安川寿之輔
「丸山眞男の支持者」や東京大学関係者が、安川の福沢研究の成果をもっぱら黙殺・無視する傾向があるが、これは、現在の日本の学界の汚点の一つと考えている。そこで、原則として、下記の私の諸著書で言及している件を中心にして、気づいた限りで、その事実を確認しておこう。その際、私の福沢研究書は、『日本近代教育の思想構造』(新評論)は『旧著』、『福沢諭吉のアジア認識』(高文研)はⅠ『アジア認識』、『福沢諭吉と丸山眞男』(高文研)はⅡ『福沢と丸山』、『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研)はⅢ『戦争論・天皇論』、『福沢諭吉の教育論と女性論』(高文研)は『近著』とそれぞれ略称する。
★2006年刊の苅部直『福沢諭吉』(岩波新書)には、104件の著書・論文等が「参考文献」として掲載されている。ところが、その三年も前に刊行されたⅡ『福沢と丸山』は、丸山の福沢研究を壮大な虚構の研究として全面的に批判した著書であり、(次に紹介するように)丸山眞男を偲ぶ<「復初」の集い>でも評判になったものであるが、この「参考文献」に記載されていない。少なくともこれが、苅部直の作為的な無視であることは、否定できないであろう。
★同じⅡ『福沢と丸山』刊行の翌月に開催された丸山眞男を偲ぶ第4回<「復初」の集い>の席上で、聴衆からパネラーの飯田泰三に同書への評価が質問された。飯田はⅠ『アジア認識』への批判的印象を語った後、安川から同書を贈呈されているが未読と応え、「いずれきちんと読んで、批判的なコメントを発表したい」と公の席で答えた。飯田が丸山「先生」の福沢像は「丸山諭吉」像という世評のあることを紹介している人物なので、丸山「門下生」の中でも、飯田の安川批判ならば是非知りたいと思い、一年後の2004年10月に、私は直接飯田宛に返信ハガキ同封で予告の「批判的なコメント」公表の催促をした。しかし、返信ハガキは発信されず、待つこと二年半、2006年の賀状に一行「御期待に添えなくて済みません。」と添え書きがあった。以上の経緯については、Ⅲ『戦争論・天皇論』の序章で紹介した。
なお、「丸山の支持者」や東京大学関係者が刊行してきた季刊『丸山眞男手帖』では、丸山への批判的な著作が登場すると、会員からの論難の投書や反論の書評が必ず掲載されてきたが、批判的コメントを公約した(『手帖』編集委員の)飯田自身がその役割を果たさなかったこともあり、この『手帖』では、安川のⅡ『福沢と丸山』への批判・反論は一切なく、完全に「黙殺」されたが、考えてみるとこれはとても「名誉」な出来事と評価できよう。
★山住正己の場合は、安川の黙殺ではなく、安川を名指しで(ただし、誤謬の)批判してくれた珍しい事例である。Ⅱ『福沢と丸山』は、福沢研究史上初めて、教育勅語「下賜」六日後の「時事新報」社説「教育に関する勅語」を紹介することによって、福沢が教育勅語に積極的に賛成していたことを解明した。しかし同書の33年前の『旧著』では、安川もこの(石河幹明筆の)社説の存在を知らず、勅語との関係について、「福沢は、「教育勅語」の制定にもその内容にもなんら異論をさしはさまなかっただけでなく、・・「宗教と教育の衝突論争」にも参加せず、そうすることによって、近代日本の<大日本帝国憲法=教育勅語>体制を力強くささえていったのである。」(371頁)と結論していた。
山住は、『福沢諭吉選集』第三巻(岩波書店、80年代版)の「解説」論文において、この安川『旧著』を名指しして、(「修身要領」の誤読もあり)福沢=「教育勅語への最大の抵抗」者という自らの誤謬の前提から、山住は見当違いの批判を列挙していた。Ⅱ『福沢と丸山』の刊行で、ようやく山住の誤謬を認識・自己批判してもらえると期待していたら、同書執筆中に山住は死去してしまった。
★丸山眞男本人の安川への対応を、この機会にまとめて概観しておこう。丸山批判に一章をあてた『旧著』に対しては、丸山から、家永三郎とは対照的な「はぐらかしの返信」が来た件は、Ⅱ『福沢と丸山』の38頁に既述した。その返信で「小生自身が20年前の(自分の)福沢論には、批判をもっている」と断っていた敗戦直後の過去の福沢論を、(結局、生涯)基本的に修正・自己批判しないまま丸山は、晩年、(前掲の飯田泰三も安川同様の批判をした)『「文明論之概略」を読む』上中下(岩波新書、86年)を著した。同書「上」の「まえがき」で、「惚れた恋人には「あばたもえくぼ」に映る危険は確かにある。しかし、とことんまで惚れてはじめてみえてくる恋人の真実・・というものもあるのでは・・」と書いて、丸山は、初めて「福沢ぼれ」の「自認」を表明した。
これに対し、戦争責任論の視座から福沢のとらえ直しに着手して最初に書いた94年の論稿「日本の近代化と戦争責任=戦後責任―福沢諭吉のとらえ直し」(『日本の科学者』315号)で、私は、同書における丸山眞男の「福沢惚れ」の自認は、彼の「ひらき直り」であり、丸山福沢論が「基本的に無理な読み込み」であることについては、既に「勝負はあった」というきびしい批判を書いて、丸山に送付した。それに対して丸山からは、(前年に肝臓癌を発症し)入、退院を繰り返している病状を書いて、「玉稿への感想も申し上げず、おくれてこのような簡単な返礼でまことに失礼」云々という返信が来た。
1990年の日本学士院での報告で、丸山は「教育勅語の発布に対して、一言半句も『時事新報』で論じておりません。」という明らかな虚偽を報告した。おそらくそのことを誰かから示唆されて、丸山は、死の前年(95年)2月に、「門下生」掛川トミ子に「「時事新報」が教育勅語についてどのように報じ、どのように論じているか」調べてほしいと依頼し、二日後には(山住正己に関連して前掲した)社説「教育に関する勅語」のコピーを届けられた。つまり丸山は、安川Ⅱ『福沢と丸山』よりも早く、福沢諭吉が教育勅語の発布に積極的に賛同していたという(衝撃的な)事実を目にしたのである。
聡明な丸山は、福沢が「典型的な市民的自由主義」者という年来定説化していた自説が壮大な虚構(「丸山諭吉」神話)であることを、瞬時に理解したに違いない(これ以後も丸山は、95年6月、「戦後補償」にかかわる声明、7月座談会、11月『世界』に寄稿、翌年4月にまた声明に参加、自宅でのレコードコンサートも開催、7月には大塚久雄の告別式に弔辞を寄せるなど、知的活動は続け、8月15日に死去した)。しかしながら、丸山は、福沢が「感泣」をもって教育勅語を歓迎し、学校教育で「仁義孝悌忠君愛国の精神を・・貫徹」させるよう要求する社説を書かせた(「丸山諭吉」神話にとっては)衝撃的な事実について、結局何も書き残さなかった(むしろこの社説の存在を認識・確認した最初の研究者として、丸山は、自己批判を含めて論稿を書き残す絶好の機会を逸した)。
Ⅱ『福沢と丸山』の成果について、丸山の福沢研究に無理や恣意があるという安川の結論自体は了解しながら、共通して出された疑問は、なぜ丸山が「恣意的な解釈」をつづけたのかという問いであった(例えば、久保田文貞の書評では「こんなことがあの丸山に起こるはずがないという私自身の丸山神話」を前提にして、「保守的な福沢を、なぜ、あの丸山が神話化させたのか。この疑問の方はけっこう私にも深刻な事件である。」)この疑問への一つの回答として、丸山の身近にいた同世代の都留重人からの同書への礼状中の次の三行の記述を、私は、都留の了解を得てⅢ『戦争論・天皇論』の「補論」で紹介した。
「丸山君とは日本学士院でも一緒でしたし、「福沢論」を含めて議論したことがありますが、彼は自分自身の名声に負けて本当に正直になれなかったのではないかと思います。」(理論的な問題としては、丸山の戦争責任への向き合い方に問題があったという視点については、『社会思想史研究』37号論稿で論じた。なお、この都留書簡後の私は、ある講演レジュメに「若くして超有名になることの不幸について・・。幸いに鈍才のぼくは若くして有名にならなかったお陰で・・」と落書きした)。
以上、丸山の安川福沢論への対応をまとめると、①『旧著』への「はぐらかしの返信」、②晩年の『「文明論之概略」を読む』における「福沢惚れ」の「自認」は「ひらき直り」であり、福沢をめぐる丸山―安川論争の「勝負はあった」という失礼な批判に対しては、病状を口実とする「まことに失礼」と本人も認める「簡単な返礼」しかよこさなかった。③福沢が教育勅語に賛同していたことを裏付ける「時事新報」社説「教育に関する勅語」の出現は、半世紀近くにわたって定説化していた福沢=「典型的な市民的自由主義」者という丸山説の誤謬を示し、「時事新報」に関する90年の学士院報告の誤りをも裏付ける事実であるが、それ以降も死去まで一年半近く知的活動を続けていた丸山が、両者について何の釈明・弁明も残さなかったことは、学者としての誠実さを欠く姿勢と思われる。④家永三郎との対照的な姿勢も意識して、私があえてここまで書くのは、丸山の近くにいた都留重人の書簡は、「自分自身の名声に負けて」、丸山が真理や学問的真実に対して「本当に正直になれなかった」姿勢を示唆していると思うからである。
★私の福沢研究の総括的な意味をもつ『近著』(Ⅳ『教育論・女性論』2013年)の第Ⅳ章「福沢諭吉の「独立自尊」を検証する」において、私は、晩年の福沢が編纂に関与した「修身要領」とその中心理念の「独立自尊」の精神についての先行研究の(「一身独立して一国独立する」の誤読の場合と同様の、「独立自尊」という字面にまどわされての)悉皆的な誤りを検証した。批判の主な対象は、宮地正人『国民国家と天皇制』(2012年、有志舎)の「修身要領」「独立自尊」理解であり、そのことは小見出しの名指しや十頁にわたる宮地の人名索引でも明らかである。しかし、「謹呈」した宮地正人からは、以後、二年間、なんの応答もない(飯田泰三の場合のような、賀状での添え書きもない)。しかし私は、非礼自体を問題にするつもりはない。
宮地『国民国家と天皇制』の刊行年は、Ⅱ『福沢と丸山』刊行から九年後のものである。「丸山眞男を偲ぶ<復初の集い>」でも話題になった同書は、福沢が教育勅語に賛同する(衝撃的な)「時事新報」社説を初めて紹介することで、丸山の定説的な福沢=「典型的な市民的自由主義」者の虚構を論証することによって、「丸山諭吉」神話にようやく止めをさした成果である。ところが宮地正人の同書は、「修身要領」編纂時の福沢が依然として「教育勅語イデオロギー」と最も対決した「英米流個人主義・自由主義イデオロギー」を保持しているという、誤った理解を前提にした主張である(飯田泰三が公約の「批判的コメント」が出来なかったように、同書の刊行後に、宮地のように、相変わらず公然と「丸山諭吉」神話を主張・再説する論稿を私は知らない)。宮地が未だに踏襲している、福沢が教育勅語反対論者であるという理解は、(Ⅱ『福沢と丸山』が論証したように)丸山眞男による福沢諭吉神話において創作された最大の虚構である。
宮地『国民国家と天皇制』は、安川のⅡ『福沢と丸山』の成果を、なぜまるまる無視したのか。「丸山諭吉」神話を未だに心酔する宮地なら、丸山の名前のある『福沢諭吉と丸山眞男』の存在に気づきそうに思うが、売れっ子で研究書を量産する多忙の宮地は、一つの可能性としては、たまたま九年間、不勉強で、安川の同書の存在を知らずに『国民国家と天皇制』を執筆したと考えてみた。ところが、話を冒頭に戻すと、2013年の宮地は、彼の「修身要領」擁護を名指しで批判した安川『近著』を、今度は直接「謹呈」されたのである。
この『近著』では、「修身要領」とその中心理念の「独立自尊」が「教育勅語イデオロギー」と最も対決した「英米流個人主義・自由主義イデオロギー」であるとして、それを擁護・賛美する宮地『国民国家と天皇制』の見解が、とんでもない誤謬であることを、数々の論拠をあげて論証した。八点にもわたるその論拠を列挙しておこう。①「修身要領」には、福沢の指示で「凡そ日本国に生々する臣民は男女老少を問はず、万世一系の帝室を奉戴して其恩徳を仰がざるものある可らず」という天皇制規定が「修身要領」全体を制約する重要な「前文」として置かれていた。②つまり「修身要領」の「独立自尊」は、「万世一系の帝室を奉戴して其恩徳を仰」ぐ日本の「臣民」(!)が、自ら進んで「自動」的・自発的に「君に忠義を尽」くし、「親に孝行」するという意味であった。
③だから、「修身要領」制定70年記念の覆刻企画に、慶應義塾の塾長(元文相)高橋誠一郎は「修身要領」前文が「教育勅語の・・道徳」と同類の故に反対した。④そして逆に、「独立自尊」が「教育勅語」の「忠孝」思想に通じる保守的な主張であるから、高橋誠一郎とは反対に、それを現在一番もてはやしているのが「極右」政治家の安倍晋三や石原慎太郎である(研究者では、北岡伸一)。⑤宮地は「丸山諭吉」神話を盲従的(かつ拡大再生産的)に踏襲し、福沢を「教育勅語」反対論者と誤解し、「修身要領」編纂時も「福沢の最も対決したのは他ならぬ日本国内の儒教主義、国家主義と忠孝主義が結合した教育勅語イデオロギー」であり、依然として福沢は「英米流個人主義・自由主義イデオロギー」を保持していたと誤解しているので、生涯にわたる福沢の基本的に不変の道徳思想を確認しておこう。
⑥「啓蒙思想家」としての福沢が、「殉死」「所謂愚忠」「卑屈柔順、唯命是従う」などという「単純な」「元禄の忠孝仁義」を繰り返し批判したことは当然であるが、福沢諭吉にとって、「君に忠を尽」し「親に孝行」することは「人たる者の当然」の務めであり、その忠孝道徳は、初期啓蒙期以来、生涯不変の自明の道徳であった。だから、天皇制の本質を「愚民を籠絡する」欺術と見抜いてそれを積極的に選択した中期保守思想の確立とともに福沢は、「日本国士人」の「尽忠報国」の道徳を提示し(慶応義塾の「建学の精神」は「報国致死」)、帝国憲法発布時には「従順温良、卑屈、無気力」の国民性を「我日本国人の殊色」と前向きに評価し、「教育勅語」の発布をうけると、学校教育による「仁義孝悌忠君愛国の精神」の「貫徹」を要求する「時事新報」社説を石河幹明記者に書かせた。
以後福沢は、「英米流個人主義・自由主義」とはおよそ無縁の「日本国民は唯この一帝室に忠を尽して他に顧る所のものある可らず」「其君を尊崇敬愛すること神の如く父母の如く・・此習慣は国人の骨に徹して天性を成し」などと、天皇の尊厳・神聖のキャンペーンの先頭に立ち、天皇の政治関与・指導のたびに「感泣」した(宮地は、福沢の天皇制構想を丸山眞男同様に「政治から皇室を絶縁」と誤解)。日清戦争に際して福沢は、「深く鞘に納め」て来た「非常の忠孝」の「正宗の宝刀」を抜き放ち、全臣民に「あらん限りの忠義」と死を求める激烈な社説「日本臣民の覚悟」を書いた。
したがって、晩年、「修身要領」制定二年前の臣民道徳にかかわる六篇の一連の社説を書いた場合にも、福沢は、「外国人を指して毛唐(けとう)、赤髯(あかひげ)など唱へ」る「排外主義」や復古的な「儒教主義」を排斥しながら、結びの社説では「吾輩は寧ろ古主義の主張者」と題して、「儒教主義」について、「純粋無垢」の本性では「周公孔子の教は忠孝仁義の道を説きたるものにして一点の非難もなきのみか、寧ろ社会人道の標準として自から敬重す可きもの」として、「吾輩は啻(ただ)に古主義を排斥せざるのみか、寧ろ其主張者を以て自から居るもの」と結んだ。
⑦宮地は「修身要領」の個別の条文の評価にもとり組み、例えば第二六条の(西園寺文相同様に、アジア蔑視自粛の時流に乗って)「他国人蔑視の戒め」規定を高く評価しているが、それは典型的な「建て前」論に過ぎなかった。この場合の宮地も、丸山(先生)流に、福沢の超例外的な(中国人蔑視を戒める)社説「支那人親しむ可し」(1898年3月)をもちあげている。しかし、(「強兵富国」のアジア侵略路線を提起した1881年『時事小言』以来、一貫して)アジア蔑視の「排外主義」呼号の先頭に立ってきた福沢と「時事新報」社説は、右の「建て前」社説を稀な例外として、それ以降も、相変わらず台湾の征服戦争に抵抗する台湾人の「土匪(ドヒ)」「烏合の草賊輩」の殲滅を呼号し、「朝鮮人・・の頑冥不霊は南洋の土人にも譲らず」「支那人の狂暴・・無智無謀の愚を憐れむのみ」とアジア蔑視観の羅列・キャンペーンを続け、義和団鎮圧戦争でも「支那兵の如き、恰(あたか)も半死の病人」だから戦争は「豚狩の積(つも)りにて」とかき立て、福沢自身の最晩年の『福翁自伝』でも、公然と朝鮮人・中国人差別の記述は続いた(Ⅳ『教育論・女性論』239頁)。
⑧同じ「要領」第八条「男尊女卑は野蛮の陋習なり。文明の男女は同等同位、互に相敬愛して各(おのおの)その独立自尊を全(まった)からしむ可し」について、福沢女性論を「独立独歩の自立した男女の個的確立を総ての根底に据える発想は明治初年以降、1901年に没するまで微動だにしていない」と理解・把握する宮地は、第八条が第二六条同様の「建て前」論の空しい規定であることに気づかない。Ⅳ『教育論・女性論』が、定説化した福沢=「男女平等」論者を壮大な虚構の福沢評価と解明したように、福沢は、男女「同権」に積極的に反対し、女性を性別役割分業の世界に閉じ込め、女性の参政権、労働権、恋愛結婚、「離婚の自由」などに反対(否定)する一方で、(娼婦の海外「出稼ぎ」の自由をふくむ)売買春の公娼制度を積極的に擁護し、「温和良淑」「柔順」の「美徳」養成のための女子特性教育論(大学でも裁縫重視)を主張し、(家父長制的女性差別の)明治民法を「世道人心の革命」と擁護した。
以上八点もの論拠をふまえて、「修身要領」「独立自尊」は教育勅語に反する「欧米流個人主義・自由主義イデオロギー」を表現するものという、宮地正人『国民国家と天皇制』の福沢擁護論を批判した。その『近著』の「謹呈」に対して宮地は、なんの応答も示さなかった。また既述したように、『国民国家と天皇制』は、安川Ⅱ『福沢と丸山』の存在を無視していた。同様のことが重なると、宮地は、九年間、たまたま同書の存在を知らなかったのではなく、冒頭にメモした「「丸山の支持者」や東京大学関係者が、安川の福沢研究の成果をもっぱら黙殺・無視する傾向」に、宮地も汚染されているのではないのか、と考えたくなる。そう思って、安川以上にきびしく宮地正人の福沢論を批判している杉田聡に問い合わせてみた。
杉田によると、2012年に宮地の福沢天皇制論把握を体系的に批判した論稿「福沢諭吉と明治絶対主義的天皇制―福沢は天皇制とたたかったか」(『帯広畜産大学学術研究報告』第33巻)を贈呈したが(この論稿は、『季論21』2010年冬号の宮地正人・堀尾輝久・吉田傑俊のシンポ「生きた思想とは何か」の福沢論批判を意図した論稿「「福沢諭吉神話」を越えて」(『同誌』12年春号)の福沢天皇制論を詳論したもの)、受領の返事のみで、内容への応答はなかった。また、2010年10月に、やはり宮地批判も記述した『福沢諭吉―朝鮮・中国・台湾論集』(明石書店)を、「礼状不要」の一筆を入れて送った場合は、受領の返事もなかった。そして今年2015年1月、10カ所以上で宮地を名指し批判した『天は人の下に人を造る』(インパクト出版会)を送付したら、礼状もなかった。以上の三度にわたる宮地批判に対して、宮地が言及・反論した情報は、皆無とのことである。
とすれば、宮地正人は「安川の福沢研究の成果をもっぱら黙殺・無視する傾向」にあるのではなく、自説を批判したり自説と異なる見解を表明した研究成果は、もっぱら無視・黙殺するという性癖があるということのようである。自分を何様と心得ているのだろうか?やはり(杉田聡『「日本は先進国」のウソ』がいうように、途上国の日本では)「東大病」症候群は存在するのか?
★Ⅳ『教育論・女性論』ではまた、「丸山門下」生の堀尾輝久の主著『現代教育の思想と構造』の福沢教育論解釈が「お粗末」な「誤謬」そのものであることを、(同席したシンポジウムで彼が表明した)「過去にあるあらゆるポジティブなものを・・素材として利用」するという政治主義的な研究姿勢の無理・誤謬を含めて、具体的に論証した。
その堀尾輝久は、かつて(二人に共通の)学会誌『教育学研究』で、「丸山諭吉」神話に依拠して、私の『旧著』批判の書評を担当したという事情もあり、丸山の福沢論が(したがって、それに依拠した堀尾の福沢論も)壮大な虚構であることを論証したⅡ『福沢と丸山―「丸山諭吉」神話を解体する』を謹呈した際の彼の対応に、私は注目していた。いささか意外であったが、堀尾輝久からは「『丸山諭吉』神話『解体』は成功していると思いました・・私の福沢諭吉理解へのご批判、反論はありません」という(素直な)私信が寄せられた。
しかし私は、この誠意ある堀尾の対応を紹介したうえで、論稿「戦後日本社会における福沢諭吉研究の批判的総括」(『社会思想史研究』37号、2013年)において、その彼には、あえて無理な注文を付けた。なぜなら堀尾は、主著『現代教育の思想と構造』によって、戦後日本の教育学研究の学問的水準の向上に大きく寄与し(私自身も多くを教えられ)た研究者であり、日本教育学会会長、日本教育法学会会長、民主教育研究所代表という履歴に見られるように、戦後日本の教育学研究の第一人者的存在であるからである。
せっかく安川は、Ⅱ『福沢と丸山』によって定説化していた福沢諭吉神話=「丸山諭吉」神話の解体を論証したのに、月脚達彦と苅部直と宮地正人からは完全に無視・黙殺され、飯田泰三からは公約した「批判的コメント」がもらえず、(「時事新報」の「教育勅語」の積極的受容の社説の存在を共通に認識した)丸山眞男本人は、私が同書執筆以前に死去した。そこで、福沢研究の批判的総括の上記論稿の中に、次のように書いた。そのまま再録しよう。
「振られっぱなしの悔しさというわけではないが、堀尾輝久には、「丸山学派」を代表して、思想史研究の方法論をふくめて、その福沢論を「誤謬」や「お粗末」とまで批判したⅣ『教育論・女性論』に対する反駁か自己批判の論稿をぜひ書き残してもらいたい(ここまで書くことには躊躇があったが、哲学専攻の友人から「日本では満足な論争がなされないのが、学問が停滞する最大の要因・・ぜひ堀尾氏を「挑発」していただきたい。」というメールの返信があった)。」
旧稿を再録したミニコミ誌『さようなら!福沢諭吉』創刊準備第3号を、第1、2号に続いて堀尾さんに謹呈することで、私の期待する論稿の執筆を督促したい。堀尾さんからは、既述したように、すでに「『丸山諭吉』神話『解体』は成功していると思いました・・私の福沢諭吉理解へのご批判、反論はありません」という誠意ある私信をいただいている。にもかかわらず私が、ここまでこだわるのは、華麗な彼の履歴に象徴されるように、日本の戦後民主主義時代の教育学研究を代表する第一人者であるだけに、そんな研究者でもなぜ福沢研究を誤ったのか、私信での応対とは別に私の希望に応えて、(「反駁」よりは)「自己批判」に傾斜した論稿を期待したいと思っている(上記再録論稿で「哲学専攻の友人」と書いたのは、同ミニコミ誌創刊準備第2号冒頭に登場した杉田聡さんである)。
なお、以上に登場した月脚達彦、苅部直、飯田泰三、山住正己、丸山眞男本人、宮地正人、堀尾輝久に共通する傾向として、「東大病」症候群の可能性を示唆したが、もちろん私が、このシンドロームが東大関係者に不可避のものと考えていないことは、このミニコミ誌創刊準備第2号に登場した、同じ東大関係者の雁屋哲や醍醐聰さんらを思い出すだけでも十分であろう。
備考:本稿は、ミニコミ誌『さようなら!福沢諭吉』創刊準備3号に掲載した論考に若干手を加えて転載するものである。なお、同ミニコミ誌の講読を希望される方は、「公共空間X」の「窓口」によりお問い合わせください。
(やすかわじゅのすけ 近代日本思想史研究家)
(pubspace-x3197,2016.05.13)