森忠明
さっき、会社に勤めている妻から「生協でお米を買っといて」と電話があった。家事のまねごとをして十年余りたつので、銘柄は訊かなくても分かっている。「きらら」か「かけはし」である。一番安価なのだ。以前、近所の米屋さんに買いに行くと、高い米ばかりだったから、その店の電話を借りて妻に高いのでもいいかどうか伺いを立てた。受話器を置くと、見知らぬ老女が近寄ってきて「あんた、奥さんにかなり惚れてるね」。ニコリともしないで言った。私は「恐妻家です。すみません」と頭をかいた。
家事と原稿書きに一区切りつくと、立川駅から特急あずさに乗り込み、上諏訪まで真澄という酒を飲みに行くことがある。言いわけめくが、これは逃避ではなく、あくまで家事と執筆にいそしむための充電的行動です。
先月下旬。夜の諏訪湖を眺めたあと、「やきもち」という名の小料理屋に入ると、気品ある中年の御夫婦がカウンターにおられ、私に話しかけてくださった。夫君は老人保健施設の事務長で、「老人には二とおりありましてね。おむつを取り替えた時『ありがとう』って感謝する人と『遅い』って怒る人です」
小声でゆっくり語られた。酔いがまわった私は軽口をたたいてしまった。「うちの愚妻は後者のタイプですなー。ぼくがする風呂場掃除にも洗濯物のたたみ方にも不満足。OKとかありがとうの言葉は年に二、三回だもんね」
夫だって家事や育児をするのは当然だ、感謝を期待するほうが間違ってる、とすぐに反省したけれど、正直なところ家事の最中の私には、次の二大作家の断言が嘲笑のように聞こえてくる。
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「子供よりも親が大事」(太宰治『桜桃』)
「いつわりの人間主義をたつきの糧とし、偽善の団欒は世をおおい」(三島由紀夫)。そうだ、その通りだ、と頷く一方、(オレの体が本能的? に苦もなく動いて、家事や育児を楽しんじゃうんだからしょうがないだろ)と、いささかの反発心が湧く。たとえ私が「子供たちの下男下女の趣き」(『桜桃』)を呈しているとしても、A社の粉ミルクよりB社の粉ミルクのほうがうまくて子どもが喜ぶということを知ることや、陽の匂いがするシーツに子どもを寝かせることには、人間本然の充足感や自己救済があるのだ、と断言しよう。
なじみのそば屋さんの女主人に「森さんてママチャリが似合うし、買い物姿も板についてる」とひやかされた時、少しもイヤな気がせず「ぼくの前世はきつと子安観音か、ベテランのホームヘルパーだよ」と答えておいた。
童画家のおぼまこと氏は家事の達人で、「売れないぼくなんか女房に働いてもらわないと生きてゆけません。いわゆる女のヒモです。肥満体のぼくはさしずめロープかな。森センセイはお痩せになってるので、文字通りのヒモでいらっしゃいますね」と言った。
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『パパは専業主夫』(キルステン・ボイエ・作、遠山明子・訳、平野恵理子・絵、童話館出版、本体一二六二円、九六年七月復刊)は、現代ドイツ児童文学の質の高さを示す長編リアリズム作品。主人公のネールは十一歳の少女。パパとママ、四歳の弟グシと生まれたばかりの弟ヤーコブと暮らしている。子育てで中断していた仕事を再開したママは上機嫌。長い育児休暇をとったパパは不慣れな家事をママにけなされたりしてストレスがたまるばかり。役割交換のむずかしさや既成概念の壁に悩む家族の様子を、シビアに、いろんな角度から描いている。それでも重苦しい感じにならないのは、この五人の家族が深く愛しあい尊敬しあっているからだ。失恋して寝こんだネールの掛けぶとんを「ママは、もう一度軽くもちあげて、ふんわりさせてくれた」。こんなふうに美しく自然な動作は、母親にしかできないだろう。主夫の限界に気づかされた。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x13320,2025.05.31)