この『残光』が書かれたのはおおよそ20年前である。彼の代表作である『抱擁家族』は1965年に書かれている。今から60年前の作品である。このとき、小島は50歳である。それは当時ずいぶんと評判になって、評論も書かれている。私の周りでも褒める人がいて、多分1980年前後に私はこの小説を読んでいる。今回読み直して、結構作品の細部まで覚えていたことに驚く。相当に読んだときの印象が強かったのだろうと思う。私はしかし、その後あまり、小島の作品を読むことがなかった。今回ネットで、『残光』は認知症の小説家が書いたものであると書かれてあって、そういう評価を見て、気になったのである。それで、彼のいくつかの作品が自宅の書庫にあったので、それらについては読み直し、また他のいくつかについては、購入したり、図書館で借りたりして、新たに読み始めたのである。
   さて私は、認知症当事者が小説を書くことはできるかと、以前問い質している。本シリーズ第7回で扱った永井みみの『ミシンと金魚』の場合は、小説家の想像力が認知症の老婆の像を創り出し、彼女が死ぬまでの日々の生活を小説の中で描いている(注1)。しかし小説家自身が認知症であった訳ではない。それに対して私が求めるのは、小説家本人が、認知症の最中にいて、本人のその時の状況と気持ちを書くことができるかというものだ。
   そして小島信夫は、それを可能にしたのだと思う。まるで段々と認知症が悪化する小説家=主人公が、自らの状況を書いているかのような作品になったということである。
   それは現在の話と過去の記憶の反芻とが混ざるという書き方を必要としている。これこそが認知症の症状の特徴なのだが、小説家=主人公が今の世界と過去のそれとの区別が付かなくなって、今現在進行している事象に触発されて、過去の世界にスリップする。『残光』は、そういう造りになっている。そしてそれは以前からの小島の小説の特徴でもある。そのことを理解するために、以下、小島の過去の作品の粗筋を書いておこう。
   まず『抱擁家族』の主人公は、翻訳家で、英語を教える大学教師である。彼には学生結婚をした妻がいて、ある時彼女が若いアメリカ兵と肉体関係を持ったのではないかという疑惑が生じる。そこで繰り広げられる夫婦間の葛藤が、小説の主題である。妻は、結局最後まで謝罪はしていない。主人公はしかし、妻を裁くだけの倫理観を持ち合わせていなかったのである。そうこうする内に、妻は乳癌に罹り、死亡する。そのとき、すでに成人した息子は家出をしてしまう。これは1963年に小説家が経験した話に基づいていると言われている。
   つまり、恐らくこれは小島の実体験であったということなのだが、そのこと自体は私の関心事ではない。重要なのは、小島が、このあとに書く多くの小説の中で、この間の妻とのやり取りを思い出し、その反復された記憶を繰り返し書いているということである。
   『別れる理由』は、『抱擁家族』の続編である。1968年から1981年まで、12年間掛けて書かれた。主人公は妻を亡くし、その後再婚する。主人公と新しい妻との物語が語られるのだが、いつの間にか小説は、主人公と前妻との話に移っている。物語は過去と現在を行き来する。前作で展開された、前妻の不義を巡ってなされる夫婦間の葛藤が再び描かれる。時制は意図的に入り組んで記述される。
   そしてこの小説には、実在する評論家や編集者が登場する。彼らとの会話もまた小説の重要な要素になっている。それらの会話によって、過去の事実や小説に描かれた内容は、恣意的に歪められる。
   さらに1997年に出た『うるわしき日々』においては、『抱擁家族』の話から30年の月日が経っている。その間に、例えば1994年の『暮坂』などで、アルコール中毒になり、施設の入退院を繰り返している長男のことが描かれるのだが、ついに彼は3度目の入院をすることになり、その経緯が『うるわしき日々』で詳細に書かれている。小説家=主人公は80歳になろうというときで、長男は50代の半ばである。やがて長男は、痴呆を伴うコルサコフ氏病だと診断される。その間に、長男と長男の妻との離婚訴訟も、老父母がこなしている。
   また主人公と再婚した妻は、すんなり新たな家族に受け入れられた訳ではなく、とりわけ長男と葛藤があったことが示唆されて、そのために無理に長男の看護をするのだが、次第に疲れてきて、段々と痴呆が進行する。
   『残光』では、以上の経緯があり、長男はすでに施設で亡くなり、妻は認知症が悪化し、夫を認識することすらできなくなっている。
   そういう小説を繰り返し、小島信夫は書き続けている。テーマは常に、前妻、後妻、長男、及び他の家族のメンバーについてである。しかし小島が書いているのは、私小説ではない。
   彼ら家族についての小説を反芻しながら書いていて、小島はまるで私小説作家の様であるが、そこでは抽象的な表現が多用されて、一般的には前衛的だと言われ、また虚実入り乱れる作品を意図的に書いている(注2)。
   つまり記憶が混濁するふたりの家族、長男と後妻の言行を記述しつつ、小説家=主人公の記憶も曖昧になり、3人とも時空をさ迷うことになる。また小説家=主人公が以前書いた小説やエッセイが、新しい小説の中で取り挙げられ、その解釈が本人によって、また登場する編集者や評論家によってなされる。それらも地の文に接続される。
   そこでは家族そのものがテーマであるようなのだが、しかし家族を巡る記憶こそが小島の最も書きたいことなのではないか。そして小島自身が認知症であったと言わないまでも、後妻と長男は明らかに認知症で、日々それが進行する。そのことを記述する小説家=主人公もまた危うい。
   いわゆる私小説は、実際に小説家が自ら体験したことを客観的に書こうとするものなのだが、この小説家=主人公は、客観的に物事を書くことは不可能であると思っている。そして自らの記憶を辿り、また小説の中に実在する人物を登場させて、かれら他者の口を借りて、その記憶を辿り直し、またその変容の過程も描いている。他者の手紙や電話がそのまま文中に入り込んでくることがある。他者は概して饒舌で、小説家=主人公の内面を揺さぶる。
   具体的に言うと、『残光』には、小説家の保坂和志と、英文学者の山崎勉が出てくる。小説家=主人公は小説の中で、自らが書いた小説を思い出す。同時に保坂と山崎が、それらの小説を解釈する。3人の解釈が、過去を創り出すのである。さらに小島は、保坂の書いた小説を評論する。つまり自らが書いた小説だけでなく、他者の書いた小説や批評にも言及する。そこでは夥しい数の作品が引用される。ヘンリー・ミラーやF. カフカや夏目漱石や佐藤春夫やロラン・バルトが参照される。また山崎は、話があちらこちらに飛ぶ小説家=主人公に辛抱強く付き合って、編集の仕事を任されている。
   小島はあちらこちらで、自分の書いた小説を読み直すことがないと公言している。日々変容していく記憶のみに頼って、自ら書いたものを再解釈するのである。さらにまた小島は、自ら書いたものを書き直したりしないと言っている。
   例えば、以下のような記述がある。『女たち』は1980に書かれた中編であるが、その刊行された本のあとがきに、小島は次のように書く。「私はこの頃、書き終わると、何を書いたか忘れてしまっている」。校正を出版部に任せているのだが、意味が取れないところがあると言われ、「どれどれというわけで眺めていたが、私自身にも何のことか分からない。頭がおかしくなってきた」と書いている。それは小島の65歳のときの話である。
   つまり小島は結構若い時から、こういう書き方をしているのである。
   さて私は、認知症本人が書いた小説があるとしたら、こういうものでしかありえないと思う。というのも、これも本シリーズ第10回で書いたように、認知症の人は、その認知症のあり方に、その人の全人生が詰まっていて、そのことを小説にすると、そこにその小説家が創り上げてきた世界がすべて現れていなければならないと思うのである。ぼけた人は、「八十年、九十年かけて育んできた自分らしさをいかんなく発揮して、ズレまくりながら調和している感じ」だと、私はその時に、特別養護老人ホームに勤務する人の言葉を引用して書いている(注3)。長く小説を書いてきた人の最後の小説には、その人の長い時間を掛けて育んできたその人らしさが表れているであろう。またその際に、ここでぼけという言葉は親しみを込めて使っているので、その言い方を使えば、ぼけてまさしくその人の全人生が、その最後の小説に現れるということなのである(注4)。
   小島信夫には今までにたくさんの作品があるから、その集大成として、この小説『残光』がある。小島はこの小説を書いたときに、実際に認知症だったかもしれず、そうでなかったかもしれず、あるいは可能性としては、ずいぶん早くから認知症だったと言えなくもないのかもしれないが、いずれにせよ、私は認知症を思わせる小説家が最後に書く作品は非常に価値があると思っていて、『残光』は、その具体例としてふさわしいものなのである。
   以下、認知症になって、なお小説を書くという話をさらに続けよう。それを成立させる条件は、次の通りである。
1. その小説家の認知症が軽度であること。
2. その小説家を誰か編集者が手助けすること。
3. その小説家は若い時から小説を書き続けてきて、十分な技術を持っていること。
4. その小説家は新しい試みをするのではなくではなく、今までに書いたものを使いながら、それを変容させるものを書くこと。
   以上である。
   そう考えると、『残光』を書いたときの小島信夫は、まさしく認知症であったとしても、十分小説を書くことができたということになる。これは小島を貶めるものでなく、彼の場合、奇跡的にそういうことが可能になったということである。
   また誤解のないように言っておけば、この4つの条件は、認知症になってなお小説を書く場合の必要条件であって、十分条件ではない。90歳の小島信夫が、この必要条件を満たしていたからと言って、彼がその時に認知症の状態にあったということを証明するものではなく、これらはあくまで、認知症当事者が小説を書く際には必要になってくる条件なのである。
   繰り返すが、これらの条件が整って、最後の小説が書かれれば、それは価値のあるものになる。これも先に書いたように、そこにその小説家の全人生が詰まっているからである。
 
   『残光』の最後に、認知症が悪化した妻の姿が記述されている。妻は「愛子」と表記されたり、「アイコ」だったりする。小説家=主人公は寝ている妻に話し掛ける。妻は、「眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんがやってきたんだよ。アナタはアイコさんだね。アイコさん、ノブさんが来たんだよ。コジマ・ノブさんですよ」と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに微笑(えみ)を浮かべて、「お久しぶり」といった。眼はあけていなかった」。
   感動的な話だと私が思うのは、これで妻の死が暗示されていて、また小説家=主人公もやがて死を迎えることが予期されているからである。ここにひたすら家族のことを書き続けた小島信夫の全人生と、その全作品が凝縮されている。
 
   本シリーズ第12回で、亡くなる直前に対談をしたサルトルについてすでに見てきている(注5)。ここでも、この4つの条件がすべて当て嵌まる。その際に私は、サルトルについて、老いを認めずに向きになっているという言い方をしたが、しかし好意的に見れば、サルトルは死ぬ直前まで、自らの信念である実存主義哲学に従って、未来に向けて、前向きに生きようとしているのである。
   つまり私は長い間作家を続けてきた人が、最後にこういう小説を書くことは良いことだと思い、また編集者が手助けをして、対談やインタビューにその発言を残すのは良いことだと思うのである。
   もうひとつ例を挙げておく。
   吉本隆明について、2000年以降は「ぼけていた」と長女のハルノ宵子は言っている。吉本が亡くなったのは2012年3月で、享年87歳である。ということは、晩年の12年間は認知症であったということだ。そしてその間に、夥しい数のインタビューや座談会があって、公開されている。ここでも先の私の挙げた必要条件がすべて吉本にも当て嵌まる。とりわけ、吉本の場合は、インタビューや座談会を、編集者がうまく整理しているのであろうことが窺われる。
   娘は吉本について、以下のように書く。ある日吉本は、自宅の客間の出口が分からなくなって、出口を探し出すために大暴れをする。障子もふすまも破られ、布団もテーブルも吹っ飛んでいたということがある。また別の日は、娘が共産党に金を流しているのではないかと疑って、銀行まで確かめに行くといった行動がある。彼女が医者に相談すると、吉本はレビー小体型認知症ではないかと言われる(ハルノ pp.87ff.)。
   ひとつだけハルノの本から引用をしておく。「父は、他人から見れば最後まで一見マトモだったと思う。インタビューなどにも、事実誤認はあるものの(それは昔からだけど)、そこそこマトモに答えていたし、もともと父の著作を分かりづらくさせていた、表現の”飛躍”の度合いが増して、ますます誤解されやすくはなっていたが、思考にブレはなかった」(同書 p.89)。父親に対する娘からのツッコミはなかなか鋭いものがある。認知症になっても、もともとの性格はそれほど変わらなかったと言うのである。そしてありがたいことに、ぼけてなお、膨大な量のインタビュー類を残したのである。
 

1 公共空間X「老いの解釈学 第7回 小説の中の認知症(1)」, http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12571
2 此田雅昭「テキストは響き合う : 小島信夫「残光」をめぐって」東京学芸大学リポジトリ、2022, http://hdl.handle.net/2309/00173529
3 公共空間X「老いの解釈学 第10回 ぼけと利他とアナーキー」, http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12797
4 注3と同じ。
54 公共空間X「老いの解釈学 第12回 ボーヴォワールはサルトルよりも優秀だ」, http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12934
 
参考文献
小島信夫 『抱擁家族』(初出は1965)、講談社、2020
—-   「女たち」『女たち』(初出は1980)、河出書房新社、1982
—-   『別れる理由I, II, III』(初出は1968 – 81)、講談社、1982
—-   「暮坂」『暮坂』講談社、1994
—-   『うるわしき日々』(初出は1997)講談社、2020
—-   『残光』新潮社、2006
ハルノ宵子『隆明だもの』晶文社、2023
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x13137,2025.05.05)