アルベール・カミュ作品に読まれるマグリブ風―読書ノート(中)

石塚正英

  
(上)より続く。
  
三 フランス系アルジェリア人の覚悟 
  
〔引用3-1〕『異邦人』―― きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。6頁、p.7.
〔コメント3-1〕カミュをどう読むべきか、という観点を、私はほとんど意に介していない。あえて言うならば、私なりの観点〔文明を支える原初性〕――不条理の原初性――からカミュを読み込むのである。キーワードは〔価値転倒〕であり〔マグリブ〕である。よって、本稿はカミュに特化した作家論・文学評論とは次元を異にしている。
   さて、冒頭の書き出しはこうある。「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない」(6頁)。アルジェに住む主人公ムルソーは、養老院に暮らす母の死に接して悲しみに打ちひしがれることなく、その日から淡々とした日々を過ごす。恋人マリイと海に行き、知人レエモンとの付き合いの中でトラブスに巻き込まれ、海辺でアラブ人を撃ち殺してしまう。裁判でムルソーは、殺人容疑のほか日頃の非常識な態度を詰問され、けっきょく死刑を宣告される。事件そのものだけでなく、母の葬式で涙を見せなかったことや、社会の常識に合わない態度まで問題にされる。ムルソーは周囲の価値観になじめないまま死刑を宣告され、むしろ裁判のみならず社会総体が自分に示す態度に応じることなく、刑死を受け入れる。
   この殺人事件についてカミュ研究者の三野博司は、著作『カミュ『異邦人』を読む―その謎と魅力』(彩流社、2002年)において以下のように記述している。
 

ところで異邦人とは、この土地のものではない人物を指すが、この土地とは1930年代のアルジェリアに他ならない。それゆえに異邦人とはアルジェリアに属さない者であるが、実は読解の困難はここから始まる。「なぜなら、植民地にあっては、この土地に所属するかそうでないかは、まさに植民地闘争の基礎をなすからである」(Christiane Chaulet-Achour, Albert Camus, Alger“L’ Étranger”et autres récits, Atlantica, 1998, p.42.)植民地には植民者と非植民者がいる。『異邦人』のアルジェリアにおいては、フランス人とアラブ人である。だが、植民地のフランス人たちは、本国から速く離れた辺境の住民であり、彼らはアラブ人と本国のフランス人のどちらからも隔たっている。こうした布置を背景に、ムルソーの殺人が起こるが、死体は浜辺/頁(plage/page)から消え去ってしまう。だが、この死体を忘れることなく、読解を続けなければならない。それは、だれが異邦人なのか、という中心的問題を検討するのに必要なものである。植民者としてのムルソーはこの土地の者であると同時に他所者(étranger)でもあるのだから(252-253頁)。

 
   小説中には明確に記されていないが、ムルソーはアルジェリア在住のフランス人である。作者アルベール・カミュ自身の出生を見ると、植民者コロンの末裔の父とスペイン系の母の間に、アルジェリアのモンドヴィ(現ドレアン)近郊で1913年に生まれている。ただし、父はアルベール誕生の翌年に第一次世界大戦(マルヌの戦い)で戦死しており、母は耳が不自由で寡黙だったから、なにか異邦人ムルソーのモデルになってもおかしくない生い立ちだった。三野博司によれば、「とりわけアルジェに住むフランス人の場合、「アルジェ病mal d’Alger」という言葉が示すように、彼らは二重の意味で孤立感を覚えていた。すなわち、自分たちに比べて圧倒的多数の現地住民に対してと同時に、本国の同胞に対しても孤立していると感じていたのである」(『カミュ「異邦人」を読む―その謎と魅力』彩流社、2002年、18頁)。とはいえ、カミュにとってマグリブの太陽は過酷なばかりではなかった。滋養にもなった。
   
〔引用3-2〕『異邦人』―― 空には既に陽の光が満ちていた。それは大地にのしかかって来て、暑さ急速に増した。なぜだかわからなかったが、我々は歩き出すまでに、ずいぶん長く待った。喪服を着ていて、暑かった。18頁、p.24-25.)
〔コメント3-2〕カミュはアルジェリア生まれなのだから、過酷な自然のもとでの営みは特別な背景ではなかろう。灼熱の陽光などは、カミュにとって生き死にを決定するほど過酷な要因ではなく、作品の演出効果を増す要因だったのである。何としても避けるべきハザードでなく乗り越えていくべきリスクだったのだ、と思われる。「背教者」にはこうも書かれている。「私はタガーサから一時間のここまで追われ、崩れた岩間に隠れ、古ぼけた小銃にまたがっている。砂漠に陽が昇る。まだひどく寒い。まもなくひどい暑さになるだろう。この土地では気が変になる(cette terre rend fou)」(193頁)。アルジェリアという砂漠を含む過酷な風土がカミュとその作品に大きな要因となっていることは確かだが、カミュの懐く不条理はそれに影響されて生まれたのでなく、それに抗してのことである。なお、アルジェリアを含む北アフリカ一帯を「マグリブ」と称する。それは地中海の一角を占めているわけであり、カミュには地中海に面したマグリブの文物風土に親しみを感じていた。カミュ伝記作家の井上正はこう描いている。「大学一年になってまもなく、カミュは「地中海」という題の詩を書いている。後にカイエ゠アルベール゠カミュ叢書に収められて出版されることになるが、すでにカミュ自ら、地中海人であるという意識を確かなものにしつつあったということをうかがわせてくれるエチュード(習作)である。人間には自ずと限界があり、世界は一方に偏ったり、極端な方向に進んで破滅したりせず、みごとに均衡して調和を保っているという、古代ギリシャの明澄なコスモロジー(宇宙論)にあこがれるカミュ像がここにある」。「木陰にも光が散乱すると言われる地中海の太陽のもとで、森羅万象すべてが相互に依存、調和していることに思いをめぐらせ、このような思想の根づいていた古代ギリシャへの憧憬もつのっていく」(井上正『アルベール=カミュ』清水書院、2000年、30頁、35頁)。カミュにとって地中海(マグリブ)の太陽は過酷なばかりではなかった。
   
〔引用3-3〕『異邦人』―― 夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているか、ときいてきた。前に一ぺんいったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜあたしと結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むのなら、一緒になっても構わないのだ、と説明した。それに、結婚を要求してきたのは彼女の方で、私の方はそれを受けただけのことだ。すると、結婚というのは重大な問題だ、と彼女は詰め寄ってきたから、私は、違う、と答えた。マリイはちょっと黙り私をじっと見つめたすえ、ようやく話し出した。同じような結びつき方をした、別の女が、同じような申し込みをして来たら、あなたは承諾するか、とだけきいてきた。「もちろんさ」と私は答えた。マリイは、自分が私を愛しているかどうかわからないといったが、この点については、私には何もわからない。またしばらくの沈黙が過ぎると、あなたは変わっている、きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、いつかはまた、その同じ理由からあなたがきらいになるかも知れない、と彼女はいった。何も別に付け足すこともなかったから、黙っていると、マリイは微笑みながら私の腕をとり、あなたと結婚したい、とはっきりいった。君がそうしてほしくなったらいつでもそうしよう、と私は答えた。そこで、例の主人の申し入れの件を話してやると、マリイはパリの街を知りたいといった。私はしばらくの間パリで生活したことがあるのだと教えてやると、どうだったと、尋ねたから、「きたない街だ。鳩と暗い中庭とが目につく。みんな白い肌をしている」と私はいった。45-46頁、p.64.
〔コメント3-3〕ムルソーは、パリについて、そこは「きたない街だ」と言ってから「みんな白い肌をしている」と言った。ムルソーはおそらくカミュと同様アルジェリア生まれのフランス人なのだろう。そのせいで、マグリブ的風土に馴染む街路を好んでいたのだろう。アルジェならばカスバとスークが目に浮かぶ。それからまた、マグリブには遊牧系の諸民族が存在したが、彼らの多くはイスラム教徒だった。彼らのうち定住する家族は複数世代が同居していたりする。一夫一婦制でないケースも多々見受けられる。ムルソーはそうした風土的な生活習俗に親しんでいたのかも知れない。
   
〔引用3-4〕『異邦人』――〔アラブ人殺害の裁判における〕予審判事側は、ママンの埋葬の日に私が「感動を示さなかった」ことを、知っていた。「あなたにこんなことをお尋ねするのは、すこし具合が悪いんですが、これは大事な点です。これに対して私がうまい答弁ができなければ、告訴の有力な材料となるでしょう」と弁護士はいった。私が彼に協力することを望んでいたのだ。弁護士はその日私が苦痛を感じたかと尋ねた。この問いはひどく私を驚かせた。もし私が誰かにそんな質問を呈さなければならぬとしたら、ひどく困っただろうと思われた。けれども、私は自問するという習慣が薄れてしまっているから、ほんとのところを説明するのはむずかしい、と答えた。もちろん、私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何ものも意味していない。健康な人は誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。すると、弁護士はここで私の言葉をさえぎり、ひどく興奮した風に見えた。そんなことは、法廷でも予審判事の部屋でも口にしないように、と私に約束させた。一方、私は、肉体的な要求がよく感情の邪魔をするたちだ、という説明をした。ママンを埋葬した日、私はひどく疲れていて、眠かった。それで、起こったところのことを、よく了解できなかったのだ。私が確信をもって言いうることは、ママンは死なない方がいいと思ったということだけだ。ところが、弁護士は満足した風がなく、「それは十分ではない」と私にいった。67-68頁 p.95.
〔コメント3-4〕憎んでいる者でなく「愛する者の死を期待する」という場面を想像できないわけではない。愛情よりも情愛を深めあった人たちにはちっとも不自然ではない。過去には、それに見合う死生観が存在している。また、「肉体的な要求がよく感情の邪魔をする」場合もありえるということだ。即身仏は極端な事例であるとしても、死は生の完成を意味すると思えば、自らそれを選択する生き方はあり得る。愛する人と愛される人とのいたわりの心情がそうさせたりする。
   
〔引用3-5〕『異邦人』―― 私はついに、食事のときに料理場のボーイについて来る、看守長の同情を克ちうるに至った。最初私に女の話をしたのは彼だ。他の連中が訴えて来る最初のことはこれだ、と彼がいった。私は、自分もみんなと同じであり、こんな待遇は不都合だと思う、といった。「けれど、あんたがたを牢屋へ投げ込むのは、これあるがためでさあ」――と彼がいった。――「どうして、これがためなのさ?」――「確かにそうでさあ、自由ってのは、すなわちこれですよ。あんたがたは自由をとりあげられるんでさあ」私はこんなことは考えたことがなかった。私は彼に同意を示して、「ほんとだな、そうでなかったら懲罰とは何だろう?」といった。「そうさ、あんたというひとはものわかりがいい。他の連中はわからないね。でも、結局連中は自ら慰んでいますよ」看守はこういって立ち去った。81頁 p.114.
〔コメント3-5〕看守の言う「自由ってのは、すなわちこれですよ」という言い回しが意味するものを、ムルソーは次第に気にならなくなって、忘れていく。以下〔引用3-6〕のように。
   
〔引用3-6〕『異邦人』―― ある日、看守が来て、私がここへ来てからもう五カ月になるといったときにも、その言葉は信じたが、よく理解できなかった。私にとっては、絶え間なく、同じ日が独房のなかへ打ちよせて来、同じ努力を続けていたに過ぎない。その日、看守の出て行ったあとで、私は鉄製の椀にうつった自分の姿をながめた。私の肖像は、それに向かって微笑んでやろうとしたにもかかわらず、なおまじめな顔をしているように見えた。私はそれを眼の前で揺り動かした。微笑したが、顔の方は、相変わらず、厳しく悲しげな様子だった。84頁 p.119.
〔コメント3-6〕ムルソーの性格について三野博司は『カミュ『異邦人』を読む』で次のように描写している。「ムルソーは他者を否定すると同時に他者を必要とする。孤独を望みながら、自分の孤独を他人に見られることを望んでいる。これはあらゆるロマン主義的人格に固有のものである。しかし、時代はもはやロマン主義的恋愛や詩人の運命を許容しない。カミュ自身がもちろんそれを良く知っていた。こうした時代にあって、ムルソーのような人物にとって、「殺人は実は他者との接触を回復しょうとするひそかな試み」なのである」(207頁)。独房では時の動かない日々が続く。しかし、「私の肖像」たるお椀の真顔は対話の相手になる。それ以上に、心身に残っている傷跡は対話の相手になる。よって自分の精神は動く。カミュはそこまでムルソーに演技をさせていなようだが、思い出すのは過去であっても、それは絶えずひとときの今を演出させる。それは、刑の執行までのつつがない日常の繰り返しでもあり、いつの日にか脱出する、との意欲の維持だったりする。その印象はやがて『追放と王国』の中に記されるが、ここで私はことのほかパピヨンを思い出す。
   アンリ・シャリエール、平井啓之訳『パピヨン』(全2冊、河出書房、2019年)のあらすじ(AI利用)――胸の蝶の刺青から「パピヨン」と呼ばれるアンリは、身に覚えのない殺人罪で終身刑を受ける。南米の過酷な流刑地へ送られた彼は、仲間のルイ・ドガと出会い、自由を取り戻すため命がけの脱獄を繰り返す。罪人として扱われながらも、パピヨンは希望を手放しない。彼の長い逃走と生存への執念が描かれる。
   映画『パピヨン』の2人の主人公――主人公たちの名は忘れたが俳優はスティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマン――に思いが集中する。終身刑を言い渡されて絶海の孤島に流されたこの2人が繰り広げる対照的な行動がとても印象的だ。マックイーン扮するAは幾度も幾度も脱走を試みる。筏を造って沖に漕ぎだしたり、身の回りの物をまるめて浮きにして泳ぎだしたり、はては絶壁から身を投じたりする。髪や髭がすっかり白くなり老いさらばえてしまったのに、それでもまたやり直す。他方、ホフマン扮するBは、島の一画に菜園をこしらえて平穏に暮らしていく。Aに誘われると「ぼくは、ここで一生をおえるよ」と返事し、Aのことはその都度見送る。そして毎度毎度連れ戻されるAと、幾度となく島内で再開する。そして最後にBは「また行くのかい?」といったセリフをはく。Aは「あぁ」と返事して絶壁から飛込み、紺碧に照り輝く水平線めがけて泳ぎだした。その後ろ姿をアップにしつつ、銀幕は下りるのだった。絶海の孤島にアジールを見たBとかつての居住空間に自由を求め続けるAとがいる。ダスティン・ホフマンは、映画『卒業』でも 『クレーマー・クレーマー』でも、あるい は『小さな巨人』でも、いつも決まってダメでヘボな自由人を演じていた。スティーブ・マックイーンは、『大脱走』では凄まじい脱走をやってのけるものの、最後には捕まってしまう演技――挫折の自由人――をこなす役者である。この2人の俳優に、演技でしかないのに、私は自由の2類型をみてしまうのである。
   
〔引用3-7〕『異邦人』―― マリイが入って来た。帽子をかぶっていて、やはり美しかった。しかし、私は髪を結ばずに散らしているときの方が好きだった。私のいる場所からでも、あの乳房の軽やかな重みが、手にとるようにわかった。下唇が相変わらず少しふくらんでいるのか見えた。大そう神経を立てている様子だった。すぐに、マリイは、いつからこの男を知ったかときかれた。彼女はわれわれのところで一緒に働いていた時期を示した。裁判長は、どういう関係なのかと尋ねると、女友達(アミイ)だと言った。別の質問に対して、彼女はほんとにこのひとと結婚するはずだと答えた。書類の頁をめくっていた検事が、出し抜けに、いつからわれわれの関係がはじまったか、と尋ねた。マリイはその日付を示した。検事は素しらぬ風に、それはママンの死の翌日のように思われる、と指摘した。それから、皮肉な態度で、こうしたデリケートな状況にこだわりたくはないし、またマリイの心配はよく了解しているが、しかし、(ここで彼は一段ときびしい調子になった)自分の義務からして、通常の礼儀を踏み越えざるをえないのだ、といった。そこで検事はマリイに、私が彼女の体を知ったその一日を、あらまし述べるように命じた。マリイは話したがらなかったが、検事がしきりにいい張るので、われわれが海水浴へ行ったこと、映画へ出かけたこと、二人で私の部屋へ帰ったこと、を述べた。検事は、予審におけるマリイの供述に従って、この日の映画のプログラムを調べておいたがといい、マリイ自身の口から、このとき何の映画をやっていたか、をいってもらいたい、と付け加えた。ほんとうに、絶え入るような声で、マリイは、それがフエルナンデルの映画だった、と述べた。彼女がいい終わったとき、沈黙が場内に満ちみちた。すると、検事は立ち上がって、いかにも深刻に、事実感動したような声で、私の方を指しながら、ゆっくりと、こういい放った。「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」相変わらずの沈黙のさなかに、検事は腰をおろした。と、突然、マリイは声をあげて泣き出した。それはほんとうではないのた、別のこともあった、自分が考えていたこととは反対のことをいわせられてしまったのだ、自分はあのひとのことをよく知っている、あのひとは何も悪いことをしてはいないのた、といった。しかし、廷吏が、裁判長の合図によって、彼女を連れ去り、証人審問は更に続けられた。97-98頁 p.138-139.
〔コメント3-7〕マリイに対する検事の質問は、意図した通りの自白を得るために行なわれた取り調べにおける誘導尋問の一種だ。思えば昔、首都圏をはじめとして主要都市で安保闘争が激しさを増していった1970年6月のこと、多くの学生活動家が別件で事前逮捕された。各地の留置所は彼らで賑やかとなった。目的は反安保の騒擾を抑制することだが、事前逮捕にもきちんとした容疑ないし嫌疑がなければならない。そこで取調官が口にした言葉は「竹竿」だった。キャンパスや街路でデモ行進するに際して参加者が所持していた旗竿のことだ。取り調べにおいて学生を被疑者に仕立てたい警察当局は、凶器準備集合の容疑ないし罪状を立証したかったので、調書に「竹竿」と記そうと躍起になった。対して逮捕された学生たちは、旗幟鮮明に所属団体を示す「旗竿」と主張したのである。「ゲバ棒」という言い回しは警察やマスコミが用いた報道用語にすぎないとしたのである。ムルソーを凶悪犯に仕立てようと目論んでマリイに質問する検事の胸のうちを、カミュはしつこく描写したかったのだろう。なるほど、当時の反安保学生たちも異邦人(étranger)だったのだろうか。
   
〔引用3-8〕『異邦人』―― 私はただ一つ覚えている、――終わり頃に、弁護士がしゃべり続けているさいちゅうに、街の方から、この法廷のひろがりを渡って、アイスクリーム売りのラッパの音が、私の耳もとまで届いて来たのだ。もはや私のものではない一つの生活、しかし、そのなかに私がいとも貧しいが、しつこく付きまとう喜びを見出していた一つの生活の思い出に私は襲われた。夏のにおい、私の愛していた界隈、夕暮れの空、マリイの笑い声、その服。この場で私のした一切のことのくだらなさ加減が、そのとき、喉もとまでこみ上げて来て、私はたった一つ、これが早く終わり、そして独房へ帰って眠りたい、ということたけしか願わなかった。108-109頁 p.154.
〔コメント3-8〕いかなる状況にせよ、死に臨んでひと時を得るとして、人は何を思うのだろうか。異邦人のムルソーには、望郷の念でなく懐旧の情が湧きでたようだ。異郷において故郷を思うのでなく、分別世界から無分別時代を思い返しているのである。「これが早く終わり、そして独房へ帰って眠りたい」とは、無の世界に安らぎを得たい、という思いを語っている気がする。そうした時空を私は〔異界×アジール〕と命名している。私はその一事例を、グアダルーペ(中南米)における先住民に対するスペイン人の懐柔策にみている。懐柔策は功を奏して、1531年12月にメキシコ郊外に褐色のマリア「グアダルーペの聖母」が出現し、先住民に教会を建てるよう現地語で語りかけ、以後、先住諸民族の間に熱烈な信徒を見いだしていった。その際、グアダルーペの先住民は、スペイン人に武力制圧された現状は自分たちの力ではどうにもならない、なので超自然的=宗教的な存在にすがる、という方向で聖母崇拝を受け入れたわけである。私は、グアダルーペの聖母にはその土地の地母神が潜んでいると思っている。つまり、ベクトルは地母神的な女神に向かうもののように思われる。鉱山坑道の入口におかれた悪魔像の前で、先住民労働者は入坑のたび、「悪魔」像に酒とタバコを捧げるのだった。その意味を、彼らは番組制作者にこう語っていた。「外ではキリストを信じます。しかし坑道では悪魔を信じます」と。グアダルーペの聖母を背にして、教会聖職者はこう語ります。「先住民を鉱山労働に導き酷使したのは宗教でした」と。
   
四 不条理の作家カミュ
   
〔引用4-1〕『シーシュポスの神話』―― 以下のページで扱われるのは、今世紀のあちらこちらに見いたされる不条理な感性(une sensibilité absurde)である、――不条理な哲学(une philosophie absurde)ではない、はっきりいって我々の時代はまだそれを知らないのだ。だから、これらのページが現代の幾人かの精神から多くを負っていることを、この書物のはじめにあたって強調するのが当然の礼儀であろう。その点を隠すつもりが私には少しもない以上は、この著作の全ページにわたって、私が彼らの言葉を引用したり、注釈を加えたりするのを読者はこらんになるだろう。8頁、p.ix.
〔コメント4-1〕「不条理な感性(une sensibilité absurde)」とは、これ如何に? 訳者注記には用語「不条理」について以下の説明がある。「論理や常識を破っているばかりか、それ自体として矛盾しているためとても考えられないような状態や行為について言われる言葉である。それは「不合理な」とか「非論理的な」というのともちがう。たとえていえば、水に濡れないつもりで川のなかに跳びこむ――それがabsurdeな行為なのだ」9頁。そうであれば、不条理は不自然な状態や行為ということになる。水に濡れないつもりで川に飛び込めば水に濡れるが、それでは行為の目的は達成されない。つまり、水に濡れないつもりで飛び込む行為それ自体に意味や目的がある。それこそが不条理というものなのだろう。
   
〔引用4-2〕『シーシュポスの神話』―― これまで自殺は社会現象のひとつとしてしか扱われなかった。しかし、いまここでまず問題にしようとしているのは、それとは反対に、個人の思考と自殺との関係である。自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない。ある夜、かれはピストルの引き金を引く、あるいは身を投げる。自殺をした不動産管理人があったが、ある日ぼくは、その男が五年前に娘をなくし、それ以来というものすっかりひとが変ったようになってしまった、そうした事情が「かれの内部にすこしずつ穴を穿っていったのだ」という言葉を聞いた。これ以上正確な表現はのぞめまい。思考をはじめる。これは内部に穴があきはじめるということだ。こういう発端に社会はあまり関係していない。12-13頁
〔コメント4-2〕自殺の原因や背景を考える前提として個人か社会か、という問題設定をする。それは哲学や社会学ごとに相対的に異なっている。私がこだわるのは19世紀ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハの「自殺」観である。フォイエルバッハによれば、自殺は自己保存衝動ないし幸福衝動と矛盾しない。困窮や悲痛、嫌悪に反する意志は人間の最初の意志である。「自殺者が死を意志するのは、死が悪だからではなく、死が悪や不幸の終わりだからである」(柴田隆行『連帯するエゴイズム―いまなおフォイエルバッハ』こぶし書房、2020年、152頁)。さて、どうであろうか。自死は自然な行いではない。死の意志は、幸福衝動が止んだところに出現するような気がしてならない。死ぬことで自己保存や幸福衝動が再開するはずもない。むしろ、そうした衝動が途絶えたときの行為である気がする。それから、他の自我(もう一つの私)を通して初めて自らを実現しうるエゴ(私)が、独りで勝手に死を選んだのでは、他の自我との関係を一方的に遮断し、Mitleid(共苦)をすすんで解体してしまうことになる。それに、Mitleid(共苦)には、人の精神や人格だけでなく、人の感情や肉=肉体にもしっかりと権利を認める立場が備わっていないのだろうか。突然死でないかぎり、自殺者が死を意志するのは、自ら〔生の完成〕を実現したいからなのではないか。死は悪や不幸の終わりなのではなく、死によって幸福を完成するのだ。自然界では、完成はすなわち消滅を意味している。完成する刹那、他の自我との関係は自然に消滅を迎える。私は、自然体そのものでなく観念体となってしまった人間にとって、自殺(自死)もまたありえる行為だと思っている。それを不条理と呼ぶのであれば、不条理もまた人間的なのだろう。
   
〔引用4-3〕『シーシュポスの神話』―― 不条理性の感情〔感覚〕(Le sentiment de l’absurdité)は、どこの街の曲り角でも、どんな人間にでも真っ向から襲いかかってくることがありうる。この感情を、ありのままに、その荒涼とした裸形の姿で、しかも輝きをいささかも持たぬその光の中で捉えることはできない。だが、この困難自体が熟考に値する。自分以外のだれかある一人の人間というものは、私たちにとっていつまでも未知の人間のままであり、その人間の中には、私たちの理解から滑り落ちてしまう還元不能のなにかが常にあるということは、おそらく真実だ。だが実際的には、私はいろいろな人間を知っているし、彼らの挙措動作、行為の全体、彼らの生活がこの世の生に惹き起すいろいろな結果によって、彼らを認知している。それと同じように、分析を受けつけないあの不合理な(irrationnel)感情にしても、知力で捉えうる次元内でのそのさまざまな帰結を総計し、その表情のすべてを捉え記述し、その宇宙の全貌を描きあげることによって、実際的にはそれを限定することができる、実際的にはそれを評価することができるのだ。21-22頁 p.9.
〔コメント4-3〕カミュ文学の世界では「不条理」と「不合理」の区別を整理してあることだろうが、ラテン語源ではどうか。手元のラテン語事典(LEXICON LATIO-JAPONICUM 羅和辞典、研究社、2002年)では、absurde(absurdus)は「調子はずれ」とか「不適当」、「不条理」とある。また、ラテン語のirrationalisは「不合理」となる。私が思うに、「不条理」は「不合理」でなく「非合理」の一種ではないだろうか。単語の成り立ちで見ると、不合理は合理の否定だから、不合理には合理が前提される。対して「非合理」は「合理ではない」としているだけである。内であれ外であれ、およそ合理を前提しない。合理のあるなしにかかわらず単独で存在する概念である。不条理はまさしく非合理の一種なのである。「分析を受けつけないあの不合理な(irrationnel)感情」とは、合理的な分析を受け付けない感情、と言っているに過ぎない。
   
〔引用4-4〕『シーシュポスの神話』―― 死という予想不能な出来事の、こうした基本的で決定的な側面が、不条理な感情の内容(le contenu du sentiment absurde)をなしている。死というこの宿命の破滅的な照明を浴びると、無益さ〔という感情〕があらわれる。私たちの在り方を定める苛酷な数学をまえにしては、いかなる道徳も、いかなる努力も、先験的に正当なりとすることはできないのである。28頁、p.13.
〔コメント4-4〕「死という予想不能な出来事の、こうした基本的で決定的な側面が、不条理な感情の内容(le contenu du sentiment absurde)をなしている」とカミュは言うが、「不条理な感情」の要点は「予想不可能」ということか。計画的な自殺(自死)は不条理でないのか。それから、カミュは「死というこの宿命の破滅的な照明を浴びると、無益さ〔という感情〕があらわれる」とするが、なぜ死が破滅的なのか、私には理解できない。それから『カミュII』巻末の解説「カミュの思想と演劇」には、こう記されている。「自殺は反抗の結果のように見えるが、反抗のはての死の受容にほかならず、不条理を死のなかに引きずりこんで解消してしまうから、反抗とは正反対のものである。反抗は不条理が解消されることにあくまで反抗しつづけることをいうのであり、死の意識でありながら同時に死の拒否であるのが、反抗の意識である」(691頁)。とにかく、不条理感情の発生源は人間の観念だから、私が思うに、自然(フィジカル)と超自然(メタフィジカル)の中間にくらいする半自然(メソフィジカル)が不条理に関係しているのである。ほかの生き物と違って、人間はたくましい観念を有している。生前や死後まで観念するからである。人間は、不条理性を免れないが、不条理性を感じるメカニズムは理解できる。
   
〔引用4-5〕『シーシュポスの神話』―― 不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対時したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者から発するものなのだ。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。ちょうど、ただ憎悪だけが人間同士を離れがたい関係に置きうるように、不条理が世界と人間とを互いに密着させている。なにがどうなるか解らぬ私の生が続けられているこの途方もない宇宙の中で、私が明晰に識別できるのはこれだけなのだ。36頁、p.16-17.
〔コメント4-5〕『カミュII』巻末の解説「カミュの思想と演劇」には、こう記されている。「『異邦人』、『誤解』、『カリギュラ』とともに『シーシュポスの神話』は、カミュのアルジェリア時代の所産であった。それは、不条理の生を、まばゆい太陽を昂揚することが可能であり、また可能であらねばならないとカミュがみなしていた時期でもある」(694-695頁)。すなわち、マグリブの太陽と風土がカミュの不条理と反抗を培ったのである。さて、上記の引用文に対する私の議論であるが、自然と超自然は科学的な概念に基づいており、そのうち、自然には合理と自然法則が、超自然には不合理と唯一神と数理の法則が妥当する。それに対して、不条理には非合理と無意識が妥当する。不条理は無意識の世界にかかわる。ここに取り出した「無意識」とは以下のものである。私にすれば、意識の世界、あるいは目覚めている世界、それは文明的・理性的現象世界である。また、無意識の世界、あるいは眠っている世界、それは先史的・野生的心象世界である。現代人の日常生活において、先史世界は文明世界の背後か足下に沈潜し、無意識の世界を形成している。合理や不合理は意識の世界に関係し、非合理(不条理)は無意識の世界に関係する。カミュが「不条理は人間と世界と、この両者から発するもの」としている文脈は、私にすれば、理性で割り切れる文明世界とそれで割り切れない先史野生世界に区分され、不条理の関係するのは後者である。それは、時と場合によっては、意識の世界に割って入る。
   
〔引用4-6〕『シーシュポスの神話』―― ここにおいて、不条理な経験がどれほど自殺から遠いかがわかる。自殺は反抗に続いて起ると人は思うかもしれない。だがそれは誤りだ。自殺は反抗の論理的到達点をなすものではないからである。自殺は不条理への同意を前提とするという点で、まさに反抗とは正反対である。自殺とは、飛躍がそうであるように、ぎりぎりの限界点で受入れることだ。いっさいが消尽されたとき、人間はその本質的歴史へと帰る。自己の未来、唯一の怖しい未来を彼は見わけ、その中へと身を投じていくのだ。自殺はそれなりに不条理の解決となる。自殺は不条理を同じ一つの死の中に引きずりこむ。だが私は知っている、不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえないことを。不条理とは死を意識しつつ同時に死を拒否することだという限りにおいて、不条理は自殺の手から逃れ出てしまうのだ。死刑囚の脳裏をよぎる最後の思考がぎりぎりの極限点に至り、めくるめく死への転落がいまにも起ろうとするまさにその直前の地点で、しかもなお彼が数メートル前方に眼にする靴ひも、不条理とはそれだ。自殺者の正反対のもの、まさしくそれが死刑囚である。79-80頁、p.43-44.
〔コメント4-6〕カミュは自殺者を死刑囚と正反対としているが、前者を能動的・非強制的な死、後者を受動的・強制的な死と区分しているのだろうか。処刑台にのぼる死刑囚が通路の前方に落ちている靴ひもを気にかける、それが不条理の光景だと言うのか。カミュが『異邦人』に書き込んだ「アイスクリーム売りのラッパの音」(窪田啓作訳『異邦人』新潮社、2011年、108頁。Albert Camus、L’Étranger, Gallimard, 1957, p.154.)もそれに近いのか。前後の脈絡をすっ飛ばした脱遠近法的感覚世界への没入だ。それは、一種のパースペクティヴの世界だ。この語は、ラテン語ではもともと「透かして見る技法術」(ars perspectiva)である(佐藤康邦「遠近法・パースペクティヴ」、石塚正英・柴田隆行編『哲学・思想翻訳語事典』論創社、2003年、28頁)。透かしてみるとまったく別のものが存在する。坪内逍遥は「騙し眼鏡」と翻訳している。名訳である。場所や視座を移動させると、それまでに見えていた光景や対象とまったくちがったそれらが見えてくる。そこには見る者と見られるものの交互運動がある。両者ともに存在者である。ars perspectivaというラテン語から、「遠近(法)」などという解釈はいったいどうして出てきたのであろうか。私は、カミュの意識する不条理は、このパースペクティヴの視座にあるものと思いたい。
   
〔引用4-7〕『シーシュポスの神話』幸福と不条理とは同じ一つの大地から生れた二人の息子である。この二人は引き離すことができぬ。幸福は不条理な発見から必然的に生まれると言っては誤りであろう。幸福から不条理な感情が生まれるということも、たしかに時にはあるのだ。「私は、すべてよし、と判断する」とオイディプスは言うが、これは〔不条理な精神にとっては〕まさに畏敬すべき言葉だ。この言葉は、人間の残酷で有限な宇宙に響きわたる。すべてはまだ汲み尽くされていない、かつても汲み尽くされたことがないということを、この言葉は教える。この言葉は、不満足感と無益な苦しみへの志向を伴ってこの世界に入りこんでいた神を、そこから追放する。この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちの間で解決されるべきことがらへと変える。/シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。彼の運命は彼の手に属しているのだ。彼の岩は彼の持ち物なのだ。同様に、不条理な人間は、みずからの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる(fait taire toutes les idoles)。突然沈黙に返った宇宙の中で、ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる。数知れぬ無意識の密やかな呼びかけ、ありとあらゆる相貌からの招き声、これは勝利に必ずつきまとうその裏の部分、勝利の代償だ。172頁、p.105-106.
〔コメント4-7〕「彼の運命は彼の手に属しているのだ」という言葉の核心は、シーシュポスは自らの運命を押さえている、とも理解できる。「彼の岩は彼の持ち物なのだ」とされる「岩」を、シーシュポスは我がものとしている。「いっさいの偶像を沈黙させる」とされる「偶像」は「岩」をメタファーにできないということだろう。偶像ならばその内部か背後に本物――真善美など――がいる。偶像はそうした本物のメタファーなのである。けれども、カミュはそうした関係を断ち切っている。
   
〔引用4-8〕『シーシュポスの神話』―― 私はシーシュポスを山の麓にのこそう! 人はいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さを人に教える。彼もまた、〔オイディプスと同様〕すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、彼には不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶の一つ一つが、夜に満たされたこの山の鉱物質の輝きの一つ一つが、それだけで、一つの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心を満たすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。173頁、p.160.
〔コメント4-8〕山頂であれ麓であれ、そこに存在する岩は鉱物の塊であって、その輝きは鉱物から放たれている。シーシュポスにとって、それ自体は重荷だが、それを持ち上げて運ぶシーシュポスの意志は岩と格闘している。相手を抑え込んでいるのではなく相手に生かされている。これ持ち上げ運んで一体何が得られるのか、という疑問は行為の否定を意味する。持ち上げ運ぶ行為こそ、「もはや支配者をもたぬこの宇宙」に生きる実存なのである。
   なお、『カミュII』巻末の解説「カミュの思想と演劇」には、こう記されている。地中海での「原罪も永遠も歴史もない歓喜」(684頁)の生活と結核の罹患という「この根源的体験にふくまれた感情を論理的に明晰にし、さらに、それがくりひろげる展開を推論して、不条理の立場を確立したのが、1942年11月に刊行された『シーシュポスの神話』である。カミュの根本的思想のすべてはこの一冊の書にほとんど盛られており、その根本的思想にもとづいて、その他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざま発言の立場も支えられているのだ」(685-686頁)。
   
〔引用4-9〕『反抗的人間』(『カミュII』) ―― 不条理とは、本来矛盾なのである(L’absurde en lui-même est contradiction.)。/不条理は、内容において矛盾している。生きること自体が、一つの価値判断であるのに、不条理は生を維持しようと望みながら、あらゆる価値判断を斥けるからである。415頁、p.19.
〔コメント4-9〕カミュは「不条理とは、本来矛盾なのである」というけれど、その根拠を指摘できるかが次に課題となる。たとえば、「不条理は生を維持しようと望みながら」ということの根拠は何か。本来は矛盾であるとのことだから根拠はない、としてはならない。矛盾を生きることが自然なのであれば、根拠を問う必要はない。しかし、矛盾の中を生きたくなければ、根拠を問う必要がある。「生きること自体が、一つの価値判断である」というが、価値判断によって生きることを否定した瞬間、矛盾は解消するし、根拠を問う必要もなくなる。生きることを肯定しているにも拘らず死を選ぶ場合にのみ、「なぜ?」が発出してくる。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x16488, 2026.10.24)