日本の安全保障問題を考える――「敵基地攻撃論」を契機として

相馬千春

 
下に掲載するのは、私が昨年末、前衆議院議員のMさん(立憲民主党)に送付した「日本の安全保障問題に関する意見」ですが、これを作成したのは次のような経緯によっています。すなわち昨年の12月16日、政府は安保三文書を改訂しましたが、18日にMさんからこれに関して<早急に意見を出してほしい>との要請がありました。この要請に応えて19日に私見をまとめたものが、ここに掲載する「意見」です。この文章は稚拙なものであり、また簡潔に過ぎるのですが、こうした点は、文章成立の事情に免じて、お許し戴けましたなら幸いです。
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日本の安全保障問題に関する意見
 
一、なにより「兵学的(軍事的)リアリズム」とそれを支える「エートス」が必要である
政治の要諦は「食・兵・信」(『論語』)であり、政権の担当するには、国民からこの三点について信頼されることが必要だ。
そして「兵」(安全保障)については「彼を知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」(『孫子』)と言われる。しかし「相手を知ること」は簡単ではなく、「己を知ること」はさらに困難だ。
丸山真男や神島二郎は「近・現代の日本人」を次のように把握している。すなわち<明治までの政治主体には、武士のエートスとそれに基づく兵学的リアリズムがあった。しかし武士階級が解体し近代教育の下で『エリート』が形成されるようになると、そのエートスも兵学的リアリズムも失われていった>。
先ず、このような「近・現代の日本人」の弱点を直視することが必要で、「兵学的(軍事的)リアリズム」とそれを支える「エートス」を獲得することなしに、武器だけ揃えても危ういだけだ。
 
二、「敵基地攻撃論」批判とその対案
いま「敵地攻撃論」が支持されている理由は、「敵地攻撃によってミサイル攻撃から国民を守ることができる」と信じられているからだ。したがってこれがまったくの幻想である点を論戦を通じて明らかにして欲しい。
(発射装置は移動式であるため、捕捉・攻撃することは不可能であることの他、司令施設は強固に防衛されていて、バンカーバスターなどの特殊兵器以外では破壊が困難なこと。特に弾頭重量450㎏のトマホークでは全く無理。またSM3やPAC3などの迎撃ミサイルも攻撃ミサイルよりがはるかに高価であるため、千を越える数のミサイルにはとても対応できない。)
それでは我々は国民にどのような訴えをしていくべきか。第一には「ミサイルが飛んでくるのを防ぐには、外交によって戦争自体を避けるしかない」ということだ。
しかしそれだけでは国民の支持は得られないだろう。<無理難題を言われて外交が決裂し、ミサイルが飛んできた時はどうするのか>と問われたら?
この問題を考えるためには、第二次大戦での「防空」思想を振り返ることが有効だ。
柳澤潤氏(防衛研究所)によると、旧陸軍の防空思想は「攻勢防空」論――防空の要訣は敵飛行根拠地を覆滅してその禍根を根本的に絶滅することである――であった。こうして陸軍は都市の防火対策という最も基本的な防空対策をサボったが、その結末は周知のとおりで、日本は焦土と化した。今回の「敵基地攻撃」論はこの「攻勢防空」論の誤りを繰り返すものだ。
「ベルリンと東京で爆弾トン当たりの死者行方不明者数を比較すると、おのおの0.3 人/トン、8.5 人/トンで約28 倍もの差がある。爆弾トン当たりの破壊棟数については、・・・ベルリン4.44 棟/トンに対し東京67.2棟/トンで約15 倍、最大値同士を比較すると東京191 棟/トンで約43 倍もの差がある。これらは、日本の都市構造の燃え易さと、ベルリンが蜂の巣のように防火区画で区切られた燃えにくさを表している。」
(以上はhttp://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/06.pdf「日本陸軍の本土防空に対する考えとその防空作戦の結末」による。なお、3月10日の東京大空襲だけを取ると、1665トンの焼夷弾で10万人が死んだと言われるからトン当たり死者は約60人である。)
ベルリンの方は――戦闘機と高射砲による防空が有効であっただけでなく――都市の防火対策とシェルターによって、東京とは比較にならない防御システムを市民に提供していたので、被害は相当に抑えられたわけである。
当時のベルリンのみならず、西欧の防衛の基本には都市の不燃化・防火対策とシェルターの確保があることは広く知られている。我々が「敵基地攻撃」に対案を出すのであれば、これらが参考になる。都市の不燃化・防火対策は巨大地震などの災害にも有効であり、シェルターも一定数は必要であるから――国民的な合意が必要ではあるが――、これらの対策は有効な対案となり得るはずだ。
敵基地攻撃論のもう一つの問題を挙げる。先ず開戦の際、どちらが先に攻撃したのかは、直ちには明らかにならない場合が多い。そのばあい諸外国がどちらの主張を認めるかは、政治的な利害によることになりがちだ。中国vs.日本を考えると、中国の国際的影響力は、日本を凌駕しているから、国際的に孤立するのは日本になりかねない。もちろんそれぞれの国民はその政府の主張を信じ、愛国心に燃えるだろう。
このような状況では日本がいくら敵国を攻撃しても、相手が戦争を継続する意志を奪うことはできない。つまり今回の「敵基地攻撃論」は、戦いを終結させる方針(TOV=勝利の理論)を欠いたエスカレーションであり、――かつての対米開戦と変わらない――愚かな作戦だ。
それに較べて、「専守防衛」策ははるかに合理的だ。明確な「専守防衛」策を取っている限り、まず第一に<日本が攻撃した>と言う宣伝は通じない。第二に相手国が日本を一方的に攻撃しているならば、諸外国は攻撃している国を支持できず、諸外国の同情は日本に集まる。第三に日本が防衛戦の中で相手国に打撃を与え続けるならば、相手国内でもその戦争に疑問の声が上がる。第四に相手国にとっては日本だけが相手ではないので、対日戦争が長引くと戦略的には不利になる。第五に最近<日本が米国の戦争に協力しなければ、米国は日本を見捨てる>などという者もいるが、米国が覇権国であろうとする限り、日本が他国に従属するのを米国は座視し得ない。
以上の点を考えると、戦いを終結させる展望において「専守防衛」策の方が優れているのは、明らかだろう。
なお、最近のウクライナ戦争を見ていると次の諸点に気付く。先ず相手国に屈服しないためには、国民生活のインフラ(電気・ガス・石油・水道・食糧など)を維持することがきわめて重要である。次に弾道ミサイルによる攻撃は燃えにくい都市に対しては、費用対効果の点で、合理的なものとはなっていない。第三にドローンなどの無人兵器が重要な位置を占めるようになるなど、戦争の様相が従来と一変しており、防衛戦略も従来のものをご破算にして、一から立案し直す必要がある。
 
三、「防衛費倍増」の批判と対案としての「非対称的戦略」
少子・高齢化で経済が停滞している日本が防衛費を倍増させれば、日本はじり貧になり、その没落は決定的になる。これは増税が国債発行に代わっても、もちろん変わらない。
最近は武器を揃えると防衛力が高まると思う人が多いようだが、彼らは連合艦隊の「威容」を見て、対米戦に勝てる気になった戦前の日本人から少しも進歩していない。安全保障にとって大事なのは、表面的な軍事力ではなく、経済力などの総合的な国力であり、防衛力強化にとってなにより大事なのは、日本の社会と経済を活性化させることだ。この点は、フィンランド首相のサンナ・マリンが「新しい技術に投資して、未来の脆弱性を減らす必要がある」https://news.yahoo.co.jp/byline/abumiasaki/20221213-00328045と力説している点を見習うべきだろう。
しかし中国などと較べるならば、近い将来、日本が対等な経済力を持つことは期待できない。したがって「彼を知り、己を知れば」、対象的な軍事力の拡張を図ることは、戦略的に間違っていることが分かる。
そうすると防衛戦略は、非対称的なものへと抜本的なものに転換する必要があるだろう。またこうした戦略の転換とも関連して、有人戦闘機、空母などの大型艦船、ミサイル防衛システム、戦車などの単価の高い兵器への資源の投入は過去のものとなり、空中・海上・水中とも相対的に安価で無人の装置を多数(スウォームで)使用する時代が来るだろう。
なお、非対象的な戦略については、米海軍大学教授トシ・ヨシハラの論文「Going Anti-Access at Sea How Japan Can Turn the Tables on China」https://s3.amazonaws.com/files.cnas.org/documents/CNAS-Maritime2_Yoshihara.pdf があり、またこれを要約した記事としてはhttp://blog.livedoor.jp/nonreal-pompandcircumstance/archives/50734489.html 「米海軍大学教授による日本版A2ADのすすめ」があるので、これを紹介しておく。
 
四、日本の安全保障戦略はどのような国際関係を想定すべきか
世界史的な視点から見れば、現在はパクス・アメリカーナの終焉の時代といえるだろうが、次に中国やインドが覇権を握るかと言えば、それも甚だ疑問だ。むしろ次の時代は無極化時代ともいうべき不安定な時代となるのかもしれない。
日本国内の政治情勢からすれば、しばらくは米国に対する従属的な同盟関係が続くだろうが、米国と中国との東アジアにおける覇権抗争に巻き込まれることは日本国民の利益にはならない。したがって我々は中国の覇権主義に反対し、国際社会、特にアジアにおける基本的人権・人民主権の擁護を掲げるとともに、戦争を回避することに全力を注ぐべきだ。
(米国外交の暗部を批判することに異論はないが、基本的人権・人民主権の擁護という原則というからして、ウクライナ人民や台湾人民の主張を尊重することに力点を置くべきだろう。また「親ロ」や「親中」というレッテル貼りにも注意する必要がある。)
いまの状況では日・中間に戦争しなければならない必然性はない。対立点である尖閣諸島問題はそれを紛争・戦争にエスカレートさせないようにしっかり外交的に管理していくべきだし、それは可能だ。
しかし米中軍事衝突は―― 一方がそれを望めば生じるのだから――日本の外交力を越えた問題だ。したがって、日米安保体制下で米中衝突が起こった時、それに日本が巻き込まれないためにどのような態度を取るべきか、また取り得るのか、をいまから検討しておくべきだ。(以上)
 
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追記。私がこの「意見」を書いてから数週間後、CSISの「中国の台湾侵攻の図上演習」が発表されました。私はその要旨の部分を試訳http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9447してみましたが、率直に言って、私の「意見」の方が――政府・与党の勇ましい御意見よりは――CSISの状況認識と整合的なのではないか。日本の安全保障の議論はともすると、政治的なスタンスが前提になった議論になりがちですが、まず<日本が戦争に巻き込まれる時、どういうことが起こるのか>を踏まえることが、日本の安全保障にとってなにより必要ではないかと思っています。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x9634,2023.02.16)