他者の性

高橋一行

 

社会学者三部倫子さんの著書『カムアウトする親子 -同性愛と家族の社会学-』(御茶の水書房)を読む。著者と知り合う機会があり、すでに私は内容を聞いていて、その扱う範囲については、予想通りのものなのだけれども、そのインパクトは、想像を超えて、大きなものだ。つまり同性愛についての研究は、今までもあり、私も読んでいるけれども、ここでは、その家族関係がテーマとなる。そして、親子関係こそが、根本であると私は思っていて、しかし、それを扱う研究を読むのは、初めてである。一個一個の事例が、あまりに重すぎる。私は、何か書かずにはいられないと思う。以下は書評ではない。著書に触発された、私の想いである。

かつて私の子どもが登校拒否で、その経験を書いたことがある(『教育参加 -学校を変えるための政治学-』新読書社)。そこで私は、登校拒否の問題は、親子関係の問題と書いたのだが、それは著しく誤解されて来た。こういうことが私の言いたかったことである。つまり、登校拒否の原因がしばしば議論される。しかし私の見るところ、原因は多くの場合、複合的であり、本人が自覚していない場合もあり、また、制度的な問題でもあり、そうして制度を変えるのは容易ではないから、要するに、原因を問うことは、無意味である。それは偶然の問題と考えるべきである。

ところが、世の人が原因を問うのは、それを「治したい」と考えるからに他ならない。子どもを「治したい」と考えるのが一番の間違いで、ただ単に、子どもは学校に行かれないという事態があり、それに対処するには、学校以外に子どもの居場所を確保すれば良く、多くの場合、それは自宅であり、子どもが自宅で健やかに育つよう、環境を整えれば、それで問題はあらかた解決する。その際に、親子関係が根本で、親子関係が良ければ、子どもの苦しみは、大きく減じることができる。

しかし、このことは理解してもらえず、親子関係が根本だと言うと、世間は、やはり登校拒否の原因は、親にあるのだと言いたがる。実際、子どもの登校拒否に悩み、自責の念強く、自殺した母親を私は知っている。いや、一度は死のうと思わなかった母親はいないと断じても良いくらいだ。夫婦互いに相手を詰って、遂には離婚した夫婦もいる。それくらい深刻な問題だ。しかし、繰り返すが、問題のポイントは、親子関係のみが、子どもの苦しみを減らすことができるということにある。そしてさらに言えば、一体、子どもはどんな環境でも成長するものだが、むしろ、親が、こういう経験を糧に成長すべきではないか。つまり、親子関係が根本だというのは、何も、登校拒否の場合に限ったことではなく、世のすべてに当てはまることであり、しかし、登校拒否の経験は、親にそのことを自覚させる。それはありがたい経験であると思うべきなのである。少なくとも私の場合、それまで猜疑心が強く、自己韜晦の癖がある青年だったけれども、子どもを信用し、子どもから信頼され、子どもとともに育つことができたと思う。

さて、そういうことがあり、そういうことを人に話して来た。今、私は大学の教員で、多くの学生と接触があるが、自分がかつて登校拒否だったという学生は、実に多く、彼らから悩みを打ち明けられることは多い。そしてまた、カテゴリーは全然違うけれども、三部さんがここで取り挙げる、同性愛者や、あるいは、性に関して、身体と自分の意識が異なる学生から、相談を受けることがある。ただ単に、相談しやすいと思われているだけのことなのだが、しかしこの場合も、多くは親子関係がうまく行かず、そこが悩みの根本になっているように、私には思われる。だから、三部さんの著作は、まさに私が求めていたものだった。

しかし、この本は、ハウトゥーものではなく、つまりどうしたら良いのかということに応えるものではなく、実によく事例を調べて、まとめていて、素晴らしい研究書になっているのだが、しかし読者は、一層、事態の困難さに悩むことになる。

こういう風に言うことができる。これは、三部さんの説明とは違って、私自身が、ラカンやバトラーに影響されて思うことなのだけれども、性というのは、生物的に規定されるものではなく、親子関係の中で、つまり、父親と異性なのか、同性なのか、また母親と異性なのか、同性なのかということで、複雑な葛藤があり、子どもから見れば、他者からの圧倒的な力が働き掛けられていて、それを受けて、子どもが様々な物語を自分の中で作り上げることで決まって来るものである。それは根本的に、別様であり得たかもしれないという観念の中で、形成される。しばしば精神分析学で使われる、ファルスという言葉を使えば(これは、男性器そのものを指すのではなく、男性器を巡る表象、ないしは、象徴としての男性器を指す)、男の子は、まずファルスを取られてしまうのではないかという去勢不安があり、しかし、一所懸命労働して、親に認めてもらおうと思うかもしれず、逆にその不安から、ファルスの知覚を否認するかもしれない。一方、女の子は、ファルスなど欲しくないと思ったり、また逆に、ファルスが自分にはあるのだと思ったりする。様々な物語が子どもの中で、作られるが、そのどの物語を、それぞれの子どもが作るかは、偶然の問題だ。

こういった、フロイト的解釈を、私が、自分自身の経験に照らし合わせて考えると、それは実感で納得の行くものではなく、何もそこまでして、苦しい解釈をしなくてもと思うのだが、ひとつには、これは大人になってからの、意識的な操作ではないから、つまり無意識のことは分からないだろうし、とりあえず、このように考えておくと、頭の中は、整理される。重要なのは、様々な選択肢の中で、現在の姿は偶然の結果に過ぎず、いくらでも別の選択肢を選ぶ可能性はあり得たのであるということを自分に納得させるには、十分良くできた解釈である。そして、少なくとも、私自身が女性に性的関心を抱くのは、自分が生物学的に男であるからではなく、男だと周りに言われて育ち、自分でそう思い込むようになり、その物語化の結果として、女性に関心を持つに至るという道筋は、これは実感としても納得が行く。

偶然の問題に過ぎないのであれば、誰が悪いという話ではないのに、しかし、異性愛者の親は、同性愛者の自分の子どもに対して、育て方が悪かったのかとか、妊娠中の環境が悪かったのかと、自責の念を持つのがしばしばであると、本書は説明する。それは、先の登校拒否を巡る言説の中で、母親に、母乳で育てたのかという質問をする世間の対応を、そしてそのことに苦しめられた経験を、私に思い起こさせる。この人たちは、一体どうしてこのようなことを聞くのかと思ったものだ。

子どもが大人になれば、自動的に解決する登校拒否の問題と、生涯続く性の問題を、同じレベルで語るのは、申し訳ないと思う。しかし、この生き辛さの原因は、性に関して、身体と意識が異なること自体にあるのではなく、要は社会にあり、自分の存在は、別様にもあり得たし、それは他者との関わりの中で、偶然決定されているに過ぎないということを理解するには、あとちょっとだけ想像力の幅があればと思うのである。

 

p.s. 本書の最後に、親のサポートを目的に作られたセルフヘルプグループが紹介されている。そこでのやり取りは、またもや、私が、10数年前に関わっていた「登校拒否の親の会」を思い起こさせる。母親の参加が多く、父親は少数だったことや、初心者の親が泣きながら、子どもの話をし、私たち常連の親は、黙ってそれを聞くだけなのに、その本音を出すことで、互いに救われて行くという、会のあり方は、よく似ていると思う。

わたしたちは、子どもが大きくなった今も、現役の親とは別に、定期的に集まって、お茶を飲み、時に酒を飲みながら話をする。今の私たちの共通の認識は、以下の通りである。つまり、子どもは勝手に大きくなるが、大変なのは、親がどう生きるかということだ。親の会は、だから、今でも続いている。

 

(たかはしかずゆき 哲学者)

(pubspace-x1030,2014.06.26)