―戦後国体明徴に向けて―
平成26年11月21日
西兼司
一、義
安倍首相による11月21日の衆議院解散は、「義」に反している。
別に、つい一月前までは我が世の春を謳歌していて憲政史上最長の内閣閣僚集団を率いていた者が、改造を実施したとたんにスキャンダルに見舞われて人気に陰りが見えてきたから、敗北の気配が強くなる前に解散を選択したというご都合主義を指している訳ではない。また、「消費税10パーセント上げ平成27年10月実施」が直近の景気動向が悪くなったから、「延期して平成29年4月実施は景気動向に関係なく実施」することの愚(人気迎合なのか、国債売り浴びせの危険回避なのか、中途半端)を指している訳でもない。さらに、秘密保護法施行改正や、労働者派遣法改正や、女性活躍推進法や、電気事業法改正や、公職選挙法改正や、地方創生法や、平成24年度・平成25年度決算などの重要法案の審議が充分為されぬまま、廃案や先送りにされようとしていることを指している訳でもない。
小泉首相も然うであったのだが、戦後4回の例外を除いて、すべての解散は日本国憲法第7条だけを拠り所として、「内閣の助言と承認」と称して、天皇に国事行為として衆議院の解散詔書を読ませると謂う宣示行為をさせている。これが日本国憲法のまともな読み方に沿ったものでないことは明白である。
国権の最高機関である「国会」の一翼を担う衆議院の解散権を内閣総理大臣が持つというのなら、内閣が国会の上位機関であることは明白になってしまう。然うでないことは明文で明確にされている(憲法第41条)のであって、内閣が解散権という権利を持っているのも憲法第69条で、「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは」と「対抗権」として限定したうえで明記してある。この場合、解散詔書の作成と宣示行為を「助言と承認」できるのだ。
憲法的国体規定に反する首相による衆議院解散は、其れ自体が不義である。
二、機
それでも、それに唯々諾々と従う衆議院議員を解散させ、野に散らす行為は、「機」を得たものと言える。
別に、安倍政治が嫌いで、多かれ少なかれ自民党が議席を減らし「憲法改正」の機運が小さくなる見通しだからではない。また、弱者、貧しい者、病者、高齢者、若年失業者・反失業者など主権者という名の「自然人」に犠牲を強いて、「法人」という不思議な存在の繁栄を通じた国家、国民生活の再建方法が上手く行かなくなるだろうと考えている訳だからではない。さらに、TPPや、日米ガイドラインの改定の先の日米安保再改定や、政府と日銀の違法性の高い癒着や、「北方四島返還」要求による日露平和条約策動の悪意や、総じて世界政策のなさを問題にしている訳ではない。
来年は「敗戦70年」の年である。再来年は「敗戦憲法公布70年」の年である。その翌年は「敗戦憲法施行70年」の年である。来年は「安保条約改定55年」の年である。再来年は「安保条約締結65年」の年である。来年は国連憲章下の「国連70年」の年である。再来年は「日本の国連加盟60年」の年である。そして、占領体制からの「独立65年」はその翌年にやってくる。現在、日本との間に戦争を終わらせていないか、平和的な共存関係を確認していない空間(当然それは「国」ではない)は、ロシア、朝鮮、台湾と明確に指摘できるだけ大きな空間として存在している。
こうした歴史的節目を前にして、敗戦後の日本はどのような国体(国家体制と謂って差し当たり良い)を形成するようになったのか、確認される機会の無いまま、戦後国体は腐朽化している。現状の国民の心理からは新体制は作れないであろう。その「公僕」たる公務員の中の立法職公務員、「国会議員」も同様である。
自らの職責を理解していない公務員などは出来るだけ沢山解職して、出直しをさせるほうが反省の機会が増えてよいはずだ。
戦後70年を前に、自ら解散・総選挙を実施する想像力(憲法第45条)の無い衆議院議員を選挙に追いやるのは機を得ていることである。
三、実
しかし、この選挙には「実」がなさすぎる。
国権の最高機関は「国会」であり、「内閣」は執行機関である。「国会」は立法府であり、そのために国政調査権を持ち、国情を把握したうえで、国会図書館や事務局を使って法案を作り、自ら常任か特別かの差はあるとはいえ、「委員会」を持ちそこで審議を行い、委員会が適切と認めたものは「本会議」で採決し、立法することになっている。「国政調査権」と「立法権」は国会と国会議員に与えられた権力の二本柱である。内閣に仕事を与えてやるのが国会の第一番目の仕事である。「与えられた仕事の経費がこれ位掛りますが宜しいでしょうか」とお伺いを国会に顕てるのが、内閣が提出する「予算」案である。
だから、「国政」という仕事の執行に時間が掛るだろうということで、内閣に仕事を指示する期間は限られていて、それが「会期」という。現在の国会は「第187国会」という戦後憲法下での187回目の内閣に指示する仕事を作っている期間中である。「法律」とは公務員に対する指示書であり、国民に対する逸脱を許さないという命令書である。国民は主権者であるから許さないという命令がない限り自由であるが、公務員は指示書がなくては何もできないのが、法治主義である。
そうした内実が、理解されたことなど一度でもあるのだろうか。国会議員定数722名、国会職員数約4000名である。対して、内閣の下にある国家公務員数約63万9千人、地方公務員276万9千人である。人数比にして、4700人対64万人で、1対136倍以上である。地方公務員の仕事のかなりの部分も機関委任事務、行政委任事務であること、法律でその仕事の大半が規定されていることを考慮して、国家公務員にそれを加えた場合、4700人に対して、340万人である。この比は実に、1対725である。
一人で、725人の役人の行状を「国政調査権」を使って調べて、国情に沿った対策としての「立法権」を行使し、行政を機能させなければならないのだ。これが国会議員一人の仕事だとすれば、その割合は722人であるから悲惨な状況になる。
国権の形が著しく歪んでいるのだ。そこで、議員定数削減だとか、首相は忙しいから国会に出ないですむように国会は控えろだとか、国政調査権は捜査権ではないだとか、議員が悪いことをすれば検察が捜査に乗り出してくれるだとか、すべて、主権者の代理人として選挙で選出された国権の最高機関の構成員の意味が解っていないのだ。
主権者も、国会議員候補者も、「国権の最高機関」の意味を考えながら、選挙に臨むべきだろう。
四、憲法を読もう
私は、護憲主義者と称する人の怠惰が許せない。改憲論者と称する人の偽善が許せない。アメリカ占領軍のした、占領政策を憎む。
勿論、人はそれぞれで一概に分類して評価していけないことは承知しているから、議論する気はあるが、憲法が何であるのかを考えないで、「立憲主義云々」で何か言った気になるのが信じられない。憲法はまず、「国体」を定めるために「国権の形」を定めているのだ。だから、国権を読み解いて、現実の国権がそのように為っているのか如何か、調べて考えてみることが第一歩ではないのか。
現実が優先するのだから、憲法を変えるべきだという選択は当然ある。逆に、現実の国体と憲法が全く違っているのなら、護憲とか、改憲という議論が成立しないだろうという判断もありうる。そして、国体を決めるのは憲法だけではない、ということも確かだ。
しかし、いずれにしてもそうしたことをこそ考えなければならない時代、時期、状況に入って行きつつあることは実感できるはずだ。「国権」と「国体」のことを本当に考えてほしい。
以上
(にしけんじ)
(pubspace-x1242,2014.11.21)