親鸞読書ノート2026年―結城令聞監修『現代語訳 親鸞全集』(講談社、1975年)―1―

親鸞読書ノート2026年―結城令聞監修『現代語訳 親鸞全集』(講談社、1975年)―1―

石塚正英

 
はじめに
 
   わが親鸞研究の足跡は、形あるものとして遺っている限りで、1991年3月に確認できる。読書ノート『親鸞について』(親鸞ノート1)である。以後、フィールド調査報告や学術論文執筆の機会あるごと、断続的に足跡を辿ることができる。直近では以下の論文執筆時に確認できる。「頸城野に耕される愚禿親鸞――流浪の古代直江津往還③」、〔感性文化online講座〕⑪、2026.01.11.「恵信尼五輪塔は地涌観音菩薩か」、石塚正英個人ブログ【歴史知の百学連環】、2026.04.03. 本稿は、上記2点の準備として本年2月~3月に行った研究読書のノート記録(その1)である。
 
★第1巻 語録
〔親鸞の語録について 亀井勝一郎〕
〔引用01〕
親鸞の教の根本は「教行信証」をはじめ、その他の和讃や文集によってあきらかだが、口伝には問答や直話があるため、具体的で、また人間としての親鸞の面目が端的にうかがわれる。その中でも「凡夫」についての考え方が、とくに口伝では多様でまた深い。「凡夫の自覚」において、親鸞の人間、あるいは人間研究の達人であることがわかり、同時にそれを自分自身にあてはめて語っているところに魅力がある。/たとえば、「歎異紗」第九節である。念仏しても喜びの心が湧かず、浄土へいそぎまいりたいとも思わない気持を、親鸞もやはり同様に抱いていると答えているところなどそうである。およそ人間の悟りといったものの、いかにはかなく、自己粉飾におちいりやすいかを親鸞は痛感していた。15頁
〔注記01〕『歎異抄』第三節「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」ここには「悪人」と書かれているが、「凡夫」と書かれてはいない。ただし「煩悩具足のわれら」とあるので、それをもって「凡夫」と理解できる。「およそ人間の悟りといったものの、いかにはかなく、自己粉飾におちいりやすいか」というフレーズに記されている「人間」とは凡夫の行いを指すのだろうが、「悟り」がはかないということはありえない。凡夫には悟りの境地に達することが困難なのである。
〔引用02〕親鸞には元来「宗派」をたてる意志なく、また後代の本願寺のような壮大な寺院や組織など、夢にも考えていたわけではなかろう。「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるるままに」流離りゅうりあるいは市隠しいんの形式で教を伝えていた。文字通り半僧半俗であったわけで、仏法者気色見えぬ振舞とは、親鸞にとっては、極めて自然なすがたであったと思われる。「凡夫として毎事勇猛の振舞みな虚仮たる事」の中にも、その気持はよくあらわれている。17頁
〔注記02〕親鸞は寺院や卒塔婆(墓石)、仏壇など形あるものを拝むということは眼中になかったとして、「南無阿弥陀仏」の六字名号は唱えて崇拝した。さて、それを扁額や墓標に刻印してはいけないだろうか。越後高田の浄興寺(上越市寺町2丁目)には親鸞自筆の六字名号掛け軸が遺っている。上越市のホームページには以下の説明が掲載されている。「縦長の一紙に「南無阿弥陀仏」「建長七年乙卯五月廿三日書写之」と二行書きされています。「書写之」とあるのは典籍の奥書(奥付)を示します。浄興寺では、親鸞自筆の「浄土文類聚抄」の奥書と伝えられています。親鸞は、名号を唱えることで浄土へ往生できる、という教えを広めていました。当時、仏教の諸宗は仏像などの形像を本尊としているのに対して、親鸞は独自の思想にもとづいた「名号本尊」を用いていました。」私の理解では、この掛け軸は仏像などの形像信仰ではないものの、文字信仰の証である。
〔引用03〕親鸞の人間通たることを示すよき言葉として、私の機会あることに引用するのは、次のような一節である。親しいものの死に遭って、嘆き悲しんでいる人に対したときの、心づかいである。/「悲しみに悲しみを添ふるやうにはゆめゆめとぶらふべからず。もし然らば弔ひたるにはあらで、いよいよわびしめたるにてあるべし。酒はこれ忘憂の名あり、これをすすめて笑ふほどに慰めて去るべし。さてこそ弔ひたるにてあれと仰せありき。」(「口伝鈔」)17-18頁
〔注記03〕「酒はこれ忘憂の名あり」とは、陶淵明の飲酒思想に沿うものである。陶淵明の詩に死への怖れに関する以下の作品がある。「日月還復周 我去不再陽(日月、還り復た周るも、我去って再び陽あらず)」(鈴木虎雄訳注『陶淵明詩解』平凡社(東洋文庫529)1991年『陶淵明詩解』290頁)。日月は周期的に巡るが、死んだ者には二度と巡りあえない。その怖れから逃れようと、陶淵明は作詩の過程で飲酒にふけり、仙界に救いを求める。飲酒は束の間の慰みにすぎないが、彼はそこからもう一歩踏み込んで、天地というか宇宙というか、あるいは天命というか、なにか超然たる存在に身を任せることを志向していく。親鸞の弥陀に限りなく接近した思想ではないだろうか。
〔「歎異抄」と法然 増谷文雄〕
〔引用04〕
たとえば、「歎異抄」の結文のなかには、つぎのようなエピソードが見えている。それは、親鸞がまだ若いときのことであるが、法然の弟子たちが何人か、師のもとに集まっていて、議論をはじめたことがあった。問題は、自分の信心も師の信心もひとつであるという、親鸞の発言から始まったものらしい。ほかの弟子たち――そのなかには、聖光しょうこう(「歎異抄」はその名をあげていない)や勢観房(「歎異抄」に誓観房とあるは勢観房の誤記か)や、念仏房などがいた――は、親鸞の信心がどうして師の信心とひとしいものか、と反対した。議論のすえに法然の意見をきいてみると、/「源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり。善信房(親鸞)の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただひとつなり。」/と言うことであった。そのようなことは、いちいち法然の言葉がなくても、再体験的な受けとり方をもって師のおしえを受けとっている者には、当然理解さるべきことであると思われる。法然もそれを期待していたのであろう。154-155頁
〔注記04〕如来の役割は、大嘗祭におけるニニギの役割と同じ。新たな天皇は前天皇の魂を受けるのではなく、大本のニニギから受け継ぐ。男系天皇の議論があるが、万世一系とは男子126代までの一系列でなく、その都度ニニギに戻って累代を統べる事である。継承の基準は男子か女子かではない。ニニギに戻る事である。拙著『フレイザー金枝篇のオントロギー』(社会評論社、2022・01)所収の第16章「大嘗祭における呪術性の再検討」を参照。
〔学問と信仰 谷川徹三〕
〔引用05〕
その宗教における真理の在り方は信仰と切り離せない。それは信仰における真理の在り方なのである。親鸞の言葉は、それを最も端的に美しく語っている。仏教は宗教であるよりも一層多く哲学であるとは、キリスト教をもって宗教の典型と考える西欧の学者たちのしばしばいうところである。しかし親鸞はその仏教を信仰の宗教として最高度に純化した。その純化の結晶が歎異抄の中の親鸞の言葉である。結晶の多面体はしばしば逆説とうつる。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」はその一例である。しかしそれは逆説ではない。あくまでも純粋透明な信仰の言葉なのである。175頁
〔注記05〕釈尊の思想を信仰すれば哲学が介在し、アミータ(阿弥陀如来)を信仰すれば宗教である。アミータは人と物とでなく人と神との関係性を言い当てている。関係性について、竹村牧男は以下のように説明している。「仏教の世界観は、(中略)実体論的世界観ではなく、関係主義的世界観を唱えているのである。/縁起という言葉は、よく聞いたことがあるだろろう。(中略)まさにこの縁起の思想こそ、仏教哲学の中核にあるものだ。それは、関係主義的世界観といってよく、おのずから実体(自己によって自己の存在を支えているもの)にもとづく世界観をくつがえすものとなる」(『入門 哲学としての仏教』講談社、2009年、41頁)。
〔引用06〕究極のものは、弥陀の本願であり、その「弥陀の御もよほしに」あずかることなのである。信心は如来からたまわったものなのである。この絶対帰依の直接性の中には学問の入る余地はない。176頁
〔注記06〕自力の悟りには学問が存在するのだろうか。本願の意味と重要性について、金子大榮はこう記している。「しかるに弥陀の本願は人間にかけられているとすれば、その本願は事実として人間の力と現われ行われるものでなくてはならない。たとえ本願は信ずる心にうけいれられるとしても、それだけでは身にいたものとはならぬであろう。ここに念仏の重要さがある。これによって我らを浄土にあらしめたいという本願は、我らに対して「念仏せよ」という告命となった。我らはここに念仏よりほかに本願の「力」を身に感ずる道なきことを知らねばならない。「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに」(第一章)である。その念仏は即ち「本願」力であるから「行者のためには非行非善」(第八章)である。したがって本願を信ずるとは、即ち「念仏まうさんと思ひ立つ心」(第一華)のほかないのである」(金子大榮校注『歎異抄』岩波文庫、2004年、15頁)読んで字のごとく、本願は人間世界において実現する。いわば千年王国思想である。
 
宿業しゅくごうについて 岩倉政治〕
〔引用07〕
このようにして、親鸞は、わが身の「煩悩」を避けがたい「宿業」とさとった。「煩悩具足の凡夫」というのは、宿業として煩悩を具足せねばならない人間存在そのもののことで、いいかえれば、「生きた人間」、「ありのままの人間」、「かけ値のない生身の私」を指すに過ぎぬ。/この「ありのままの人間」「煩悩具足の凡夫」「宿業そのものによって存在する生身の私」を、そのままに肯定する仕組みが、親鸞の救いの教義であるが、ここに到達するまでの親鸞には、煩悩の苦しみを敵として、これから遁れようとする小乗的苦行的段階(例えば、仏弟子のなかには性欲の皆から遁れるために自ら性器を切断した話がある)があったし、当時の支配階級の道徳として、この煩悩(つまり人間的欲求)をすべて罪悪とし、敵視するという強力なイデオロギー支配との悪戦苦闘もあった。つまり「煩悩」は「ミダの本願」によって肯定され救われたとはいえ、遂にそれを罪悪視する考え方は払いのけられないままに残り、したがって、「宿業」もまた罪悪感と結びついてしか観念できなくなってしまったのである。189頁
〔注記07〕煩悩を「そのままに肯定する仕組みが、親鸞の救いの教義」とある。煩悩具足は人間の証であって、生きていることの証であるから、払いのけることは生きる目標を失うことになる。払い除けても切りがない。フォイエルバッハは言った。受苦的(leidend)な存在だからこそ情熱(Leidenschaft)をもつ、と。柴田隆行『連帯するエゴイズム―いまなおフォイエルバッハ』こぶし書房、2020年、148-149頁から―「フォイエルバッハのMitleidは、いわゆる『同情』ではなく、『共苦』すなわち自分自身が苦悩する存在であるがゆえに他者の苦悩を自らのうちで感受すること、である。道徳的行為は、他者への同情からなされるのではなく、まさに自分自身の本質に基づく行為である。別の言い方をすれば、フォイエルバッハの言うMitleidは、ショーペンハワァーの場合のようにエゴイズムと対立するものではなく、逆にエゴイズムに基づくものである。そうは言っても、道徳はたんなる「私」から導き出すことはできない。それは「私とあなた」との関係からのみ導き出すことができる。カントの言葉を借りれば、「自律」と「他律」との結合からのみ導出しうる。道徳は、他律でないことは当然だとしても、自律だけでは成り立たない、というのがフォイエルバッハの考えである。もちろん、ショーペンハウアーの言うような主観的「同情」が道徳の根本原理であるのではない」。仏教における「カルナー(karuṇā)」にあたる。
 
〔誓願不思議と名号不思議ということ 岡 邦俊〕
〔引用08〕
人間の願いに比して、仏の願いとはどのようなものであろうか。それはまことに大きな願いであるから「大願」と言われ、仏の根本的願いであるから「本願」とも言われ、誓約したならば決して間違いなき願いであるから「誓願」とも言われ、弘き願いなるが故に「弘願」とも言われている。(中略)/もともと仏には利己がない、自分だけの幸福とか仕合わせと言うものは仏にはない。仏の願いの出てくる根源の心、即ち、仏心について経典は「大慈悲」としてこれを表現して居る。大慈悲とは古くから「抜苦興楽」と説かれ、人類の苦悩の根本ねもとを抜きとり、真実の楽しみを与える心なのである。この仏の心を経典には又「衆生の苦悩は我が苦悩なり、衆生の安楽は我が安楽なり」とも説いている。/何と言う崇高なる利他の精神であろうか。207頁
〔注記08〕「真実の楽しみ」とは、「抜苦興楽」の楽土にはありえない。もし極楽とか天国があるとしたなら、そこではきっと人々の差異がもっとも大切にされ、輝きを放っていることだろう。人間みな平等というのは、そうした〈差異〉をみなで大切に尊重することを言うのであって、みな同じことをし、同じ目標をもつということなどではない。だから、人と違うことであってもこれこそ自分の進むべき道だと判断したなら、とりあえずは努力してその道を歩んでみるべきだ。そして、これは間違いだ、これは自分にふさわしくない、と思ったら勇気を奮い起こして新たなものを探す旅に出ていく。それこそが「大願」「誓願」「弘願」なのではなかろうか。
 
〔「悪人正機」について 千輪 慧〕
〔引用09〕
親鸞が、「善き人にも悪しきにも、同じやうに生死出づべき道をば、たヾ一筋に」(『恵信尼書簡』)説いた法然に傾倒して、「たとへ地獄におちても」という決意をもって入室した地点をさらに(ある意味で)越えて、「悪人をこそ」という地点に立ったのは何によるか、それは彼が「本願他力の意趣」を、すなわち「願ををこしたまふ(弥陀如来の)本意」を深く考えたことによっている。/そのときにおいても「本願」またそれへの「信」を原点とすることにいささかの変りもなく、親鸞はまぎれもなく浄土教の継承者である。214頁
〔注記09〕越後遠流時代の親鸞を研究する平野団三は、こう結論した。「私は浄土宗から浄土真宗に展開する親鸞哲学の第二次元の出発点を、越後配流に求めたいのである」(平野団三『越後と親鸞・恵信尼の足跡』柿村書店、1972年、122頁)。また、宗教史専攻の梅原隆章は、「越後配流時代の親鸞」(結城令聞監修『現代語訳親鸞全集』第四集(伝記)、講談社、1975年、115頁)において、親鸞の「大衆路線へのり出す実践的布教法は、越後の配流時代をすてて考えることはできない」と結論している。
「建永二年(承元々年)の越後配流は、聖人にとっても最も悲痛の出来事であるが、親鸞をして、親鸞たらしめたものは、またこの五年の越後配流ではなかったろうか。越後配流なくして、親鸞は親鸞たり得たであろうか。この五年は親鸞を大きく展開させたと私は確信している。/(中略)ここで善信をむかえたものは、孤独と海と雪と、そして底下の大衆であったろう」(萩山深諦「親鸞に於ける改名と信境の展開」、『大谷學報』第50巻第3号、1971年、69頁)。説得力ある議論だろう。非僧非俗における親鸞の出発点は、越後の農耕生活に存した。拝む対象が弥勒であれ薬師であれこだわりなく、原初的生活の糧を日々獲得するのに力を貸してくれる神々が海と野と山に住まう越後、日々の糧を獲得するのに汲々とし弥陀を顧みない民が暮らす頸城野こそ、愚禿鸞とその妻恵信尼にとっていとおしき穢土なのである。喜怒哀楽の穢土を生きぬいてこそ、それがそのまま浄土を生きることになる。喜怒哀楽の廣海を生きぬく庶衆と共にあってこそ、教義としての「悪人正機」は実践有効性を獲得した、と私は確信している。
〔引用10〕ところで親鸞においては、「弥陀の本願」について深く考えるということは、その現実について深く考えることに他ならなかった。現実とは、社会的に見れば十三世紀という日本の歴史の転換期であるが、もちろん彼が貴族や武士の立場での現実観をもったのではない。彼はその両者の圧力の下に苦しむ庶民の立場に立っていたが、しかし彼の“現実”は社会的な現実であるよりも内的現実であった。さらにいえば、当時の庶民の矛盾と苦悩とを、自己一身の矛盾と苦悩の中でいわば昇華し、凝集した地点における、内面的な現実であったのである。215頁
〔注記10〕遠流先において、それまでの「内面的な現実」に「社会的な現実」が加味された。遠流先で親鸞の脳裡に刻印された生活の一つに、居多ケ浜の風土がある。その実感は、自己確証の書『教行信証』に綴られた次なる言葉に端的に示されている。「如来世に興出したまふゆへは、/ただ彌陀の本願海をとかんとなる。(中略)凡聖逆謗ひとしく廻入(ゑにゅう)すれば、/衆水(しゆしゐ)、海(かい)に入りて一味(ゐちみ)なるがごとし」(行巻 正信偈)、「まことにしんぬ。かなしきかな愚禿鸞、愛欲の廣海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」(信巻)。
〔引用11〕「悪人正機」の思想の背後には「弥陀の本願」があり、その背後には救い難い現実の矛盾があり、したがって深い苦悩の心がある。その逆説は、もちろん偽悪でもなければ鬼面人をおどすものでもなく、単なる反道徳でもない。それは単に「善・悪」を否定したのではなく、かえってそれを深く考えたのである。その時代の常識のいう「善・悪」を見すえながら、この深い矛盾の現実の中で「真に善と呼ぶに値するものは一体何であるか」ということについての、絶望的ともいえるほどに深い問いかけが、そこにひそんでいる。或る社会の常識が「善」とするものを、そのまま“うのみ”にする態度とはまさに正反対であり、それは是非の問題というよりも、むしろ次元を異にする問題だといえよう。216-217頁
〔注記11〕社会の常識としての「善・悪」の問題は、悪人正機の思想においては「是非の問題というよりも、むしろ次元を異にする問題だ」というが、出どころは社会である。また、阿弥陀に南無したならば、あとは娑婆で慎ましく生活をまっとうせよ、という教えである。親鸞は信心という沈思の人であるとともに勧進という行為の人でもある。遠流先においの恵信尼とともにあった「あさましい」実生活の中に悪人正機を実践したと思われる。その行為こそが画竜に点睛を施すものだったのだろう。
〔引用12〕「悪人正機」の第三条はたんたんと語られているようにも見えるが、しかしここには、絶望と歓喜とではなく、むしろ絶望(を知ること)がすなわち歓喜であることが語られているのではなかろうか。「弥陀の本願」の前での、したがって深い、慚愧の苦悩こそが、煩悩の人間にとっての、この世における、真の救いではなかろうか。救いとは苦悩がなくなることではなく、何よりも真に人間として生きる、少なくとも生きようと願いつゞけうることの持続であろう。かぎりない高さと広さの、したがって遂に到達することのできない「願」を持ち、それを究極の原点として苦悩する以外に、この矛盾のきわまりない現実に対する、(第二、第三のでなく)第一義の心はあり得ぬのではあるまいか。この世に深い闇が抜き難い以上、影(のかなしさ)をしらぬ真昼の光よりも、闇の中で出会うことのできた一筋の光の方が、一層美しいのである。221頁
〔注記12〕なんとネクラの思考回路であることよ! 「遂に到達することのできない「願」」、親鸞はけっしてそのような絶望を想定してはいない。往相還相にも似て、絶望あっての歓喜、絶望と歓喜の相互往還、これが「この世における、真の救い」なのである。悪人こそ救われる、という事態は善と悪との相互往還の生き様にこそふさわしいのである。
 
★第2巻 書翰
〔親鸞の書簡について 赤松俊秀〕
〔引用13〕
せっかく親鸞の教団に入りながら、天変地異病気などの不幸なことが起きたり奇跡を行うを見たりすると、呪術と絶縁したことに不安を感じて、以前の信仰に戻ろうとする傾向を持っている民衆を、とにもかくにも真宗のわくのうちに引き留めたものは、親鸞の宗教の持っている測りしれない魅力であった。そのために道場主は、門徒らの心情をよく知って、その立場に立って、聖教・法話を読み、不審な点があれば、書状で、親鸞にこれを質問し、受けた教えは門弟に伝える、ということを熱心に行わなければならなかった。9頁
〔注記13〕親鸞の場合、南無する、つまり念仏を唱えることが信仰のとば口であって、識字能力は二の次だったのではないのか。また、以前の信仰すなわち呪術に戻ろうというからには、呪術にこそ生活上の魅力があったからではないのか。呪術は信仰でなく生活の組織能力なので、それを失うわけにはいかなかった。呪術を放棄して信仰に向かうというのは一直線ではない。
★呪術と技術の関係あるいは宗教と科学の関係
3区分はタイプ別けを明示しているのであり、①は②→③のパラダイムにも通奏低音として潜在し、ときに現象世界に浮上する。

〔引用14〕親鸞は、諸仏等同を強調すると同時に、現世で究極の悟りを得る、即身成仏を強く否定した。即身成仏は、密教や律宗が説くものである。正しい信によって裏づけられない祈祷や持戒の意義を否認した親鸞が、即身成仏に反対したのは当然であるが、呪術や持戒について、親鸞のように明確に自覚を持たなかった門弟らのうちには、諸仏等同の教えを受けて即身成仏を思う者があり、それによって、善鸞義絶後の親鸞の教団は、いっそう動揺がはげしくなった。17-18頁
〔注記14〕呪術とは、先史時代に起原を有する宗教以前の霊魂崇拝や物神崇拝から文明時代の宗教に至るまで、祈祷とともに儀礼を執り行う方法の一つである。密教の護摩焚き祈願に例を見るように、けっして宗教そのものではない。親鸞は伽藍や仏像の建立を否定したように、呪術・祈祷を否定したのであって、先史から受け継ぐ自然信仰を否定したわけではない。自然法爾は自然信仰を換骨奪胎して生まれたとも言えよう。それから、「呪術や持戒について、親鸞のように明確に自覚を持たなかった門弟ら」というが、他の宗派とも合わせて考えると、日常の生活儀礼や自然信仰を拒否する親鸞のほうが例外的であった。
〔引用15〕親鸞が門弟に与えた消息・法話の意義をよく体得していた門弟らは、その消息・法話をたいせつにした。今日原本が多く保存されているのは、そのためである。門弟らは、原本をたいせつにしたばかりではなく、その写しを作って、門弟の間に流布した。19頁
〔注記15〕識字能力に劣る門徒たちに、はたして消息のコピーは役立っただろうか。読み書きできる門徒がいてコピー本を朗読してくれるならば流布しただろう。「親鸞が門弟に与えた消息・法話の意義」は、そのような仲介をもって普及したのだろう。
 
〔訳者=円地文子・町田トシコ「恵信尼文書(恵信尼書簡)」〕
〔引用16〕
お偉いお方々のお書きになった書物等にも、夫に先立たれた妻は、夫が死んで三年目には後を追うものだと云ってあるそうですから、今年はあなたのお父様が亡くなられてから三年目ですもの、私も後を追うのかも知れませんから、生きているうちに自分の墓を建てて見度いものだと思いまして、五重の石塔で丈を七尺に造って貰うようにあつらえましたところが、塔師も引き受けてくれましたから出来上がり次第建てて見度いと思ってはいますけれども、昨年の飢饉で困り果てているのです。106頁
〔注記16〕親鸞の妻恵信尼は、死期の近づくころ、方便として「五重の石塔で丈を七尺に造って貰うよう」墓標建立を望んだようである。その本心を探るべく2026年4月、私は恵信尼ゆかりの上越市で関連史跡をフィールド調査した。その結果私は以下のような暫定的結論を導いている。恵信尼がなぜ五重塔ないし五輪塔を求めたか、その背景には恵信尼が生まれ育った上越後(かみえちご)の精神風土が絡んでいると思っている。鎌倉時代の五重塔は見つかっていないが、1930年代初建設の恵信尼顕彰公園にあわせて建立された五輪塔はずいぶん大きく、また風輪あたりが幾何学的な造形になっている。身長170センチの私が横に立って計ると、約210センチつまり七尺に相当する。そうであるならば、恵信尼にしてからが、死後に遺される一族や村人の願いを察して五重塔に思いが至ったのだろう。
 
〔親鸞とその妻 二葉憲香〕
〔引用17〕
この結婚生活への決意を具体化する転機は承元元年の念仏弾圧であった。この弾圧によって親鸞は、越後に流され、そこで新しい生活をはじめることとなった。(中略)ここで善信は、えがたい女性を得た。のち恵信尼といわれる女性である。/彼女は、親鸞の妻として深い愛情と尊敬とをささげ、宗教的な背骨のしっかりした女性であったことはたしかである。親鸞がえしんを観世音菩薩として尊敬するなどといったことはないであろうが、彼女は、そのような敬意に値したし、「愛欲の広海」のなげきのなかに、清らかな光りをみせる人とせられていたであろう。このえしんは逆に親鸞を観世音菩薩としてうやまいつづけている。125-126頁
〔注記17〕平安末から鎌倉初にかけて末法思想が流行した。その時代思潮を受けて各地で地涌菩薩信仰が広まった。恵信尼ゆかりの地である上越後(かみえちご)も例外ではなかった。妙高山麓に関山神社がある。私は、その地に平安末から存在してきた関山神社石仏群に注目してきたが、その信仰は末法思想を体現する地涌菩薩信仰だったのである。京の都からはるか北方に位置する上越後で老いた恵信尼は、関山神社の周囲に散在する菩薩石像群に夫の思いを重ねつつ魅了されたのではなかろうか。
〔引用18〕親鸞の心の窮極のありかをみとどけたえしんが、親鸞を観世音菩薩と信じっつ、口にも出さずうやまいつづけたことは、さきにのべた親鸞の夢記とおもいあわせると、この夫妻のむすばれを一貫する宗教的な気品を感ぜざるを得ない。名利と愛欲にしずんだという親鸞の告白を十分に心にとめて、この夫妻の心のありかをみとどけておかなくてはならない。/親鸞の信と実践との発展深化を見守り、これにつづいて宗教体験をふかめて行ったえしんの日常を、詳細にしることはできないが、人間の絶対尊厳のありかを知ったえしんは、親鸞のもとにあつまる農民たちのよき友であったであろう。人間の人間に対する根源的信頼は、信を通じてのみひらかれる。129頁
〔注記18〕「悪人正機」は「親鸞のもとに集まる農民たち」の懐で画竜点睛が備わったのだろう。かつて妙高権現と称された山岳信仰は周辺の農山村民に支えられたが、その際彼らは農耕儀礼として雨乞い祈願を執り行ったが、それは神仏虐待(フェティシズム)という方法をとったと思われる。それが確かならば、彼らは呪物(フェティシュ)を虐待して雨を降らせる鬼人・野人だったのである。やがて彼らは遠流の親鸞を迎え入れ、恵信尼は彼の妻となった。想像するに、その方法は夫の親鸞には耐え難かったが、地元に一期の耕地を得て生活する恵信尼には儀礼の一つに思え、彼女は「親鸞のもとにあつまる農民たちのよき友であったであろう」。
 
〔親鸞とその子供たち 石田瑞麿〕
〔引用19〕
さて上記七人の子供のうち、範意をのぞいて、小黒女房以下六人は忠信尼を母とした人たちで、範意だけが腹ちがいの長兄であることがわかるが、この範意の母を後法性寺摂政九条兼実の娘であるとする記録には不信が残されている。九条兼実の娘とは、いわゆる吉日姫と呼ばれて、親鸞在京時代の最初の妻として、後世の記録が伝えている伝説的人物であるかぎり、事実と合致しないことは、今日では一般に認められているところである。136頁
〔注記19〕摂政・関白・太政大臣の地位にあった藤原兼実(1149-1207)は日記として『玉葉』を綴ったが、その目的の一つは家の記録を残し摂関家としての品格を蓄えることである。日本史研究者の高橋秀樹は『玉葉精読―元暦元年記』(日本史研究叢刊25、和泉書院、2013年)の解説でこう記している「『玉葉』の詳細さは摂関家の日記としてはやや異質とも言える。特に兼実自身が上卿を勤めた儀式や除目等の記録は詳細をきわめている」(11頁)。かように上昇志向の強い兼実は浄土宗に帰依し、娘の玉日を法然の弟子の綽空(のちの親鸞)に嫁がせた。そこまでは成り行きとはいえ、はたして越後の片田舎に流刑となる夫に従わせただろうか。あるいは京都に戻った親鸞と別居して越後に残留しただろうか。参考:佐藤英子「中世の貴族と日記―『玉葉』を中心に」、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科国際日本学専攻編集刊行『お茶の水女子大学大学院人間文化研究科国際日本学シンポジウム報告書』2001年3月(第2回国際日本学シンポジウム「新しい日本学の構築Ⅱ」、分科会E「記憶のエクリチュール」第一報告、お茶の水女子大学、2000年7月)。
〔引用20〕恵信尼がどういう出身であったかは、直接的史料のないためよくわからないというのが現状であるといってよい。多くは恵信尼を越後の土豪級の出身とするが、一部では自営農民の出としているのである。けっきょく、恵信尼出自の決め手は、他に史料がないとすると、恵信尼自ら記した恵信尼書簡自身のなかに見出されねばならないと思われる。われわれはいわゆる眼光紙背に徹するの気組きぐみをもって、恵信尼書簡に肉迫し、書簡の底に彼女の体臭を感じとるのでなければならないと思う。そうした場合、このとひたのまきの探索は、一つのよい手掛となると考えられるのである。何故かというと、このとひたのまきの地勢や位置が明らかとなれば、それらによって恵信尼の住した場所柄がわかり、彼女の晩年の境遇がどのようなものであったかが推定されるようになるからである。そしてかくして彼女の出自が分明になってくれば、それによってまた親鸞の宗教の社会的基盤の解明に、一つの曙光をうることになる。このように考えてくると、とひたのまきの探究は、実は大きな意義を荷っていることが理解できる。私はこうした意義と価値をもつ“とひたのまき”の、一日も早く確認されることを期待する。193頁
〔注記20〕従来の親鸞研究は流刑地越後での事績をさして考慮せず、年譜も実に簡素である。①1207年に専修念仏停止の院宣くだり、親鸞は越後遠流となる。②1211年に流罪を許される。③1214年に常陸へ移る。①と②の間に何があったか、克明ではない。その理由の一つに伴侶の恵信尼の出自がある。彼女が上越後(かみえちご)の生まれであれば、彼女が培った風土的生活文化、地域的な心情や立ち居振る舞いが必ずや親鸞の思想と行動に影響したはずである。その第一は「悪人正機」思想の練磨であり、親鸞の文章に散見される「海」の文脈ににじみ出ていると思われる。その根拠は、『教行信証』に綴られた次なる言葉に端的に示されている。「如来世に興出したまふゆへは、/ただ彌陀の本願海をとかんとなる。(中略)凡聖逆謗ひとしく廻入(ゑにゅう)すれば、/衆水(しゆしゐ)、海(かい)に入りて一味(ゐちみ)なるがごとし」(行巻 正信偈)、「まことにしんぬ。かなしきかな愚禿鸞、愛欲の廣海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」(信巻)。「かの八道のふねに乗じて、よく難度海を度す。みづから度しまたかれを度せん」(行巻)。最後の一文は龍樹に由来するが、それはまた、居多ケ浜の沖合に沈む夕陽を日々拝んで過ごした非僧非俗たる親鸞の想いでもあった、と私は了解している。/『歎異抄』には、喜怒哀楽の満ち満ちている人間世界を指して、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく」、「なごりおしくおもへども」と記されている(金子大榮校注『歎異抄』岩波文庫、2004年、55頁)。これはけっして否定的に述べられたのではなく、まこと親鸞には、生死流転の渦中にある「沙婆」がいとおしいのである、尊いのである。だがそのいとおしさは、穢土と浄土との両極間の交互を前提とする弥陀信仰においてはじめて生ずる。恐怖も歓喜も、おしなべてこちら(行者)からの「はからい」ではなく、ただ「おのずから」のことなのである。恐れがあればそのままに、歓喜が湧けばそのままに、穢土に執着し浄土に心を寄せる。いずれにせよ、往相還相の交互運動においては、穢土と浄土の結合が断たれることはありえない。それはちょうど、人間と自然の結合が断たれえようはずがないことと相応するのである。その思いを最初に抱いたのは、上越後での非僧非俗の生活においてだっただろう。
 
★第3巻 短編
〔廻向について 福島政雄〕
〔引用21〕
極楽浄土は、西方十万億の仏土を過ぎて行ったところにある世界であると、阿弥陀経に説かれているのは、地理的問題でなく、衆生の心の方向の問題であり、これによって我々衆生の心が決定するのである。それ故この世のいのち終って浄土に往生するというのは、即刻即時に如来の広大なる至心に摂せられることの、完全なる完了をいうのである。十万億土を旅行してあらためてこの世へかえって来るのではない。それ故往相を離れずに還相がある。往相は如来の至心に当面して、その至心を我が身に受けながら、この世に処しているすがたである。還相はその至心の世界を、広大なる背景或は光背として、この世に処しているすがたである。そして往相も還相も如来の御廻向である。202-203頁
〔注記21〕往相還相ともに「この世に処しているすがたである」。「往相を離れずに還相がある」ということの意味は、この世に極楽浄土がある、ということである。そこは、私の区分でいくと、〔メソフィジカル・バース〕である。
 
★第4巻 伝記
〔叡山における親鸞 佐藤哲英〕
〔引用22〕
ここにおいて叡山の修行者のうちには、この世で成仏しようと、まじめに道をもとめる聖道自力の修行にゆきつまりを感じ、おのれが修した善根功徳をふりむけ、阿弥陀仏の悲願にすがって、極楽浄上に往生しようとねがうものが少なくなかった。/親鸞もまたまじめに道をもとめる行者であったので、叡山の数多き修行者たちがたどったのと同じように、自力聖道の修行によって、この世ではたしてさとりを開きうるか否かに疑問をいだくようになり、阿弥陀仏の浄土にうまれたいという西方願生さいほうがんしょうの信仰をいだくようになったのであろう。すなわち、親鸞の求道過程には、その第一段階において、聖道仏教より浄土仏教への転向があったと考えられる。98-99頁
〔注記22〕親鸞の往相還相は、この世とかあの世とかの区別はない。双方を行きつ戻りつの信仰行為だった。その際、あの世とて地上に存在した。「自力と他力との間を右往左往しつづけた親鸞が、最後に「金剛不壊の信心」を確立することができたのは、死を条件としない往生の道を発見したからである。なま身の自分自身のなかに、如来の本願力を確かめることができたからである。こうして親鸞にとっての「往生」とは、「未来の浄土に生れる」ことではなくて「現在の浄土に生きる」ことに変ったのである。そのようなものとしての浄土が、いわゆる「自然じねん」の世界なのである」。林田茂雄「自然じねんとはからい」、『親鸞全集』第1巻、223頁
 
〔越後配流時代の親鸞 梅原隆章〕
〔引用23〕
この配流時代には、信蓮房の前に、長男の善鸞が生れている。だから流人親鸞は、妻と二人の幼児を持って、苦しい生活をしていたと思われる。自己の宗教的な信仰と研究は、深められていったであろうが、いまだ他に教化の手を伸ばすような客観的な条件もそろってはいなかったと思われる。このことは僧という意識を否定して、「非僧非俗」という生活思想態度が、醸成されている時期であったからでもあろう。115頁
〔注記23〕「「非僧非俗」という生活思想態度」は配流以前の生活態度とどのように違っていったのだろうか。その問題はきわめて重要である。「非僧非俗」の態度は、結果として親鸞と恵信尼みずからの悪人正機的生活、すなわち家族をもち額に汗して土を耕し禽獣を殺生する信仰生活に一致していったのではないだろうか。金子大榮校注『歎異抄』(岩波文庫、2004年)にこう記されている。後半は金子による意訳――
〔九〕/念仏まうしさふらヘども、踊躍歓喜ゆやくくわんぎのこゝろ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこゝろにてありけり。よく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこゝろををさへて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。54頁
   浄土往生の道は念仏のほかないと信じて、念仏もうしているけれども歓喜の情もうとく、浄土を思慕する心も薄い。これはどうしたことであろうか。それが唯円の思い惑っていることであった。/その不審に対して親鸞は、自分も同様であると答え、そしてよくよく案じ見れば、それでこそ本願念仏の有難さが感ぜられると語るのである。よろこぶべきことをよろこばせないのは煩悩の所為であり、浄土のこいしくないのは苦悩の世界に執著があるからである。そこに悲願のかけられた人間の現実があるのである。しかればその現実を機縁としていよいよ大悲大願を仰ぎ、往生も決定と思うべきである。/念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。55-56頁
〔引用24〕また、当時の民間信仰として有力であった、善光寺信仰と太子信仰は、越後、関東在住時代に、親鸞の思想体系につよく影響したと思われる。そして、それらを吸収消化したところに、来るべき時代の浄土真宗の発展を約束するものがあったともいえるのである。/とくに越後にあっては、長野の善光寺の一光三尊仏の信仰に、無縁であることはなかったと思われる。そして、関東の高田に在住したときの如来堂の本尊は、善光寺の一光三尊仏の信仰中心であったと考えられ、このような既存の民間信仰を地盤として、これを消化吸収し、そして学問的に高度な仏教哲学を親鸞の学問によって、導入するという教化法を案出したことも、越後という土地において、信仰的に民衆に入っていく手法が会得されたとせねばならない。/大衆路線へのり出す実践的布教法は、越後の配流時代をすてて考えることはできない。和讃のなかにも、善光寺如来に関する五首があることによっても、抽象的な弥陀信仰を現実的な民間信仰として、すでに形をとっていた善光寺如来という具体的なものにむすびつけて、浄土真宗への手がかりとしたのである。善光寺和讃の現在つたえられているものは、おそらく残簡であって、かつては親鸞のより多くのものがあったのであろうが、真宗教団成立後に、しだい忘れられていったと考えられる。115-116頁 
〔注記24〕「当時の民間信仰として有力であった、善光寺信仰と太子信仰」は、二つながらに文明宗教の側面を持つ。それらは、その土台において縄文弥生の生活文化や渡来系諸文化に支えられ、それを糧としている。阿弥陀信仰のみならず善光寺信仰とて「抽象的な」信仰である。真に「現実的な民間信仰」とは、農耕儀礼など生産や生活の場で執り行われるものである。そのように現実的な事例を以下に記す。なお、親鸞が七年ほど生活した頸城地方を上越後(かみえちご)とも称する。越後を三分割し京都に一番近い地域の呼称である。
   上越後における私の農耕儀礼探索フィールドワークは1990年前後に起点を有する。当時の日記をめくると、以下のような記述が目に留まる。「『親鸞』(岩波の日本思想大系11)を読み、親鸞研究を開始する」(1990年11月28日)。「きょうから〔親鸞ノート〕を執り始める。偶像を破壊する親鸞を吉本隆明の著作から学んだ。やはり親鸞に入っていきたい理由があったのだ」(91年3月22日)。/当時、私は、古代地中海文化(神話や旅行記)を素材にして、価値転倒の社会哲学(フェティシズム)を討究テーマにしていた。それは、通常は崇拝の対象である神々とて、条件や環境の変化に応じて信徒に虐待され殺害されもする、という社会心理・民俗儀礼の研究である。その道すがら、私は、わが故郷の仏教美術史家である平野団三(1905-2000年)の著作『越後と親鸞・恵信尼の足跡』(柿崎書店、1976年)を読むことになった。その動機は、信仰において仏像も伽藍もことごとく価値否定する親鸞思想への社会思想的接近にあった。親鸞は、遠流の地、原初的野人たちの住む越後の頸城野で初めて自身を発見した、と私は思っている。「出家人の法は、国王に向って礼拝せず」(化身土文類末)の親鸞は頸城野で、価値転倒の極みである「悪人正機」(嘆異抄)の根性を鍛えたのだろうと思っている。/妙高山麓に関山神社がある。私は、平成になってから幾度か関山神社とその周辺に出かけた。かつて「頸城(くびき)」とか「久比岐(くびき)」、「越(こし)」とも記されていた地域である。山間部の関山神社から頸城平野部の上越市浦川原区法定寺付近までに存在してきた頸城野の信仰文化圏をフィールド調査し、そこに古事記・日本書紀に記される以前の信仰文化を確認してきた。飛鳥時代には、その一帯を「蝦夷」とも称していたが、当時「蝦夷」とは倭=朝廷に服従しない蛮族の意味があった。実情がわからないので脅威と畏怖の対象だったのである。何を信仰しているのか、覚束なかったのだろう。飛鳥時代にすでにその一帯に土着の権力者が存在したのだろう。そうした推測について文献上の傍証になるのは、日本書紀の持統三年(六八九年)の箇所である。そこを読むと、持統天皇は越の蝦夷に対して仏教による教化政策をとったが、僧は派遣しなかった。すでに蝦夷には在地の僧である道信ほかがいたので、仏像一体と仏具を送るにとどめている。その記述からして、七世紀後半において越には自前で僧を育成しうるほどに民間仏教・民間信仰が広く深く浸透していたことを物語っている。北陸における渡来諸民族との直接交流が存在していたのである。/ところで、頸城に残る先史依頼の儀礼習俗として、私は、「神仏虐待」と「風の三郎」を挙げたい。まずは神仏虐待であるが、上越市の郷土史家・仏教美術史家である平野団三は、上越市浦川原区および三和区、頸城区の一帯に散在する法定寺石仏群の雨乞い儀礼について、次のように記している。「今は(真言宗から)浄土真宗に改宗しているので、こうした行事は法定寺では行わない。だが、一度び干天が続いて水騒動が起きそうになると大変である。村人達は酒やくさぐさのよき品を雨降り地蔵の前に供え、いろいろと祈願の上、荒縄でこれを縛り、池の中へドブンドブンと何回も投り込むのである。/よいか、雨を降らすか、と雨降り地蔵が音をあげるまで投り込む。雨降り地蔵こそ大変な災難である。/(昭和)三十三年、今年も大日照りで水に困り、皆な青くなった。/耕耘機も動く今日であるけれども、万策尽きて井ノ口で雨降り地蔵に雨乞いの行事をしたところが、翌日沛然とした雨になったのである。/人々は今更乍ら、その功徳の宏大無辺なのに驚いたのである。/雨降り地蔵はまだ現代の人々の胸の中に生き残っているのだから面白い」(平野団三著・石塚正英編『頸城古仏の探究』東京電機大学理工学部石塚正英研究室、2000年、30頁)。/次は「風の三郎」撃退であり、もともとは農耕庶民の営む名もなき儀礼を下敷きにしている。こちらは吹いて欲しくない風(の神)を撃退するか、あるいはせめて村はずれでやり過ごすかするための儀礼、いわゆる「悪神、敬して避ける」方式の儀礼である。それが元来の「風の三郎」儀礼である。けれども、やがて農山村にも人智のおよぶところとなるや、風の神は仏教や神道の神様と習合し「志那都比古命(しなつひこのみこと)」「風大神」など崇高な名称を備え、本来はやってきてほしくない暴風(風の三郎)を撃退する役を演じるようになった。しかし、もともとの儀礼はそう簡単には廃れまない。そこに「風の三郎」儀礼の特徴があるといえる。/暴雨を制御する神でなく、暴風そのものにもなる風の神について、かつて農民は鎌で対決する儀礼「風切り儀礼」を挙行した。かつて中里村(現十日町市)ほかで行われていたこの風切り儀礼は、神事としては信州諏訪大社の薙鎌儀礼と関連し、薙鎌は、日本神話における奴奈川姫と建御名方命母子に因む儀礼「薙鎌打ち神事」で用いられる神器だった。鳥の嘴のような形状(元々は蛇と思える)をし、神木の幹に打ち込んでそのままにしておく。中には表皮に覆われてしまうものもあった。この儀礼は、糸魚川から諏訪に向かう姫川上流(信越国境)にある境の宮(長野県北安曇郡小谷村戸土)・小倉明神社(長野県北安曇郡小谷村中股)2箇所で諏訪神社(長野県諏訪市)の御柱祭前年、つまり7年に一度、交互に行われてきた。本儀礼は糸魚川地方では「薙鎌祭」として現在に伝えられている。農民たちの間では草刈鎌を打ち込んだりした。ようするに「風神の怒声を鎮め」「風神を征服する」儀礼なのである。なお、このテーマについては以下の研究書がある。吉村博著・吉村雅夫編『石と語る民俗文化』(北越出版、2010年年)「風まつり」、石塚正英「風の神とその儀礼」、石塚正英編『裏日本文化ルネッサンス』(社会評論社、2011年)第7章」。以上の儀礼「神仏虐待」と「風の三郎」は、親鸞が「非僧非俗」の家族生活を送った頸城一帯の庶衆習俗だった。親鸞の「悪人正機」は、こうした野人の集落を実体験しつつ確立したものと考えている。
 
〔回心の時期について 舘 熈道〕
〔引用25〕
念仏において如来は現成げんじょうし、念仏において衆生は如来の声をきき、愚痴十悪の沼に立ちながら、生気を恵まれることとなるのである。有漏うろ穢身えしんは変らねど心は堂に住むのである。即ち念仏することによって、人間は本来の人間となるのであるから、一度はすて去られた無明煩悩の人間は、念仏することによって、謙譲にではあるが、生生と生き返って来るのである。139頁
〔注記25〕「有漏の穢身」とは穢れたままの現身であり、「心は堂に住む」とは精神的には浄土に住む、ということ。つまり、人は穢土(身体)と浄土(精神界)との両方の世界に住む、ということ。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x15268,2026.05.26)