洗練と土俗

積山 諭

 
 
  先日、スペインのソプラノ歌手、モンセラ・カバリエが亡くなられました。私は特にファンだったわけではありませんが、手持ちのCDを聴き、その声の見事さに、あらためて鍛えられ、磨かれた歌い手の声の勁さに驚愕した次第です。そこで対照されると思うのが、それと対極にある声です。そのひとつが私の故郷の奄美の唄者(奄美では歌い手の事をウシャと敬します)、里 国隆です。
  奄美の島唄(歌というより唄であり、或いは謡という表記がそぐわしいように思うのですが)については私なりに少し説明らしきものをしておきたいと思います。
  里 国隆という盲目の歌い手の『奄美の哭きうた』というCDアルバムがあります。元(以下、敬称は略させて頂います)ちとせや中 孝介の奄美の歌い手の裏声の美声とは次元を異にする凄みがあります。CD所収の第4曲までは里愛用の竪琴です。それが第5曲の「芦花部一番」から蛇皮線になります。これが私が子供の頃に聴き馴染んだ島唄です。「哭き」とは古代の挽歌に満ちる「慟哭」にも通じると思われます。
  これを聴けば酷な言い方になりますが、元や中の裏声の美声が如何に現代風に商業化された画一的で無味乾燥な声と音に変換されているかが良くわかります。第7曲の「イキュンナカナ」は奄美の代表的な島唄です。それは古代では「相聞歌」とジャンル分けされるだろう恋の唄です。里の声に応じる「返し」(女声)は栄 タダ。これも奄美で唄われはじめた頃からすれば洗練されているのでしょうが、里の声には盲目の唄い手に引き継がれた音を通した「歴史」が染み込んでいるように聴こえるのは錯覚でしょうか。奄美から沖縄まで南島を放浪して唄い続けた里の声には私の血にも流れる南島の民人の歓楽から怨念までが脈々と伝わっているように聴こえます。これが錯覚であるのなら錯覚に溺れようと思います。
  里は1975年8月9日、杉並区のテイチク・スタジオにいました。第4曲までの竪琴をかき鳴らし歌う曲は伝統的な蛇皮線でないのに最初は違和感を覚えました。しかし、それによって、里の声は、何やら奄美の島唄という先入観を超えて響きます。その声は殆ど叫びであり、呻きであり、怒りです。歌とは血を吐くような叫びでもあることを里の声と歌に聴きます。この録音にはヤマト(内地・本土)でも名高い沖縄の面子が参加しています。「ちじん」という島太鼓を叩くのは照屋林助、六調には嘉手苅林昌が参加しています。昭和のはじめに奄美の島々には「薬売り、ナベカマの修理、傘の張り替え、あめ売り、浅漬け売り、ヤギ肉売り、アイスキャンディー売り、ウズラ豆売り」の行商人がたくさんいました。(解説を書いている南海日日新聞記者、亀山昌道)。12歳の少年の頃、防虫剤(ナフタリン)売りで手製の竪琴をかき鳴らす老人のあとをついて歩き、里は琴の作り方や弾き方を学んだ、と書いています。1972年、沖縄が日本に返還されたときに里は奄美にいましたが、三線と竪琴を背負って沖縄に渡り、那覇・宜野湾・コザ・金武といった基地の街をひたすら歩いた、とも。
  1975年、8月14日午前2時前、東京・新宿コマ劇場で里は島唄の「くるだんど節」を絶叫しました。
  ハーレー 戦や負きて 勝ちゅんど思うたる 大東亜戦争や 日本の負きて
  ヨーハーレー  勝ちゅんど思うたる  大東亜戦争や 日本の負きて
  ハーレー負けたや当たり前 科学の戦に竹やり持っちょて 負けたんや当たり前
 
  あえて現代語訳はしません。主意は理解できるでしょう。
  私のそのころといえば、8月5日にアルバイトで7500円の報酬を得て、映画館に通い『イルカの日』、『原爆の子』、『第五福竜丸』、『パットン戦車軍団』などを観ています。多分、池袋の文芸座でしょう。8月14日は終日、何の本だか書いていないが読書で過ごしています。そのころ、里はスタジオに籠り、この録音をしていたのです。16日には台風5号の影響で夕方に激しい雨が降ったようです。バングラディシュではラーマンが暗殺されています。現在も〝世界〟は同様の歴史が継続されています。夕方には現在はない、渋谷の「全線座」で『海底2万マイル』、『パリ・ニューヨーク大冒険』を観ています。そのころ読んでいたのはニーチェの『ツァアラトゥストラはかく語りき』、武田泰淳の『愛のかたち』、吉本隆明の「きみの影を救うために」という詩などです。なかなか面白いものを読んでいるではありませんか(笑)。
  里は1963年、那覇の路傍で腰を下ろし愛用の竪琴をかき鳴らし歌い叫(それは、さけぶでなく、おらぶというように)んでいます。「おらぶ」とは、万葉集で「天(あめ)仰ぎ叫びおらび地(つち)に伏し牙(き)噛み猛(たけ)びて~)」(第9巻)と表記されているように感情を全身で伝えようとするときの声です。沖縄で里の姿を4~5歳のときに強烈な印象で覚えているという書き込みをネットで読みました。孫の手を引いていたオバアは立ち止まる孫の手を引いてその場を去った、と。さもありなんと思います。放浪芸人は社会からそのように扱われているからです。正しくそれは河原乞食という存在なのでしょう。しかしその芸は小沢昭一の言うように刃の如きものでもあります。里のアルバムを聴いたネットの書き込みで里の声はブルースだと言った人がいました。ブルース。なるほど、それは米国で生き延び続けるアフリカを故郷に持つ人々の底辺の音楽と共通する諦観や怒りや苦しみとそれから逃れようとする複雑な感情の凝集と相通じるものがあるのかもしれません。
  その里が竹中 労やマスコミに取り上げられ沖縄の歌い手達との縁もあったのでしょう、1975年の夏に東京の杉並のスタジオと新宿のコマ劇場でおらび続けた姿を想像します。それは盲目の唄者にとって晴れがましい思いもあったでしょう。しかし沖縄や奄美の島々の路傍で道行く人々に蔑まれながらも彼らの、里からすれば格段に恵まれた日常に竪琴と声で楔を打ち込むように喉の奥から声をふり絞り、おらぶ行為は浮世の憂さと危うさをも伝えようとする意図があったのかもしれません。
  里は奄美の名瀬(今は奄美市と改称されていますが)で所帯も持ったようです。子供はいたのでしょうか。そこから少し遠い集落には田中一村という、どういう理由からか渡り棲んでいた画家が棲んでいました。一村は里と行き交ったことがあったのでしょうか。蝙蝠傘を杖にテクテク歩く一村が路傍でおらぶ里の姿をチラリと見据えながら擦れ違う光景を私は夢想します。それは娑婆世界の哀れと何やら面白くも可笑しさと人の世の縁の不可思議さにも思いを馳せらせる楽しい時をも生み出すからです。時は過ぎ、1985年6月22日、里は那覇市のライブハウス「ジァン・ジァン」に招かれ出演したようです。体調は悪かったようですがステージはこなし聴衆は熱狂したといいます。
  ところが二日後、知人の特別養護ホームで不調を訴え検査入院。容態は急変し五日後の27日逝去。享年66歳。親族の話では、やつれた感じはなく人生に満足したように安らかな死に顔だった、と亀山は記しています。
 
(せきやまさとし)
 
(pubspace-5428,2018.10.29)