高橋一行
1. エーテルは純粋存在である
エーテルはヘーゲル論理学における純粋存在であるという主張がある(加藤尚武1988)。これは単に比喩として成り立つという話ではなく、ヘーゲル哲学の根本に関わるものである。以下このことを説明したい。
エーテルというのはイェーナ期ヘーゲルに頻出する概念である。イェーナ期というのは、1801年に31歳のヘーゲルがイェーナに移り、37歳でその地を離れるまでの時期のことで、その間に書き綴ったいくつかの草稿群が残っている(注1)。その中でも特に、1804年-05年の『自然哲学』にエーテルに関する多くの記述が残されている。この『自然哲学』は太陽系から話を始める。そこに出て来るのがエーテルである。すなわちエーテルは、「あらゆる事物の絶対の根拠と本質」であり、すなわち「絶対的な物質」である。またそれは、「自然の最初のモメント」である(p.33)。
それに対して純粋存在とは、「論理学」の最初の概念である。とりわけ以下、『大論理学』の記述を見ていくが、体系として完成された「論理学」の冒頭に据え置かれる概念である。エーテル概念は、イェーナ期以降ほぼその姿を消すのだが、代わって、その体系に純粋存在として生き残ったとも言い得る。体系の最初のものという意味で、エーテルは純粋存在となったのである。
しかしエーテルは、イェーナ期において、「論理学」ではなく、『自然哲学』の最初の概念であるということ、及びエーテルは実に様々な意味で使われていて、必ずしも最初の概念であるだけでなく、その体系を貫徹する概念でもあるということに注意しなければならない。先の1804年-05年の『自然哲学』においても、「エーテルはすべてに浸透するのではなく、エーテルそのものがすべてのものである」(p.35)とか、「エーテルは真の実在として、精神として現存する」(p.79f.)と言われている。
すなわちエーテルは自然の最初の概念であるのだが、順に自然が発展し、ついに精神に至るまでのすべての過程もまたエーテルなのである。
それだけではない。1804年-05年の『自然哲学』とともにひとつの草稿群を形成する『論理学・形而上学』の最後には次のような文言がある。「一重で絶対的で自身を自身自体へと関係付けつつある精神がエーテルであり、絶対的な物質であり、そして精神が自らの他のものそれ自体の内において、自身を見出した精神であるということが、自身自体の内に閉ざされた、そして生命ある自然なのである」(p.339)。つまりヘーゲルの体系において、自然に先立つ論理の段階に、エーテルが位置付けられている。
稲生勝は、エーテルは絶対物質であり、自己関係する絶対精神であり、まだ自己を絶対精神と認識していない絶対精神であると言う。エーテル自身が万物であり、エーテルは天上界を満たす元素であり、光の媒体でもあり、光の本性でもあるとも言う。ヘーゲルの記述の中で、エーテルは『自然哲学』の冒頭部、太陽系を論じるところで頻出するとまとめた上で、重要なのは、論理から自然へ移行において生じる概念がエーテルだということである。
つまりヘーゲル哲学の体系の中における、自然哲学の位置が問題になる。この1804年-05年のヘーゲルの体系の中では、「論理学・形而上学」は「自然哲学」へ移行する。稲生はそこで、論理から自然へ移行において生じる概念がエーテルだと言う。
そのことは上の『論理学・形而上学』の引用から明らかである。そしてエーテルに、「精神と物質の統一、無限者と有限者の統一」という役割を与える(稲生)。
それが思想の形成過程では逆転する。ヘーゲルの体系の中で、自然哲学は早い時期に完成する(加藤1995)。そこで様々なカテゴリーのイメージが出来上がって、それが「論理学」の中に取り込まれる。自然存在としてのエーテルは論理学上の純粋存在になるのである。
さらにこの1804年-05年の前後に書かれた、いわゆる「実在哲学I」と「同II」はともに、自然哲学と精神哲学という構成になっているから、加藤はそのことについて次のように言う。「自然哲学の変容過程に精神哲学の変容が重なったところに、論理学が自立化して体系の中核になりつつある経過が含まれている」(加藤1999 p.262)。
体系完成期において、ヘーゲルの体系は、論理、自然、精神というトリアーデから成るのだが、イェーナ期において、どのように体系が完成されていくのかという問題がここにある。しかし私にとっての関心事は、エーテルという自然哲学の概念にあり、それが、論理と精神に浸透していく様が感じ取れれば良い。
科学史の常識では、まず17世紀に光は波動であるということになって、その際にエーテルが必要になる。光はエーテルが伝播する波であると説明されたのである。また19世紀には光は電磁気であるとされ、エーテルはこの電磁気作用の媒体とされた。つまり光波は電磁波であり、その波を伝える媒質がエーテルである。しかし19世紀後半に、このエーテルを検出しようとする試みがことごとく失敗し、20世紀になって、その存在は否定される。光は粒子性と波動性を併せ持つ存在であり、その伝播に際して媒介を必要としない。つまりエーテルは何かしらの物質を表すものとしては否定される。しかし私は、真空には重力場や電磁場が存在することを考えて、この場をエーテルと呼んでも良いのではないかと考えている。このことは以下に再度説明する。
さらに哲学史の常識では、このエーテルというのは、アリストテレスが、土、水、火、空気から成る四元素説を拡張して提唱した、天体を構成する第五元素である。それは微細な物質であると考えられている。また空間に何らかの物質が充満しているという考えは、17世紀にデカルトも持っていた。
以前私がカントを論じる際に参照した菊地健三は、ひとつの章を設けて、カントのエーテル論を展開する(注2)。その著書の最後の章のタイトルは、「『オプス・ポストゥムム』における動力学的エーテル」である。
カントの『オプス・ポストゥムム』は未完の遺作である。そこには自然哲学と超越論的哲学が記されている。その著作は、老衰の影響があるとか、矛盾と反復が多いと言われ、また膨大な量があるから、私自身がカントの原典に即して論じる余裕は、今はない。ただ言えるのは、菊地がこのカントのエーテル理論を、カント哲学にとって本質的であると見做していること、及びその菊地の言うところは正しいのではないかと私が感じていることの二点である。以下、菊地の主張を簡単にまとめる。
カントは第一批判や第三批判でもエーテルについて言及しているが、それは仮説的な概念に過ぎない。しかしこの遺作においては、エーテルはカント理論にとって、極めて重要なものとなっている。まず、動力学的エーテルは、無機的自然から有機的自然への移行を可能にするものである。第二に、それは魂に作動する。カントにおいては、大気中の電気現象としてエーテルは考えられているようで、その振動が、一方では物質の運動を体系的に統一し、他方脳や神経組織に影響する。それはガルヴァ-ニ電気とも呼ばれ(注3)、それこそが超越論的哲学そのものであるとされるのである。
2. エーテルは存在の論理か、無の論理か
イェーナ期の『自然哲学』には、もうすでに明確に、のちの「論理学」の純粋存在を思わせる記述もある。
「精神は自らの中に諸形成物を生じさせるものを持つが、自らはそれの同じような流体状で透明な溶体である。この生じさせるものの充実と豊富とは、水がその中に溶けた塩で濁ったりしないように、それを濁らすことがない。…無限の規定、すなわち諸モメントは、人がその無限性の存在を昼と呼ぼうとしても、まったく同じように直接にこの存在の無、言い換えると絶対的な夜である」(p.35f.)。
また次のような記述もある。
「この単純性、すなわちエーテルは、言表を受け取って聞き取る空気であり、また無限が対立を孕んで起こす発酵を自らに受け入れ、無限に本質を与えもし、それの存立でもあるような物質である。もっともこの単純な存立は、またまったく同様に単純な無でもある」(p.37)。
このことを次のようにまとめることができる。まずエーテルは、何もないというしかないような存在だが、それは変化の原因ではある。つまり存在の素(もと)になる存在である。そしてそこに無が内在しているのである。
エーテルはすべてである。しかしそれは否定性なのである。何も存在しないのだから、存在が否定されているということになる。
加藤は、すべての差異が出て来る無差別であると言う。同時にエーテルは発酵であり、そこから次のものが出て来るのである。言い換えれば、それは単純な存立であり、絶対的な無、絶対的な不安である。それは無限性である。それはまずは純粋存在で、その上でさらに進展するのである(加藤1988)。
このことを『大論理学』の中で確認していこう。ここでは山口祐弘訳を使う。冒頭部である(p.68)。「存在、純粋存在は、それ以上の規定をまったく持たない」。「存在は純粋な無規定性であり、空虚である」。「存在、無規定で直接的なものは実際には無であり、無以上でも以下でもない」。
続いて無である(p.68f.)。「無、純粋無。それは自己自身との単純な同等性であり、完全な空虚、無規定性、無内容性であり、・・・無は空虚な直観作用ないしは思惟作用であり、純粋存在と同じ、空虚な直観作用ないしは思惟作用である」。
さらに生成に進む(p.69)。「それ故、純粋存在と純粋無は同じものである。真理であるものは、存在でも無でもなく、存在が無に、無が存在に移行するのではなく、移行してしまったということである」。「従って、それらの真理は、一方が他方の内に直ちに消滅するというこの運動であり、生成である」。
続いて、生成の止揚から定存在へ進んでいく(p.96f.)。「生成はまた衰えて静止的な統一になる」。「このように生成は、存在するものとしてあり、存在と無という両契機の一方に偏った直接的な統一の形を持つ存在と無の統一へと移行することである。このような生成は定在である」。
このヘーゲル論理学の冒頭部分は、様々な解釈が今までなされてきている。それらの解釈を超えて、さらに何かここで言うことができるだろうか。つまり問題は、エーテルが純粋存在だとして、それで何が明らかになるのかということである。
ヘーゲル論理学は純粋存在から始まる。それはまだ何も規定がないから無である。何かが存在して、そこからそれが順次発展すると言うのではなく、最初は何もないところに、何かが生成する。その何もないところから存在が生成する際に、とりあえず、すべての存在の素という意味で純粋存在がある。しかしそれは何か規定された存在ではない。それは無であり、否定性である。つまりヘーゲル哲学は無または否定性からすべてが始まっているのである。
高山守は、『ヘーゲル哲学と無の論理』という著書の「はじめに」において、キルケゴール、Th.アドルノやK.ポパーがヘーゲル哲学は一切が「絶対精神」に収斂し、否定が肯定になる哲学であるとされてきたと書き、しかしそれに対して、ヘーゲル哲学の要諦は無にあるとする。つまり絶対の存在の根本は絶対的な無なのである。
以下に高山を詳述する(第六章第一節)。まず、この純粋存在は『精神現象学』の結論部の絶対知から引き継がれている。つまり『大論理学』の冒頭にあって、何もまだ規定がないのだけれども、同時に『精神現象学』の一切が詰め込まれている。そういう無規定であり、無なのである。それは絶対無が展開されているのである。
高山はここで、自らが翻訳したトレンデンブルクのヘーゲル批判を出してくる(注4)。ここでヘーゲルは運動ないしは生成の直観を密輸入していると言うのである。つまりヘーゲル論理学においては、認識と存在の運動が連動しているのだが、ここの段階、すなわち存在と無においては、実際の存在の運動は進展していない。先に存在と無の運動の成果としての生成があって、そこから論理的にそれに先行するものを論じる。これが純粋存在であり、絶対無なのである。
生成は純粋存在と無の運動において、外部から導入されるしかないのだが、しかしそのことこそが、無の論理を示している。そしてそこから定在が出て来て、そののちに様々な存在が続く。
さてヘーゲル論理学の冒頭の、存在と無、さらには生成の運動の解釈について、私は次節で新たな観点で説明し直したいと考えているのだが、先にここからさらにその次の定在の議論をしておこうと思う。
むしろ問題なのは、この定在なのである。つまり、話が定在から始まるのなら分かる。定在は確かに存在していて、それが否定されて他在になり、さらに否定の否定がある。そんな風にヘーゲル論理学は進む。
しかしいきなり定在があるというところから「論理学」が始まるのではない。実際にはそれは、存在と無、それに生成から始まっている。純粋存在は存在すると言っても何も規定がないのだから無と同じ、また無が存在すると言ってもそれは言葉の綾で、無は存在しないから無と言うのであって、無が存在するのではない。また存在は無に移行するのでもない。存在は直ちに無と言い換えられるのである。すると生成が最初にあって、その分析をすると存在と無になると言うこともできるのだが、それも不十分であろう。そもそも生成が存在するというのはどういうことか。つまりここから分かることは、存在も無も生成も皆否定性なのであるということだ。否定性があるということだけがここで言われている。
そしてその否定性から定在という存在が生まれるのである。ここは否定性が変化して存在が生まれるのである。問題は無の運動があり、そこからしかしどのように定在が出て来るのかということだ。ひとつの考え方は、話を否定から始めるのだが、実際に存在するのは定在と呼ばれる規定された存在であって、事後的にそこから最初の段階が要求されるのではないかということである。それは次節で展開するように、宇宙の最初の段階を考えたときに、まだ宇宙には何もなく、ヘーゲルはそこにエーテルだけがあると考えたはずで、それはまだ存在とは言えず、無であり…という先の説明になる。物質は質量を持った存在だから、それは論理的には定在と言い得て、しかしその物質が生成してくる様が記述されねばならない。それは認識が存在の運動を追体験するのである。
もうひとつは、媒介の止揚としての直接性の生成という観点が必要になるということだ。存在するものは、他の存在と関わりを持ち、つまり媒介される。すべてのものは媒介されているというのが、あたかもヘーゲル論理学の特徴であるかのように言われ、そしてそれは間違ってはいないのだけれども、重要なのは、その媒介を経て、それが止揚されて、直接性が生成するということなのである。直接性とは、存在の哲学的表現である。つまり媒介から存在が生まれるということなのである。
そしてここの議論では、純粋存在があって、それが無と生成を経て、定在が生まれるという展開なのだが、しかし純粋存在は無そのものであり、否定性であって、つまり媒介作用であり、その媒介作用が止揚されて、定在という存在が生まれるということなのである。
このあたりのことを『小論理学』から拾っていく。
媒介性とはあるものから出発して第二のものに到達していることである。第二のものは第一のものに由来して、そこから第二のものに到達している限りで存在する。思惟は直接性の否定である。直接性は思惟の自己安住であり、それを否定することが媒介である(12節)。また思惟によって、変化がもたらされるとされる。対象の真の性質が意識されるのはただ変化を介してのみなのである(22節)。
この限りでは、純粋存在という存在が、思惟の力で否定されて、無、生成へと変化するということになる。しかしヘーゲルは次のようにも言う。「直接知は媒介知の所産である」(66節)。また同補遺には、「存在は直接性のことで、直接性は媒介されている」とある。
すると最初の存在、純粋存在は存在ではなく、それはやはり無であり、それが運動して使用されて定在となり、そこで初めて規定された存在となると読むことは可能である。つまり最初にあるのは否定性である。
この媒介性が止揚されて直接性が生成することを、海老澤善一は「休止」と言う。ヘーゲル論理学は、存在と無の運動から始まるのではなく、生成から始まり、それが「休止」して定在が成立するのである。
媒体は第一のものから第二のものへと移っていくことであるが、最初の段階で何もなければ、つまり第一の物がなければ何も始まらない。それでエーテル=純粋存在を考え出す。しかしそれはまだ何者でもなく、その実は無であり、何物でもないものが何ものでもないものに媒介されて、存在が発生する。そういう神秘的な言い方でしか説明ができない。
しかし宇宙の最初は何もなかったはずで、つまり神に寄らず、無から存在を生み出す機構が説明されるべきなのである。
すると高山のように、無からすべてが生まれると言っても良い。重要なのは、すべてが媒介されているという指摘ではなく、つまり媒介そのものが重要なのではなく、媒介が止揚されて、直接性が生成するということである。最初の段階では実質的に媒介が先にあり、そこから存在が生まれるのだが、しかしその最初の媒介を純粋存在と呼ぶ。すると存在があり、それが媒介されて、次のものが出てくるという、お馴染みのヘーゲルの論理になる。
3. 無以下の無
光を伝える媒質がエーテルであった。しかし以下に述べるヒッグス理論では、光はヒッグス場を通過し、そのことによって物質が発生する。ヒッグス場がエーテルである。それは否定性であり、しかしそれこそが存在を生む。
無からは何も出て来ない。しかし最初にあるのは無だけである。無から存在を生み出す機構がなければならない。すでに論じたジジェクの「無以下の無」理論を再掲する(注5)。これはヘーゲル論理学と現代物理学とを結び付けるものである。
宇宙が誕生したとき、まだ何も物質はない。その無からどのようにして物質が生成するのか。その機構がヒッグス理論である。
ヒッグス場は素粒子に質量を与える場である。すべての物質を作っている最小単位が素粒子だが、それは最初の段階では質量を持っていない。世界は素粒子ででき上がっている。それらの素粒子は、ヒッグス場というヒッグス粒子で満ち溢れている場の中で、ヒッグス粒子とぶつかることで抵抗が起き、質量を得る。
このヒッグス粒子というのはヒッグス場という場の働きのことであり、言い換えればそこに生じる波のことである。量子力学の世界においては、粒子とは波であり、かつ粒子でもあるという存在のあり方をしている。
宇宙には最初は光があり、その光から素粒子ができるのだが、その素粒子にはさしあたって質量がない。しかしヒッグス粒子という概念装置を使って、素粒子に質量が生まれる。そういう仕組みである。そして素粒子に質量を持たせるために理論的に必要とされたヒッグス粒子が、2012年に、現実に実験で観測されたのである。また最初の質量がこのヒッグス粒子によって与えられたのち、あとは素粒子間に働く力によって、残りの質量が説明される。
ヒッグス粒子が存在する時空である場と、ポテンシャル、すなわちその場が持っているエネルギーの量の関係を考える。すると、宇宙が誕生した直後には、ヒッグス場は偏りのない状態で安定しており、そこではヒッグス場は生じたり消えたりするけれども、平均するとまだ現れていないとみなされる。質量もエネルギーもゼロの真空状態である。ところがビッグバン以降、宇宙はどんどん冷えて行き、エネルギーが低くなって行く。するとヒッグス場が偏った状態に陥る。W型のグラフの、その右か左か、どちらかの底に場が落ちて行く。これを自発的対称性の破れと言う。そこは元の真空状態よりもさらにエネルギーの低い真空状態になる。ジジェクの言い方を用いれば、less than nothingである。そこでは真空も相転移を起こして、その新たに生じた真空状態はヒッグス場で満たされる。ヒッグス場が充満することで、素粒子に質量が発生する。そういうイメージを描くと、ジジェクの説明と合致する。
エーテルはヘーゲル論理学においては純粋存在であり、それは科学史の中では光の媒体であり、現代物理学ではヒッグス場であり、ジジェク理論では無以下の無である。しかしヘーゲル自然哲学ではそれ以上のものである。それはすべてのものを生み出す素(もと)である。それは媒体でもある。
4. 化学過程の論理
エーテルは最初の存在であり、万物を生み出すものであり、その過程そのものでもあり、次々と生成を媒介するものである。
以下に、先の『自然哲学』からさらに抜き出してみる。まずエーテルは、それが「存在すること、存立すること自身が絶対的な発酵過程、あるいは存在すると同様に同時に存在しないという絶対的な不安に他ならない」とヘーゲルは言う(p.35)。また「エーテルの自己同等性は、それそのものにおいて無限性である」とも言われる(p.40)。
さらに『自然哲学』の下巻から拾っていこう。
「理念は絶対的物質またはエーテルである。それ自らがすべであり、それは存在である。それは即自であり、発酵であるような、懐胎した物質である。それは純粋な自己意識である。その中で精神が自然であるような普通の規定である」(p.21f.)。
「光は自己内に閉じこもった物質の総体であり、エーテルの直接的な純粋性ではなく、総体としての、つまり定在するものである自己に対して自己内存在するものとしてのエーテルである」(p.76)。
「蒸気化したものが冷却されるとエーテルになる」(p.126)。
「生命は本来あらゆる部分の完全に流動状の浸透であり、現実的であるエーテルである」(p.210)。
加藤尚武は、随所でエーテルに触れ、さらにそのエーテルに象徴されるヘーゲルの自然観について、様々に語っている。まずヘーゲル自然哲学の背負った課題は、「機械論的自然観と有機的自然像を統一するものである」(1995 p.324)。またそこでは「アトミズムの否定」がある(1990b p.350)。
またヘーゲルはしばしば発酵のイメージを語るが、それは物質と精神の共通原理としてのエーテルが、様々な存在に形成されていくという、ヘーゲル哲学そのものを表している。それは無限性と言い換えることができる(1990c p.351ff.)。さらに発酵の動因としての火でもある。発酵は火のメタモルフォーゼである(同 p.363)。
さらに物理的自然と有機的自然は別物であって(2003 p.380)、後者を説明する原理として、電気、ガルバニズム、磁気性という化学過程が重要だ(同 p.393ff.)。そしてこの変化しつつ自己を維持する、または消えつつ燃え、燃えつつ消えていく過程が無限性である。
生物の実体は化学的過程である。万物に内在する生命をあたかも化学的過程であるかのように解釈することによって、無限性の概念を解明することができる(同 p.396)。また加藤は次のようにも言う。すなわち「無限性概念の背景には化学論の問題が隠されている」(加藤2004 p.77)。
さて、本シリーズの前回と前々回に引用したC. マラブーは、ヘーゲルの媒介について論じ、「媒介こそ絶対者そのものである」という正しい指摘をし、また『大論理学』の冒頭で、ヘーゲルは純粋存在と光とを同一視していると、これも適切な分析をした上で、さらに電気について論じる。これこそが媒介である。そして「電気に対してヘーゲル弁証法が負っているものについて誰も主張してこなかった」と言う(第一章)。しかし日本のヘーゲル研究者はちゃんと言及している。
またJ. デリダは、「竪坑とピラミッド」という論文で、ヘーゲル『精神哲学』を参照しつつ、記号について論じる。記号は媒体である。そしてその論文の冒頭に、『大論理学』概念論第二部客観性第二章化学機序の中の一節を掲げる。それは物理的世界では水が媒介であり、同じように精神世界では記号が媒介であるというものである(デリダ p.139、ヘーゲル p.178)。
ヘーゲルにおいて、この媒介、媒体、化学的過程という概念と、光、電気、火、水といったイメージは、イェーナ期に始まって、体系完成後も随所で使われている。前回書いたように、マラブーは、若きヘーゲルにおいては様々な深く豊かな分析が見られるのに、体系期にはそれが見られないと嘆くのだが、しかしイェーナ期の様々なヘーゲルの思い付きを拾って、ヘーゲルの脱構築を図るのではなく、それらが体系期に深められていることを探りたい。体系期ヘーゲルこそ、体系を完成させることによって、若い時に持っていた様々なメタファーやイメージを体系内に保持し、その体系を豊かなものにし、同時にその体系が如何に脆いものであるかを示し得たのである。ヘーゲルの体系は時に綻びを示しつつ、そこには体系をはみ出そうとするアイデアが過剰なくらいに詰め込まれている。脱構築するなら体系期のヘーゲルこそ、その対象となる。
それらの概念やイメージの象徴がエーテルである。すでに多くの研究者がヘーゲルのエーテル概念に言及している。
例えば、田辺振太郎はその短い論文の中で、「ヘーゲルの世界観はその根底においてはこのエーテル一元論で貫徹されているのである。エーテルは元素の一つとしていうまでもなく質料であるが、この質料は彼にあっては精神を、そして世界精神を介して宇宙の万物を、製出する原料である」と言っている(田辺)。
また松本正男は、ヘーゲルのエーテルは、「生命的なもの、精神的なものだけの原理ではなく、空間、時間、運動、質量・・・それこそ自然の「全ての事物の存在」そのものである」と言う(松本)。
5. スピノザの影響
このエーテルという概念の背後にある無限性や実体はスピノザ由来のものである。そしてエーテルのもうひとつの特質である否定性概念もまたスピノザから来る。
エーテルは発酵であり、概念である。先に事物に内在する本質と言い、化学過程と言った。このことについて、加藤は、これはまずゲーテの影響だと言う(加藤2003 p.391ff.)。『精神現象学』の最後に「その無限性が精神に向かって泡立つ」という表現があるが(『精神現象学』p.1165f.)、それはゲーテの「無限者の泡立つ杯から生命の歓喜を飲みたい」という表現と酷似していることに、影響関係が見られると言うのである。
またさらにこの無限性はスピノザから来ているとも言う(加藤2003、2004、伊坂)。
伊坂青司は、チュービンゲン神学院で、ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングたちが、ヤコービ経由でスピノザ汎神論を受け入れ、またスピノザに共感を寄せるゲーテの詩が彼らの間で読まれていたことなどを詳細に説明している(伊坂 第二章)。
さらに加藤は、このスピノザの実体から、ヤコービの理論が出て来て、青年ヘーゲルに影響を与えたと言っている(加藤1990a)。実体概念がヘーゲルの存在概念の原型である。
ここで笹澤豊を参照する。ヘーゲルが影響を受けたスピノザはヤコービに由来するものである。ヤコービはスピノザの実体を批判し、絶対者を精神と捉えた。ヘーゲルはそれを受けて、絶対者を実体としてだけでなく、精神としても捉えることを主張した。つまりスピノザの実体を精神としても捉えるのである。そしてその上で、実体は本質的に主体であるとする。そしてこのことは、絶対者を精神であると表現することに現れていると考える。ここに実体=主体論が完成する(笹澤)。
このことについては、以前少々触れている(注6)。ここで注意すべきは、ヘーゲルによって批判されているスピノザは、スピノザそのものではなく、ヘーゲルやヘーゲルの周りにいる人々によって解釈されたスピノザであること、しかしそれにもかかわらず、そのスピノザ理解はヘーゲル哲学にとって本質的であること、またそのスピノザ像を批判することで、ヘーゲルが自らの考えを深めているということである。
つまり無限性、実体、生の概念はスピノザ由来なのである。そしてもうひとつ、否定性もまたスピノザ由来である。
規定は否定であるという文言はスピノザの書簡集にある。これが本当にスピノザの文言なのかという疑念まであるのだが、少なくともここで私たちは、スピノザのラテン語のテキストに即しての話ではなく、ヘーゲルたちがそのサークル内でスピノザの像を創り上げており、それをスピノザ哲学だと思っていたということなのである。半分はヘーゲルたちが創り上げたスピノザ像である。
ここでP. マシュレを参照する。「すべての規定は否定である」はヘーゲルの『哲学史』の表現である(Hegel p.165)。また『大論理学』の本質論では、「規定性は否定である」となっている(『大論理学』 p.185)。これは否定によって規定されたあるものとして現存在する。否定が現存在を生み出す。しかしそれはヘーゲルに言わせれば、抽象的な否定に過ぎない。この否定性をさらに否定すること。事物はそれが反映する他者を媒介にしてのみ、それ自身である。それは否定的なものそれ自身をさらに否定する。これが絶対的な否定である。否定はここまで進まねばならない。
この否定についての文言は、スピノザの書簡50にある。それは「限定は否定である」という極くあっさりしたものである(スピノザ p.239)。スピノザのものではないという人までいる。しかもヘーゲルはそこに「すべての」という文言を付け加える。
先に書いたように、これはヘーゲルとヘーゲルの周りにいた人たちが創り上げたスピノザ像である。マシュレはヘーゲルが「でっち上げた」と言っている(マシュレ p.203)。
エーテルは実体であり、概念であるが、同時にエーテルは否定性でもある。それがヘーゲルの体系性を駆動する。それはスピノザの思想そのものではないかもしれない。ヘーゲルが強引に読み取り、さらにそのヘーゲルによって捉えられたスピノザをヘーゲルは批判して、話を先に進める。
そしてエーテルは体系全体となり、世界そのものとなる。そこから主体が生まれる。その主体の持つ自由について、「あらゆる存在の根底に自由の可能性が根源的に流動性として内蔵されていなくてはならない」と加藤は言う(加藤1988 p.269)。自然は機械論的法則に従い、そこからの偏差やずれや逸脱が自由だというナンセンスな話ではない。自然はカオス的であり、しかし局所的には秩序化する。ただそれも条件が少しでも変化すれば、直ちに崩壊するかもしれない。そういう流動性に自由の根拠がある。
エーテル論は、自然の多様性、柔軟性、流動性、脆弱性、カオス性を象徴し、それはまた、自然から出現した精神の根拠となる。存在-無-生成という「論理学」の冒頭の思想、つまりそれがエーテルなのだが、それはスピノザの考えに、「変化の内在的要因=根源的流動状態を代入することで成立した」と加藤は言う。スピノザを発展させて、万物が内在的に生成することを示し得ることに成功し、そしてその変化の論理に自由の可能性をヘーゲルは見たのである。
6. 無限判断論
存在は無であるという文言は無限判断ではないと私は考えていた。ここで存在も無もまだ規定を持たないからである。つまり無限判断はふたつの全く正反対の規定を持つものが無理やり結び付けられるもので、この場合は、存在はまだ規定がないから無と同じだと言っているだけで、無限判断ではないと言うべきである。
さて、このように私は考えるのだが、しかしH. シュミッツは、次のように言う。すなわちエーテルが無限判断の原初的イメージである(注7)。
シュミッツの主張は次の通りである(シュミッツ)。エーテルは絶対的静止と不静止の無媒介な統一である。それは世界霊魂と真なるものに端的に高められる。エーテルはまた静止と運動の統一である。これは推理論では説明できない。これは無限判断が弁証法の原理であるヘーゲルの思考の初期の段階のものなのである。シュミッツによれば、まさにここに無限判断の原初的な姿が見られるのである。
つまりこの絶対的静止と不静止の無媒介な統一、静止と運動の統一こそが無限判断である。あるいはこれは個別と普遍の統一であるとも言われている。ここではふたつの対立項が規定を持つかどうかということが問われているのではなく、端的に正反対のものが、それぞれ飛躍して、他方に移っていくということが言われている。そのダイナミズムが無限判断である。
しかしエーテルが純粋存在であり、それが直ちに無と言い直されるとき、それはまだ規定性を持っていない。厳密に言えば、それは存在するとか、しないという規定しかない。存在するという規定以外はないから、それは存在しないのと同じだということである。そのために私は存在と無の関係は無限判断ではないと言ったのだが、話は逆で、つまり規定を持つかどうかというのはあとで考えれば良い話で、むしろこの存在と無の関係にこそ、無限判断の原点があるのだ。ヘーゲルはここから無限判断の着想を得ている。真なるものを、反対のものとの無媒介な衝突において見出す、つまり無限判断において、論理の飛躍において見出すというところにシュミッツの主張は尽きる。そしてこの考えはイェーナ期の自然哲学において現れる。その象徴がエーテルである。
こういうことだろう。エーテルは純粋存在である。しかしヘーゲルはさらにエーテルにいろいろな意味合いを持たせた。それは無限性であり、自己意識であり、世界霊魂にもなる。つまりエーテルは、最初は純粋存在だけれども、「論理学」において純粋存在が定在になり、無限性になり、自己意識になるという具合に、それは生成する。生成するというイメージをエーテルが表している。それは常に自己を否定して、自らの反対物になるという具合に発展していくのである。
このエーテルの自由奔放な躍動性こそ、無限判断である。存在と無の弁証法についても、まだ両者は規定を持たないが、まずは無限判断的に両者は結合し、その上でそれは定在となって、そこで規定を持つ。そしてそれはさらに他の定在と無限判断的に結合していく。
のちに『精神現象学』においてまとめられ、また「論理学」においてさらに整理される無限判断論は、まずはそのイメージが、イェーナ期の自然哲学において創られたのである。
以下のエーテル概念の持つ二面性がこの論稿の課題である。それはヘーゲル哲学そのものである。
エーテルは純粋存在であり、それは、存在の論理であり、かつ無の論理である。
エーテルは、ヒッグス場であり、それは無以下の無であり、それは無の徹底であり、かつそこから存在が生まれる場である。
エーテルは化学的過程であり、無限であり、実体であり、その論理は生命の論理であるとともに、否定の論理でもある。
スピノザからヘーゲルに繋がったのは、無限、実体、生命の論理であると同時に、否定性の論理でもある。
無限判断は、否定を徹底することにより、対立するものを結び付け、それによって、新たなものを創造する論理でもある。
注
1 イェーナ期に草稿群は三つある。
「イェーナ体系構想I」(1803/04 GW.6所収) いわゆる「実在哲学I」で、「自然哲学I」と「精神哲学I」を含む。
「イェーナ体系構想II」(1804/05 GW.7所収) いわゆるLMNで、「論理学・形而上学」と「自然哲学II」を含む。
「イェーナ体系構想III」(1805/06 GW8所収) いわゆる「実在哲学II」で、「自然哲学III」と「精神哲学II」を含む。
「論理学・形而上学」が田辺振太郎訳『論理学・形而上学』(未来社、1971)。
「自然哲学II」は本田修郎訳『自然哲学(上)』(未来社、1973)、「自然哲学III」が『自然哲学(下)』(未来社、1984)。
「精神哲学I」と「精神哲学II」が加藤尚武監訳『イェーナ体系構想』(法政大学出版局、1999)。
因みに岩波書店から出ている加藤尚武訳『自然哲学』は、『エンツィクロイペディー』の第二部である。
2 菊地健三のカント論は本サイト「病の精神哲学1-4」にある。また加藤もまた菊地を引用しつつ、カントのエーテル論に触れている(加藤2016 p.294)。
3 ガルヴァ-ニは18世紀に、筋肉や神経の収縮と電気的現象との関連を実証した。ヘーゲルもしばしばガルヴァ-ニ電気について言及する。
4 トレンデレンブルグの『論理学研究』は、その抄訳が高山自らの監訳で、『ヘーゲル論理学研究』第2号(1996)に出ており、そこにこの存在と無の弁証法の説明がある。
5 無以下の無は本サイト「病の精神哲学6 実在論から目的論へ」にある。
6 実体=主体については、本サイト「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(3) 具体的普遍」にある。
7 シュミッツの無限判断論は、本サイト「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(2) 無限判断論」にある。
参考文献
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—- 1990(初出)「必然的個体としての有機体」『加藤尚武著作集第5巻』未来社、2019
—- 1990(初出)「「発酵」という言葉にかんする覚書」『加藤尚武著作集第5巻』未来社、2019
—- 1995(初出)「ヘーゲル自然哲学の存在理由」『加藤尚武著作集第5巻』未来社、2019』
—- 1999「ヘーゲル実在哲学解説」『イェーナ体系構想 精神哲学草稿I(1803-04年)、精神哲学草稿II(1805-06年)』法政大学出版局、1999
—- 2003(初出)「有機体の概念史」『加藤尚武著作集第5巻』未来社、2019
—- 2004(初出)「「無限性」の概念史のこころみ -ゲーテ「スピノザに学ぶ」を資料として」『加藤尚武著作集第5巻』未来社、2019
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菊地健三『カントと動力学の問題』晶文社、2015
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高山守『ヘーゲル哲学と無の論理』東京大学出版会、2001
田辺振太郎「ヘーゲルとエーテル説」『情況11月臨時増刊号』1976
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x8254,2021.08.20)