ヘーゲルを読む 5-2 自然と精神(マラブー論2)

高橋一行

5-1より続く

5-1の脳論から、5-2の「自然と精神」論が出て来る。ヘーゲルは、しかし、自然としての類人猿の脳が発達して、精神を持った人間が出て来るとは考えていない。自然から精神への移行には、もうひとつの無限判断論が必要になる。
  
マラブーは、ヘーゲルの『エンチュクロペディー』を評価している。そこには、可塑性の概念が縦横に使われているからだと言うのである。
マラブーは、『ヘーゲルの未来』において、その序で、可塑性の概念を扱い、それは、前節5-1で説明した。その後、彼女は、本文に入って、「精神哲学」を第一部で扱う。以下、「精神哲学」を説明する。
 
ヘーゲルを理解するひとつのコツは、目次をまず、頭に入れてから読むことである。『精神現象学』の構成については、2-2で書いている。そこから入ってもらえば、『精神現象学』全体の理解が容易になる。
今、ここでは、「精神哲学」の読解をしたい。まず、『エンチュクロペディー』は、次の三部から成る。
第一部 論理学(これが、「小論理学」)
第二部 自然哲学
第三部 精神哲学
 
この「小論理学」については、後の章で扱う。「小論理学」と『大論理学』の違いについて言えば、この二冊は分量も相当に違い、従って説明の仕方もずいぶんと異なるが、しかし、基本的な発想は同じだと私は考える。以下、この二冊を総称して、「論理学」と言う。因みに、「論理学」の研究書は、たくさんあるが、まず、ヘーゲル研究者以外は、読むことがない。私は、ヘーゲル研究者でない人に、その面白さや意義を知ってほしいと思う1
それから、先に書いた『精神現象学』については、これも実にたくさんの解説書があり、そしてこれについては、ヘーゲル研究者以外も読むのだけれども、おびただしい誤解と誤読があり、私はそれを指摘したかった。さらに言えば、『精神現象学』は、「論理学」を読まなければ、その意義はわからない。本稿2章で指摘したように、無限判断という言葉をどちらでも使っているが、その概念は随分と異なる。その違いと連関を理解することが必要だからである。
これは『法哲学』についても、言えることである。つまり、この書も、マルクス主義研究の中で、しばしば取り挙げられてきたが、しかし、正確な理解をしているものは少ない。私は、前著で、『法哲学』の所有概念を扱ったが、これは、「論理学」の判断論をベースにしている。従って、「論理学」の理解がないと、正確にその意義を把握することができない。
因みに、加藤尚武は、ヘーゲルのメインのラインは、若き日の草稿群(1803-6)と、みっつの『エンチュクロペディー』(1817,1827,1830)だと言う2。『大論理学』や『法哲学』は、そのラインの中に位置付けられる。それに対して、『精神現象学』(1807)だけが異質である。その異質なヘーゲルだけが、しばしば、ヘーゲルを表しているものとして取り挙げられる。しかし、他の著作と比較して、その異質性を理解することが必要である。
さて、今回取り挙げるのは、『エンチュクロペディー』第三部の「精神哲学」である。これは、ヘーゲル研究者でも、参照することの少ない著書であるが、意義は十分ある。この「精神哲学」は、『エンチュクロペディー』の最後の部を成す。上述のように、ヘーゲルのメインのラインの最後の部分である。その記述の中から、ヘーゲルらしさを十分に感じることができる。
 
この「精神哲学」は、以下のようになっている3
第一篇 主観的精神
   A  人間学 魂
     a 自然な魂
     b 感ずる魂
c 現実的な魂
B 精神現象学 意識
C 心理学 精神
 
第二篇 客観的精神(法哲学)
 
第三篇 絶対的精神
   A 芸術
   B 宗教
   C 哲学
 
以上である4
 
第一篇Bの「精神現象学」は、『精神現象学』と構成も、また記述も異なっている。それは、この『エンチュクロペディー』が、初版が1817年で、私が使っている第三版が1830年のものなのに対して、『精神現象学』は1807年に出ており、『エンチュクロペディー』が出るまでに、考えが相当に変わったことは推測できる。まったく別物と言って良い。具体的な違いについては、少しだけ、後に触れたい。また、第二篇「客観的精神」は、1821年に出た『法哲学』と、その目次は対応し、その発想は同じであるが、しかし、記述は、きわめて圧縮化され、また省略されている。
 
ここでマラブーが取り挙げるのは、第一篇「主観的精神」のA「人間学」である。そしてさしあたって、私は、マラブーの解釈に即するのではなく、ヘーゲルに即して、ここを見て行きたい。
直ちに言えることは、この「人間学」は、「精神哲学」の最初の箇所であり、つまり、それ以前の自然についての記述から、精神についての記述に移った最初のところだということであり、つまり、まだ自然性を多分に残した、精神についての記述だということである。
ヘーゲルの体系において、自然は発展する。そして、ついに精神になる。ここで、時間的な展開が考えられているのではない。進化論が考えられるのは、ヘーゲルの後である。しかし、論理的に、自然は発展して、精神になる。その記述から、私たちが、事実上、進化論的展開を見出すことは可能である。「精神は自然の真実態として生成した」(12節)からである。
第二に、先に、『精神現象学』の分析において、ヘーゲルは、精神一元論的である、という言い方をした。しかし、ここでは、精神は、自然から出て来たものであり、最初は、とりわけ、自然性を色濃く持っており、また、その後も、自然を、いわば、自らの親として、それを乗り越えていくことが記述されている。そこを強調したい。
この「人間学」について、次のようにまとめてみる。
まず、精神は、最初は、普遍的な魂である。それはまだ精神ではなく、「単純な一般性」(12節)であるに過ぎない。それが、自らを具体的なものへと分化し(17節)、そして、個別的主体に至る(19節)。そしてそれを、ヘーゲルは、「自然的な魂」と呼ぶ。
しかし、自己は、自らを生成する運動をすれば、するほど、自己を喪失する。具体的には、まず、精神は、覚醒している魂であるのだが、これは、その対立の状態、つまり睡眠に陥る。これは、精神が、「主観性の一般的本質へ復帰する」ことであり、「あらゆる自覚的理性的活動の強化」(22節)である。そして、この対立して現れる覚醒と睡眠が、互いに否定的な関係を持つ。覚醒している魂は、睡眠の本質を自己の中に保存している。そのようなものとして現れた精神が、感覚である。
また、魂は、この感覚の、反省された全体性に過ぎないのだが、これを自己自身の感覚としてとらえられるようになると、これは「感じる魂」という、次の段階になる(26節)。そしてこれはさらに、自分の感情として、自己自身の中に、この主観を定立すると、それは「自己感情」になるのだが(31節)、その前に、魂、魔術(29節注)だとか、夢遊病(30節)だといった状態に陥ることになる。というのも、精神は、まずは、「闇の中に」あり、「病気という不適合性」の中にあるからである(28節注)。
 そしてこの「自己感情」も、まずは、精神錯乱の状態の中にある。ここでは、主体は、自己感情という特殊性に固執していて、その段階を克服できないでいる(32節)。
この狂気から、主体を解放するのが、習慣である(34節)。魂は、諸感情という特殊性、つまり身体性を、心の存在として鋳造する。感情諸規定を反復し、その特殊性を陶冶するのである。習慣の産出は、修練として現れる。身体性は、主観的目的に服従させられる。かくして、現実的で、個別的な魂が生成する(35節)。
 
以上の記述の中で、注意すべきは、これらの記述は、魂が、自然=身体から発生し、如何に、その身体性を克服していくかという観点からなされているということである。池松辰男を参照して、再度、以上の進展を見ていきたい5
魂は、まだ最初は、即自的な精神であるにすぎないのだが、この「人間学」の叙述において、精神を本来の境地にまで高めるための準備をする。これがまず、ヘーゲルの目的である。その際、まず、魂は、物であると考える。魂は物として、身体と区別されず、身体の中に没入している。つまりまだ、魂は眠っている。この最初の段階から、如何に、魂が意識へと目覚めて、主体と身体という契機が分節化されるか。これが課題である。
魂と自然的存在とが分かれる、最初のポイントは、魂が感覚を持つということである。魂は、身体的な感覚を持つ。しかしまだ、感覚する魂は、この感覚の総体と区別されていない。それを克服するものが、「感じる魂」である。ここに至って、魂は、感覚の総体を、自己の内に感じ取ることができる。しかしこの感情は特殊なもので、魂は、この特殊な感情においてある限りで、自己感情である。
ここで、自己感情は、特殊なもので、つまり極端に主観的なものである。しかしそれは同時に、身体的なものに過ぎず、客観的なものでもある。この矛盾が、狂気である。先に書いたように、狂気とは、自己感情の特殊性が克服されないものであった。身体との関連で言えば、魂が、身体性へと戻るとき、魂は病む。
それを克服するのが、習慣である。ここで、習慣は、「第二の自然」と呼ばれる。習慣は、自己感情を機械的なものに作り替える。感覚内容を反復することで、順応し、欲望に対する無関心な態度が出てきて、最後に身体は、熟練と呼ばれる段階に至る。元々は物に過ぎなかった魂が、習慣化された身体を通じて、自然性を克服し、自己の内面を表す主観性を得る。つまり、魂は、自我へと高まる覚醒をなし、意識となる。この意識の経験を扱うのが、次の第二篇「精神現象学」である。
 
ここで話を脱線させて、先の(拙論第2章で扱った)『精神現象学』の記述と、この、「精神哲学」第二篇の「精神現象学」との違いについて、一点だけ述べておきたい。
まず、後者の承認論を見る。55節から、引用する。
 
承認の過程は闘争である。というのも、他者が、私にとって、直接的な他の定在である限りは、私は、他者の内に、私自身を知ることができないからである。それ故、私は、他者の、この直接性を廃棄するよう、心掛けている。・・・しかるにこの直接性は、同時に、自己意識の身体性である。そして、自己意識が、自己自身の自己感情と、自己の他者に対する存在と、自分を他人と媒介する関係とを、自分の記号、及び道具として、まさにこの身体性において、持っている。
 
ここでは、その前半部において、『精神現象学』と同じく、生死を賭けて、つまり、他者の身体の廃棄を目指すという面とともに、『精神現象学』にはない、「自分の記号、及び道具として」の身体性という表現があり、そして自己感情という言葉まで出している。これは、先の「人間学」を受けての話で、身体は、ここでは、私と他者とを結び付けている6
つまり、相互承認論は、「人間学」の帰結としての身体がなければ、意味を持たない。池松は、「私が私であるためには、私は他者によって、しかも私に固有の身体において、承認されなければならない」(p.159)と、まとめている。
『精神現象学』では、確かに、精神一元論的な記述がなされていた。しかし、この「精神哲学」では、自然と精神の二元論をどう克服するかという、ヘーゲルの問題意識が見られる。そこにおいて、自然の精神性と精神の自然性とをどう見るかが論じられる。今回は、この後者しか、見ていないが、いずれ前者についても扱いたい。つまり、「自然哲学」の扱う自然の中に、どのように、精神が潜在しているのかを、詳述したい。いずれにせよ、ヘーゲルを、『精神現象学』でしか判断できない狭量は、悲しい。
 
さて、ここから、マラブーのヘーゲル解釈を見て行く。
まず、彼女の注目するのは、普遍的な魂が、如何にして、個別的な魂へと生成するのか、その大きな道筋に注目する。この形成は、危機であると、彼女は言う(p.62)。「人間学」における自己の危機は、これは先にみたように、長く複雑である。睡眠状態があり、魔術や夢遊病を経て、精神錯乱の状態まであって、そうしてやっと、魂は、個別的主体になる。「自己は自分自身を構成する運動を遂行すればするほど、ますます自分自身を喪失し、狂気に達する」(同)。
危機は、ヘーゲルの言葉で言えば、判断の過程にある。判断(Urteil)は、原始的分割、根源的分割である。自己は分割し、それぞれの自己が特殊な感情を持つ。しかし自己は全体性でもあり、その全体性としての自己と、特殊な感情としての自己との間にあるのが、精神錯乱なのである。ここで、魂は自己を所有せず、自己に所有される。つまり、自己に憑りつかれる。
この状態から魂を解放するのが、「習慣」である。「習慣が抵抗力や活力を徐々に失わせるような生の減退作用であるとしても、それは同時に、主体性の生命力と恒常性をその発展を通じて確保する」。つまり、習慣は可塑的なのである(p.52f.)。ここで可塑性が出て来て、これこそが、「人間学」を動かす原理であることが主張される。
そもそも習慣のラテン語habitusは、所有するという意味の動詞habereから来ている。そして前著の私のテーマは、所有とは、判断であるということであった7。マラブーもこのことに言及する。習慣とは、主語と述語の再び見出された統一であり、判断という人間的契機を、弁証法的に止揚する。その帰結は、現実的な個別性である(p.70)。
すると、マラブーは、ここで無限判断という言葉は使わないけれども、事実上、無限判断に言及している。習慣は、可塑性である。そしてそこに、無限判断の原理が成り立つ。マラブー自身は、「習慣とは肉体を(魂の)道具へと加工する可塑的操作である」と言い(同)、『エンチュクロペディー』を、「可塑性の実践」(p.48)と呼ぶ。これは無限判断の原理が働いて、自然から精神への発展があり、個体が成立するということに他ならない。
またその際に、もうひとつ注意すべきは、否定性という観点である。これが、ヘーゲル哲学の原理であり、そこをマラブーも強調する。ヘーゲルの言葉で言えば、それは、否定的自己関係である。ここから、可塑性が説明できる。つまり、可塑性は、否定的可塑性である。それは、破壊することにより、創造する。
ここでは自然から精神への、発展の仕組みを、その否定性を重視して見て行くことと、まとめることができる。
もう一度、まとめてみる。
感覚は、普遍であり、感じる魂、自己感情、習慣は、特殊であり、現実的な魂は、個別である。つまり、概念が自己分割して、普遍、特殊、個別となり、判断を経て、推理論的に結び付けられるという、論理展開をここで踏んでいる。しかも、一般的に、推理において、個別が生成するが、ここでは、特に、その際の、否定性を重視しており、これは、まさに、判断論の最後の無限判断を重視するということに、他ならない。もちろん、マラブーは、無限判断と言わないし、「否定の否定」とすら、言わないのだが。


1 『精神現象学』について、解説書を出している竹田青嗣は、その本の「はじめに」において、『大論理学』について、哲学として使い道がなく、過去の遺物であるまったく意義がないと断言し、また、その他の著作も、『精神現象学』の注釈に過ぎないと言っている。そのことに、彼の哲学の限界が現れている(竹田青嗣・西研『完全解読・ヘーゲル「精神現象学」』講談社2007)。
2 加藤尚武「ヘーゲルによる心身問題のとりあつかい」『ヘーゲル論理学研究』No.19, 2013
3 「精神哲学」は、岩波文庫が入手しやすいが、その番号は、『エンチュクロペディー』の番号が、全三部を貫くものであるのに対し、ここでは、「精神哲学」だけの番号となっている。つまり、翻訳の第1節は、原文では、377節であり、以下、すべて376を、翻訳の節の番号に足すと、原文の節の番号になる。
4 die Seeleは、岩波文庫の船山信一の訳では、「心」となっているが、ここでは、「魂」と訳す。
5 池松辰男「承認の条件としての身体 -ヘーゲル「人間学」における「身体」の意義-」『倫理学年報』No.62, 2013
6 この観点も、池松から示唆を受けた(同論文)。
7 所有物を獲得し、承認なされる、所有物を使用する、所有物を譲渡・贈与・売買する、という3段階が、判断の、肯定判断、否定判断、無限判断に相当するということ。そして所有とは、無限判断によって、把握される概念であるということである。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1063,2014.07.11)