森忠明
本紙八月九日朝刊の一面に〈不登校9万4千人・96年度文部省調査〉とあるのを見て、「六〇年度は何人ぐらいだったのかなあ」とつぶやいてしまった。
一九六〇年、小学六年生の私は不登校二年目で、山梨県甲府市の温泉で”静養”していた。現代小中学生の登校拒否の主な理由は「学校嫌い」だそうだが、私の場合は「どうしようもない虚無感」だった。立川共済病院の小児科医長に診てもらうと「キミはお母さんのおっぱい飲み過ぎたんだろ。甘え病か、わがまま病じゃないの」とせせら笑った。十一歳の私にもプライドがある。「あんたには子どもの気持ちが分からないんだよ。もっと子どもの心を研究してる医者にまわしてくれ」。にらみつけてタンカを切った。すると横に立っていた母が私の肩のあたりをギュッとつねった。
結局、小児科に入院する破目になるが、そこにはユニークな小学四年生の男の子がいた。彼はサーカスの女性綱渡り師の神業に感動。自宅裏の木と木の間にロープを張って挑戦し、片腕と足首を骨折したのだった。腕はベッドに固定していたから排泄の時がたいへんで、隣の私がこき使われた。ブザーを押してもなかなか看護婦がこないのだ。腕と足以外に内臓も痛めていたらしく、ある夜激しくせきこみ、血の塊のようなものを吐き、個室に移されて間もなく亡くなった。
まだ元気なころ、彼は目をかがやかせてしゃべった。「その女の人、げたをはいて綱渡りしたんだよ。傘もさしてたしね」
拙作「きみはサヨナラ族か」(金の星社)に西方君という名で登場するのが彼である。
小児科から神経科へまわしてもらったものの、退屈してしまった私は無断で退院。パジャマのまま市内循環バスに乗り帰宅すると、両親は嘆き、怒った。
「好きにしろ、どこへでも行け」。母方の祖父は私を見捨てず、「気の病は気がすむまでのんびりすりゃ治らあ。人より一年遅れたら人より一年長生きすりゃいい」と言い、自分の行きつけの積翠寺温泉(甲府の北方)へ孫を送り出した。
「カネの心配はするな。いたいだけいろ」。太っ腹なセリフとともに一万円札の束を見せたりした。祖父は当時、羽振りのいい棟梁(とうりょう)だった。十日に一度くらい甲府に来て「気晴らしにサーカスに行くべえ。命がけのやつらを見とけよ」と言う。映画や小説を軽蔑していて「あんなもなあ空っ事よ」とにべもない。
七十歳で死ぬまで、サーカスと相撲だけを愛した宮大工・市川七五郎。エルンスト・ブロッホという哲学者が「(サーカスの円いリングは)芸術が知るかぎりで唯一の誠実な、底の底まで誠実な提示なのだ」と記しているのを読み、「そういえば土俵も円いなあ」と思い、わが七五郎は誠実でオープンで、ホンモノ主義の男だったのだなあ、とも思った。
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『テントの旅人』(中澤 晶子・文、ささめやゆき・絵、汐文社、本体二四二七円、九二年十二月刊、ロシア語版は九六年刊)を児童図書館で見つけて魅了された。中澤氏の卓出した詩才による哀話と、ささめや氏の聖性をおびた純粋な画風に心をゆさぶられ、指で目の汗をぬぐった。
その感銘を中澤氏に電話で伝えると「あれ絶版です。鳴かず飛ばずでした」とのこと。この欄では原則として入手しやすい本を紹介してきたが、今回だけ例外を許してください。
危険や死と背中合わせのサーカス芸人たち―彼らのみが知る孤絶や恍惚や悲しみを、湿った叙情に流されずに、見事に散文詩化できたのは、コピーライターの中澤氏自身が無駄を恐れる”言葉術師”としての緊張や構成感のうちに生きているからだ。といって厳格一点張りではなく、彼女の詩の優しさは、学業や生業で疲れた人を甘く深く包みこむものである。ぜひ図書館で読んでほしい。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x14038,2025.08.31)