親鸞読書ノート2026年―結城令聞監修『現代語訳 親鸞全集』(講談社、1975年)―2―

石塚正英

はじめに
 
   わが親鸞研究の足跡は、形あるものとして遺っている限りで、1991年3月に確認できる。読書ノート『親鸞について』(親鸞ノート1)である。以後、フィールド調査報告や学術論文執筆の機会あるごと、断続的に足跡を辿ることができる。直近では以下の論文執筆時に確認できる。「頸城野に耕される愚禿親鸞――流浪の古代直江津往還③」、〔感性文化online講座〕⑪、2026.01.11.「恵信尼五輪塔は地涌観音菩薩か」、石塚正英個人ブログ【歴史知の百学連環】、2026.04.03. 本稿は、上記2点の準備として本年2月~3月に行った研究読書のノート記録(その2)である。
★第5巻 讃歌
〔親鸞の和讃と偈頌 小野清一郎〕
〔引用26〕
親鸞は道元よりもより現実主義的であり、いわば実存主義であるともいえよう。けれども、その現実的、実存的な悩みは無量光明土むりょうこうみょうどへのあこがれに転換される。罪悪深重じんじゅうの絶望的な暗さはやがて無量寿仏むりょうじゅぶつの本願によって救われるのである。そこに「他力の信」という根本的な転回(廻心)がある。8頁
〔注記26〕「無量光明土」とは「はかり知れない光明の世界」すなわち「阿弥陀浄土」ないし無漏の浄土のこと。ただし、それは往相還相の一端であり、他端には有漏の穢土がある。「無量光明土へのあこがれ」という表現が記されているものの時空を隔てる意味ではない。信仰の次元において両者は永遠の彼方に離れているのでなく、往相還相における、いわば隣り合わせの関係にある。
〔引用27〕親鸞は、いわゆる大乗仏教の思想的世界に住んだ人であり、原始仏教について十分の知識をもたなかった。18頁
〔注記27〕親鸞は比叡山にあって「大乗仏教の思想的世界に住んだ」のち、上越後にあって仏陀の生活を擬似体験したと思われる。『ブッダのことば―スッタニパータ』に以下の文章が読まれる。「身体が死んで臥すときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。/犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、烏や鷲やその他の生きものがこれを啄(ついば)む」(中村元訳『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波文庫、2001(初1991)年、46頁)。なんと生々しい、つまりフィジカルな描写であるか。釈尊は人体解剖の知見があるのだろうか。また、死者は墓地に放り投げたようである。いや、死体を野原に打ち棄てて野犬や野鳥の餌にしたようでもある。まるで親鸞の遺言的信念に等しい。「改邪鈔」訳者にして解説者の石田瑞麿はこう忠告している。「「わたしが眼を閉じたならば、賀茂川に投げいれて魚に与えてよい」といった言葉(中略)は、親鸞後に成立した教団が、時代とともにつくりだした祖師像とはかけはなれた、親鸞自身のなまな響きをもって語りかけてくるもののようである」(親鸞「改邪鈔」一六、石田瑞麿訳『歎異抄・執持鈔』平凡社、1994年、264頁。原文は同書204頁)。
〔引用28〕親鸞はあくまで釈迦牟尼仏の歴史的生涯によって示された仏教を立場としている。阿弥陀仏の本願というものも釈迦牟尼仏によって自覚された法の具現である。釈尊の在世および滅後五百年の間は歴史的な仏陀の法そのままを学び、仏陀とまでは行かなくても、阿羅漢果あらかんかしょうする(さとる)ことができたのであった。まさに正法の時である。22頁
〔注記28〕「阿弥陀仏の本願というものも釈迦牟尼仏によって自覚された法の具現である」という表現は真宗教義における後世の後知恵(afterthoughts)である。例えば、「阿弥陀仏とは釈尊の正覚を根源とするものである」という表現がある(中西智海「釈尊と阿弥陀仏」、『相愛女子大学相愛女子短期大学研究論集』第26号、1978年、263頁)。釈尊(仏陀)の悟りの内容と阿弥陀仏の根元を同一視する論法である。そのほか、「阿弥陀仏というのは、歴史的釈尊 (具体的人格)を透過して、歴史を超越した永遠なる、「法」(道)を推求した結果成立したのである」という表現がある(松尾哲成「真宗における阿弥陀仏と釈尊の関係性」、『印度學佛教學研究』第38巻、第1号、1989年、58頁)。後者は歴史的人物としての釈尊の余韻を残しており、親鸞に関して以下の評価をくだしている。「親驚は、阿弥陀仏と釈尊の関係を、両者二尊を別立する見地からは、阿弥陀仏とは彼土成仏の仏であり、釈尊とは此土成仏の仏であると把捉して、両者が彼此に呼応して衆生を発遣招喚し、また慈悲の父母として衆生を調熟 ・摂取するとした。(中略)阿弥陀仏と釈尊の関係性を教学の中に位置付けるならば、釈尊を阿弥陀仏の根源態であると同時に、阿弥陀仏そのものでもあり、永遠不滅の真理を体得した覚者仏陀であると同時に、仏道の途上における衆生のモデル、つまり、 一人の人間として真理の探究に遽進する「信心の行者」の理想的具現者と見倣すことも可能であろう」(同上、59頁)。
 
〔教行信証と和讃 名畑應順〕
〔引用29〕
『教行信証』はひとりその門流ばかりでなく、広く当時の教界に送られ、学僧たちに披閲されてもしかるべきような教字体系を備えており、「和讃」は無知な民衆にも、日常諷誦の間に、おのずから経釈の深意に親しみ、法義を領解せしめるような魅力をもっている。しかし『教行信証』も「和讃」も、ともに親鸞が仏祖の恩徳に報謝し、普く人びとに同信を求めるという意趣から作ったものであって、たといその著作の様式や性格を異にしていても、その叙述の態度や領受の教法に差異のあろうはずはない。殊にその師法然を追慕し、法然から伝承した宗義を祖述しようとする意図は、両書に通じて顕著なものがある。188-189頁
〔注記29〕私が読んでみた限りの印象にすぎないが、「和讃」と違い『教行信証』は、「広く当時の教界に送られ、学僧たちに披閲されてもしかるべき」つまり人に読ませるためでなく、第一に内証を得る目的を持っていたと思われる。親鸞自身の思索を綴るというよりも曇鸞大師、道綽禅師、善導大師らの「経釈の深意に親しみ」、「仏祖の恩徳に報謝」することで自己確証の域に達することを目指したのではないか。まるで研究日誌か備忘録を綴るような意識で、長年にわたって淡々と進めたのだろうと思う。その編集の構想や構成については法然の『選択本願念仏集』を参考にしているのだろうが、執筆の動機や目的は同書の注解にとどまるものではない。それはあくまでも契機にすぎない。
〔引用30〕翻って親鸞の事歴を顧みれば、叡山を下って、六角堂に百日を期して参籠した時、九十五日目の暁に太子の示現を蒙って、遂に法然を訪ねたことは、恵信尼の消息に明らかであり、その他『伝絵』に見られる親鸞の夢想、蓮位の夢想等太子関係の種々の伝説をもって彩られている。然るに主著の『教行信証』には、聖徳太子の名は見られず、太子の著作も引用されていないのは何故であろうか。193頁
〔注記30〕『教行信証』が法然を通して受け継ぐ教義、学ぶ事柄であるのに対して、和讃は聖徳太子を通して受け継ぐ信仰、領解する事柄なので、前者には聖徳太子が関わってこないのだろう。
〔引用31〕「和讃」は安心領解あんじんりょうげを要とするものであって、必ずしも教義を組織的に述べるものではなく、随時随所に教法を領受したゆたかな宗教心情を、簡略な形式をもって、自由に表現されている。往相還相の二廻向が如来の廻向として、また南無阿弥陀仏の廻向として、統括してほめたたええられ、教・行・信・証の四法が一首あるいは幾種かの「和讃」に要約し、分散し、錯綜して歌われている。また『教行信証』には、信や行について、竪超じゆちよう堅出じゆしゆつ横超おうちよう横出おうしゆつのいわゆる二双四重の相対批判が試みられているが、「和讃」には、それが見られないのも、讃歌として当然であろう。195頁
〔注記31〕「和讃」は朗唱形式を特徴とする。儀礼としては文字による伝承に先立つ。古代ギリシアの農耕儀礼に観察されるドローメノンに相当する。ギリシア神話では、デーメーテールは農業、穀物の神である。この女神は、大地母神ガイアとその息子ウラノスの母息子婚から生まれたクロノスとレアの、その二神の兄妹婚によって生まれた。ギリシアの神々はこうして近親性交で生まれるのであるが、そのデーメーテールもまた兄のゼウスとの間に愛娘コーレー(またの名をペルセポネー)を産む。/以上の物語は文明民族ギリシア人が紡ぎだした後日談にすぎない。先住諸民族の神としては農耕儀礼で祀られた豊穣の神である。「デー」はガイアと通じ「大地」を意味する。また「メーテール」とは前述のように「母」であり「物質」である。近代に至って「唯物論(materialism)」を派生することになる語である。バッハオーフェンによれば、デーメーテールの名は先史クレタ島では知らぬものがいなかった。/「我々はギリシア以前の文化の秘めていた真の偉大さを知ることになるが、実は、デーメーテール信仰とその秘儀、およびその聖俗両面にわたる女性統治(ギュナイコクラティー)の中にこそ、後代の発展によって摘み取られ、多くは衰退してしまったところの、そのもっとも気高い文化の萌芽があったのである。……母性の秘儀の方が古く、ギリシアは宗教的発展の上では後の段階に属している。前者ではなく後者こそが堕落だったのであり、宗教の平板化だったのであり、現世のために彼岸を犠牲にし、形式の明瞭性のために崇高な希望の神秘の闇を犠牲にしてしまったのである」。/デーメーテール信仰は厳密な意味では宗教ではない。ときに呪術を伴う儀礼である。生活儀礼、農耕儀礼である。儀礼と宗教は同じではない。儀礼と呪術は、あえて喩えるならば、先史における生産様式の一つである。その際、儀礼の特徴としてドローメノン(神態的所作)とレゴメノン(神語的唱誦)が挙行される。親鸞にまつわる和讃には双方が観察される。その特徴は日本神話にも見出される。古事記などは詠い継がれて奈良時代に達したのだが、稗田阿礼が詠って語ったものを太安万侶が筆記して決定稿としたと伝えられる。文字に固定されるのでない神話の言葉、レゴメノンで発声される儀礼の言葉、例えば先史ギリシアの「ヒエロロギア(hierologia)」、先史日本の「神語(kamugoto)」、そして中世日本の琵琶法師が平家物語を語る際の歌謡演技(平曲)や、護摩焚きで印象付けられる天台真言の密教には、身体が明白に介在している。このように、儀礼は文字言語より身体言語を経由してこそ時空を行き交う。
  
〔愚禿悲嘆と罪の意識 中村 元〕
〔引用32〕
そうして念仏をとなえるということは、われわれが救われてあることに対する感恩報謝の念からなされることなのである。256頁
〔注記32〕念仏とは救いを求めることでなく、感謝を捧げること。「南無阿弥陀仏」の接頭語「南無」の解釈に関わってくる。「帰命」とも関係するだろう。「南無」とはサンスクリット語の「ナマス(namas)」または「ナーモ[(namo)]の音写であり、「帰命」はその漢訳である。その意味は「帰依する」ということであって、必ずしも「感謝する」ではない。だが、上越後の鬼人・野人にすれば、帰依して効果があれば感謝するわけである。
〔引用33〕われわれが感恩報謝の念仏を唱えることができるということも、実は如来の御計らいなのである。257頁
〔注記33〕1997年晩秋、父の一周忌法要で「正信偈」を唱和した折り、「是人名分陀利華(この人を分陀利華と名づく)」というくだりに出会った。気にかかったので調べてみた記憶がある。サンスクリット語で「白い華(ブンダリーカ)」を意味するとのことだった。
〔引用34〕信心を得たものは、如来の大悲にあずかることとなる。/『願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ/すなはち大悲をおこすなり これを廻向となづけたり。』/しからばこの苦悩に富み罪悪の多い現実世界がそのまま絶対的意義を有することとなる。/『往相の廻向ととくことは 弥陀の方便ときいたり/悲願の信行しんぎやうえしむれば 生死しようじすなはち涅槃なり。』/われわれの生死流転の境地が実は究極の境地であるということになる。/ここにおいてわれわれは、親鸞教が、つきつめてゆくと、実は現実の人間生活における慈悲行を基礎づけるものであるということを知り得るのである。259頁
〔注記34〕「現実の人間生活における慈悲行」、「生死流転の境地が実は究極の境地」となると、これは地上の楽園ということだ。
〔引用35〕聖徳太子は、皇室至上主義の立場から見るならば、神聖にして犯すべからざる人格であろうが、仏教の立場から見るならば、やはり一個の世俗の凡夫である。この聖徳太子の社会的実践のうちに親鸞は「慈悲」を認めたのであった。260頁
〔注記35〕凡夫にすぎない聖徳太子に「慈悲」を認めた。つまり凡夫聖徳太子に究極の境地を見出した。
 
〔親鸞の浄土観 曽我量深〕
〔引用36〕
初めの十六願は、つまり仏から助けられ、浄土へ往生さしてもらう願。われわれは如来の救済にあずかり浄土に往生するのである。われわれは長い間、娑婆世界や三界六道に流転輪廻して生死の苦悩をうける。そういうわれわれに対して阿弥陀如来は無為安楽の浄土をば成就なされた。その安来浄上の果徳をわれわれは受ける。このことを初めの十六願に明らかにしている。265頁
〔注記36〕曽我によれば、生死の苦悩を受ける娑婆世界と如来の救済にあずかる安楽浄土とは隔絶している。
〔引用37〕命終れば終ったところが安養あんによう浄土、無為涅槃界である。だから生死無常の世界に安心して死を超えてゆける。死なぬうちにお助けがある。それは弥陀如来の本願の思召しであり、これが現生正定聚げんしようしようじようじゆであり、その助かったものが往生する。生きているうちに仏と等しい悟りにして来迎を待たず自然法爾じねんほうにに往生する、これが親鸞の宗教である。268頁
〔注記37〕「自然法爾に往生する」ということは「往生する」という時代は「死なないうちに」やってくることを意味する。
〔引用38〕われわれは現生にあって触光柔軟の徳をうる。つまり、信心決定した人は何人をえらばず現生正定衆の徳を得る。そして人天にんでんを超過すると言われるのである。283頁
〔注記38〕人天にんでんを超過する」とは人道と天道を超え輪廻を脱すること。衆生が輪廻転生する6つの世界(六道)にあり、天道はもっとも楽が多くすぐれた世界。
 
〔親鸞の現世利益 稲城選恵〕
〔引用39〕
親鸞に於てもかかる仏教一般の立場と同一であることは存覚ぞんかく上人の持名鈔じみようしようによっても明瞭であり、又教行信証並びに浄土和讃全体の構造からも明らかである。それは名号そのものの、徳用とくゆうとして、又信の妙用みようゆうとして求めずして与えられるものである。故に現世利益和讃にも「南無阿弥陀仏をとなふれば」とか「願力不思議の信心は」と冠頭にあって主客の関係は実に明瞭になっている。ただここに表現について息災延命とか、定業中夭じようごうちゅうよう、七難消滅等、金光明経こんこうみようきょう、並びに安楽集、観念法門等の意を受けて述べられているけれど、それはどこ迄も科学以前の歴史的現実に於ける表現として、現象の上に於てでなく現象を現象のままで超えた立場へのものであることは否定出来得ない。若し現象の世界に於て解するならば念仏は呪術と化するであろう。285-286頁
〔注記39〕念仏は「現象の上に於てでなく現象を現象のままで超えた立場」すなわち超自然の立場だという。そうではないだろう。往相還相、つまり超自然と自然の往復関係にかかわるのである。解釈をもっと拡大するならば、上越後の鬼人・野人にとって阿弥陀への帰依は阿弥陀石仏への願掛けと同類である。阿弥陀信仰をそのプロセスにどう忍ばせ得るか、そこは邪道とは言えないだろう。方便をそこまで拡大できるかどうか。拡大しているうちに本願が忘れ去られることもある。それは各地で世界宗教が突き当たる壁である。布教に失敗すれば在地の民間信仰が延命する隠れ蓑となってしまう。
〔引用40〕念仏は正しく主体の根源的立場への転換で生滅変転の移り行くまま不生不滅の座が与えられ、順境にも酔わぬ、逆境にも溺れぬ人生を正視する場が与えられることである。おその(浄土真宗の法に生きた女性:引用者)自体は山犬に食われることは決して喜びではなかろう。而るにそれは嫌なままで安心して死ねる世界をもっている。この安心して死ねる世界がそのまま安心して生きる世界である。かかる主体的真理としての念仏を禍福の相対的私欲の座に悪用されるならば、念仏は全く呪術以外の何物でもなかろう。かかる意味に於て念仏の呪術化は主体の側の受容の仕方に存する。故に正信と言われる念仏に於てこそ真実なる人生を受容する眼が与えられる智慧の念仏と言われる世界をもつ。288頁
〔注記40〕「主体的真理」とあるが、その場合の「主体」とは如来のはずだ。だから、それが「相対的私欲」と対置されるのはおかしい。また、私的な念仏を念仏とは言わない。「禍福の相対的私欲の座に悪用される」念仏があるとするならば、それはもはや念仏ではないはずだ。さらに指摘すると、ここに記された「呪術」は祈願の方法とみなされるが、私がフェティシズム(呪術)の対象として理解するフェティシュ(呪物)は神そのものである。参考:拙著『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年。
〔引用41〕故に聖人の立場は、肉体の拘束によって限りなく悩乱せしめらるる人間性の生な現実をそのまま認めつつ、而も不生不滅の法を場にもつ立場である。/以上によって親鸞の現世利益を要約すると、現世利益を主目的とする呪術的原始宗教と、利益そのものの受けとり方が根本的に異なることである。291頁
〔注記41〕「現世利益を主目的とする呪術的原始宗教」という表現には重大な瑕疵がある。呪術は宗教ではないからである。以下の一覧表で概要を確認できる。

 
★第6巻 教行信証(一)
〔顕浄土真実教行証文類について 結城令聞 〕
〔引用42〕
政治の貧困、社会の昏迷に加えるに、地震・大風・大火・飢饉・疫病など、天災地異のこれほど続出し、社会不安をこれほどかもし出したのも、また稀だと云われる時代が、彼の時代であったわけである。かてて加えて、念仏行者としての彼には、旧仏教の権力や、為政者達の無理解から、たえざる弾圧にさらされねばならない運命が担わされていたのである。絶望にひとしいこの嵐の中で、忍びに忍び、耐えに耐えつつ、自己の宿業をみつめ、人間の実存を発見し、しかもそれを乗り超える光を見出したのが、わが親鸞であった。数ある親鸞の著述中、彼が最初に筆を染め、最後まで離さなかったのが、この『数行証文類』である。この書の中には、実に底なき彼の実存の姿と、底なき底より、彼を救い上げていく限りなさ光とが、まばゆいばかりに乱転している。6頁
〔注記42〕親鸞は「絶望にひとしいこの嵐の中で」他力の念仏行者となったが、一方、日蓮は自力の菩薩行者となった。その日蓮は上行菩薩をわが身に重ねる。佐渡流罪中の1273年4月、日蓮は一谷で『観心本尊抄』を書き下ろす。その中で、弟子や信徒に対する回答の形で、こう力説している。「あなたはすでに、『法華経』の「方便品」に、「如来は、たった一つの大きな仕事(唯一大事の因縁)を成し遂げるために、この世に出現なさる。(中略)」(四仏知見の文)と説かれているのを見聞きしているはずです(正木晃『現代日本語訳 日蓮の観心本尊抄』春秋社、2023年、47-48頁)。読んで字のごとく、如来釈尊は「この世に出現なさる」のである。ただ、その姿は上行菩薩となった日蓮においてのことだろう。日蓮オリジナルの即身成仏論であり、救世主日蓮の出現か、と見紛う。そこにこそ日蓮思想のリアリティが輝きを放っている。同じく「法華経」に基づくとはいえ、親鸞と日蓮とでかくも真逆の末法克服を辿るとは、じつに興味深い。
〔引用43〕この書は文類と云われているように、二十一部の経、四部の論、三十八部の釈、そして一部の外典を、自由に駆使し、引用することによって多くの場所を埋め、要所要所に、親鸞自らの言葉を挿しはさんで、引用の意図を示している。にも拘らず、全体を通じて見るときには、相互に、切り離すことの出来ない生命が流れていて、全く有機的な組織を作っている。その生命とは、彼自ら巻末に、「悲喜の涙をおきへて」と告白しているように、苦難の生涯に光を与えつつ自己とともに流れつつ自己とともに流れつづけてくれた如来の矜哀、師教の恩厚である。深重の仏恩こそが、無明長夜のただ一つの光たることを、人間としての彼の歩みを通して書き綴られたのがこの書である。だからこの書の形は、彼の生活の転変、人生の進みにつれて、したがって変化し、随って改変せられ、引文や私釈も、次第に追加されていったであろう痕跡をのこしている。8頁
〔注記43〕私はかつて『教行信証』を親鸞の日記みたいなものだと感じた。ただし、日常人の日記とは違う。例えば、研究者である私は1974年から研究日誌をつけてきたが、同時に備忘録も付けてきた。前者は文字通りの短文だが、後者はある出来事に関する説明だったり要約だったり、旅行記だったりしている。だだし、自伝ではない。親鸞の『教行信証』は、私にすれば、日記でなく自伝でなく、備忘録の一種だろうと思っている。他者に読ませるものでなく、いわば自己確証のたぐいである。
 
〔撰述の時期について 宮崎圓遵〕
〔引用44〕
現行『教行信証』が幾多の改訂を経て大成されたものであることが、あさらかにされていることから考えても、元仁元年に論述の諸形式が整ったわけではないであろう。しかしその後多くの改訂を経ても、元仁元年の年紀が、ついに没却されなかったことは、叡山奏状の批判がその撰述と無関係であり得ないことを示唆するものであろう。/かくて元仁元年の念仏弾圧は、聖人に律令仏教の批判を強く決意せしめたとともに、またおそらく帰洛の必要を感ぜしむるものがあったであろう。『教行信証』の結語や後序の書式から見て、本書は公開を意図していたことが考えられるが、坂東本の基本的部分の筆跡が、六十三、四歳頃の手になるものであるとするならば、それは帰洛後間もない時期の書写であることを、思わしむるからである。140頁
〔注記44〕『教行信証』は「公開を意図していたことが考えられる」とあるが、そうだろうか。その都度の構想や必要に応じて、生涯にわたって書き継がれた文書であるから、字面通りの「公開」を意図してはいなかっただろう。もしそうだったとしても、いったいだれに公開したのか。遺言のような伝承ではなかっただろうか。私が読むかぎり、本書は総じて自己確証の書である。
 
〔撰述の経過について 笠原一男〕
〔引用45〕
また教行信証全体の構成からみても、これは完結して当時の諸宗派の名僧、知識の前に投げつけて、彼らを批判するための書物とは考えられないのである。結論から先に云うことになるが、親鸞が教行信証を撰述した動機、目的は他宗・異流を直接批判するためではなく、時々彼をおそう彼の思想的、信仰的立場の動揺を支える杖としてつくられたものである、といえよう。親鸞ほどの思想家に、信仰の動揺があろうはずはなく、またあってはならないというかも知れない。しかし、偉大な思想家であればあるほど、自分の思想への反省と悩みは大きいともいえよう。そして反省と悩みをふみ越えて、自分の信仰の立場を確固不動な信心へとたかめて行くことこそ、偉大な思想家ともいえるのである。親鸞はそのようなタイプの思想家であった。142頁
〔注記45〕『教行信証』は「時々彼をおそう彼の思想的、信仰的立場の動揺を支える杖としてつくられたものである」という判断は穏当である。私は、笠原説よりももっと俗人的な説を考えてきた。つまり、『教行信証』は今日的な用語でいうと備忘録なのである。忘れないために記録する、あるいは忘れてはならないものとして書きつける。
〔引用46〕親鸞は思想としては、信仰としては、法然の教えに全幅の信頼をおき、念仏一つで、信心一つで往生は可能だと信じながらも、いざそれを人に説いたり、人から種々の反問をうけたりまた、念仏の弘まるにつれて地頭・名主からの弾圧をうけたり、病気によって理性に自身を失った時など、親鸞は信心一つを信じ、これを人に教えることに不安を感じたのである。(中略)/法然はすでに世を去っている。また、親鸞には法然に代るべき師もなければ、法友も求められなかった。信仰上の悩みのすべてを、親鸞は自分の力で解決してゆかなければならなかった。そのために作られたのが教行信証六巻の述作であったといえる。親鸞は浄土七祖をはじめ、当時目に触れ得たあらゆる経・論・釈から彼の思想を、彼の信心をあたえてくれる条文を抜き書して座右にそなえていった。145頁
〔注記46〕阿弥陀に南無することと、「これを人に教えること」には相違がある。弥陀の教えを伝達するために、今一つみずからの姿勢を確立する必要があって、自己確証の備忘録をいわば講述の参考書にあてがったのではなかろうか。
〔引用47〕親鸞はまず、信巻の撰述からはじめたと考えられるのである。その時期も帰洛後とか元仁げんにん元年とかいう時期においてではなく、東国定住直後から、信巻の撰述がはじめられたとみてよかろう。いな、むしろ親鸞にとっては、入関後、直ちに信巻の撰述をしなければならなかったのである。そして信巻の素形がなった後、それに引きつづき他の教行証真化しんけの五巻が撰述され、後に信巻が「行」・「証」の間に挿入されて、坂東本教行信証が成立したとみてよかろう。/しかし『教行信託』が世に公表する性格のものでなく、親鸞だけが見、密かに自らの信心の支えとしたものであったため、通常公刊の書物に比して著しく未完の様相を呈している。また、この書は短期間の間に一気に書きあげたものではなく、永年かかって見るにつれ、ふれるに従って経・論・釈の抜書きをつけ加えていったものである。それは、親鸞の生涯をかけて続けらるべき仕事であり、永遠に未完の書ということが出来よう。146頁
〔注記47〕笠原一男の考証は他の論者のそれと大きく異なり、いわば親鸞の思想的歩みの等身大を探り当てている。親鸞は七高僧(龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都・法然上人)の教えを自著に記述するに際して、それらを内的確信に深めている。それは文字を書写するのでなく教えを血肉化する行為である。引用や転写でなく自著化しているのである。信巻の序にこう記されている。「ここに、愚禿釈の親鸞は、多くの仏たちの真実の教えを信じ、これにしたがって、インドの論師やシナの注釈者たちが示された教義をひもといて見た。そしてその結果、広く浄土の「三部経」の輝かしい恩恵に浴し、とくに『浄土論』が「一心」について説かれたあの見事な文章に接したものである。ここではいったんは疑問を提出して、後にその明らかな証拠を示すことにする」(石田瑞麿編『親鸞(現代語)』中央公論社、1983年、236頁)。教義摘要の目的が「疑問を提出して、後にその明らかな証拠を示す」ということであれば、摘要は単なる書写であるはずがない。
 
〔教の性格と真実教の意味 白井成允〕
〔引用48〕
ここに釈迦仏は弥陀仏の三昧に入り、弥陀仏がはるかなる昔から遍く衆生の虚妄苦悩の現実を観て必ずこれを救わんとの誓願を発し、その誓願を成就したる南無阿弥陀仏の徳号を衆生に施し与うる行事を通して、永遠に働きつつ常に衆生を仏の浄土におさめ以て永遠に衆生をして覚道に歩ましめたまうことを顕したまうた。これ浄土の真宗である。教巻はこの旨を顕したまうのである。158頁
〔注記48〕白井のこの記述の中に、弥陀の教えは記されているが、親鸞あるいは親鸞の息吹はどこにも感じられない。「教巻」は親鸞の著作でなく、親鸞は単なる書き写し人にすぎない。教巻にこうも記されている。「つつしんで、浄土の真実の心(浄土真宗)に思いをめぐらしてみると、如来の与えられた恵み(回向)には二つの種類がある。一つには、浄土に生まれるすがた(往柏)であり、二つには、ふたたびこの世に帰ってくるすがた(還相)である」(石田瑞麿編『親鸞(現代語)』中央公論社、1983年、177頁)。ここには親鸞教義の根本である「往相還相」が説かれている。こちらこそ親鸞の真髄が表明されており、教巻には親鸞自身の信条告白が備忘録のごとくはっきりと綴られている。
 
〔諸仏の称名と衆生の念仏 神子上惠龍(みこがみ えりゅう:引用者)
〔引用49〕
教行信証が、法然上人の選択集の注釈であることは周知のごとくである。しかもその注釈の仕方が、選択集の文面にとどまらないで、上人の真意を把握して、他力救済の深義を顕開したところに、宗祖の発揮がある。行巻に第十七願を標挙されたのも、その特色の一つであるといってよい。159頁
〔注記49〕「教行信証が、法然上人の選択集の注釈であることは周知のごとくである」という神子上の認識は、たしかに周知されてはいるが、通説となっているわけではない。笠原一男に従えば、少なくともそれが親鸞の意図とは思えない。
〔引用50〕釈尊は十万諸仏の一人として大経を開説されたのであって、十方世界に出現される一切諸仏も釈尊と同じように、大経を開説されるのである。(中略)次に諸仏が十万世界に於て、念仏されるのは、弥陀に救われた喜びを、口にあらわされるのであって、報恩の念仏にほかならない。弥陀は本仏であり、諸仏は末仏である。弥陀は本師であり諸仏は弟子仏である。諸仏も弥陀の本願によって救われたのであるから、衆生の先達となって、報恩の念仏に懈怠けたいがないのである。161-162頁
〔注記50〕「弥陀は本仏であり、諸仏は末仏である。弥陀は本師であり諸仏は弟子仏である」というように諸仏を弥陀の下位に列する発想は、はたして親鸞にふさわしいのだろうか。親鸞には弥陀を頂点として諸仏を評価する発想はないはずである。釈迦の弟子を仏弟子と称するが、それは弟子仏とは異なる。
〔引用51〕なぜ衆生の念仏に無礙光如来の名を称えると云われたか。これは衆生の念仏が呪術的のものでないことを示すものである。即ち衆生の念仏が、弥陀の名義にかなうたものでなくては、真実の行でないことを述べられたものである。故に行巻に論証の文を引用する中、称の字の字注に「はかりなり」と云い、一多証文には、「称は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり。はかりといふは、もののほどをさだむることなり」と述べてある。これ等の釈は衆生の念仏が信心より出たものであり、弥陀の名義に契うたものであるから、呪術的のものでないことを示されるのである。163頁
〔注記51〕凡夫、悪人の日常生活に呪術は不可欠である。なぜならば、凡夫、悪人にとって呪術は生活儀礼だからである。弥陀称名はそうした穢土における日常生活とは異なる浄土の覚醒を促すものであって、呪術の穢土で生き抜く衆生を否定するものではない。弥陀称名は往相還相の循環を促すための発声であり、発声自体が称名信仰(言霊信仰)である。念仏は、けっしてコミュニケーションの道具というものではない。それを唱える人の内面において弥陀からの覚醒を促される。
〔引用52〕法然上人が一生涯念仏の生活をなし、宗祖がこの法然上人の教によって、ただ念仏せられたのも、まったく念仏しながら、我れ念仏するということが失われて、ただ如来の願力を仰がれたのである。165頁
〔注記52〕「我れ念仏する」という表現には多少とも能動的・自力的要因が含まれるが、「ただ如来の願力を仰がれた」という表現からは他力のみが響いている。問題は覚醒を受け入れることができるか、という念仏者の内面的状況である。たいがいは願力受け入れに無自覚で穢土の生活に明け暮れている。親鸞にすればそれが凡夫の凡夫たる所以なのだろう。それを指して不信仰と詰るのは親鸞の意に反する。識者の中には、宗祖はそう考えていない、といった訓詁的解釈学をもって他方を論難する向きもあろうが、その議論自体が自力本願の圏内にあるものである。
 
〔大行について 稲葉秀賢〕
〔引用53〕
近く日本に行われた称名念仏に就いて考えてみると、まず日本浄土教の淵叢えんそうとなった天台宗に注目せねばならない。天台宗の開祖智者ちしゃ大師は『摩訶止観』の中に称名念仏を説いていられるが、その念仏は南無する我も、阿弥陀仏も一体であるということを体得するために称えるのである。ここに念仏の意味に二義を生ずることとなった。即ち、心に仏を念じながら、ついに念ずる我もなければ、念ぜられる仏もないという境地に到る観念と、ただ口に南無阿弥陀仏と唱える称念とである。そして、この称念はただ観念を成就するための方便であって、観念こそ称名念仏の行の持つ究極的意義であるとするのか、聖道門の立場である。/これに対し観念よりも称念を重んじ、南無阿弥陀仏を称えることに重要な意味をみとめ、行の宗教から信の宗教へと展開したのが浄土門の立場である。そして特に口に南無阿弥陀仏を称える重要な意味を最も明瞭にし、浄土信仰の咒術化を救った人が親鸞聖人であったが、/「もろこし我が朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず、また学文がくもんをして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず、ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかに別の仔細候はず」(『一枚起請文いちまいきしょうもん』/と、観念の念仏から称名念仏へと念仏の意味を称名念仏ひとつに認め、ただ南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するのだと勧め、ここに浄土の信仰を確立せられたのはその師法然上人であった。170-171頁
〔注記53〕稲葉秀賢の説明に疑義をはさみたい。先史ギリシアの農耕儀礼に特徴的な作法に神態的所作あるいは行為の儀礼(ドローメノン、dromenon)と神語的唱誦あるいは語りの儀礼(レゴメノン、legomenon)がある。ギリシア本土やその周辺地域に建設された野外劇場では、しばしば神々に捧げる儀礼が挙行された。それは、劇場があるなしにかかわらず、もともと不要不急の演劇でなく生活儀礼、農耕儀礼だった。日本的に言い換えれば、鎮守の森の儀礼だった。ギリシアの先住民、たとえばペラスゴイ人は、儀礼の場で呪文を唱えつつ円を描いて踊り、身体を通して神々と交信した。その行為をドロメナ(複数形はドローメノン、dromenon)と称する。儀礼=神態的所作であるドローメノンと結びつく神話=神語的唱誦が「レゴメノン(legomenon)」である。発声=念誦といってもよい。その場には儀礼を行う住民がいるだけである。他人に見せるものではない。その際、行為のドローメノンと発声のレゴメノンは一体となっている。親鸞の弥陀称名は第一に発声という身体行為をもって実現している。黙して念じるだけではないのである。その一点をもって、稲葉秀賢の説明には瑕疵があるといえよう。
〔引用54〕従って往生を得る根拠は称えることにあるのではなく、却って本願の約束を信ずることにある。これは明らかに行の宗教ではなくて、信の宗教と云わなくてはならないのである。173頁
〔注記54〕稲葉秀賢の説明には矛盾がある。まえもって「観念よりも称念を重んじ、南無阿弥陀仏を称えることに重要な意味をみとめ、行の宗教から信の宗教へと展開したのが浄土門の立場である」としているにも関わらず、「往生を得る根拠は称えることにあるのではなく」としている。
〔引用55〕それ故に如来は劣の諸行を捨てて、勝の念仏をもって本願の行とせられたのである。したがってかくの如き如来の願心を信知することを離れて、称名念仏の意義はないのであって、清浄しょうじょうの信心に保証せられぬ称名念仏は、単なる咒術に堕するほかはない。174頁
〔注記55〕稲葉秀賢は宗教に優劣をつけている。そうではないだろう。大乗と上座部、聖道門と浄土門といった類型の相違があるだけである。互いが互いを非難してどうなるものでもない。ひたすらわが道を精進するのみだ。
〔引用56〕ここに如来は男女貴賤を問わず修し易い念仏一行をもって、往生のごうと定められたのである。かくの如く本願の行として受けとられたのが、法然上人の念仏であった。174頁
〔注記56〕「如来は男女貴賤を問わず修し易い念仏一行をもって、往生の業と定められた」という表現は外在的な根拠を述べたに過ぎない。発声という身体行為、それが第一の要諦である。六字名号の言葉を発すると、そこに弥陀の「はからい」による存在の証が得られ、阿弥陀を南無すると、やはり弥陀の「はからい」によって自己の中に阿弥陀が入り、行きながらに聖なる存在となり、救済が実現するのである。そうなったからには、むしろ生きること、生をまっとうすることが肝心となり、地上でいかに生きるか、その生き方が主題となる。
〔引用57〕されば親鸞聖人は念仏を本願の行として示された法然上人の意趣を受けて、念仏が如来から賜った他力の行であって、自力の行でないことを特に強調せられた。もし称名念仏を自力の行として、ただ口に南無阿弥陀仏と称えることを往生の根拠とするならば、それは念仏を咒術化する以外に、その保証を求めることはできない。176頁
〔注記57〕六字名号を声に出す一つの理由に、唱和がある。それは、弥陀・如来との間の垂直や単線の自力ではない。門徒間に備わる輪の確証である。親鸞において言葉は内に向かって発するもので、念仏は弥陀への帰依についての、いわば自己確証でしかない。だが、その発声は眼前に存在していない弥陀の門徒との唱和なのである。発声の意味はそこにある。母方曽祖父、祖父母、そして父母の眠る親鸞ゆかりの本誓寺(上越市寺町3丁目)において幾度も葬儀に参列し正信偈を唱えてきた私には、信心が沸かずともそのことは十分わかっている。
〔引用58〕まこと念仏がわれわれの往生の行として成立し得るのは、それが本願の行として、如来から賜った行であるからこそ、それは易行いぎょうであると共に勝行しょうぎょうであり、この念仏ひとつに依って、往生の可能性が保証せられる。ここに信の宗教が確立したのである。180頁
〔注記58〕「念仏ひとつに依って、往生の可能性が保証せられる」という表現は自力的に聞こえるので慎まねばならない。念仏は自己の行為でなく「本願の行」なのだから。南無とは爾後如何に生きるかということである。念仏によって往生の可能性が生じるわけではない。凡夫としての生き様に応じて、である。
 
〔称名と救い 川上清吉〕
〔引用59〕
称名とは、口で仏の名を称えることであり、救いとは、来世において仏に成るということである。このことは、あまりに合理的な、あまりに現実的な現代では、ほとんど問題にもならないことのようである。/それにもかかわらず、親鸞への思慕は高まりつつある。181頁
〔注記59〕「口で仏の名を称える」、「来世において仏に成る」というようにして、ここに二度「仏」が出てくる。前者は阿弥陀仏だとすぐにわかるが、後者はなんだろうか。阿弥陀仏とともに浄土に暮らす人、という程度の認識ではなかろうか。親鸞はむろんのこと、門徒たちとて一度たりとも自分が成仏して阿弥陀仏になると思ったことはあるまい。救いの刹那、往相還相という構えのうち往相において浄土に往くが、還相において菩薩となって穢土に還る。浄土を永住の地としているわけではない。さてそうなると、引用文中に「来世」とある浄土には阿弥陀仏のみが定住するだけ、ということになる。それにもかかわらず、人々は「来世」とか「西方浄土」を夢想し、インドに仮託して「天竺」を連想したりしている。その問題、凡人が向かう浄土とはいずこに有りや、の問題を解決するべく、私は〔メソフィジカル・バース〕と称する行き場を設定している。人と神仏の存在する圏域を、私は(a)(b)(c)の3種に区分している。(a)メタフィジカル・バース(超自然世界)、(b)メソフィジカル・バース(半自然世界)、(c)フィジカル・バース(自然世界)である。(a)は単独で超絶した不可視の世界であって、キリスト教の唯一神やプラトンのイデアが存在する。(b)は上記の「田の神」(穀物神)などの霊魂が住む世界である。(c)はそうした霊魂を生み出す基盤である自然界である。
 
〔名号について 足利浄圓〕
〔引用60〕
親鸞聖人のいわれる「浄土真宗」は、南無阿弥陀仏という仏の名号を聞信もんしんすることによって、全人は皆救われるといわれてある。それはこの名号が「浄土真宗」という宗教の主体性となって居るからである。192頁
〔注記60〕「聞信」とは何か。それを確認するため、真宗大谷派東本願寺のホームページを調べてみた。「正信偈」中の言葉として、以下のように記されている。

親鸞聖人は、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者)と詠っておられます。(中略)「聞信」は、聞法して信ずることですが、「信ずる」ということは、疑わないということです。そもそも疑いの心というのは、教えよりも、自分の思いや考えを大切にするときに起こります。だから「信ずる」ということは、何かのために信ずるとか、信ずれば自分はどうなるかとか、そういうことではなくて、「はからいを離れよ」と教えられているように、自分の思いを離れ、教えに対して自分を空しくして謙虚になることではないでしょうか。
https://jodo-shinshu.info/category/shoshinge/shoshinge28.html

ようするに、阿弥陀仏の教えを疑わない、ということなのだろう。それはちょうど、親鸞が法然の教えを疑わないのと同様のことなのだろう。この態度は科学的なものではないが、似非科学的ではなく、非科学的な特徴を有している。コロナパンデミックが蔓延していた頃のこと。病気を治してくれる医療技術なら擬似科学的であってもかまわない、とする人々が少数ながらいた。なるほど、と私は思う。蔓延するコロナウイルスを退治する処方の一つに神社でのお祈りやお寺での祈祷があり、アマビエという疫病封じの妖怪もけっこう信頼されていた。疑似か否かは、そういう意味では結果主義となる。科学的信頼性は技術革新によって多様に変化するものである。結局のところ、原理と処方との間に一対多の余裕があればいいわけだ。西洋的処方、東洋的処方、内科的処方、外科的処方、あるいは念力的処方。プラシーボは処方の一つだ、と認め合うことが必要なのだろう。だいたい「科学(的)」という概念の定義自体、あいまいなのだ。科学という語は学問領域を細分化し「〇〇科学」としたことから生まれただけで、中国では学問という言葉が最高だ。科学と非科学と擬似科学は、前近代に起因する経験知や生活知と、近代の特徴である理論知や理性知との連合の圏域に対等の信頼性を得て、〔歴史知〕として未来の人類にも存在感を示してくれることだろう。
〔引用61〕名号というものは、真実者の言葉であり声である。故にこの声を聞信するものは、身はまずしくとも真人としての人生を持つものである。それはどんな民族であってもよい。人種をこえ、場所を超え、またあらゆる時間を超えて、いつでもこの声はあらゆる人類に、まことの人たる自覚を与える声である。194頁
〔注記61〕名号つまり「真実者の言葉であり声である」ものを「聞信」する前の人々は無自覚なのではないのか。この声を聞いてから自覚を得るのではないのか。自覚なき者であれば、真実者の声に耳を傾けることはないのではなかろうか。その声に聞き入る気のない者をその気にさせる、親鸞にとってそこが一種のアポリア(解決不可能な難問)だったはずである。恵信尼が晩年に供養塔(五重塔)を建立したいと思ったことは、恵信尼なりに見つけたアポリアを解決する方途だったのだろう。
〔引用62〕救う法の真実は如来であり、救われる機の真実は、人生に大悲劇を演じて苦悩している人達である。機ありて法を説く、法を説いて機あらわる、機顕れて法に帰し、法に帰して法をよろこぶということが、「浄土真宗」の在り方であり、真実の法に因て真実の機を自覚することが、この真実の宗教であるとせられてある。195頁
〔注記62〕凡人には「真実の法」も「真実の機」も無自覚である。そこが一種のアポリアなのである。「アポリア」という表現は近代人である私のものであって、親鸞や恵信尼の概念にはない。
〔引用63〕口とはすべての味わいの上に於て、和合を表したものである。故に名の字は私共が見たとか、知って居るとか、いうて居る明らかな結果をもたらす前に、相見ざる時、相知らざるとき、いわば何のわきまえもなき時、見てもおらず、知ってもおらない時が夕べの冥(くら:引用者)き意味である。表面に結果として現れていない時、即ち裏面に隠れている時が因位いんい(果位の対語で、修行中の意)の時で、いわば名号は何の事やらわからずにいる時も、名号それ自体は、衆生と仏とが一如いちにょ和合の性徳をそなええているものが仏の名である。/それは相見るとか相知るとかいうことでなく、見ざるも、知らざるも、忘れていても、おぼえて居なくとも、仏和合の表示として南無阿弥陀仏と現るるままが、生ける仏それ自身の顕現であり、名号自爾みょうごうじにの独現である。こちらが呼んだから来たのでなく、こちらがいのって引張ったから現れたのでもない。200-201頁
〔注記63〕こちらが呼んだのでなく祈ったのでもないのだから、凡人は「生ける仏それ自身の顕現」には無自覚である。無自覚の自覚、そこが一種のアポリアなのである。なぜならば、「自覚」という語は他力でなく自力を表現しているからである。
 
〔不廻向の行 池本重臣〕
〔引用64〕
大乗仏教に説くところの廻向がほぼ推測できるように、非常に困難なものであり、凡夫には、到底不可能なものであることが、理解されるのである。204-205頁
〔注記64〕凡夫が凡夫のままで廻向できないのなら、悪人正機はフィクションでしかない。そこが一種のアポリアなのである。
〔引用65〕換言すると、法然上人以前に、またその時代に一般に理解されていたのは、阿弥陀仏の浄土へ往生するためには、念仏を称えた功徳を廻向しなければならぬということであった。法然上人はそのような念仏を批判して、それは自力の念仏であって、他力の念仏は阿弥陀仏の本願に約束されているのであるから、特別に廻向を用いないのであると、選択本願の念仏の特色をあきらかにされたのであった。故に不廻向ということは、法然上人の、他力の念仏の特色をよく示しているのである。210頁
〔注記65〕自力の廻向は努力あるのみだが、他力の廻向は何もしなくていい。凡夫は他力の不廻向なら可能だろう。それにもかかわらず、廻向は「凡夫には、到底不可能なもの」(205頁)ということだ。
 
〔行の一念 小野清一郎〕
〔引用66〕
親鸞は二十九歳の春、法然の門に入ってその専修念仏の教をすなおに受け入れた。越後流謫の間において、また二十年にわたる関東漂泊の間において、ひたすらに師法然上人の教を再思惟し、またその教義を庶民たちとともに実践しようとしたのである。しかし、その間において、親鸞に迷いがなかったのではない。或る時は、果して念仏をとなえるだけでよいか、念仏を唯一の行としてよいのであろうかという根本的な疑問――法然における最も重要な点に関するという意味において――をさえもったのである。224-225頁
〔注記66〕越後流謫の間に為された実践は「悪人正機」の生活を耕した。
〔引用67〕念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生し、そして仏となることができるということ、これは浄土門における一貫した思想であるが、念仏にもいろいろの意味がある。225頁
〔注記67〕浄土に往生したのち、こんどは菩薩として穢土に向かうのであって、浄土で仏となるわけではない。また、その際「仏となる」とはまさか阿弥陀や仏陀との合一ではあるまい。
〔引用68〕親鸞はその法然の専修念仏を伝えた人である。しかし、流罪以後北越や関東においてそれを行じようとしたとき、それは決して容易な行ではなかった。ひとり容易な行でないばかりでなく、その数万遍の念仏を繰り返すことの空虚さをさえも感じないわけには行かなかった。そこから、念仏の底にあるべき信に眼をむけ、その信順のこころは如来から廻向され、恵まれるものである、ということを見出だした。念仏は、行である限り、なお自力を容れる余地もあろう。信心こそは、もはや自力によってつくられるものではない。226頁
〔注記68〕念じて日々を過ごす、という暮らしの全体を生きていれば、「空虚さ」を感じることは少ない。小野清一郎は、愛欲の廣海に沈没し、名利の太山に迷惑する日常生活こそ第一の信心であることを理解しているのだろうか。
〔引用69〕親鸞は信と行とを一応区別しながら、両者は相即したもの、むしろ一体のものとしている。教行信証・行巻のはじめに、/「謹んで往相の廻向を接ずるに、大行あり、大信あり。大行といふは、すなはち無礙光如来の名を称するなり。」/とある。これは大行と大信とを往相廻向、すなわち如来の本願による衆生成仏の道としたものである。227頁
〔注記69〕金子大栄校注『教行信証』(岩波文庫、2004年、97頁)「おほよそ往相廼向の行信について、行にすなはち一念あり。また信に一念あり。行の一念といふは、いはく称名の徧数について、選擇易行の至極を顕開す」。石田瑞麿篇『親鸞(現代語訳)』中央公論新社、1983年、219頁行巻「七五 およそ、如来のお恵みによって与えられた、浄土に生まれるすがた(往相回向)である行と信とについてみると、行については一念ということがあるが、信にもまた一念ということがある。行の一念というのは、つまり称える念仏の数について本願として選びぬかれた易行の極致をあらわすことを意味する」。思うに、「行」とは日常を生き抜くことではないだろうか。『歎異抄』(金子大榮校注、岩波文庫、2004年、55頁)にこうある。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養あんやうの浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛ごうじやうにさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、婆婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり」。
〔引用70〕親鸞がいわゆる社会事業をしなかったことは、まさにその通りである。しかし、そういえば、仏陀もキリストもいわゆる社会事業はしなかった。彼等の事業は専ら精神的な世界にあったのである。慈悲の精神、隣人愛の精神は近代のヒューマニズムに通ずる人間的な真実そのものであり、それは人類の歴史において、政治的にも、社会的にも大きな指導的精神となったのである。235頁
〔注記70〕中世における社会事業とは何か。勧進のごときもその一つに入るだろう。山崎正一はこう記している。「当時、親鸞は、関東において、地元の人びとから、どのような人間として受け入れられたのでしょうか。おそらく、奈良時代以来の民間の宗教的漂泊者、『聖』としての姿ではなかったかと推定されます。親鸞のみ、当初から『聖人』としるされ、『上人』とは書きしるすことがないのも、そのことを示すものとされます。親鸞のまわりには、多くの『勧進聖』があつまり、親鸞自身が善光寺の『勧進聖』であったと推定されます。/『勧進聖』とは、市井にあって人びとの間を漂泊して仏道へ人びとを誘い勧めて歩く聖たちで、あるいは造寺造塔のための寄進を乞い歩き、あるいは善根功徳をすすめ、みずからも橋をかけ溝を掘るなど、人びとのためにつくす聖たちです」。山崎正一『親鸞―大迷大悟の人』集英社、1985年、100-101頁」。
 
〔本願一乗 加藤佛眼〕
〔引用71〕
『行巻』末尾の追釈段と呼ばれる他力釈と一乗海釈との一段は、付録的な軽いものではなくて、じつは『行巻』に明す大行だいぎょうの真髄を釈顕しゃくけんする極めて重要な一段であり、その内容より厳密にこれを云えば“重弁要義”とこそ科段して然るべき要釈である。と敢て云う所以は、この論述の最後に至って明らかとなるはずであるが、はじめの他力釈は大行の物体ものがらを断定し、後の一乗海釈は大行の分斉ねうちを顕彰して、共にもって巻首の大行出体釈しゅったいしゃく・大行弁徳釈べんとくしゃくに呼応し、真宗法義の一大焦点たるべき大行の実義を、詳密しょうみつに規定することを職とする要釈なるが故である。238頁
〔注記71〕加藤佛眼は真宗学専攻の元龍谷大学教授で、「浄土教に於ける『顯浄土方便化身土分類』の地位」(『龍谷学報』全人社、1937年10月)をはじめ、戦前から戦後にかけて『龍谷学報』や『龍谷大学論集』、『真宗学』などに多数の論稿を寄稿した仏教学の大家である。それだけに、親鸞の教えを理解するのに不可欠の研究者ではあろう。加藤は、例えば「大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり」(238頁)と注釈を添えてはいる。けれども、親鸞はこのように難解な教義をはたして凡夫に説いただろうか。それとも、古代エジプトに存在した神官文字(ヒエラテック)と民衆文字(デモティック)のごとく、教義学用のテキストと布教用のそれとを区別していたのだろうか。非僧非俗を信条とする親鸞だから加藤のような知識優先で布教したはずはない。
〔引用72〕即ち上六品の善機の善がいさささかも役立たず、下三品の悪機の悪がまたいささかも妨害せず、善悪の万機が斉同に名号願力の妙用みょうゆうによりて同一証悟に直入し、あたかも万川が海に入りて同一鹹味かんみと化するが如くなる故に、これを「海」に誓えたのであるとする。250頁
〔注記72〕善悪がもろとも流れ入る様を海に喩えたとういうことだが、親鸞にすれば、まずもって海それ自体に意味や価値が備わっている。それが浜辺の居多ケ浜における7年にわたる凡夫の生活の意味・意義である。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x15320,2026.06.06)