観念(人間)と物質(自然)のはざまに

石塚正英

 
   拙稿「物理と佛理の親近性―メソフィジカル・バース」が掲載された季報『唯物論研究』173号(2025年11月)を手にして、私はフォイエルバッハ研究の道すがらお世話になった島崎隆さんがお亡くなりになっていたことを知った。ご本人にはかつて、1999年9月25日 のフォイエルバッハの会で「フォイエルバッハの唯物論と人間学によせて――ヘーゲル・フォイエルバッハ・エンゲルス・マルクス関係を再考する」と題して報告を頂いてあった。それを文章化し、10年後の2010年9月24日付で発行した『フォイエルバッハの会通信』76号に掲載した。その末尾近くに、「フォイエルバッハには「隠された弁証法」がある。ある意味で彼は、ヘーゲル的な弁証法を相当使い、自分の考え方を構築しているように思われる」と記されている。その後島崎さんは、季報『唯物論研究』にだけでも約25本の寄稿を果たし、昨年に至って季報『唯物論研究』172号(2025年8月)に、「ヘーゲルをどう再読するか、そして現実認識に役立てられるか」と題する論説を掲載した。その後まもなく亡くなられた。ついては、追悼の意味をこめて、ここに私のささやかな小論文「観念(人間)と物質(自然)のはざまに」を公開したく思う。
   島崎隆さんにおいてはヘーゲル論が遺稿となった。ただ、記述の内容ははなはだ重大である。以下に引用する。
 

そこで加藤尚武氏は、現段階のヘーゲルのテキストを眼前にすると、『精神現象学』はイエナ期の戦火のなかで書かれたために構成や記述に乱れがあるのはやむをえないが、厳密に展開されたはずの『大論理学』も実は「書きなぐりであり、思い付きの羅列である」という。難解な思弁的論理学の書にたいして、ヘーゲル研究の第一人者がこのように書かれることにはショックを感じるが、編者の久保氏も「また種々の講義録を見る限り、ヘーゲルはそう思われるほど厳密にはエンツュクロペディー的な意味で『体系的』ではなかったのではないか、…という疑念も強まっている」と述べている。加藤氏ほど大胆ではないが、ヘーゲル研究の中心人物がこのように断定されることの意味は重い(50頁)。

 
   島崎さんが紹介する加藤さんと久保さんの言い分には、多少の相違がある。加藤さんは「思いつきの羅列」であるが、久保さんの場合は「体系的ではない」となる。だがその批評はヘーゲルの核心に迫ったものではない。思いつきが新発見に繋がったり、体系に収まらない発想が転機を生む、などということはありうる。「難解な思弁的論理学の書」という島崎さんの印象とても、ヘーゲル著作への形式的なもの言いにすぎない。それに対して、島崎さんの以下の言い分は意味深長である。
 

何しろヘーゲルは、体系形成期においては、「あらゆる哲学は本質的に観念論であるか、または観念論を少なくともその原理としてもつ」と断言するのだ。それ以前は、このように断定しなかったであろう。この言い方だと、「唯物論の哲学」というのは存在しえないこととなる。一体なぜそのように考えるのか。ヘーゲルによると、そもそも哲学というのは、あるがままの世界を認識するだけでは意味をなさず、必ず対象の内的構造を思考力で批判的にとらえ返そうとする。しかしそうした本質的なものは物質的なものには見えず、不可視のものである。ヘーゲルによれば、唯物論や実在論といわれるものが、感性に映ずるあるがままの現象(物質)をそのまま認めるだけだとすれば、そこに何の意味もなく、もしそこに思考力が働くとすれば、そこで唯物論はただちに観念論へと転化してしまうのである(52頁)。

 
   「哲学(philosophy)」はそもそも「知(sophia)」と「愛(philia)」の合成語だから、成り立ちからして観念の産物である。「唯物論(materialism)」に含まれる「物(mater)」は「哲学」とは相容れない。ただし、超自然神の存在していない先史時代には、神々は物質的に、物質として崇拝されていた。物質なくして崇拝の核つまり神観念は生じなかった。神は物質であり人間は観念である。人間が崇拝する過程で、神は物質から観念に転化した。「感性に映ずるあるがままの現象(物質)をそのまま認める」ことが先史における神観念の根拠だったのである。先史人にとって物質は、そのままでは単なる物質だが、それに儀礼を施して物質神(フェティシュ)に仕立てる。役に立たなくなれば反対儀礼を施して物質にもどす。そのような儀礼と観念を「フェティシズム(fetishism)」と称する。この思考と行為とは決して哲学ではない。哲学は、神的存在が幾分とも観念化――イデア化――して初めて生まれるのである。そのような、原初における物質神をヘーゲルは知りもしなかった。
   自然は実在であり超自然は観念である、と説く場合、その立ち位置は原初的でなく文明的である。科学的自然観・自然界が成立してこそ、神秘的超自然観・超自然界が生まれるのである。先史・野生の圏域ではものごとはすべて自然界に生ずる。天空を浮遊する神々とて、ことごとく自然神であり、超自然の観念は存在していない。しかし、中間は存在する。自然の圏域を〔フィジカル・バース〕とし、超自然の圏域を〔メタフィジカル・バース〕とするならば、それらの中間圏域は〔メソフィジカル・バース〕と命名されるだろう。「メソ」とは中間を意味する。詳しくは「量子力学という科学の非科学性―〔メソフィジカル・バース〕の提唱」(公共空間X 20241005 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12056)参照。
   島崎論文が掲載された季報『唯物論研究』172号に、吉永剛志「アソシエーションの理論と実践、あるいはヘーゲルを読むこと」が併載されている。この号が「再読されるヘーゲル」を特集しているのである。さて、その吉永さんは、加藤尚武さんを相手にして、島崎さんと同じような感慨に耽っている。
 

『精神現象学』自体、21世紀初頭に加藤尚武は、ヘーゲルは前後読み返したりすることなく出版社に原稿を送ったもので、乱暴な書きなぐりの著作だ、と断定した。一貫した体系構想や歴史像で導かれたものでなく、ヘーゲル哲学の「本音の部分よりはったりの部分」を示しているとも言っている。「難解」で高尚なので、いくら読んでもわからないと思っていたのが、ヘーゲル学会前代表理事の加藤によって、カントと違い論理的読解可能性がない、「内在的解釈が可能なテキストではない」とはっきり言われた。これには私はすっきりさせられた(18頁)。

 
   吉永さんは「これには私はすっきりさせられた」と言い放っている。だが、加藤さんはヘーゲル研究では権威と思われてきたのだから、若手研究者はそのように割り切れはしない。先行研究をフォローするに際して加藤さんに倣ってしまったら、端からフォローできなくなってしまうかも知れないのである。通説を拾い上げるAIに論文書きを依頼する事もできない。研究対象とて、ヘーゲル御大を捨ててヘーゲル左派に移る、などということもできない。社会革命を標榜するヘーゲル左派など哲学者ではない、とされもする。
   最後に、島崎さんの「フォイエルバッハの唯物論と人間学によせて――ヘーゲル・フォイエルバッハ・エンゲルス・マルクス関係を再考する」からもう一箇所引用する。
 

ところで、唯物論に立つか、観念論に立つかのイデオロギー的な機能を分けるときに、さきほど述べたこの「肯定」と「否定」というカテゴリーが重要になる。最初に世界という「肯定」を出し、そこから「否定」に行くというのは、最初に世界があって、それが無くなったり、世界の何かが否定されるということを意味するが、この点で肯定から否定を見る姿勢は、ともかくも「唯物論」的ではある。ところが、ヘーゲルでは最初に否定的な媒介の論理があって、その否定の論理から、肯定が生み出される。これはまさに無から有への世界創造を正当化する「観念論」の立場である。(4頁)。

 
   ここで島崎さんは肯定と否定の両極で議論を組み立てている。そこで疑問に思うのは、それが無と有の両極で言い換えられているところである。否定から始まる場合、否定以前に何某かの存在や運動があることを暗示する。無ではない。このテーマで第一に思い当たるのはマックス・シュティルナー『唯一者とその所有』(1845年)に記された次のフレーズである。「私の事柄を、無の上に、私はすえた」。無神論とか無政府主義とか、「無」を冠して今日に伝わる思潮は、ヘーゲル左派以降、否定の「無」でなく、肯定の「無」となって我々のもとに置かれている。例えば、「無政府(主義)anarchism」とは、政府が無い、存在しない、という否定的意味でなく、無政府という秩序が存在する、という肯定的意味である。「無神(論)atheism」とは、神が無い、存在しない、という否定的意味でなく、無神という秩序が存在する、という肯定的意味なのである。島崎さんとは、そうした議論をもっともっと詰めていきたかった。最後に、自然と唯物論との間に交わされる現代的課題を島崎さんの「フォイエルバッハの唯物論と人間学によせて――ヘーゲル・フォイエルバッハ・エンゲルス・マルクス関係を再考する」から引用する。
 

また広く、人間的な自然(human nature)が絶対的・根源的な受動性をもつという点は、非常に大事ではないか。有限な存在としての人間という考え方は、唯物論的に不可欠である。受苦的(leidend)な存在だからこそ情熱(Leidenschaft)をもつというのは、フォイエルバッハがいったことだが、マルクスもそっくりそのまま『経哲草稿』のなかで引いて展開していく。だから、受動性、受けとめる感性がないと、まず何も始まらない。それがあるからこそ、そこから反転して能動性へ移っていける。したがって、常に受動性に支えられた能動性でしかありえないというのが、唯物論の考え方ではないか(5頁)。

 
   島崎さんの言う「人間的な自然」について、私はその構えと対になるような言い回しを準備している。それは自然を人間の「他我(alter-ego)」とみるフォイエルバッハ的な発想であり、いうなれば「自然(物質)的な人間(観念)」である。季報『唯物論研究』172号の原稿に、島崎さんはこう記している。「いま二ケ月近く原因不明の病を患っており、どうもこれが自分の最後の論文になってしまったようです。ブレインフォグの状態で、まとめるのに苦労しました」(42頁)。
   以上をもって、ヘーゲルとフォイエルバッハ、それにマルクスをオリジナルな研究の糧に選んだ島崎さんへの追悼の小論文とし、擱筆する。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x14563,2026.02.05)