森忠明
六年前の春、妻がゼロ歳児の娘をつれて実家へ帰ってしまった。私は捨てられたのだった。そのへんのミジメさ、寂しさをつづったのが「小さな蘭に」(ポプラ社)。出版後に二人は戻ってきたが、あの日、なぜ妻が去っていったのか、今でもよく分からない。理由を訊くのはおそろしい。
思いあたる原因は私の貧乏である。広島で彼女に出会い、プロポーズしたときの文句はこうだった。「おれには問われて名乗れるような家柄も学もカネもない。あるのは愛の深さと文学的才能のみ。それでもよければ結婚してくれ」
彼女はそれを冗談だと思ったらしい。カネがない、ということが本当だったので驚き、怒ったのではないだろうか。
娘との別れは実につらく、悲しかった。
〈死ぬほどの悲しみも別の悲しみで癒る〉
シェークスピアがそう言っている。私は住んでいた家を知人に貸し、自分は東京で一番悲しげな旅館で暮らすことにした。高尾山の麓にある古くて小さい宿屋。三畳一間、素泊まり二千七百円という安さと静けさと五十代半ばの親切な女主人が気に入った。
部屋の壁や便所の窓に体長十㌢くらいの七節虫がじいっととまっていた。昆虫図鑑で調べたら、お世辞にも美しいとはいえないそのムシは、美しい植物、ヤマブキとフジが大好きで、そればかり食べているそうだ。
私もヤマブキとフジは大好き(食べたことはないが)だし、夜行性で緩行、つまり夜中にのそのそしている点も私に似ている。ゆえにそこをナナフシ旅館と呼ぶことにした。気色が悪いムシだけれど、孤独きわまりない男には、なんだが旧友のような感じがした。近くの植木屋さんで買ってきたワレモコウの鉢植え(四百円)も私を慰めた。
深夜の俳徊や墓参り(寺山修司の墓が東へ七百㍍の所にある)から帰ると、女主人は起きていて、「おふろ、入れますよ」と必ず声をかけてくれた。客は私ひとりで従業員も女主人だけ、という日が多かった。
またデスペレートな気持ちになったら泊まりに行こう。
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『マローンおばさん』(エリナー・ファージョン・作、エドワード・アーディゾーニ・絵、阿部公子/茨木啓子訳、こぐま社、本体一〇〇〇円、九六年十月刊)は、珠玉の短篇集「ムギと王さま」の作者による崇高な物語詩。主人公のマローンおばさんはナナフシ旅館の女主人を思いださせた。今度泊まりに行くときは、この本をカバンに入れよう。絵もすばらしい。
森のそばで、ひっそりひとりで暮らしているマローンおばさんを訪ねるのは、弱り果てたスズメや飢えたネコや傷ついたロバくらいのもの。「あんたの居場所ならあるよ」と優しく言い、わずかの食べ物を分け与える。
ある日、永遠の眠りについた彼女を、天国の居場所(王座)へ運んでいく動物たち。
俗了した心を洗ってくれる神品。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x1432,2025.10.31)
