二大政党制は可能か

高橋一行

 
 都議選のあった今夏、私はイギリスにいた。日本からの情報は意図的に遮断し、イギリスから世界の情勢を見ることに専念した。長い人生の、たった半年くらい、そういうことをしても良いと思った。
 帰国して、9月下旬に、溜まった新聞や雑誌を大急ぎで読み、そしてその間に、総選挙が行われることが決まり、小池百合子率いる新党が出て来て、マスコミは、都議選の時と同じく、小池旋風が吹くと大騒ぎになった。しかし、私は都民であるにもかかわらず、夏の熱狂を見ていないので、いささか白けていた。2016年7月の都知事選の時は、小池は、タカ派であることを前面に出さず、浮動票を取って、都知事になった。この人は選挙がうまいなという印象でしかない。今夏の都議選は、投票率は51.3%。都議選としては決して低い方ではないのだが、しかし風が吹いたと言うほどだろうか。9月下旬になってから、私の分析したところでは、これはただ単に、公明党を味方につけたことと、元々地方に比べて自民党の組織率が低かったということのふたつの要因で、自民党に勝てただけの話だろうと思う。今回の総選挙では、公明党を味方に取り込むことができなかったのだし、かつ地方の自民党の組織の強さを考えれば、希望の党が勝てる訳がない(注1)。そう思う。
 私は、結果が出てから、自分の予想が正しかったということが言いたいのではない。今回の選挙分析をして、今後、日本は、保守二大政党が出て来るのか、保守とリベラルの二大政党の可能性があるのか、そもそも1980年代までは、保守とリベラルという区分けではなく、保守と革新ではなかったのか、革新はどうなったのか、また憲法改正はどうなるのかということを、今回の選挙分析から読んでみたいと思う。
 小池が、民進党のリベラル派を切り捨てたために、傲慢だと言われ、人気がなくなったが、しかし彼女は、この日本に、保守二大政党を作りたいと思っていたのだろうから、リベラルを切り捨てるのは、どうしても必要な作業であり、それは当然彼女の信念からすれば、やるべきことだったのである。ただ、保守二大政党を作るのなら、公明党を味方に付け、かつ長期的に、自民党の組織を弱体化させるということをしなければならず、重要なのは同時にその両方を進めるしかないということだ。今夏の都議選は、たまたまその両方に成功したのだけれども、国政ではそう簡単には行かない。
 また、民進党の代表の前原誠司は、元々選挙手法が自民党的なので、とりわけ後者、つまり自民党組織の切り崩しを狙っていたのだろうと思う。しかしこれが成功するには、一旦は風が吹いて、政権を取らない限り、できないのではないか。利益誘導が自民党の組織を強固にしているのだから、それと同じくらいの利益が見込まれなければ、それを崩すことはできない。だから、日本の国民性、政治風土を考えれば、政権担当が可能な保守二大政党制が望ましいという、世に流布する考えは間違いだと思う。これは私に言わせれば、ごく一部の人の希望的観測にすぎない。維新もみんなの党も、今までそれを目指して来たのではなかったか。しかし彼らは成功していない。
 可能性があるのは、むしろ保守リベラル二大政党である。ただ、かつての民主党の失敗が、あまりにもトラウマ的に日本人の中に根深くあるので、どうもそれは否定される。しかし小熊英二はその可能性を示唆する(注2)。
 小熊によれば、日本では、自民、公明が組織票をベースに3割の票を取る。一方、リベラルも固定票があり、2割はいる。あとの5割は浮動票である。今回、希望の党が政権を取るためには、リベラルを切り捨てた時点で、頼みになるのは、5割の浮動票しかなく、その8割、つまり全体の4割を取るしかなく、それは投票率90%になることを意味し、それはあり得ないだろう。むしろ、リベラルを取り込めば、1996年の民主党の勝利の時と同じく、2割の固定リベラルと、浮動票をそこにもう2割積んで、全体で4割の得票となり、自民、公明の3割を上回る。小選挙区制では、ほんの少しでも、自民、公明を上回れば、圧勝する可能性はある。
 政治分析は、長い間、政治思想史の専門家によって、印象記風になされて来たのだけれども、本当はデータの分析が要る。小熊はそれに成功している。私が直感的に思っていたことを、彼はデータ分析に基づいて、説得的に論じているのである。
 その小熊氏の主張に私は賛成するが、しかし彼は次のふたつの点に言及していない。
 ひとつは次のことだ。確かに、もう一度リベラル政党に風が吹けば、リベラル政権ができる可能性はある。以下はしかし、思想史家の悪弊に戻って、印象記風にしか発言できないが、数年後に、北朝鮮問題がどういう形になるにせよ、多少は落ち着き、今の若者の中で支持されている(と私が感じている)、排外的な政策が、それほど大きな魅力を持たなくなった時に、そして安倍政権を支えているのは、その雰囲気が主たるものだと思うので(このことを示すデータは多少出て来ている。つまり、若い人世代ほど、自民党の支持率が高いというデータはある)、それが収まれば、リベラル政党が再び政権を取る可能性はあると思うのだが、しかしそれは、今の時点では無理だったと思うのである。これが第一点である。
 それから、指摘すべきもう一点は、それは今書いたように、政権はそれを維持する方が、奪取するよりもはるかに難しいということである。つまり風は一度しか吹かず、仮に政権が取れても、民主党政権の二の舞にしかならない。
 だから、まずはリベラルで政権を取って、その間に、保守化を徹底するか、リベラルと保守混在のまま行くか、むしろリベラル色を強めるか、どれにせよ、先に書いたように、公明党を自民党から引き離し、かつ自民党の地方組織を弱体化させるしかない。そうでないと、毎回風に頼る訳には行かないというのが、民主党政権の教訓である。そしてそれは、リベラルにはできない話で、政治的手法を知悉している保守の手に掛からないと、実現できないだろう。その点を考えれば、日本の政治風土では、保守二大政党しかないというのは、理解できる考えではある。つまり、リベラル、保守混在で政権を取って、そのあとは次第に保守化を強めて行くというのが、可能な唯一の道だということになる。
 しかしここで話は二転三転するが、最初から、リベラル、保守混在で、実は保守の方が強いとなると、これは自民党と政策が変わらないということになり、それでは魅力がないという話にもなる。だからやはり、これも難しい。
 つまり保守二大政党は、それができれば長続きするかもしれず、しかしそれを創るまでの過程を考えれば、かなりの困難があり、一方、保守-リベラル二大政党は、風が吹けば可能だが、しかしこちらは長続きしない。そういうことを教えてくれたのが、今回の選挙ではないか。そしてそれは短期的には、その通りであって、いささか気が重い真実を私たちに突き付けているのである。
 さて、最初から、小池の風を感じていない私にとって、今後希望の党がどうなるのかということは、それほど大きな問題ではない。先の小熊の分析を基にすれば、野党はリベラル中心でまとまった方が、今後の可能性は高く、保守派が保守派として残りたいというのであれば、みんなの党や維新のあとを追い、非自民の保守という、ごく一部の支持者を奪い合う、つまり生態学が言うところの、ニッチを分け合うしかない。
 さて話を先に進めるために、以下、保守主義、リベラルという言葉を整理しておく。もともと日本では、保守-革新という言い方がされて来たのである。保守主義という概念は、ヨーロッパでは、フランス革命のような急激な改革に反対するという意味で使われ、後にはマルクス主義に反対して、自国の伝統を守るという意味で使われた。それが日本においても、革新と言われる社会党、共産党の多くがマルクス主義だったから、それに反対するという意味では、保守本来の意味を持っている。しかし日本では、保守が、天皇制を中心にしてきた日本の伝統を守るという、積極的な意味が強く出て、そしてそれが社会主義諸国から日本を守るためには、アメリカの力が必要で、つまりアメリカ追従の保守主義という独特のものが出来上がる。そこに社会主義諸国が変容し、社会主義が魅力をなくし、革新がいつの間にか、リベラルと言われるようになったあとも、中国、北朝鮮から日本を守るということが重視され、一層アメリカ追従に徹した保守主義が今日まで続いている。
 さて、リベラルは、ヨーロッパでは本来、個人の自由を守るという意味で使われる。その際の自由概念は、ルソーやヘーゲルのそれではなく、ロックに由来する、経済的自由を守るという意味である。それが20世紀のアメリカに行くと、すべての人の経済的自由を守らねばならないということで、福祉重視という意味で使われる。実際、今のアメリカで、リベラルという言葉は、ほとんど左派を意味する。その概念が日本に入って来る。そうすると、まだ日本が保守-革新と二分されていた時代に、しかし自民党の一部はリベラルであり、社会党の一部もまたリベラルであった。その後、革新と言われる人たちがリベラルと言われるようになったので、私は区別するために、元々のリベラルはリベラル右派、元々革新だった人たちは、リベラル左派と言うべきであると思う。というのも、革新は、マルクス主義が衰退した後、尚マルクス主義を奉じる人と、福祉重視の人、様々な市民運動をする人の集まりになり、そしてそこに憲法問題が入って来て、基本的に護憲の立場の集まりになったからである。一方、リベラル右派は、必ずしも護憲ではない。
 そういう区分けをすると、保守を中心にリベラル右派の混ざる自民党がいて、主としてリベラル右派からなる公明党と組み、一方野党は、リベラル右派を主に、リベラル左派も取り込んだ立憲民主党と、保守を中心に純化しようとしたのに、リベラル右派も入ってしまった希望の党があり、そこに共産、社民とリベラル左派の政党がいるということになる。先の小熊の分析は、便宜的に、自民と公明、希望の党を保守とし、立憲民主と共産、社民をリベラルとしたが、厳密には、以上のようにすべきである。そうしないと以下、憲法問題が論じられなくなる。
 さて一体に、改憲も護憲も、実は様々な立場があり、それらは交錯し、入り混じっている。しかし、現実的にいよいよ改憲かという時期になって、次のように整理されると思う。
 つまり、憲法を根本から変えたいという保守と、今の憲法の趣旨を生かして、部分的に改憲をしても良いというリベラル右派と、護憲のリベラル左派とに分かれる。1980年代までは、自民党の中に、絶対改憲したいという人たちと、改憲はしたいが、それはできないから、現実的に対処して行くという人たちがいて、一方革新は護憲で団結するという風潮であったが、今は、保守が本当は根本的に改憲したいのだが、それはできそうもないので、リベラル右派に近付いて、彼らを取り込み、今の憲法の趣旨を生かして、小さな改憲をするというあたりで落ち着くのではないか。それに対して、護憲を主張するリベラル左派がどこまでそれに抵抗できるかというところだと思う。
 現実的な問題として、具体的には、憲法9条の第2項は削除したいと保守派は思い、実際、元々の自民党草案は、これに代えて、「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」というものだったのに、しかし今の首相提案は、9条2項は残して、そこにとにかく自衛隊だけは認めてもらえるよう、その存在を明記するというものになったのである。リベラル右派でも納得できる、小さな改憲で妥協しようというのが、新しい首相の案になっている。しかしそれに対して、では、果たして本当にそんな小さな改憲で意味があるのかという、保守本来の主張の巻き返しが出て来るだろう。つまり改憲はものすごいエネルギーと労力が必要で、小さな改憲なら、わざわざそれらを支払うに値するかという問題が、出て来るだろうと思う。やはり根本的な改憲を望むべきではないかという声がそれなりにある。どのあたりで落ち着くかの駆け引きだと思う。
 保守は安倍や小池や前原が思っているほどに、多くはない。しかし中国嫌いと北朝鮮を脅威と思う人たちが今の保守を支えている。そういう人たちが、憲法改正についてどう思うか。また圧倒的多数を占める無党派と、それなりの数のリベラル右派は、憲法改正をしても良いが、保守派が主張するほど、大きな改革はしなくても良いと思っている。そのあたりをどう判断するか。小さな改革ならわざわざしなくても良いと言う人と、改憲は面倒だと言う人と、あくまで護憲を主張する人が結び付く可能性はあると私は思う。
 私がここで言いたいのは、実はここからである。要するに、保守主導での憲法改革はできず、リベラル右派を巻き込まねばできないのである。それは保守とリベラル右派が本来は切り離せるということを意味している。自民党の中にリベラル右派がいて、公明党は基本的にリベラル右派で、それは保守主義とは別の考え方をしている。
 そして長期的には、少子高齢化はますます進み、経済的には金融化が進んで、経済全体の金融産業化がどんどん進展し、ついには恐慌を引き起こしかねず、また国際秩序も大きく変わるというときに、保守とリベラル右派とは本来別物であって、それは引き離し得ると考えることは重要だ。短期的には絶望的だと思われる政治再編も、長期的には、この保守-リベラル右派-リベラル左派という区分けの視点を持っていることが大事だと思うのである。(2017.10.27)
 
注1 民主党が大勝した2009年8月の総選挙の投票率は、69.3%である。このときは明らかに風が吹いたという表現が適切であろう。なお、今回、2017年10月の総選挙の投票率は、53.6%であり、これは戦後最低であった2014年の総選挙の投票率、52.7%に次ぐ低さである。
注2 朝日新聞 2017年10月26日
 
(たかはしかずゆき)
 
(pubspace-x4485,2017.10.28)