高橋一行
リヨンに滞在して、E.レヴィナスを読んでいる。老いという単語が度々出てくる。身体と他者というふたつのキーワードを通じてレヴィナスを読み直そうと思っていたのだが、身体は必然的に老いるものとしてあり、そして他者はすでに老いたものとして、私の前に現れる(注1)。
もう少し正確に書くと、次のような話になる。まず私は私の身体を所有しているのではなく、私とは私の身体であるということの確認から始める。このことはここ10数年間、私は所有と身体というテーマで論文を書いてきたから、その結論のひとつとして、首肯し得るものである。しかしレヴィナスにとって、この身体としての主体は、すでに傷付き、破綻し、敗北している。こうレヴィナスは考えている。主体とは破損である。それは身体が外の環境に曝され、その皮膚に痛みを覚えているからである。身体は必然的に老いるというよりも、レヴィナスにとって、身体はすでに老いている。
さらにここから他者性が出てくる。私の身体は他者に曝されている。私は他者に対して動揺している。ではこの他者とは何か。レヴィナスの言う他者とは顔である。他者はその顔を以って私の前に現れ、私を脅迫する。
この他者もすでに老いている。顔には皴が刻まれ、皮膚には襞がある。他者は死に曝されている。他者は不意に死すべき存在である。
この他者の死はまさしく私の問題である。他者は私に呼び掛け、それに私が答えないうちに、他者は死んでいく。他者の死に私は追い付かない。レヴィナスの主張をこのようにまとめてみる。
レヴィナスは、本来的に人間はそういうものだと言っている。しかし私は実際に自分が老いて、やっとそういうことが分かる。今や実感として理解できるのだが、それは特にここリヨンにいて、ひとり自分の老いと向き合っているからである。私が以下に試みるのは、このレヴィナスの記述を、私自身の実感で裏付けていくことである(注2)。
レヴィナスの場合も、実際に彼が老い、そして特に第二次大戦を経て、ユダヤ人の無数の同胞がナチスによって殺されたという事実があり、他者という言葉で以って、殺された人々の無数の顔をレヴィナスがまざまざと思い起しているからに他ならない。年を取って紡ぎ出した、このレヴィナスの思考を、同じく年を取った私が解きほぐしていく。以下はその試みである。
前著(『身体の変容』)において私は、私小説を書くように論文を書きたいと言っている。今回もそうするつもりである。またこれも前著において、次の課題は老いであるとすでに明言している。いよいよそのテーマに取り掛かりたいと思っている。
老いは一気に来る。ある日風邪を引く。声がしゃがれる。数日して風邪は治るが、声はそのままで、その時から私の声は老人のものとなる。また海外旅行に行き、エコノミー症候群のために、右目が見えにくくなり、緑内障かと思う。掛かり付けの目医者に診てもらうと眼底出血しているということになり、大学病院を紹介され、そこで複雑な病名をもらって、目に直接注射を打ってもらい、眼底出血はすぐに治る。しかしその時から緑内障が始まる。これはいったん始まると、もう治ることはない。目薬を使いつつ、進行を遅らせるという治療法しかない。つまりこれは老いそのものなのである。老いはある日いきなり始まり、もう元には戻らない。突然起きるということと、不可逆だということ。しかし悲観するほどのことではなく、目についても、適切に治療すれば、完全に失明するのは20年以上先だと言われる。そして実際に失明する前に、私は他の病気で死ぬだろうと思うのである。
さて、私の今のリヨンでの日常を書いておく。これが老いの現状である。まず朝、目が覚めると、ベッドの中で目薬を付け、それから目を開ける。すぐに大柴胡湯去大黄という漢方薬とハイチオールを飲み、それからさらに血圧降下剤を飲む。血圧は毎日計る。血圧計を日本から持ち込んでいる。またこのアパートの部屋には、体重計が置いてあったから、これ幸いと、毎日体重を計ることもできる。夜は歯をていねいに磨く。歯茎が痛み出したら、もうどうしようもない。歯医者からは、万一痛みが出た場合に備えて、抗生物質を貰っている。ほかにも葛根湯や解熱剤を日本から持ってきている。また寝る前には、眼圧を下げる目薬を付けて寝る。そういう生活だ。たまにレストランに出掛けても、牛肉のタルタルと生牡蠣は食べない。本当は食べたくて仕様がないのだが、腹を下すのが怖い。そうやって、知り合いがひとりもいない、病気になっても医療に繋がるすべを知らない、この街で、ひっそりと生きている。
身体は常に老化を意識せざるを得ない。長く机に向かえば、腰が痛くなる。何をしても、すぐに疲れる。それでもう、老いと向き合うというのが、今回のフランス滞在の課題だと思うようにした。ここでひとり静かに、自らの身体的、精神的有り様を見詰め、それを記述していこうと思う。リヨンの11月は霧と小雨の日が多く、寒く、薄暗い。ここでおとなしく過ごす。あとは、フランス語を読む速度が少しでも上がり、リヨンという街を知ることができ、また自分の老いと向き合えれば良い。
身体の劣化については、もう少していねいに書いていこう。最初に言うべきは、この劣化そのものが老いではないということである。この劣化が不可逆的で、つまり改善することは決してなく、あとはその悪化の速度を緩めることができることのすべてで、そして私は確実に死に向かっているのだという、この感覚が老いである。それはもちろん、この歳になったら新しいことに挑戦できないということを意味しない。私は実際無謀にも2、3年前から、フランス語に取り組み始め、また居合の稽古も始めている。それはそれなりに、つまり自分でそれらを楽しむことができる程度には上達するだろう。
ただ以下のことは書いておきたいのである。今まで旅に出ると、どこに出掛けても必ず私はその街が気に入り、この街でこのまま生きていきたいと思う。そこで私は妄想する。まあ2年もすれば言葉はできるようになるだろう。あとは日本人相手に安い宿でも経営するか、通訳でもするかと考え出す。この街の大学で雇ってくれたら一番良いのだがとも思う。今まではそういう妄想を膨らませてきたのである。
そういう感覚が今回はまったくない。つまり私はこの街で新しい人間関係を創っていこうという思いがない。わずか4か月半ほどの滞在でそれができるということはないと思っている。私はもう退職したのだから、その気になれば、数年この街に住んでも良いのである。それは原理的には可能である。しかし日本経済の不振と円安のために、現実的には無理である。すでにこの間に、かなりの程度退職金を使い込んでしまっており、このあとここで働きたいとは思わないのである。またこちらの方が決定的だが、私は内科と眼科と歯科に定期的に通わねばならないが、フランスの医療システムを信用してはいない。それで今はもう、早くこの滞在を終えて、日本に帰りたいとすら思っているのである。
老いとは、このように未来に対する可能性を自ら著しく狭めることであるが、そこで人は過去に向かうことになる。それはしかし決して過去の思い出の中に生きていこうということではない。そうではなく過去に蓄積した知識の体系や構築した人間関係のひとつひとつを大事にして、それを未来に繋げていきたいと思う。ここリヨンで過ごすことによって、私のフランス語の学力が少しは高まり、またフランスの文化に親しむことができる。それは日本に帰ったあとで、研究を続ける上で有益だろう。すでに日本で馴染んでいる生活習慣と日本で築いてきた人間関係に戻り、その中でよりよく生きていくことが可能なはずだ。そのように思っているのである。
私の可能性は未来に向かって無限に開かれている訳ではない。しかし閉ざされている訳でもないので、可能な選択肢の中で、未来に希望を繋いでいくことはできる。
これが私の考える老いであり、または現実に私はこの老いの中に生きている。それは決して悪いものではなく、私は私の老いを楽しむことができる。
しかしそうは言っても、日々老いを自覚させられる。一旦覚えたはずのフランス語の単語がすぐには出てこない。昔はもう少し秀才だったのではないかと自分で思う。あとは反射神経が失われている。フランス語を話すのに、動詞の人称変化や形容詞の変化が瞬間的に整理されて、口をついて出てくるということがなく、考えているうちに、話すタイミングを逃している。あるいは相手が言っていることを時間を掛けて了解するのだが、私が理解した時にはすでに話は先に進んでいる。こういうことは以前アメリカやドイツに初めて行った時もそうだったのだが、しかしいつの間にかそれは何とかなったのだったと思う。語学ができるようになったというより、こういう時はこんな感じで対応すれば良いということが段々と了解されて、相手に合わせることができるようになる。しかしこちらではどうか。どのくらいの時間を掛けたらそうなるのか。そもそも1時間を超えて椅子に座っているだけでも、腰が痛くなって、そういうことが気になると、もう会話に集中できない。
しかし繰り返すが、そういう身体的、精神的な衰えそのものが老いなのではない。そういうことを自覚して、未来の選択肢が限られてくる。そのことをどう自らに納得させられるか。そこからどう未来を創っていくことができるか。
少し過激な書き方をする。今の私は、過去をすべて捨てて、ここフランスで生きていこうとは思わない。若い時でもそういうことは難しいのだが、しかし不可能ではないと思う。難民となったり、亡命をするということはあり得る。つまりそういうことを余儀なくさせられる場合もある。しかしこの歳になると、それは絶対に不可能だと思う。そういう体力も気力もない。そういうことを確認して、もう少し思索をしていく。
一体老人は未来の可能性が少なくなり、しかしなくなった訳ではないので、死を意識しつつ、より良く生きていきましょうといったことを、私はここまで書いてきた。しかしこの程度のことを言うのに、何もレヴィナスを使う必要はないのである。老いが身体の老いを意味するだけでなく、時間の不可逆性の自覚であるということも当たり前の話だ。レヴィナスの思考はもっと根源的なものである。それは他者の問題である。
レヴィナスにとって、老いは他者の問題である。そこを明確にすることが必要だ。しかし他者とは何か。私にとって他者とは誰か。
レヴィナスに従って、他者とは死者だということで、私にとって死者とは誰かということを考えてみる。すると2年前に急死した弟のことがまず真っ先に思い浮かぶ。彼はある日、心臓の痛みを訴えて、救急車で真夜中に病院に運ばれる。翌日手術をすべく、胸を開いたら、もう手の施しようがないという事態になっていて、さらにその翌日の未明に亡くなったのである。前兆も何もなく、外見は健康的で、忙しく働いている最中の出来事である。
体質も体型も瓜ふたつの、5年年下の弟の死は、私に衝撃を与えるには十分過ぎるものである。なぜ私ではなく、弟が先に死ぬのかという問いは、葬儀の間ずっと私を襲い、その後もこの2年間ずっと私から離れない問いである。しかし「体質も体型も瓜ふたつの、5年年下の」という条件が付かなくても、人の死は、本来的に、なぜ彼または彼女が死に、それは私ではなかったのかという問いを私に突き付けるのである。老いとは、私にとって、そういう問いがいくつも蓄積されていくことを意味する。そして蓄積の結果、それが閾値を超えれば、人は一気に老いるが、その老いは不可逆的なものである。
実際、弟の死ののち、私の人生はかなりの変容を蒙ることになる。簡単に言えば、その時から私の老いは紛ごうことなきものとなったのである。前々から考えていた退職は、もうこの時から確実に実行すべきものとなる。その後は結構忙しくなる。職場を早期退職する手続きを取り、あらたに居合の稽古を始め、フランス語の勉強にも取り掛かる。居合を始めたのは、今まで長く続けてきた空手をこれ以上続けることに限界を感じ始め、しかし何かしら武道は続けたいと思ったからである。フランス語も、今取り挙げているレヴィナスをはじめ、何人もの気になる思想家の著作を原文で読みこなしたいと思ったからである。
そうしてやっと、ここリヨンに私は来た。ここでは妻と言い合うこともなく、友人から飲みに誘われることもなく、平穏無事というより、何もすることがないというのが正直なところである。フランス語で資料を分析し、英語で論文を読み、かつ書くというのが、一応建前では、私の仕事である。しかしどうも熱が入らない。あとは散歩に出掛け、買い物に行き、昼はサンドウィッチを食べ、夜はハムとチーズとトマトという簡単なつまみを用意して、ワインを飲む。退屈な日々が過ぎていく。そうして唯一向き合わねばならないのは、私の身体の衰えと、弟をはじめとする、私が親しかった人々の死である。
そこでレヴィナスが参考になる。まずレヴィナスにとっては、私が他者を認識し、他者の像を構成するのではない。レヴィナスの考えでは、他者が根源的で、他者は世界の外にあり、その他者が到来することで、私が私として、つまり他の誰でもない、この私をこの私として構成する。こういうことがレヴィナスの考えの根本にある。
そしてこの他者は老いた存在である。または他者はすでに死者である。すでに死んでしまった他者、そして私が今その他者を思い出すときには、老いた顔を思い出すしかない他者が根源である。
実際私は老いてきて、死者の記憶が蓄積されている。親や親の世代の人が亡くなると、それは順番だから仕方がないと今までは思ってきたのだが、最近は、私と同世代か、少し下の世代の人が亡くなる。そうすると、先にも書いたように、本当は私が死ぬべきだったのではないかという思いに囚われる。なぜ彼、または彼女が死に、私が生き残っているのか。
老いるということは、このように死者の記憶が蓄積されていくことなのである。そしてこの死者たちが私を形作っている。お前も確実に死ぬのだと死者たちは私に対して言う。ここリヨンで、私は死者に囲まれて生きている。
以下、再度私はなぜリヨンにいるのかと自分に問う必要があるだろう。
まず私は若い時から外国で暮らすのが夢だったのだが、極貧の家に生まれて、20歳までは貧しさに苦しめられ、その後は働くようになって、しかしすぐには貧しさから抜け出せず、生活が落ち着いたのは30歳になる頃である。しかしそうなると、今度は仕事が忙しすぎて、外国に出掛けることなどできない。短い旅行で気を紛らわせていたのだが、幸い36歳で大学教員になり、40を過ぎてから、在外研究に出ることができる。アメリカに1年余り、ドイツに1年弱滞在する。これが私の外国生活体験であり、今思い出しても、本当に楽しかったのである。
そもそも私は、15歳で太宰治を読んで、いずれは私も酒と女に溺れる生活をするのだと思い、今度は堀辰雄を読めば、信濃追分で静かに散歩をしながら、人生を送りたいと思う。ヘルマン・ヘッセを読めば、ドイツの自然に憧れ、ドストエフスキーを読めば、寒く暗いロシアで暮らすのも悪くないと思う。要は性格が単純で、すぐに感化される。
しかし実際には10代後半からアルバイトを掛け持ちし、その内学習塾を経営し、予備校講師も務めると、今度は猛烈に仕事に追われることになる。やっと大学教員になって、それらの仕事から解放されたかと思うのだが、いつのまにか、ここでも様々な仕事が降り掛かってきて、こういう雑用をするために大学教師になった訳ではないだろうと反省をする。結局、退職金と年金が確実にもらえる年齢になったら、早めに退職したいと思い、ようやく今年の3月に、念願叶って、仕事を辞めることができた。
当初は、数年は外国で暮らしたいと思っていたのである。しかし先にも書いたように、日本経済の不振と円安のために、それは無理だと思う。例えば以前ドイツにいたときに、ケバブは3ユーロもしなかったという記憶がある。食費を安く抑えるために、いくつかの店を回って、ケバブの食べ比べをしたのである。しかしこれがここリヨンでは10ユーロもする。今のレートで1600円である。昼食にここまでお金を掛けられない。比較的安いサンドウィッチにしても、以前ドイツでは3ユーロくらいで、これが当時フランス旅行をすると、そこでは4ユーロして、これが高いなと思った記憶があるが、しかし今のリヨンでは6ユーロ前後である。これだって十分高い。いきおい、かなり切り詰めた生活を余儀なくされている。
それに加えて、先に長々と書いた、身体の老いという大問題が発生する。それで数年の予定を半年に切り詰め、そういう予定でフランスに滞在したいと思い、知り合いにどこかの大学で研究員として受け入れてもらえないかと頼み込む。そして実際にはビザを取るのに様々なトラブルに遭って、出国は9月下旬になってしまい、来年2月上旬までの4か月半の滞在となったのである。
さてフランスには、S. ジジェクの研究をするという名目で来た。ジジェクはヘーゲルとラカンを読解して、自らの思想を作り上げているのだが、ほかにも様々なフランスの思想の影響下にある。その研究をしたいと思い、まずはレヴィナスを読み始める。ジジェクは猛烈にレヴィナスの批判をするのだが、しかし両者は案外近いところにいるのではないかというのが、私の見立てである。
実際リヨンに来てみると、しかしフランス語の学力が覚束なく、すらすらと本を読むという訳にはいかない。初歩的な勉強に追われることになる。さらには一日の半分をフランス語の勉強に充て、残りの半分は英語で論文を読んだり、書いたりすることに充てるつもりだったが、精神的にはこれが結構きつい。要は私に語学の才能がなく、外国語だけで生きていくのは無理なのである。結局日本語で本を読むのが楽しくなり、ついには日本語で文章を書き始めた。これが精神的には楽である。無理はしない方が良いと自分で自分を慰める。
11月半ばの現在、これから一か月余り先の冬至に向かってまだまだ日が短くなるのだが、すでにもう十分暗く、寒さももっと厳しくなるのかもしれないが、すでに十分寒い。散歩の時間は短くなる。今までの2か月弱は、散歩が一番の楽しみだったから、これは辛い。こうなると、日本語で文章を書くのが唯一の癒しである。
注
1 老いというテーマで、何回か連載したいと思う。テキストを読解しつつ、自らの体験を交えたい。
2 資料については、日本に帰ってから、レヴィナスの原文、訳書、解説書を揃えて、参照したものの正確なページ数を書きたい。今は手元にある資料が限られていて、それができないことをお詫び申し上げる。現在使っているのは、ふたつの主著『全体性と無限 外部性についての試論』と『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』である。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x12212,2024.11.16)