齋藤恭一
「連れて携へてゐ」るか、あるいは「連れがなくとも金と健康を持つてゐる人」のための銀座に、尭(タカシ。梶井の分身)は「何をしに自分は来たのだ」とくり返す。「陶器のやうに白い皮膚を翳らせてゐる多いうぶ毛。鼻孔のまはりの垢」の所有者――即ち肺病という死の病が梶井ののっぴきならぬ現実であった。(『冬の日』)
「平常自分が女、女、と想つてゐる、そしてこのやうな場所へ来て女を買ふが、女が部屋へ入つて来る、それまではまだいい、女が着物を脱ぐ、それまでもまだいい、それから以上は、何が平常から思つてゐた女だらう。『さ、これが女の腕だ』と自分自身で確かめる。然しそれはまさしく女の腕であつて、それだけだ。そして女が帰り支度をはじめた今頃、それはまた女の姿をあらはして来るのだ」(『ある心の風景』)
「女」の実在は確かなのか。とまれ実体は在っても認識しえぬのではないか。認識とか所有とか、所詮妄想にすぎぬのではないか。
「信子の着物が物干竿にかかつたまま雨の中にあつた。筒袖の、平常着てゐるゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だつた。その故か、見てゐると不思議な位信子の身体つきが髣髴とした」(『城のある町にて』)
かえって浴衣に「女」が感得される。観念に呪縛された人間の宿業である。芸術も、とどのつまりは、この域を出ぬ。
肺病にとりつかれた梶井は、まずは絶望的にあがき、もがいた。必死にあがき、もがいた。限られた己が寿命を刻一刻吐く息のたびごとに思い知らされながら、それでも精一杯生きた。そんな時代なのであったか、と思う。精一杯生きること。それは何も梶井に限られぬ。小林秀雄も石川淳も精一杯生きた。時代の要請、否脅迫ではなかったか。「普賢」に石川淳は生きている。「常なるもの」に小林は行き続けた。それが少なくとも近代文学であった。精一杯生きた証し、それが文学であった。汎く太古の昔より、名称は何でもよい、芸術だろうが宗教だろうが、はたまた何にまれ、精一杯生きたことに人間は真の感動を覚えて来た。今、それは那辺にあるか。どうもいつごろからか狂ってきた。それは敗戦と無関係ではあるまい。杉浦明平は、石原慎太郎の『太陽の季節』を評して、それまでの日陰の文学を陽の当たる場所へ引きずり出したという。半面はそのとおりであろう。が、文学という構造からすれば、これは自己破壊である。現実即文学ではない。文学の場は虚構にしかない。石原の小説は、所謂カッコいい当世風の風俗をセンチメンタルに皮相になでさすったにすぎぬ。それぞれの主人公は石原の分身ではない、いわば一夜妻的行きずりの類型にすぎない。登場人物は彼にとってはいとおしい人間ではない、ペットか物だ。ドラマの役者の危険な役割を、彼は悪用したのだ。古来日本人は「新しさ」に弱い。その基底はどうでもよい、目先が変わればとびつくのである。以後の芥川賞の作品は全てかかる価値観によって日の目を見て来た。江戸のことばでいえば、カブキものが羽振りを利かしている。折角の個我の覚醒運動も、百年を待たずにもろくも崩壊してしまった。
「歩け。歩け。へたばるまで歩け」、「歩け。歩け。歩き殺してしまへ」かくして「やつと温泉に着いて凍へ疲れた四肢を村人の混み合つてゐる共同場で温めたときの異様な安堵の感情」(『冬の蝿』)
惜しくもこの短篇は発展せずに終った。人あるいは「交尾」や「筧の話」に梶井の安住境を認めるかもしれぬが、それらは、
「自分の生活が壊れてしまへば本当の冷静は来ると思ふ。水底の岩に落ちつく木の葉かな……(内藤丈草)」(『冬の日』)なる理念にすぎない。生あるかぎり、静的にとどまるは許されぬ。
梶井の全集はたった三冊である。それも第一巻に「作品」および「習作」は収め切られ、第二巻は「遺稿・批評・感想・日記・草稿」――つまり雑文である。第三巻は書簡だが、実はこれが梶井の人と為りを如実に物語って余すところがない。恐らく創作同様の熱意をもって、しかも自在な気持ちで、彼は手紙をものしたのである。書簡体を巧妙にフィクション化した「オーベルマン」はいうも更なり、文人の書簡体も優に一つのジャンルを主張しうるかもしれない。
(さいとうきょういち 国文学者)
(pubspace-x1029,2014.06.20)