吾詩従人笑

森忠明

 
  菅茶山の記念館が広島県神辺神辺かんなべ町にオープンしたとの記事をみた。私にしてはめずらしく金があったので、羽田から岡山まで飛び、福山で福塩線に乗りかえて神辺で降りた。去年の十一月二十八日のこと。
  茶山をよく知っていたわけではない。一九七〇年、私の二十二歳の誕生日に友人がくれた第二版広辞苑をぱらぱらめくっていたら、〈かん―さざん〉の項に偶然目が引かれ、そこの解説文が他の人名欄とくらべて格段カッコイイような気がしたのだ。
  

――江戸後期の儒者・漢詩人。備後(びんご)の人。京都に往き那波魯堂に従って程朱学を修む。詩に長じ、宋詩を唱道、関西の詩風、ために一変。帰郷して廉塾を開く。頼山陽の師。著「黄葉夕陽村舎詩」「筆のすさび」など。(一七四八 一八二七)

  
  “関西の詩風、ために一変”。この部分は実に印象的だった。どんなジャンルにたずさわったにしても、後学からそんなぐあいに評価されたら坊主の頭、ゆうことなしの至福だな、と思った。以後、私の茶山つまみ読みが始まり、いつだったか、どこかの図書館で立ち読みした詩にこんなのがあった――廉塾に近所の子どもが白紙を一枚持ってきてを教えろ、と言う。(全国区の有名人たる大先生に、怖いものしらずの村童が紙をつきだしている姿が想像できる)そこで大先生は「おまえの家の庭に梅が咲いているだろう。あの一枝を持ってくれば教えよう」とこたえる。
  授業料は梅の一枝というのはいい。で、私はなけなしの金をはたいて神辺まで行きたくなったわけだ。
  駅前からタクシーで記念館へ向かいだしてすぐ、息をのんだ。窓外の風景が、まさに「黄葉夕陽村こうようせきようそん」そのもの。山というより小高い丘の、武蔵野の雑木林に似た木々の黄葉が、すでに傾いていた陽を浴びて、まぶしく黄金色に輝いていたからだ。私よりきっかり二百歳年長の茶山が、生地の最も美しいものが「黄葉夕陽」にあるとして家の名と詩集の名とにしたこと、二百年後もその風景がそこにあること。当然なのだろうが私にはひどくうれしく感じられた。
  茶山(地元ではちゃざん・・・・らしい)の研究者ではない私に、彼の真の偉大さがわかるはずもない。ただ、蒼枯そうこと思われる詩の中に光る新鮮な愛の香気や知性の永遠性のようなものは、特に晩年の作品に頻出する「稚子」や「山童」や「児女」など、無為自然な子どもたちの描写あるゆえ、と断言させてもらおう。
  田んぼの中にたつ立派な記念館には頼山陽の書も並んでいたが、頼の御大層な、俗なメジャー志向を臭わせる筆と比較すると、茶山の筆の深く自足したカザニエの清雅な風骨は、なお明らかだった。
  八十歳のときの五言古詩に「吾が詩は人の笑いにまかす」という、うらやましい境地の一行がある。そのあたり少しでもあやかりたいと思いつつ宿へ帰った。
 
(初出:『亜空間40号』一九九三年二月・児童文学創作集団)
 
(もりただあき)
 
(pubspace-x7412,2019.10.26)