高橋一行
私は居合の稽古をしている。戦国時代に発祥した居合道は、江戸時代にその作法や術技が洗練されて、現代に伝わっているものである。
さて何度も書いているように、私は老いを少しずつ意識し出している。例えば、足の指先にまで血が十分行き届かず、正座をすると、指先が痛む。すぐに立ち上がれない。居合では、正座をして、そこから右足を一歩踏み込み、抜刀するという技がある。それが困難になる。正座の姿勢から、後ろに敵が襲ってきたと仮定して、180度身体を回転させて、左足を踏み込むという形もある。あるいは正座からいきなり立ち上がって、敵の刀を受け流すというものもある。それはもっと困難だ。
ふと、江戸時代の武士は、日々の稽古が結構辛かったのではないかと思うことがある。すでに平和な時代になって、実際に刀を使って戦うことはなくなっても、武士は刀を差すことを義務付けられている。刀を差す以上、稽古は必須である。戸森麻衣子によれば、武士の子は10歳前後になると、剣術や鑓などの武術を学ぶ。「職務の現場でなんら役に立たなくても、武芸の腕前は評価の対象となった」と彼女は書いている(戸森 p.53)。かくして武士である以上、剣の修行は日々続けられたのである。
しかし歳を取ってからの稽古は、身体的にも精神的にも厳しい。一体どういう思いで彼らは稽古を続けてきたのか。それが今回のテーマである。
そういう問題意識を持って、江戸時代の武士について、いくつかの本を読む。すると結構面白いのである。というのも、江戸時代に対して漠然と描いていたイメージが、その実態と大分異なっていたことが分かる。
まず、武士に定年退職制度はないので、生涯現役で働く人もいるし、子に家督を譲ったあとも、父子で役職に就く場合もあったと言われている(同 p.118ff.)。結構江戸時代は、老人が頑張っていたのである。そのあたりから調べていく。
柳谷慶子と崎井将之は、江戸時代の老いについて詳細にまとめている。それを参照する。
最初に考えるべきは、老人がどのくらいいたかということである。江戸時代は、乳幼児の死亡率は高いが、20歳になれば、その後長生きする人はいる。江戸後期の21歳の平均死亡年齢は、男性61.4歳、女性60.3歳である。80歳を超える人もそれなりにいたのだそうである。60歳を超える人が人口の15%を超える村や町も結構あったのである(柳谷 p.8f.、崎井 p.65)。
つまり老人は多くいたということが言える。農民の場合でも、老人は貴重な労働力であった。どの身分でも、老人は活躍していた。ただここでの私の関心は武士階級なので、話をそこに絞りたい。
その武士においては、今書いたように、一般的に定年制度はない。しかし老いを理由に役職を退くことは認められていた。中には隠居を認めない藩もあったらしいが、大体70歳で隠居を許可することが多かったそうである(柳谷 p.21ff.)。時代劇で高名な大岡越前守忠相は、60歳で寺社奉行に栄転し、72歳で大名になり、役職に就いたまま75歳で亡くなっている。これはさすがに例外的な話だが、長寿に恵まれれば出世する可能性があったのである。
柳谷は資料を集めて、幕府だけでなく、弘前藩、仙台藩、米沢藩などで、高齢になってなお職に留まった武士の一覧表を作成し、また彼らの生活を具体的に記述している。
さらに指摘すべきは、介護の制度があったということである。武士には休日はないのだが、身内に老衰者や病人が出た場合は、看病に専念する「看病断」とか「看病引」と呼ばれる制度があったのである(同 p.89ff.)。
崎井も、いくつもの日記を駆使して、この間の事情に迫る。沼津藩士の金沢八郎の介護について、その息子が『水野伊織日記』を残している。息子伊織は、水野家に養子に行ったために父親と名字が異なるが、父が病気になると、跡継ぎの兄が江戸にいたため、代わって父を看病すべく、藩に「看病引」の願い出をするのである。
その日記には、父の病状や食事、排泄について、また投与された薬などが詳細に描かれているそうで、崎井はそれらを手際良くまとめている。
つまり江戸時代に老人は、人口構成の点から言って、結構たくさんいて、しかも彼らは私が当初思っていたよりも、生き生きと活躍していたのである。
この状況は幕末になると、大きく変わる。ペリー来航から幕府崩壊まで、様々な改革が行われ、軍隊が組織される。そうすると当然のことながら、そこでは若者が重視される。戦争体制は老人の居場所を失わせる(柳谷p.39ff.)。
そういうことは書いておく。しかし私がここで取り挙げたいのは平和な江戸時代の話で、そこに限定して、以下もう少し議論を続ける。
取り挙げたいのは、武士の価値観が時代とともに次第に変わっていくということである。以下、詳しく書く。
氏家幹人は、江戸時代に、武士道を至上の倫理とする風潮と、平和な生活に順応しようという風潮のふたつがあったと言う。例を挙げる。ひとつ目の方は、例えば、人に侮辱されたときに、その憤りを示すために切腹をするとか、喧嘩があったときに、双方に腹を切らせて、それで落着させるといったようなことは、江戸時代に頻発する。また江戸の初め頃には、主君が死ぬと、殉死をする例もたくさんあった。何よりも面子を重んじ、人に弱みを見せず、自らの命に引き換えても名誉を守ることこそが武士道であるという、これは私たちが良く知っているものなのだが、実際にそういう例がたくさんあったということなのである。
それに対して、もうひとつの風潮について、氏家は、天野長重という旗本が残した教訓的備忘録を読み解いて、老いをしぶとく生き残ることに価値を置く考え方があったと指摘する。天野は早起きを奨励し、無病であることこそが武士の務めであるとする。彼自身も85歳の長寿を全うする。そしてそのことが立身に繋がる。つまり「武士道とは長生きすることと見つけたり」と唱えるべきだと言うのである。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という『葉隠』の美意識が強く残っている時代に、こういう健康至上主義が打ち出される(柳谷 p.35ff.)。
ここで一旦結論を出す。つまり事実として老人が多かったということ、そして長生きすることが現実的な利益をもたらしたし、そのことを肯定する価値観が生まれたのである。
以下は、武道の話になる。
江戸も安定期に入ると、武道に優れた人よりも、行政能力の高い人の方が重宝されるようになる。これは当然の話であろう。またそれまでは、階層間の流動性があったものが、段々と固定化してくる。また全体的に武士階級の生活が窮屈になる。そうすると、居合や剣術に優れているが、それほど身分の高くない武士が鬱屈してくるであろうことは容易に分かる。彼らは一体何を考えていたのか。
残念ながら、それらを示す資料は見つからない。しかし逆に、実務能力があって、行政職に勤しむ日々を送りつつ、その中で自分が武士であることを常に自覚していたということについて、柴田純はある下級武士の日記から、「武士の命ともされた刀剣を、一年に数回は必ず研師に研磨させていた」という例を挙げている(柴田 p.53)。実戦に関わることがなくなり、日々仕事に追われているのだが、しかし武士である以上、刀は大事にするのである。そしてその上で、武士であり続けるためには、健康で長生きしなければならないということになる(柴田 第二章)。
とすると、彼らはどのような思いで刀を差し続けたのかということが気になる。最初の私の問題意識に戻って、彼らの日々の稽古は辛かったのではないか。
しかし日記に愚痴は書いていない。書かれていないものは想像するしかない。
先の崎井の著書の「おわりに」において、「親の介護に直面した当時の人々の素朴な本音(親の介護は大変だなあ)といった愚痴などを取り上げたかったのですが、事実記載はあっても感情をありありと述べている資料が乏しい」と言っている。まして本人が、老いはきついと言っている資料などは存在しないだろう。
そこで例えば、小説の世界では老武士はどう扱われているかということを見ると、しかしここでも勇ましい武士しか出てこないのである。私は、吉川永青の『老侍』という小説を読んでみた。時は戦国、歳を取って身体の衰えを感じた武士が、しかしそのために向きになって闘いに向かう様が、その小説では描かれている。それは読み物としては面白いのだが、どうも私の関心事ではない。武士は老いてなお、勇ましくなければならなかったのか。
それで、個々人の武士の内面については、これ以上立ち入らずに、資料から見られる武士全体の内面の規範について、さらに考察していきたい。
まず私が書きたいのは、江戸時代に老人が思ったよりも多くいたという事実の確認の上で、彼らは武士であることをどう考えていたのかということである。つまり彼らは、老いても武士であるという誇りは持っていたはずで、そのためには命を投げ出す覚悟があり、しかしそれでいて、その命を大事にして、養生に励む。一見すると矛盾するように見える、このふたつの方向性を見ていきたい。言い換えれば、老いることと武士であることと、このふたつがどう関わるのかということである。
先に書いたように、氏家は、江戸時代に、武士道を至上の倫理とする風潮と、平和な生活に順応しようという風潮のふたつがあったと言う。事実として、武士が実際に戦いに出ることがなくなり、武士道を至上の倫理とすることができなくなり、しかし武士である以上は刀を差し、剣術の稽古は欠かせない。するとどういう精神で稽古をするのかということが問われる。
相良亨は、ここで武士の間に、死の覚悟を基本に置く流れと、道の自覚、至誠の確立を基本に置く流れのふたつが出てくると言う。前者が根本であるが、しかしその精神を受け継いで、実際に戦いがある訳ではないので、日々の修行の過程を重視するようになる。死の覚悟はしつつも、死と向かい合う可能性がほとんどないときに、自らの日々の稽古をどう位置付けるのかということが問われるのである(相良 第3章)。
最初の、氏家が言う話は事実の問題として、武士が段々と前者から後者の風潮に変わっていったということである。ふたつ目の相良の議論は、そういう変化の中で、何とか武士道を保とうとして、武道ということでその精神だけでも残したいと考えて、前者から後者の流れへと移っていったのであると考えられる。そしてこの相良の整理から、私は武道の本質を修行そのものに求めたいと思う。そうすると、事実として、武士が長生きするようになって、そのことを肯定する風潮が出てきて、そして実際に戦うことはないのだが、しかし修業は長く続けるということになる。
ここで、武道はまさしく戦いがなくなった江戸時代に完成するということが、私が言いたいことである。私が習っている居合も、戦国時代に始まり、江戸時代にその形が完成されて、現在に伝わっているものである。
結論をここで書いておく。武道のあり方の比重が、実戦から日々の稽古に移る。武士たるもの、死ぬまで日々、稽古をすべきである。その中で彼らは、技が身体に身に付く具体的な感覚を得ているはずである。また日々の稽古を通じて身体の変化を感じることがあったはずである。老いてなお人は武道の稽古をすべきであるとするならば、その中で老いによる身体の変化を感じ取ったであろう。そこにおいては、老いは武道の本質的な要素のひとつであると言い得るのである。
ここから話は現代に飛ぶ。私が習っている居合は、このように江戸時代に様式が整備されて、現在に伝わっている。また武道の本質とは何かということも、多くの人によって、今まで考えられている。
私はさらにここから、現代における武道の本質を、身体を自ら観察することだとしたい。これは、武道とは修行をすることであるという定義から導き出せる。修行というのは、自らの身体が、武道の稽古をすることによって、どう変わっていくのか、それを観察することなのである。
また、江戸時代においてはまだ1%くらいは刀を使う可能性があったものが、100%それがなくなった現在において、修行のあり方もまた変わってくる。つまり現代において、武道とは、もう完全に日々の稽古以外のものではあり得ない。
私は居合を始めて数年で、段位は二段である。まだまだ初心者の域を出ない。しかし私と同じように、60歳を過ぎて居合を始めて、高段者となった人がいない訳ではない。こうなると、昇段と老化と、どちらの速度が早いかという競争である。
また、なぜ居合を始めたのかと訊かれることがある。私が真剣を持って、人と切り合うという可能性は100%ない。そういう必要のない時代に生きていて、なぜ刀を振り回す稽古をするのか。
すでに江戸時代において、戦いはなく、親の敵討ちといった特殊な例を除いて、人と切り合うという体験は、多くの武士が生涯持つことがなかったのである。しかし刀は武士の象徴で、彼らは幼いころから居合や剣術の稽古をさせられてきた。
いや、戦国時代においてさえ、実際の戦場で使われるのは、銃、弓、槍の三つであり、刀が使われることは稀である。すでにその頃から刀は、多くの場合、象徴でしかない(松田)。皆が宮本武蔵のように、人を切り殺した訳ではない。
さてそういうことを書いたのは、居合の稽古で求められるのは、気持ちの上では命を賭けた戦いだが、実際には様式美の追求だということを言いたいからである。このことはすでに江戸時代から議論があり、そういうものとして稽古が続けられてきた。それが本稿のテーマである。
すると武道は、身体を使った伝統芸の追求ということになる。これは武道と同じ時期に成立した能と同じであろう。こう書くと、しかし武道はそんな柔なものではないと言われそうであるが、そういう言い方をすると、それは能に失礼であって、能においても、修行者は、命を賭けてその道を究めようとしてきたのである。
また江戸時代に戦いはなくなったが、実際に刀で人を切る感覚は身に付けないとならないということで、例えば罪人を切るなど、実際に人を切ることはあった。人を切る感覚に近いものとして、竹をまとめて布を巻くなどして、試し切りがなされた。このように、実際に戦うという感覚を常に持たなければだめだと考える人は多い。また繰り返すが、武道を能と一緒に伝統芸能のひとつとしてしまったら心外だという人も多い。しかしなお、実際に人を殺さないのだから、それは様式美なのである。技を現場でどう使うのかということではなく、実際に使える技をどう体に覚え込ませるということが問われるのである。如何にして、実践的な技を身に付けるのかということが重要であるということだ。つまり実戦そのものではなく、実戦を頭の中にイメージして、如何に修行するのかということである。
すでに拙著で書いたが、南郷継正は空手を念頭に置いて、武道は、命懸けの戦いの中で歴史的に形成されてきたものであり、その動きを意識的に学ぶところに武道の本質があると考えている(注1)。これは一定のルールの上で、点数を競うスポーツと、武道は異なるという意味であり、私はその定義は適切なものであると思う。
南郷の主宰する空手の流派は、防具を付けて稽古をする。実際に動く相手に技を繰り出して、相手の身体に当てないとならないと考えている。しかし居合ではそういう稽古はできない。実際に相手の身体に当てるとなると、竹刀を使うしかないのだが、しかし竹刀の感覚と真剣の感覚はまったく異なる。
つまり素手で戦う空手と違って、居合は、刀という、はるかに人を殺すことに直結する武器を使うから、却って、現実的に人とやり合うことがないのである。強盗に襲われて、瞬時に空手の技で対応するということはあり得るが、刀を取りに行って、強盗を切り付けたりすることはない。
つまり空手ならば、1%くらいの可能性で、命を守るのに、それを具体的に活用することがあり得る。しかし居合は実際に、その術技を使う可能性はない。
一方、内田樹は合気道の稽古をしつつ、武道とは、他者と共生する技術であるとか、他者と同化する技術だとしている。他者とのコミュニケーションを重視し、また合気道の精神が生活にも役立つと言う。
これもまた正しい指摘だと思う。居合の稽古では、合気道ほどに、相手と組み合うことはないのだが、弟子が師匠の教えに従って、修行するという点で、居合も合気道も変わらない。つまり修行の過程において、弟子は、師という他者と向き合って、技を学ぶのである。
さて私は居合を武道の典型だと考えて、武道の本質は修行にあり、その修行を通して、身体を見詰めることだと考えている。内田が強調するように、師を通じての修業が根本であり、南郷が言うように、その修行を通じて主体化が図られるのである。
先に書いたことを繰り返すが、武道の本質が稽古にあり、稽古を通じて身体の変化を感じることであるとすれば、また、老いてなお人は武道の稽古をすべきであるとするならば、その中で老いによる身体の変化を感じ取るべきなのである。老いは武道の本質的な要素のひとつである。
そして私は、この武道を伝統芸能と同じであると考え、そのひとつである能と、その本質において変わることがないと先に書いた。
内田は能楽師の山田登と対談をしている(内田 第2章)。内田は、中世の身体の運用が保存されている能を学ぶことによって、武道の動きが理解できるようになると考えている。また安田は、他者と同期するという点で、能と武道が似ていると考える。
本稿の最後に、この能についての考察をしたい。
能には、老いを主題にした演目がある。とりわけ「関寺小町」「卒塔婆小町」など老女物と呼ばれるジャンルがあり、それは老女が若く美しかった過去を懐古するというものである。ここで注意すべきは、小野小町も、能では専ら老いた姿で登場するということである。つまり昔は若く、美しかったということが背後にあるにしても、能そのものは、老いた姿が演じられるということである。そして能としての美しさは、その老いた姿の中らにあるということなのである。
また老女物は、いずれも高い技量が求められると言われ、十分な技量を持った人が演じるのが通例である。
一方、修羅者と呼ばれるジャンルがあり、そこには、老将の無念と憤りを演じる「頼政」や、老武者が力尽きて最期を迎える「実盛」などがある。
老女物は一般的に言えば、地味な曲ばかりである。修羅者も難曲と言われる。そのために演者の表現力が問われるばかりではなく、それを見る観客の側にも相応の鑑識眼が求められる。演者と観客の双方で、年数を掛けて、経験を十分積むことが要求される。
このように、老いは、能において重要な役割を持っている。
また『風姿花伝』にも老いに対する言及がいくつもある。歳を取れば、身体も重く、耳も遠く、動作が伴わないが、「老木に花の咲かんがごとし」という趣きになることが必要だと世阿弥は言う。この表現は『風姿花伝』の中の二箇所で使われている。また世阿弥の父観阿弥は52歳で死ぬ二週間前に、浅間神社の神前で猿楽をし、皆に褒められたという話もある(注2)。「能は、枝葉も少なく、老い木になるまで、花は散らで残りしなり」と世阿弥は書く。
美を重視する能が、一般には醜いと思われている老いをテーマにすることで、却って美の追求ができるという逆説がここにある。また常に死を意識する武道は、老いてなお修行を続けることによって、身体を見詰め、そのことによって、生の研ぎ澄まされた感覚を引き起こす(注3)。
誤解されることはないと思うが、念のために言っておけば、武道の稽古をすることで長生きができるという訳ではない。私たちは多くが長生きする可能性があり、そのことによって、自らの身体がどう変化するかということを、私たちは武道の稽古をすることで気付くのである。それが武道の醍醐味であり、私が武道を続ける理由である。
注
1 拙著6-1で、南郷継正と内田樹を取り挙げ、比較している。
2 室町前期において、52歳は老人である。
3 武士道は武士のエートスであり、それは武士ではないし、また武士に憧れを持っていない私にはまったく関係のないものであるが、かつては武士が武道を担ってきたので、本稿では武士道と武道とをほぼ同義とみなしている。
参考文献
氏家幹人『江戸藩邸物語 戦場から街角へ』KADOKAWA、2016
内田樹『日本の身体』新潮社、2014
相良亨『武士道』講談社、2014
崎井将之『武士の介護休暇 日本は老いと介護にどう向きあってきたか』河出書房新社、2024
柴田純『江戸武士の日常生活 素顔・行動・精神』吉川弘文堂、2023
世阿弥『花伝書』川瀬一馬校注・現代語訳、講談社、1972
高橋一行『身体の変容 メタバース、ロボット、ヒトの身体』社会評論社、2024
戸森麻衣子『仕事と江戸時代 武士・町人・百姓はどう働いたか』筑摩書房、2023
松田次泰『名刀に挑む 日本刀を知れば日本の美がわかる』PHP研究所、2017
柳谷慶子『江戸時代の老いと看取り』山川出版、2011
吉川永青『老侍』講談社、2020
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x12875,2025.03.19)